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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)そよ風のさやぐ中で

 **さん(伊予郡松前町出作 昭和6年生まれ 63歳)
 松山平野は県のほぼ中央に位置し、県都松山市を中心とする県内では最大の平野である。東と南の2方を石鎚、北方を高縄の両山系に囲まれ、西に伊予灘がひらけている。平野の中央部には東から西へ1級河川の重信川が貫流し、常時の流水は少ないが、伏流水となって地域の各種用水の水源として豊かな水を供給している。典型的な瀬戸内式気候で、少雨の傾向はあるが、年平均気温は15.4℃と温暖である。冬季には、北西の季節風や、石鎚下ろし(石鎚山系から吹き下ろす寒冷な風)の強いこともあり、また夏の夕なぎ(一時的無風の状態)は平野の名物であるが、概してそよ風のさやぐ、恵まれた自然環境にあり穀倉地帯として発展してきた。
 松山平野における野菜産地は旧市街に接する小栗(おぐり)と竹原(たけわら)地区、海岸の砂丘地帯、山手の伊台(いだい)と五明(ごみょう)地区などが古くから知られている。これに対して、新しい野菜産地として伸びてきているのが、松前町の北伊予(きたいよ)と岡田(おかだ)地区、伊予市の南伊予と北山崎(きたやまさき)地区、松山市の荏原(えばら)と坂本(さかもと)地区である。これらはいずれも従来は米麦二毛作を主体とする水田地帯であり米の生産調整の結果、転作によって生まれた野菜産地と考えられる(④⑤)。
 この新しい産地のなかには、伊予市と松前町のレタス(図表3-3-4参照)、伊予市と双海町のナス、また、松山市と北条市のキャベツなどが国の指定産地となっている。そのため農協(JA)や青果組合による共同出荷体制のもとに、大阪市場などの大消費地と連携した野菜生産が行われている。また、松山平野一帯で古くから栽培されていたソラマメなどは、国の指定ではないが、大都市と連携してその生産を伸ばしており、指定野菜と同じような性格をもっている。

 ア 伊予レタスの里

 (ア)葉菜のレタスは洋菜

 レタスはキク科を代表する野菜で、和名はチチクサ(葉のつけ根の茎を切ると乳白色の液がにじむことに由来している)、これが略されてチサとなり、なまってチシャになったという。中近東が原産地で、中国から渡来し、江戸時代にはチシャとして、なますや煮物用の一般的な野菜であった。
 現在、サラダには欠かせなくなっているレタスは、結球性のヘッドレタスで、半結球性のバターレタスのサラダ菜とは別種である。このレタスは戦後米軍の進駐によって、生食用の清浄野菜の必要性から液肥による水耕栽培が始められ、米軍むけ特需野菜として都市近郊において栽培が始められた。その後、食生活の洋風化とともに人々に親しまれれるようになり、昭和38年(1963年)には2万9千tが全国で生産され7年後には約5倍に達した。この需要の拡大によって本県の各農協においても、野菜の予冷施設の設置が進められ低温流通体系整備のきっかけとなった。さらに、低温流通のスタートである産地予冷設備の整備によって、安定供給ができるようになり、需要が拡大していった。近年の全国生産量は、約52万t強となり、人々の食生活に欠かせない主要な野菜となるとともに、その種類も多彩となり、海外産も多く出まわっている。レタスは約95%の水分を含み、みずみずしさとパリッとした食感が売り物である。それだけに鮮度が特に大切で、低温処理が不可欠の流通対策となっている(⑥)。

  〔スクリーンの中のレタスたち〕
 オールドファンには懐かしいアメリカの名画『エデンの東』(1955年の作品)は、自動車事故により若くしてこの世を去ったジェームス・ディーンが主演した代表的作品である。この映画の中で、ディーン演ずるキャルの父アダムはカリフォルニヤ産のレタスを、季節はずれで手に入りにくい東部の大都市ニューヨークに氷詰め輸送し、一獲千金を夢みるが、途中雪崩(なだれ)に遭って貨車がストップし、氷が溶けレタスが全部腐ってしまい、夢ははかなく氷とともに消えてしまう。傷心のアダムをキャルがなんとか助けようとするが…。
 この映画の時代背景は、第一次世界大戦開始の大正3年(1914年)という。すでにアメリカでは、この時代に野菜の冷却輸送が行われていたわけで、保冷輸送の技術なくして、ニューヨーク市民は、みずみずしいレタスをいつでも食べることはできなかったのである(⑥)。

 (イ)草分けのころ

 **さんの住む出作(しゅっさく)地区は、松山平野の代表的な米麦主体の水田地帯である。「出作」の地名は、集落から遠い荒れ地に開いた耕地、出(で)百姓を意味しいる。
 「両親は米麦中心の農業で、わたしは次男でしたので、分家し新宅してもらって、友人と共同で建築関係の仕事をしていたのです。その当時は住宅ブームが続いていましたが、共同事業は好不況にかかわらず、なかなかうまくいくものではありません。昭和52年(1977年)、思い切って分家のときに分けてもらっていた8反(80a)の水田を基に専業農業に転じました。それに加えて4反を借地し、計1町2反(1.2ha)で米作りを始めましたが、これでは将来子供の教育も満足にできません。ここからレタスとの付き合いが始まるのです。北伊予の中川原(なかがわら)、徳丸(とくまる)地域でレタス栽培の草分けが昭和42年(1967年)ですから、10年遅れということになります。昭和53年(1978年)に圃(ほ)場整備事業の委員長を引き受けたので、5年間の任期中はここから離れられなくなり、水田の減反による転作の問題もあってレタス作りを始め、現在では、もう20年になろうとしています。昔は、いまのような結球性レタスは栽培されることも、生食する慣わしもなく、せいぜい、チシャといっていた葉菜をなますにするか、食べ物の下敷きにしていたにすぎなかったのです。現在、松前町(北伊予地域)は伊予市とともに、県下一のレタスの産地(図表3-3-4、写真3-3-4参照)となっていますが、試作を始めた当時は、農協さんも、農家も、レタスのノウハウについて全く知らなかったのです。それで生産したものの販売ルートの開拓にも苦労し、県庁前にテント張りの出店をして売ったこともあったということです。当時、レタスといえば、ほとんど1月から3月に収穫する冬レタスでした。その後、53年ころより4、5月に取る春レタス、10月から12月の年内取りをする秋レタスを導入し、出荷量もほぼ平均化しています。夏レタスを作っている農家もありますが、高温障害が発生し良質のものがなかなか出来ないようです。」

 (ウ)畦(あぜ)豆と枝(えだ)豆

 「一般的には減反の田んぼにはエダマメを作りますが、これは、当たり外れがなく堅実ですし、時期をずらして出荷することができます。昔はエダマメを畦豆と呼んでいました。田植えのすんだ畦峰(あぜみね)に子供たちの手伝いとして植えたものです。お盆過ぎの初秋のころには、塩ゆでにされておやつともなっていたのです。近年は田の畦もなく、転作の作物として栽培され、エダマメと呼ばれるようになるとともに旬のない野菜になってきています。はしりのエダマメは、6月の暑い夕なぎの始まるころからです。これは、2月下旬に冬レタスを収穫した後のビニールトンネルを利用して播種(ほしゅ)(種まき)したものです。現在、耕作している水田が約4町(4ha)、そのうち休耕田が6、7反(60、70a)ですが、荒らしておくわけにもいきませんのでエダマメを作ります。収入は稲作よりずっといいのです。時期をずらして収穫し、その後に、9月から11月にかけてレタスを定植していくのですが、早いものは、10月中旬の秋祭りのころから年内にかけて取り入れることができます。粗収入は米と、レタス・エダマメで振り分けですが、米は経費が高くつきます。エダマメはこの地域で最も広く、7反くらい栽培していますが、以前は枝付き出荷のため手間が大変でした。いまは脱鞘(しょう)機(さやもぎき)で省力化していますが、面積的にこれが限度です。4月下旬からまく時期をずらしても、夏場に実が入り収穫するのはほぼ同じ時期になってしまうのです。」

 (エ)レタス作りは夫婦二人で

 「わたしがレタス部会長をしていた昭和60年(1985年)当時は、北伊予地域で会員数約220名でしたが、現在では140名ほどに減っています。レタス作りは家族で、というより夫婦二人の手作業が多いのです。マルチ(雑草の発生を防ぐビニール)の張り付けビニールトンネル張りなど、どうしても息のあった二人でないとうまく張れません。高齢化してきた夫婦のうち、健康を害したり、独りになったりするとレタス作りは、やまったり(止めること)となり即脱会につながります。省力化が進められてきていますが、稲作に比べるとまだまだ手作業が多いのです。種まき用の器具、ポット育苗(写真3-3-5参照)、包装機などを使うようになり、ずいぶん省力化され能率的になってきています。わたしが、10年遅れで始めた当時、『もっと、早く始めたらよかったのにのう、しもうたのう。』と言われたものでした。ちょうどその時期、価格の低迷期でしたが、材料を取りそろえて始めていたので、後に退(ひ)くわけにもいかず続けてきたのです。共同出荷の前日は、手作業によるラップ包装で、夜中の1、2時になることもたびたびで、ダンボール箱(10kg入り)に詰め込みが終わると、夜はしらじらと明けてきます。その後、朝のうちに北伊予農協の共同出荷倉庫へ搬入し、次いで昼前から収穫にかかり、午後遅くから再び選別、調整、包装にかかるという寝る間もない忙しい状態でした。
 包装機が入ってからは、午前中に取り入れをすまし、午後に調整と包装をして、午後6時ころには50箱くらいは出荷できるようになり、ずいぶん楽になりました。しかし、ほとんどの仕事が二人の共同作業によります。二人で力を合わせなければできない手作業が多いのです。」

 (オ)みずみずしさを保つために

 レタスは裸のままだと外葉がばらけやすいため、方形のフィルムで包装する。昭和40年(1965年)ころまでは防湿セロハンが使われていた。これで外葉のばらけは防止できるが、葉からの水分の蒸散防止効果はほとんどない。昭和45年ころから、ガスと水蒸気の透過を抑制する改良型のポリスチレンフィルムが開発され、包装に使われるようになり、産地予冷の発達とあいまって、流通中のレタスの鮮度が保たれ、都市の人々は一年中、みずみずしいレタスを味わえるようになった。
 取り入れたレタスは、箱詰め前に葉と茎の基部を切り捨てるが、この切り口から乳白汁がにじむ。これをふきとって包装するが、この切り口は次第に褐色を帯び、濃褐色になってくる。なんらかの含有成分による酸化反応のためと考えられている。これがレタスの鮮度を見分ける指標の一つであり、買い求める際のチェックポイントともなる。最近この褐変防止用材料が開発された(⑥)。
 「レタスは片側の葉に別の側の葉がかぶさって、球の形をつくり、外側の葉2枚で、中の葉を包み込む形になっています。室温で放置しておけば、この2枚の外葉からしおれてくるのです。外葉の適度なしおれが、ラップ包装の役目を果たし、3枚目から内側のレタスの新鮮さが保たれます。いわば、引き立て役です。しかし、外葉2枚は捨てられ、この目方が1個のレタスの約15%に当たり、価格200円とすれば、約30円分を無駄にしています。ラップ包装に要する費用を4、5円としても、包装して出荷するのが得策です。そのうえ、農家が手間をかけ、丹精込めて作ったレタスを、消費者は無駄なく利用することができます。
 調整と言うのは、選別と鮮度保持上、外傷からの腐敗を防ぐため、切り口に施す活片(かっぺん)処理のことをいうのです。これまで、レモン液、酢、蒸留水などが試用されましたが、以前から行われていた塩水処理が、最も簡便で効果的なようです。
 現在、レタスなど軟弱野菜の包装は、スーパーや小売り店ともに、ラップ包装(写真3-3-6参照)が主体ですが、包装しないで出荷する方法もあります。これは、圃(ほ)場で切り取り、外葉1、2枚を残して、その場で箱詰めして出荷します。小売り店では、さらに傷んだ外葉を取り除けて、包装をしないで販売しますが、外葉を除くほどに見た目にはきれいになるが、玉が小さくなり目方も減ります。各農家で使用されている包装機は高価ではありますが、ほかの農業機械と比べ、稼働する期間が長く、能率と省力化の面で大いに役立っています。」

 イ レタス産地のなやみ

 (ア)減農薬の反動

 「レタスは、有機質堆肥(たいひ)を多く施用して促成栽培をします。有機質堆肥については問題はないのですが、難題は病虫害の防除対策です。消費者は、限りなく自然栽培に近い安全野菜を指向します。しかし、防除薬の散布回数を減らせば、病虫害の発生率が多くなり食痕もできます。アブラムシ、アオムシ、そして家の近くの畑では、どういうわけか、ナメクジの発生が多いのです。これを消費者が見つければ、即苦情がきます。減農薬野菜の意識がないのです。生産農家にとっては、規格外と評価され、安値となります。お互いの意志と指向が相反することになるのです。難敵はアブラムシとナメクジで、昼間はマルチの下に潜んでいますから完全な防除ができず、効果的な駆除薬もないので、これにはてこずります。
 ある企業においては大規模な設備をしハイテクを駆使して、サニーレタスの溶液栽培も試行されています。しかし、農家においては大きな資本を投入して施設を整えると『いざ』というときどうにもなりません。その点では露地栽培は転作をすることができますから、ある程度気楽なのです。
 わたしのレタス作りは、とにかく、『いつも、一定量の、優品作り』を目指しています。レタスはなんと言っても、玉太り、形、色あい、食味そのうえに安全な野菜でなければならないということです。」

 (イ)郊外野菜産地の行方

 「ここは、松山平野のほぼ中央に当たるため、古くから区画整理が行われ、稲作の盛んな地域です。また、重信川流域の近くですので、地下水には恵まれています。しかし、昨年(平成6年)は異常干ばつで苦労しました。農業用水の水源はほとんど井戸水(地下水)ですが、昔からの井戸は底が浅いのです。わたしはここに生まれ育って60年になりますが、昨年のように『ばんすい』(水当番)をした経験は2回目です。そのうえに井戸の掘り下げ、ポンプの据え替えなど大忙しでしたが、なんとか間に合いました。中川原、徳丸地区は枯れた井戸もあったようです。水脈は同じ地域でも場所によって大いに異なるようです。
 現在、この地域は圃(ほ)場整理事業も完了して、市街化調整区域となっています。農地は、地目変更に規制があり宅地として譲渡することができません。分家して新宅することも、自由にならないのです。また松山市の近郊でありながら、緑が多く残されている環境と、地下水にも恵まれているため、ベッドタウンとして好適地です。規制が解除されれば、農地の市街化・宅地化(写真3-3-7参照)が進むことは、目に見えています。農業の衰退とともに専業農家は減少し、兼業農家、5反農家、日曜農家が増加しています。こういった農家も、採算性は度外視して、省力化のため高価な農機具を購入しているのです。高価な農機具を共同化することも問題があるようです。まして祖先伝来の農地を手放すことも何かと差し障りがあり、結局所有している5、6反(50、60a) の水田は委託耕作の農地(農協または個人に委託する)に回して、市内に勤めるといった形態が増えてきているようです。これが都市近郊農家の現在の姿と言うことができます。
 将来的には、人口の増加とともに食糧不足の時代がやってくるといわれていますが、緑の大地とともに、農地は減少の一途をたどっています。それに歯止めをかける有効な対策がないのが現状ではないでしょうか。」
 松山市周辺の各市町における農家と非農家の混住化の進行は、街の中心部に近づくにつれて著しい。特に農業集落における現在の比率は、昭和45年(1970年)当時は、平均的に8割が農家、2割が非農家で構成されていたが、10年後には完全に逆転し、現在は、さらにその割合が高くなっている(④)。混住化の進行は、農用地の減少を招き、自然発生的に受け継がれてきた「郷(ごう)」、「組(くみ)」の連帯や協助のくらしを、意識的、機能的に希薄なものにしているということができる。
 都市近郊においては、農業振興策の一環として、市街化の拡大を抑制すべく、市街化調整区域の線引きがされているといいながら、都市化の進む松山平野の農業は、ますます厳しさを増しながら推移していくことが予想される。

図表3-3-4 レタス生産の推移(伊予市・松前町)

図表3-3-4 レタス生産の推移(伊予市・松前町)

『愛媛県市町村別統計要覧(⑤)』より作成。

写真3-3-4 伊予レタスの里

写真3-3-4 伊予レタスの里

松前町出作。平成7年10月撮影

写真3-3-5 育苗中のレタス

写真3-3-5 育苗中のレタス

松前町出作。平成7年6月撮影

写真3-3-6 ふるさと市に並べられた伊予レタス

写真3-3-6 ふるさと市に並べられた伊予レタス

北伊予農協にて。平成7年12月撮影

写真3-3-7 都市郊外に広がる市街化と水田転作の野菜栽培

写真3-3-7 都市郊外に広がる市街化と水田転作の野菜栽培

宅地化が進む畑には夏レタス、枝豆、ソラマメが造られている。松前町出作。平成7年6月撮影