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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)砂丘で育てる

 **さん(伊予郡松前町北黒田 大正7年生まれ 77歳)

 ア 伊予灘を望む砂丘列

 伊予灘を望む松山平野の西方の海岸地帯には、北は松山の外港として栄えた三津浜から、南は伊予市の郡中港を経て森の集落に至るまで、白砂青松の浜辺の自然景観が広がっていた。さらにその後背地には数列からなる砂丘と湿田が交互に並列していた。特に顕著なのは松山市の北吉田で、ここには5列にわたって砂丘と湿田が山際まで並列していたという。
 これらの砂丘地はかんがい用水の関係から、その背後の低湿地が水田として開拓されたのに対し畑地として利用されていた。藩政時代から大正末期にかけて、農家の自給作物のアワ・ソバ・麦・豆などの雑穀類、救荒食の芋類や果樹などが栽培され、昭和の初期には、甘庶(かんしょ)(サトウキビ)が重要な作物であった(①)。
 輸送機関の発達とともに大正期以降には、近接する松山市場や、機帆船による県外の臨海都市の市場へ出荷するため、保存できる野菜の栽培が砂丘の畑で盛んになり、主要な産地になっていった。なかでも古三津から清住(きよすみ)、吉田、垣生(はぶ)、さらに重信川の南、松前(まさき)町の塩屋、黒田、大谷川を挟む伊予市の新川は砂丘の野菜産地として知られていた。しかし、戦後宅地化の進行とともに、白砂青松の浜辺の景観と砂丘は、その姿を近代産業の工場や住宅の建物の間に没してしまった。北からあげてみると、交通の便利な松山市の三津と清住地区は昭和30年代の後半より砂丘列と水田が宅地に開発され市街地となり、吉田、松前町の塩屋地区では昭和20年代後半に開始された西部臨海工業地区への大企業の進出、空港の建設、拡張などによって砂丘列、湿田ともに姿を消してしまったため、砂丘上の野菜畑としてまとまって残っているのは、南・北黒田と伊予市の新川地区にすぎない。
 重信川を境に南と北の砂丘の砂質はかなり異なる。松前側の砂地は砂岩、結晶片岩の砂礫(されき)質で砂6、砂利2、土2の割合に対し、松山側は風化した細粒の花こう岩質の砂地で良質の根菜類(ラッキョウ、ゴボウ、ニンジン、ヤマイモ)の適地であったが、強い海風によって細砂が吹きとばされ、幼苗が埋もれるので葉菜類の栽培には適していなかったという(①②)。

 イ 「牛飼原(うしこがはら)」の松並木

 松山平野の南西に位置する伊予郡松前町は伊予灘に面し、松山市近郊の田園都市である。その境界を流れる重信川は、藩政時代の大改修(1601年)によって現在の流路となり、地表伏流水は浅層地下水脈となって、同町の各種用水の取水源として豊かな水を供給している。また松前町は海抜高度20m以下の平野の町、山のない町として知られている。松前町から伊予市にかけて伊予灘を望む海辺の砂丘は、有名な野菜の生産地であり、その中核をなしているのが、砂丘上の松前町北黒田、伊予市の北・南新川地区である。
 昔、文政年間(1818~1830年)のころ、黒田から新川を経て郡中(ぐんちゅう)に至る砂丘地は、『松山叢談第2下』によると「録者云松前より大州領小湊(こみなと)(現在は米湊(こみなと))迄、その間一里の間松原にて、牛飼原と云、中間に領境の建石あり。人遠き処にて、折々賊など出て、わざすることあれば、夜分は往来の人も稀なりしとぞ……。」とあり、往時は使役に耐えられなくなった老牛を捨てた原ということで「牛飼原」と名付けられたともいわれている。
 俚(俗)謡に「わしが思いは牛飼原よ ほかに木はない松ばかり。」とあり、老人の間で歌われていたという。かなり広大な松林と松並木が松前町の地蔵町から、伊予市の米湊に至る街道に沿って続いていたことをうかがい知ることができる。しかし、いまはその姿を見ることはできない。北新川付近の浜辺には美しい松林(写真3-3-1参照)が続いていたが、戦時中(1941~1945年)、松根油をとるため、大量に伐採され、残る老松も松くい虫の被害にあって枯死してしまった。昭和44年(1969年)町天然記念物に指定されていた松前小学校前の2本の老松も、その被害により枯死して昭和54年ついに伐採されてしまった(②)。その松林を遊びの場として育ち、砂丘の野菜作りを受け継いできた、**さんに、子供のころについて話してもらった。
 「わたしが小学生の昭和10年(1935年)ころには、米湊に至る郡中街道の両側にはクロマツの古い並木が続いていました。昔は、役にたたなくなった牛を捨てるような、寂しい荒れ地だったということですが、それがだんだんと開かれ畑になったのです。松林の外側はきれいな砂浜で、子供にとって楽しい遊び場でした。泳ぎ疲れると松の根元の砂地に作られた蟻(あり)地獄を探し、ウスバカゲロウ(幼虫)を捕まえてけんかをさせて遊んだり、家で燃やす落葉やまつかさを拾い集めたりしたものです。」
 寛永11年(1634年)、松山藩と大洲藩によって替地が行われた当時は、「黒田(くろだ)の里」と呼ばれ、南黒田は大洲領、北黒田は松山領となり、ほぼ大谷(おおたに)川沿いに設けられた境界は複雑なものとなった。「クロダ」は土地の色を示し、肥沃な黒い土ということで、黒田の里の名が付けられた(②)。
 「両藩の境は入り組んだものになり、いまもその境界が存続しています。湿地帯の水田は黒色の肥えた土です。砂地は黒みがかっていますが、石ころが2割方混じりで、肥えた土とは言えません。」
 その砂丘地帯も、戦時中には軍用地となり、塩田が造成されたり、戦後は建築用コンクリートの骨材として砂が採取され、また工場や公共用地(塩美園〔処理施設〕)の造成などによって広大な砂丘の大部分が消えてしまった。クロマツの天然の林も伐採などにより、防風・防潮の役目が果たせなくなると、コンクリートの護岸工事が施され、ニセアカシヤの砂防林となって昔の面影は見られなくなった。

 ウ 砂の温(ぬく)もり

 藩政時代から明治期にかけて、砂丘地には自給用雑穀類が作られ、交通の発達する大正末期より、松山市場や瀬戸内海の港湾都市を市場とする野菜の栽培が盛んとなった。最初は根菜類が、次いで果菜類、さらに葉菜類が栽培されてきた。

 (ア)一年三作の野菜作り

 「古老の話では、大正の末には、収穫したタマネギをセメントの空樽(あきだる)や、風通しのよい格子作りの木箱に詰めて、機帆船で広島や呉の市場へ出荷していたそうです。昭和10年(1935年)ころの作付け体系は、冬作タマネギ、夏作カボチャ・サトイモ・サトウビキ、秋作ハクサイ・キャベツが一般的ですが、タマネギ、力ボチャともに露地物のはしり(写真3-3-2参照)として、早く出荷できて有利でした。これは、温暖な気候のうえに、土が砂と石ころ混じり(口絵参照)のため、太陽の熱で早く温(ぬく)もるので、旬もののはしりを生産するのに適しているのです。タマネギの品種は早生系の『貝塚早生(かいずかわせ)』を10月から11月上旬に定植し、4月中旬から収穫しますが、これは水田の後作として栽培するものより約1か月早いのです。
 カボチャは3月下旬、タマネギのうねの中へ定植して5月から収穫します。これも旬もののはしりとして味もよく人気がありました。カボチャの品種は、北黒田では関西で好まれる『小菊(こぎく)なんきん』、南黒田・新川地域では、関東で好まれる『宝交(ほうこう)なんきん』が作られ、それぞれの出荷組合扱いで送り出されていたのです。
 秋作のハクサイは、昭和20年代に腐敗病が広がったため、キャベツに替わりましたが、カボチャを収穫したあと地へ8月上旬から時期をずらして定植します。出荷の調整をしながら10月半ばから11月末にかけて収穫し、そのあとは冬作タマネギの定植にかかりますが、これが10月14日の秋祭りのころなのです。」

 (イ)田んぼより畑の値が高い

 「黒田地区の農家は、砂丘上の野菜畑とその背後に水田を所有しています。稲と麦かタマネギの二毛作の水田より、タマネギ・カボチャ・キャベツの一年三作の畑のほうが効率がよいのです。そのうえ、三作の野菜の中で一作でも当たれば、なおさらです。それで土地の価格も砂丘の畑の方が約6、7割高いのです。
 3月ころになるとタマネギは大きく成長してきますが、その中にカボチャ苗を定植し、保温用のビニールトンネルを張ります。春先には、ときに強い突風が吹き荒れ、このビニールが吹き飛ばされることがあります。この被害を避けて、シロネギの栽培に切り替えた農家もあります。ネギも砂の温もりによってよく育ち、早出しができますが、値動きが激しく安定性の低い野菜です。しかし、軽量であること、小面積で作れることによって高齢化した農家に適しているのです。出荷規制もなく、自由に個人出荷できるので、ネギ作り専門の農家も生まれ、スーパーと契約して栽培する農家もあります。ネギ作りは、2、3反(20、30a)の小面積ですみますが、市場の値動きによって収穫し、即出荷するというコマメな動きが要求されます。
 今までのように三作体系を維持すると、栽培延べ面積が広くなります。そこで機械力による省力化を図るためには、大雑把な作り方にならざるを得ません。高齢化した農家にとって三作は労力の面から無理なのです。むしろネギ作りが適しているといえます。わたしも昨年からタマネギの単作に切り替えています。このような理由から『黒田の里』の野菜畑も休耕地が目立ち、雑草の防除に追われている状況なのです。いずれ秋祭りでもすめば、いま育てているタマネギ苗を定植しますが、6尺(約1.8m)の畝(うね)に2条植えという粗い植え付けで、以前から比べると遊びごとのようなものです。タマネギ作りの全盛期には野菜作り農家は、経済的な面からも意欲的に取り組んでいたものですが…。」

 エ 砂地の「水やり」

 (ア)「夏の水汲み血の涙」

 松山平野の砂丘地帯は、農業用水の取水源をほとんど地下水に頼っている。昭和37年(1962年)当時の松前町の水源利用は、地下水62%、河水・溜池38%で、地表水の伏流する浸透性河床の重信川において、浅層性地下水が重要な涵(かん)養源となっている。その取水方法は動力ポンプ83か所(臨時的に29か所設置)、畑かんがいを含めると150か所にのぼる。特に黒田の砂丘畑は砂礫(されき)質で、地温の上昇、水の浸透性が強いので、昔からかんがい用の野井戸(径約1m、深さ2.5m)が1反(10a)に1か所の割合で掘られ、はねつるべが林立し、朝な夕なの水汲みと水やりは、真夏の重労働であったという。松山平野の水不足を根本的に解消するために、上浮穴郡面河村笠方(おもごむらかさがた)に貯水量2,830万m³の面河ダムを設け、逆流方式で松山(道後)・周桑(しゅうそう)(道前)の両平野に導水し、水不足の解消を図った(昭和26年発足し、昭和42年完成)。当時の松山平野の耕地8,782haの南北山麓、中央部の末端まで水路網が完成し、適時、適水量を配水できる水利体系が確立され、昭和39年(1964年)、松山平野農業用水路が完成し通水が開始された(①)。しかし、地下水の豊富な黒田地区の砂丘畑においては、かんがい用水はもっぱら動力ポンプによる揚水に頼っている。
 「小学生のころ、砂丘の畑はすべてはねつるべで野井戸から水を汲みあげ、水やり(汲みあげた水を溝(みぞ)切りをして畑全体に導く)をします。この水やりは女性や子供の仕事とされ、よく乾く真夏には朝夕はもちろん、日中も手伝ったものです。これが農家の子供の日課で、松の枝越しに青い海が見え、泳ぎたいのをこらえにこらえて汗をかきかき手伝ったものでした。それで浜辺に育ちながら、小学校を卒業するようになっても泳げない子供がかなりいました。
 真夏の太陽が、かんかん照りつける中での水やりは、厳しくつらい仕事で、ことに若い女性や子供に嫌われ、『嫁にやるまい黒田の里へ、夏の水汲み血の涙』と謡われていました。」

 (イ)半馬力モーターポンプの威力

 「父の話によると、昭和の初期に伊予鉄道電気会社(現在の伊予鉄道株式会社、当時は電力会社も経営していた)の勧めなどもあって、野菜畑に電気をひき、動力ポンプで揚水をすることになり、近所の4、5人が組になって工事に取りかかりました。しかし反対する人もいて、電柱1本立てるのにも反対する人の境に立てることができないで苦労をしたと言うことです。最初の工事では、配水用の素焼き土管は水漏れを見つけやすいので、道縁(みちぶち)の地表に設けられていたが、それが故意に割られることもあったと言うことです。
 昭和8年(1933年)の大干ばつには、この半馬力の動力ポンプが威力を発揮して、被害をくい止めることが出来たのを見て反対する農家もなくなりました。その後、動力揚水が普及して、1反(10a)に1か所あった野井戸とはねつるべも整理統合されて、6、7反に1か所の井戸にまとめられ、配水用の素焼き土管は地下に埋設されていったと言うことです。いまは、それぞれの畑で出水口の木栓(口絵参照)を抜くと、こんこんと地下水が出る仕掛けになっています。その後、はねつるべは次第に姿を消し、水やりは女性や子供にできる軽い仕事になったのです。その上干害の心配もなくなり土地の価格も値上がりしたということです。昭和16、17年(1941、1942年)には、はねつるべの姿は全くなくなり、いまはブロック造りの揚水ポンプ小屋(写真3-3-3参照)を見かけるのみです。」

 (ウ)潮が上がる

 「砂丘地の野菜作りが不振になってきた原因の一つは、化学肥料の使い過ぎと値上がりのほか、何年かに一度やって来る台風によって、海から潮が上がってくるためです。近年では10年くらい前と、4、5年前に上がってきて畑に入ったのです。
 田んぼには水が溜まっているため、塩分は水に溶けて抜けやすいのです。畑では雨水によって少しずつ土中に浸透して、ついには地下水に含まれます。一度潮をかぶった畑の井戸は、水量豊かでも塩分を含み、まったく使いものになりません。その井戸水は最初はショッパイのですが、4、5年もたつと、塩分が減ってなめるとうまみのある水に変化してきます。野菜によって耐塩性が異なりますが、サトイモは特に敏感で、うまい水でも葉の縁が枯れて育ちが悪く、カボチャは弱くタマネギは比較的強い方です。塩分を避けるために深井戸にすると、水が冷たいのでその被害が出てくるのです。かんがい用水の温度によって野菜の成育は大きく違いますが、塩気がなければ浅井戸の温かい水が適しています。昭和45年(1970年)の台風9号と10号は、北黒田の砂丘の畑に大きな塩害をもたらしたのです。揚水井戸、約50か所のほとんどに潮が入り、復旧補助の予算を申請するために、全部の井戸について塩分濃度の検査をした結果、海から遠いか近いかには無関係であるということが分かりました。地下の水脈とは不思議なものです。」

 オ 野菜の出荷

 「黒田地域の野菜は、昔から松前町と関係の深い松山の城下へ大部分が出荷されていたのです。昭和の初め、わたしが小学生のころの休みの日には、野菜を積んだ荷車の後押しをして土橋市場(松山市土橋町)へ行っていたものです。往復6時間は十分かかり、日もちのする重い野菜は前の日準備し積み込んでおき、朝方の3時、真っ暗の中を出発したものです。出荷する野菜は、タマネギ、カボチャ、サトイモ、ハクサイなどの季節物でした。
 市場へ運び込んだあとは、仲買商に委せて市売りしてもらっていたようです。砂丘の畑で生産されたすべての野菜を市場へ出荷することはできないので、松前や郡中から買い付けにきた仲買商に売っていました。この野菜は伊予鉄道の貨車で土橋駅に運ばれ市場へ出されたり、大量にまとまった場合は、機帆船や国鉄(現JR)の貨車に積み込み、広島県の呉港や守品港、そのほか瀬戸内海の都市へ出荷されていたと聞いています。
 野菜の品種改良と栽培方法が進歩し、動力で水やりが楽にできるようになるにつれて野菜の生産量が増加してきます。農家は全生産量を直接市場へ出荷することが困難になり、仲買商に安く買いたたかれることになってきます。そこで野菜生産農家の自衛策として、各地区ごとに出荷組合が結成されたのです。わたしは昭和13年(1938年)に召集されて中国へ行ったのですが、その当時すでに、愛媛県農会(農業振興のため明治29年〔1896年〕創設)の指導のもとに伊予郡出荷連合組合が結成され、生産された野菜は、組合をとおして、おもに松山や瀬戸内海の各港湾都市へ、日もちのするタマネギ、カボチャなどが大量に出荷されていたのです。」
 昭和20年代から、砂丘の畑でつくられたほとんどの野菜、特にタマネギ・カボチャなどは伊予園芸農業協同組合へ共同出荷されている。同農協管内(主に伊予市と松前町)で生産されるタマネギは、昭和50年代の後半には、砂丘畑で作られる早生(わせ)種が約2,100t、水田の裏作として生産される晩生種約700t中、85%が同農協の取扱い量である。昭和41年「松山タマネギ」として国の指定産地(野菜生産、消費の安定を図るため、昭和41年〔1966年〕に野菜出荷安定法が制定され、野菜指定産地の育成対策とともに、価格の低落に対する価格差補てん事業)となったため、出荷先も指定(主として阪神市場と京浜市場)されている。昭和45年以降(10年ごとの)のタマネギとカボチャの生産量の推移を見てみると、タマネギは全県的に増加しているが、主要産地の伊予市と松前町(昭和55年を除く)では、ほぼ減少している。カボチャは反対に全県的に減少しているが、伊予市と松前町では増加の傾向である(図表3-3-3参照)。その他指定外の野菜は各農家の自由出荷で、地元、伊予市の青果市場、松山市の中央卸売市場、さらに一部は地元仲買人に販売されている(①④)。
 砂丘の野菜畑について、**さんは、「現在、北黒田の野菜畑は畑とも言えない空地が目立ちます。この地域は市街化調整区域ですから、農地がまとまって残っているのですが、ほかの農作物と同じように、野菜を作っても引き合わなくなっているのです。農家の高齢化、後継者不足も考えられますが…。伊予市の南新川は同じような砂丘地帯ですが、道路開発が進行して工場が進出、宅地化され砂丘畑はほとんどなくなりました。元の海水浴場のあった北新川も宅地化が進行しています。この地域は伊予市に属しますが、畑は多くは松前町の南や北黒田の農家が出作(でさく)(他の地区へ出向いて耕作すること)しているのです。『百姓するのに、道は要らん。』といった昔風の考えがあったため、幅1間(1.8m)の農道がそのまま残り車両の進入を阻(はば)み、開拓が遅れています。伊予市側の砂丘地では、ハウスによって葉菜や軟弱野菜の栽培も行われていますが、いずれにしろ近い将来、砂丘上の畑は消え去るのではないでしょうか。砂丘地の農家自体も、道路の新設、市街化調整区域の指定解除を期待しているのです。」と語っている。

写真3-3-1 わずかに「牛飼原」の面影を残す松林

写真3-3-1 わずかに「牛飼原」の面影を残す松林

松くい虫の被害が出ている伊予市北新川のクロマツ(老松は残っていない)。平成7年6月撮影

写真3-3-2 早出しカボチャの収穫

写真3-3-2 早出しカボチャの収穫

松前町北黒田。平成7年6月撮影

写真3-3-3 砂丘上の揚水ポンプ小屋と野菜畑

写真3-3-3 砂丘上の揚水ポンプ小屋と野菜畑

松前町北黒田。平成7年6月撮影

図表3-3-3 タマネギとカボチャ生産量の推移

図表3-3-3 タマネギとカボチャ生産量の推移

『愛媛県市町村別統計要覧(⑤)』より作成。