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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)俳句のかおり

 ア いで湯の町も俳句の里

 正岡子規は『散策集(㉖)』の中で「今日ハ日曜なり天気は快晴なり病気ハ軽決なり遊志勃然(ぼつぜん)漱石と共に道後に遊ぶ三層楼中天に聳(そび)えて来浴の旅人ひきもきらず。」と書いている。明治28年(1895年)10月6日のことであった。「柿の木にとりまかれたる温泉哉」「色里や十歩はなれて秋の風」などは、そのとき子規が詠んだ句である。
 『俳句の里 松山(㉗)』では松山市内の文学碑(文学遺跡も含む)を巡る五つのコースを設定しているが、その一つ、道後コースには文学碑52基(俳句の道の句碑10基、石灯龍脚碑2基を含む)が紹介されている。52基の内訳は句碑43基、歌碑7基、詩碑2基となっている。俳句王国愛媛、俳都松山といわれるが、いで湯の町道後もまた俳句の里なのである。道後公園、道後温泉本館付近を散策するだけでもいくつもの文学碑に出会うことができる。なお、道後温泉「椿の湯」の男湯、女湯それぞれの湯釜にも子規の句が刻まれている。

 イ 俳句に誘われて

 (ア)「伊予とまうす国あたたかにいで湯わく」

 **さん(松山市道後鷺谷町 昭和3年生まれ 67歳)
 **さんが経営するホテルの正面に森盲天外の詠んだ「伊予とまうす国あたたかにいで湯わく」という句を刻んだ句碑が建っている(写真3-2-34参照)。森盲天外(元治元年~昭和9年〔1864~1934年〕)、本名森恒太郎。目が不自由でありながら、郷里余土(よど)村(現在の松山市余戸(ようご))の村長として新しい村づくりに心血を注いだ。また道後に「天心園」という塾を創立、青年教育にも力を入れ、晩年は道後町長に推され、道後の発展にも尽力した。若くして正岡子規に師事、「天外」の号を受けたが、失明後、自ら「盲天外」と称した。新渡戸稲造(にとべいなぞう)(思想家、農学者。国際連盟事務局次長も勤めた。)とも親交があり、盲天外の著書『一粒米』には新渡戸稲造が序文を寄せている。
 **さんは祖父にあたる森盲天外のことを次のように語っている。
 「祖父は、わたしが幼稚園のころ亡くなりましたので、多少記憶があります。当時わたしの家は道後温泉本館裏で『八重垣』という旅館を経営しており、『天心園』は道後公園の南にありましたので、よく祖父の手を引き、公園の中を通って連れて行ったことを覚えています。祖父は『八重垣』では寝泊まりするだけだったようです。祖父は金には無頓着(むとんちゃく)で、ただ社会事業に打ち込む人でしたから、生活は大変だったということです。余土村の庄屋でしたから、世間からは、かなり財産が残っているだろうと思われていたようですが、祖父の晩年には土地はおろか屋敷跡さえもありません。そんな状態ですから、家族は、自分たちの生活の維持と祖父の活動の援助のために意を決して道後で旅館を開業したのです。
 祖父の句碑はわたしの母が建てたものです。最初はホテルの中庭に置いたのですが、道後にちなんだいい句だから、皆さんに知ってもらう方がよいのではないかという勧めがあって現在地に移したのです。祖父は子規と親交があり、真偽のほどはわかりませんが、森君の目が見えるのであれば、俳誌『ホトトギス』の編集をやってもらったらよいのだがと子規が言ったという逸話を聞いたことがあります(盲天外は明治24年〔1891年〕月刊俳誌『はせを影』を創刊している。)。祖父に『君逝て我三年の花を見ず』という句があります。わたしの大変好きな句です。道後を詠んだ句に『湯神社の石段すべる紅葉かな』というのもあります。確かに石段のところにモミジの木がありました。子供のころ『伊予とまうす……』も含め、これらの句について両親から『おじいさんの句にはこんなのがあるんだぞ。』とよく聞かされていました。」

 (イ)「十年の汗を道後のゆに洗へ」

 **さん(松山市千舟町 大正4年生まれ 80歳)
 道後温泉「椿の湯」の男湯の湯釜に刻まれている「十年の汗を道後の温泉(ゆ)尓(に)洗へ」という句は、松山市出身の小川尚義(なおよし)が大学を卒業して帰郷する際に正岡子規が後輩の彼に贈った句である。
 小川尚義(明治2年~昭和22年〔1869~1947年〕)は明治29年(1896年)東京文科大学(現在の東京大学)を卒業、台湾総督府に勤め、後、台北((たいほく)(タイペイ))帝国大学教授となる。『原語による台湾高砂族伝説集』で学士院恩賜賞を受賞。言語学者として多くの業績を残した。また下掛宝生(しもがかりほうしょう)流の謡の名手でもあった。
 俳誌『星』を主宰している俳人**さんは小川尚義の令嬢であり、現在、国際俳句交流にも努めている。**さんは、「わが父子規と親交ありし。子規いまここに現はるれば」と前書をして「小父さんと膝に寄りたきおぼろかな」と詠んでいる。
 「父(小川尚義)は子規とある時期常盤会(ときわかい)寄宿舎(*9)でいっしょだったこともあり、俳諧歌留多(はいかいかるた)(国立国会図書館に保管されている。)の制作を手伝ったり、謡を教えたり、よく子規のもとに通っていたようです(松山市末広町の正宗寺子規堂にカルタに関する子規の小川尚義、天岸一順宛の葉書が展示されている。)。子規の『十年の……』の句は父が卒業のときにもらったものですが、それより以前、父が脚気(かっけ)を患い郷里で養生をしていたとき、子規から『くよくよするな。障子の穴から宇宙でも見ておれや』というような意味の手紙(*10)をもらっています。この手紙を読むと、英語俳句を創作した世界的視野の持ち主子規は、さらに居ながらにして宇宙を観ずる人でもあったのではないかと思えるのです。わたしは近ごろ俳句の宇宙性ということを言っているのですが、子規がもし長生きしたならば、すでに言っていたことではないかと思います。
 生まれて間もなく母の実家の養女になったわたしは、小学校5年生の夏休みに初めて実の両親のいる台湾に行きました。そのころ父は研究のために高山(こうざん)族(台湾の先住民族。かつては高砂(たかさご)族ともよばれていた。)の家族の一員のようになり、彼らからいろいろな話を聞き取っていました。このときの研究が後に『原語による台湾高砂族伝説集』としてまとめられたのでしょう。父はパイオニア精神で台湾に渡ったものと思われます。島民との心の触れ合いを通して言葉の研究を行い、やがて『日台大辞典』、さらに後に『台日大辞典』を著すのですが、今でも台湾の研究には欠くことができない辞書だということです。また台北帝大に残されていた父の研究資料は終戦後アメリカのエール大学で保管され、アメリカにおける台湾研究の貴重な資料になっているとエール大学を訪ねた次兄小川次郎が申しておりました。
 父は内藤鳴雪にも大変お世話になっていたようです。鳴雪からも俳句を作らないかと勧められたが、結局作らなかったようです。しかし一句あるのです。わたしの長男が生まれたときに父が贈ってくれた句です。『どんぶりこここに桃あり吉野川』という句です。**家へ養女にやった娘に男の子が生まれた。父のその喜びの気持ちがこの句になったのでしょう。**家を川に例え、長男を桃に例え、男の子が生まれてよかったなあ、当時はそんな句だと思っていました。しかし、今では、この句には父のもっと深い心がにじんでいるように思われるのです。『桃』というのは父の学問の中から出てきたものだと思います(台湾でも桃太郎伝説のような話があり、そうしたお伽話(とぎばなし)を集めて研究していたから)。鬼退治をした桃太郎のように社会のために尽くす子になってほしいという願いの込められている句だと思います。また、将来立派な子供(後継ぎ)が授かるようにというわたしへの願いも込めて、『どんぶりこ』と『桃』(わたし)を『吉野川』(**家)へ投げ込んだ(養女に出した)のだが、よかったなあ。そんな父の気持ちがにじみ出ている句だとも思われるのです。『わしゃ俳句は作らん。』と言ったとかいう父のたった一つの句ですが、深い余韻を感じます。」
 小川尚義ゆかりの品々は、令息小川三郎さんの御厚意で愛媛県生涯学習センターに寄贈され、県民メモリアルホールに展示されている。
 **さんは俳句の宇宙性について、世界で最も短い詩型である俳句には宇宙が凝縮されていて、完壁(ぺき)に表現されればそれが爆発して大宇宙につながる。俳句は宇宙を表現することができる文学である。そしてその根底には愛がなくてはならない。それは森羅万象に対する愛であり、それによってすべてのものと心が通じ合う。その瞬間の驚きのようなものが俳句だと思う。具体的には自然と心を通わし、自然を守っていこうとする心である。自然を見つめることが宇宙を見ていることにつながると説いている。**さんは愛媛県国際交流センターでも外国人を交え、HAIKUの指導を行っている。外国の人にはそれぞれの自国語と英語で作らせ、その英語の俳句を作者の気持ちになって日本語の俳句に直している。また、**さんは、昭和62年(1987年)、アメリカで行われた日米俳句シンポジウムで「芭蕉俳句の宇宙性」という題で講演しており、翌63年、タイのバンコクで開催された世界詩人会議では「俳句の宇宙性」と題して、英語のスピーチをしている。また、平成5年には「SAKURA」(『桜』日本語・英語並訳句集)も刊行するなど俳句の国際化に力を尽くしている。
 俳句に誘われて**さんを訪ねたが、行き着いたところは俳句の国際化であった。俳都松山は、今や俳句を世界に向けて発信する町なのである。「わたしの夢は愛媛に国際俳句会館をつくることです。」という**さんの言葉が強く印象に残った。


*9:常盤学舎の前身。旧松山藩主久松家が東京遊学の旧藩子弟のために設けた寮。
*10:「御上京いそぎ被成候御心中の程ハ御尤(もっとも)に御坐候得共半年や1年、東京に居らねとて……田舎に引ッこんで
  ゐても障子の破れから天體(たい)の観測も出来る筈(はず)と被存候……」(明治23年〔1890年〕2月24日)(㉘)

写真3-2-34 森盲天外の句碑

写真3-2-34 森盲天外の句碑

平成7年9月撮影