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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)やまじ風とともに

 **さん(宇摩郡土居町津根 大正12年生まれ 72歳)
 **さん(宇摩郡土居町津根 大正14年生まれ 70歳)
 **さん(宇摩郡土居町津根 昭和6年生まれ 64歳)
 伊予三島市から、土居町にかけて広がる狭長な宇摩(うま)平野は、愛媛県の東端、四国の中央北部に位置し、東は香川、徳島、南は高知の3県に西は工都、新居浜市にそれぞれ隣接し、北は瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)に面している。「健康で潤いと活力に満ち、香り高い文化の町」をキャッチフレーズに掲げる土居町は、町の南部を赤石(あかいし)山脈と、それに続く法皇(ほうおう)山脈が東西に走り、海岸平野に平行する断層崖、銅山川が同方向に並んでいる。赤星(あかほし)山に源を発する大地(だいち)川は、断層山地を流下し、山麓には隆起扇状地性の洪積台地が広がっている。流れ下るに従って川筋は市町界となり、天井(てんじょう)川(河床が周囲の土地より高くなった川)を形成しながら燧灘に流れ込み、河口部の西方には長津(ながつ)干拓地が開けている。
 昭和60年(1985年)、四国初の高速道、松山自動車道が伊予三島・川之江-土居間に開通し、大地川のほとり谷口に土居I・Cが竣工した。平成3年には土居-西条聞が開通し、同6年川内まで延伸された。
 その大地川の下流一帯の土居町津根(つね)から伊予三島市豊岡(とよおか)・寒川(さんがわ)にかけては、豊受(とようけ)山(1,428m)と赤星(あかぼし)山(1,454m)の両山から吹き下ろすやまじ風が特に強く、人々は家屋の南側に防風林を仕立てたり、瓦を固定したり石置き屋根にして(口絵参照)対応してきたが、近年は鉄筋の建物が目立ってきている。したがって農作物も強風を避けて根菜類が特に多く栽培され、宇摩平野は県内では松山平野、大洲盆地に次ぐ野菜の生産地となっている。

 ア 三大局地風の一つ、やまじ風

 宇摩地方の「やまじ風」は、山形県の「清川(きよかわ)だし」、岡山県の「広戸(ひろと)風」と並び、三大局地風として知られ、春先に法皇山系から吹き下ろす強風は、古くから人家や農作物などに大きな被害を与えてきた。そのことが、一方で「やまじとともに生きる」人々のくらしの知恵としての農作物、サトイモやヤマイモなどの特産化をもたらしたと言うことが出来る。また、東赤石山系に自生する「赤石五葉松(ごようまつ)」も盆栽を愛する人々の間に、その名が知られている。
 昭和62年(1987年)、高速道路の建設とともに、町のふるさとづくり事業の代表として、着眼されたのが、やまじ風と「赤石五葉松」であり、その拠点が「やまじ風公園」である。
 やまじ風は宇摩平野に吹く独特の局地風であり、この対策は古くから人々の切実な願いでもあった。特に、昭和26年(1951年)10月、風速45mを超える台風を伴って襲ってきたやまじ風は、宇摩平野の農業に大きな被害をもたらした。その結果、農家の切実な要望によって、26年に川之江市、伊予三島市、土居町の2市1町による「やまじ風対策協議会」が設立され、早速、気象観測とともに、資料収集、作物の災害回避のための情報収集、栽培技術の調査研究が地元、関係機関の協力によって進められた。
 平成7年3月、貴重な44年間の観測記録、関係資料が集大成され、『やまじ風(⑦)』として、「やまじ風対策協議会」から出版されている。それによると、今日では気象的に発生の原因が明らかになり、予知もある程度可能になってきている。また、建築や栽培技術の進歩によって、昔の突風に対する恐れの概念から解放され、人々は落ち着いて、その対策を講じるゆとりが生まれた。しかしながら、この悪風やまじは、人為では、いかんともしがたい「自然の力」によるもので、今後も継続的に対応策を考えていかなければならないと思われる。
 『やまじ風(⑦)』の観測記録によると、昭和61年から、平成5年までの8年間にやまじ風は256回(年平均32回)発生し、平成5年6月2日には、最大瞬間風速38mが観測されている。
 その寄稿文に、山上次郎さんは、「この地方に生まれた者は、誰しも、やまじ風の脅威にさらされ、特に自然を相手の農家にとっては時には死活にかかわる被害を受けてきたであろう。わたしもその一人…。」と記し、「瓦飛び竹裂ける音に耳を掩(おお)ひて子はうずくまる」と詠んでいる。

 (ア)やまじ風対策はやまじを知ること

 津根地区に吹く強風、やまじ風の中で、芋作りに生きてきた三人の農家の方の話をまとめてみた。
 「やまじ風は、法皇山脈の南麓(ろく)を越え、北麓に吹き下ろしてくる強風で、風速10mを超す風をいいます。低気圧が山陰地方の日本海を東北に進行する際と、四国の西方を台風が北上する際にフェーン現象によって発生します。春先に吹く強いやまじ風は、年に1、2度、3月末から6月半ばころまでにやってきますが、この時期を過ぎると『今年は、ことぁない(たいしたことはない)…。』と、古老は言っていました。秋の9月から11月半ばころまでの時期に台風とともにやってくると、暴風となって作物がやられてしまいます。台風が土佐沖を東北に進行するときには、全く吹かないのですが、四国の西を日本海にぬけると、妙に必ずと言ってもいいくらいやってきます。これが台風どころの騒ぎでない強さなのです。これを『かわし風(返し風)』といって、東(こち)やまじが西やまじに変ったときの返し風で最も強いと言われています。
 平成2年6月のやまじはこの『かわし風』が猛烈に吹き荒れて、電柱が倒れたり、トラックが横倒しになったりの大きい被害がありました。」
 宇摩平野に吹く局地風のやまじ風には、この地方独特の地形にもその秘密がある。四国の東部に剣(つるぎ)山が位置し、西部には石鎚山の両高峰があり、その間は鞍(あん)部状の地形となって、南よりの風は北の谷沿いに集められる。この集まった風は、法皇山脈を通過したのち、北側山麓の急斜面に沿って吹き下る。その北側山麓(ろく)には中央構造線があり、断崖は平均傾斜10分の3、先端部は10分の5の急勾配を形成している。このような地形によって集められ加速された風が、わずか15km (平野の東西)の狭長な宇摩平野に吹き下りることによって発生するのがやまじ風である(⑧)。
 「袋の形をした土佐湾に集まった強風は、山は高いけれども、四国の最も狭い部分を縦断して、袋の口から燧灘に向かって吹き出していきます。土居町でやまじ風の最も強い地域は、大地川沿い(写真3-3-8参照)の野田、津根地区から東は伊予三島町市寒川町辺りでしょう。宇摩平野の最狭部が、やまじの最も強い地域なのです。しかし、金砂(きんしゃ)湖(銅山(どうざん)川をせきとめてできた人造湖、貯水量3,138万m³)が完成してから、吹く回数が少なくなったようで、次いで工事中の富郷(とみさと)ダム(貯水量5,200万m³)が完成して貯水が始まり満水状態になれば、さらに変わってくるかも知れません。」

 (イ)やまじ風の兆し

 「強いやまじ風の来る前には、その兆しがあります。それによってある程度予想することができます。年寄り連中もよく言っていましたが、その第一の兆しは、赤星(あかぼし)山や、豊受(とようけ)山の首に、桁(けた)雲(山の頭部にできる笠(かさ)雲)がかかり、それが、北へ流れると、三島の寒川や豊岡方面のやまじ風が強く、北西に流れると、小林・蕪崎(かぶらざき)方面が強いと言われます。それで、人々は山の雲行きで、『こちが来る』、『にしが来る』と予想するのです。また、桁雲が飛び交い、山が鳴りかけると、とくにごっついのがくるので恐れられたものです。九州を含めて土居町から西側を台風が、日本海へ抜けると、台風よりまだまだ強烈なやまじがきます。その後でにしが吹き返すので恐ろしいのです。秋口にやってくると稲穂は頭を垂れない白穂(結実しない穂)になってしまいます。木造の家は、『バリ、バリ』音をたて、土壁にはひび割れが入り、屋根瓦は吹き飛びます。昔の人はこの対策として、瓦の上に石を載せたり、南側に防風林をもうけたのですが、現在はコンクリート造りの住宅が多くなっています。
 陸(おか)では、なんとか対処することができますが、海の上でやまじ(沖やまじ)に遭(あ)うと、逃げ場がなく、どうすることもできません。あれは昭和25年(1950年)の4月、ちょうど桜の花の咲くこの地方の春祭り(4月7日)でしたが、借り切りの船で広島県の厳島(いつくしま)神社へお参りに行った帰りのことです。土居町の八日市(ようかいち)の浜が見えるようになってから、ものすごくごつい東(こち)やまじに遭い、船はもう全く進まず、そのうえすごいひどい揺れで船酔いはするし、生きた心地はなくこれまでと覚悟をしたものです。逃げ場のない船上での沖やまじは、実に恐ろしいものです。それが生まれて初めてで終りの沖やまじにあった経験でした。漁師さんたちはこれを『どまい』とも呼んでいますが、沖合いで迷い風になったものと言われています。普通のやまじは別にたいしたことはないそうです。」

 イ 新居(にい)の芋から宇摩郡(ごおり)の芋へ

 「新居の芋」のルーツは、戦国の世、土佐の長曽我部元親が、新居浜の武将に盟友の契りとして持参したことに始まるという。家柄では、いざの時、腹の足しにはならないが、芋の茎は食えるので、「家柄より芋柄(いもがら)」ということわざがある。干した芋の茎は、飢饉の際、腹の足しになるのである。その昔、芋を作っている里の百姓は、苦しく厳しいくらしを芋によって救われたとも考えられる。徳川末期編さんの『西條誌』に、「味・甚よし。」、「備中辺より船にて買いに来り。」と記述されている。
 「武蔵野に秋風吹けば故郷の 新居の郡の芋をしぞ思ふ」正岡子規(竹の里歌)
 新居の芋は、里芋であり、地方によっては田芋とも、真(ま)芋ともいっている(⑨)。
 いつのころからか、里のたたずまいが、街風に移り変わるにつれて、芋の産地は、名実ともに新居郡(ごおり)から宇摩郡(ごおり)へ移っているようである。
 宇摩平野がサトイモ(写真3-3-9参照)の特産地となっていった理由は、第一にやまじ対策の作物、第二に扇状地形とその土質に関係がある。宇摩平野は雨が少なく、地形上からもかんがい用水の不足する地域であったため、稲にかわる節水作物として栽培されたのである。サトイモ・ヤマイモ(ヤマノイモとも言う)ともに、排水のよい、微風を受ける土地に適するといわれ、宇摩平野はこの条件を備え、県下一の産地として品質のよいサトイモとヤマイモを生産(図表3-3-6参照)している。

 (ア)サトイモとヤマイモ

 「宇摩地方の農家は、古くからやまじ風に備えるくらしの知恵として、芋類を作っていたのです。サトイモなど、土の中の作物なら当てになると(収穫できる)いいます。やまじの吹く時期によってサトイモの葉が切れて飛ぶことがあっても、土中のイモまでは持っていかれはしない。地上の作物は、全く当てにならないこともあります。現在のように特産地化したのは、昭和40年代の転作期のころからで、やまじ対策、転作作物、換金作物として取り入れられたからです(図表3-3-6参照)。現在、土居町の全水田面積(約761ha)のうち5割が減反、転作をして、その半分にサトイモとヤマイモが栽培されています。しかし、労力と技術を要する仕事ですから、勤めとの兼業は難しく、将来的には後継者不足となり、農家の高齢化の進行とともに、生産量も減ってくるのではないでしょうか。芋作り専業の農家で6反(60a)以上栽培している人は少ないのです。多くの農家は、サトイモとヤマイモの両方で3、4反の栽培面積です。高齢化してきている農家にとっては、この広さが限度と言えます。この津根地区でも若手の専業農家といえば、**さんが最も若いのです。昨年(平成6年)は各地とも水不足でしたが、ここは水田のかんがい用水があったため、サトイモ、ヤマイモともに、またとないできでした。県外の産地が水不足で不作だったため、出荷価格も、『二度とこんなことはないだろう…。』というほど高値でほくほくでした。中国産の輸入がなければ、さらに高値が続いたでしょう。しかし、中国産は値は安いけれども、鬼(おに)皮(外皮)を取り去り水洗いしたものが輸入されるため、乾いて固くなって、味もかなり落ちるようです。これは、土付きの野菜の輸入が検疫法で禁止されているため、鮮度が落ちるからと聞いています。」
 ヤマイモは、サトイモとともに宇摩平野の代表的野菜である。栽培の歴史は古く、幕末以前から続けられてきているという。栽培の中心地は伊予三島市の寒川地区であったが、現在では、サトイモと同じく宇摩平野全域に広がり、輪作体系がとられ、地域の特産物となっている。
 栽培されているヤマイモとジネンジョは、「種(しゅ)」が異なる。ヤマノイモ、ヤマイモ、ナガイモ、ツクネイモと地域により、その呼び名が違う。
 江戸時代、弥次さん、喜多さんの出てくる『東海道中膝栗毛』にも、静岡県の丸子の宿の名物として「とろろ汁」がでてくる。古くから栽培されていたにもかかわらず、特産地化しているのは、できた芋の半分は、種芋用に残す必要があったため、種芋として、よそへ回すゆとりがなかったのであるという。
 ヤマイモの全国生産量の推移をみてみると、昭和45年(1970年)には約10万t、50年12万t、55年13万t、60年17万t、平成2年20万tに達した。この間、米の消費量は確実に減少し続けてきたのである。ヤマイモの貯蔵適温は0℃である。恒温冷蔵法の研究改良によって一年間の貯蔵ができ、年間を通じて出荷することができ、市場価格の維持も可能になっている。ヤマイモの全国一の生産県は、青森県、次いで北海道、茨城、長野県である。奥羽以北はナガイモ、関東はイチョウイモ、関西はツクネイモが多い(⑩)。
 「土居町で作られているのはツクネイモですが、これは他の芋類と違って1本の蔓(つる)に、1個の芋しかできないので、どの蔓を残すかが大切になってきます。種芋には、鶏卵の大きさ以下のものを使い、それより大きいものは2~3個に切って使います。ここでは、やまじ対策上ほとんど地這(は)い栽培ですが、他の地方ではほとんど支柱栽培です。いい芋を作るには、良質の堆肥(たいひ)を必要とし、ちょっとした栽培の技術が要るため、大量生産には適しません。この地域でも、山際の排水のよい畑で作られた芋は、姿、形、味ともに最上のもので、丸くて、大きいものがいいのです。しかしながら、これほど連作障害のでる作物も、ほかにないのです。」

 (イ)輪作体系と品種の銘柄化

 「一般に野菜は連作を嫌いますが、サトイモ、ヤマイモともに忌地(いやじ)(連作障害)性の最も強い作物ですから、連作(図表3-3-7参照)を避けます。できる限り間を開けるのがよいのですが、耕作面積の都合上そうもいきません。普通3年は間を開けますが、できれば5、6年は開けたいものです。1年目サトイモ、2、3年稲作、次いでヤマイモですが、この体系でも十分とはいえません。」
 **さんは「花き球根のアネモネ・ラナンキュラスを入れています。サトイモの品種は、戦前は、早生系の『盆芋(ぼんいも)』・『石川早生(いしかわわせ)』などでしたが、戦後は現在の統一品種になっている『女(おんな)早生』がほとんどです。」と話している。
 「サトイモは、農協へ共同出荷をします。以前からの付き合いで地元の仲買商人に売る場合もありますが、共販体制が普及しています。その方法は、子芋と孫芋に選別したものを、土とひげ根を除いて出荷し、農協で機械選別し、規格化、等級化されたものが、都市市場へと出荷されていきます。仕向け先は、8割以上が京阪神、地元市場へ向けられるのは少量のようです。県外産地との競合を避けて、出荷の最盛期は、10月から11月ですが、畑に埋蔵しておけば、3月ころまで出荷できます。『女早生』の最盛期は、他の産地の端境(はぎかい)期にあたり、農協の出荷戦略の見せどころになります。
 地元の仲買商人は目が肥えています。その買い付け方法は、青田買いと、計り買いの二通りあり、畑でまとめて買い取る方法と、選別したものを計り買いする方法ですが、いずれも、良質のものを高値で買い付けます。農協へは選別せず出荷しますから、仲買人との値に開きがあるのです。
 仲買人は玄人ですから、畑の土質と成育具合をみれば、品質がわかるといっています。仕向け先もそれぞれの筋があるようです。
 せっかく、『女早生』という良品種に統一されたのですから、出荷体制の集中化、銘柄化を積極的に図ってゆけば、特産品として有利な販路が開拓されると思うのですが、古い産地ですから、地元仲買人とのかかわりなどもあって強力に集中化できないのです。現実には、土居町の生産量(サトイモ約2,000t、ヤマイモ約600t)の約5割以上が、仲買商人の方へ流れています。しかし、農協の選別設備からみると、管内の全生産量はさばききれないでしょう。」
 サトイモの味について、**さんは、「京都で有名な精進料理や、人々のお番菜(ばんざい)(お総菜)の素材は野菜が中心ですが、その京都の知人も『実においしい…。』というほどですから味は保証付きです。土居町産のサトイモ『女早生』を銘柄化していって有名になれば、現在の状況は変わってくると思います。土居町は東は製紙産業の伊予三島市、西は新居浜の工業都市にはさまれ、両市の近郊都市として、市街化が進行しています。ここ津根地区においても、道路の新設で新しい工場や住宅が建ち、例えば水田は昔の半分以下の約17、8町(約17、8ha)に減ってきています。この水田面積は専業農家数戸の経営面積にしか過ぎません。
 自然に恵まれたふるさと土居町に都会に出た若者が再び帰ってくるような、魅力のある住みよい町おこしに期待しているのです。」と話している。

 (ウ)風神さんを祭る

 豊受山頂近くに祭られている豊受神社の西にある風穴を里人は「かざあな」と呼び、その風穴からやまじ風が吹くと信じていた。昔からそこに小祠(し)を祭って風穴神社という。やまじ風地方には、各地に風神を祭った神社・祠(ほこら)が散在している。

  豊受神社(伊予三島市豊岡町岡銅)祭神 登由宇気比売命(豊受姫神)
    豊受神社延記書 抑豊受神社者人王四十代天武天王御兄太友皇子与戦賜時伊予国江下り賜其時宇摩之大津長津宮二而御
   即位有則村山社号賜天神地祇ヲ祭給其時天照太宮ヲハ村山二祭り豊受宮ヲハ此社二祭給山ノ名ヲ豊岡山与号賜者ユタカニ
   氏人ヲ守トノ御心也(⑦)…   以下略

 **さんは次のように話している。「風当たりの強い地域では、各組ごとに代表を出し、旧暦6月13日の豊受神社の祭礼には、『風封じ』の祈願に参拝したものです。わたしも、若いころ代表として登ったことがありますが、途中道に迷ったこともあるような山道です。祭礼には、小さい麦粉の丸団子を供えて、豊作を祈願します。そのあと、団子は必ず風穴に投げ入れて、風神さんにその年のやまじ風が少ないことを祈る慣わしがありました。また、古老の話によると、ここの村山神社(土居町津根)さんが内宮で、豊受さんが外宮として、風宮さんが祭られている。お伊勢さんに遠い九州や中国の人は、ここで代参をしていたということです。」

  風穴神社(豊受神社境内)祭神 科津比古命(志那都比古命)科津比女命(志那登女神)(⑦)。

 **さんは、「風神さんを祭る小祠(風留神社・写真3-3-10参照)は、伊予三島市側より土居町に多く、各地に残っています。わたしの屋敷の上方にも、小祠ではなく石のお塚になって今も祭られています。お祭り(現在7月の第3日曜日)には、祭壇を設け地区の人々が集まり、代表祈詞を捧げて、豊作と風の鎮まりを祈ったものです。」と話している。

 (エ)サトイモを供えて

 現在、各地で河原の名物となっている「いもたき」は、8月の下旬ころから行われているが、芋栽培農家の収穫祭は中秋の名月のころから、豊作を見極めて行われたのである。
 芋の特産地土居町には、その伝統を生かした郷土料理「芋田楽(でんがく)」がある。ゆでた芋を竹串に刺し、こんがりと焼き、みそ味のタレをつけて食べる。新居の郡の芋は、この「芋田楽」かもしれない。
 「正月には、今でも農家は親芋を一つ神棚に供えます。これを親頭(おやがしら)と言います。サトイモは親芋を中心にして子芋、孫芋を多く生じることから、子孫繁栄の縁起をかついだものです。「芋田楽(でんがく)」も、この縁起からきたものです。また、正月の雑煮には『芽赤(めあか)』という芋(サトイモの一種)を入れますが、この慣わしは東予地方に多いのです。
 旧暦、8月15日の中秋の名月には、芽赤の子芋を3個洗って3本を組み合わした竹串に刺し、ダンゴとともに名月に供え、収穫を感謝したものですが、いつのころからか、この慣わしはなくなりました。芽赤もだんだん作られなくなりました。」

写真3-3-8 大地川の河口地帯(やまじ風が最も強い)

写真3-3-8 大地川の河口地帯(やまじ風が最も強い)

土居町東宮。平成7年6月撮影

写真3-3-9 宇摩郡のサトイモ「女早生」

写真3-3-9 宇摩郡のサトイモ「女早生」

土居町津根。平成7年11月撮影

図表3-3-6 土居町のサトイモ生産量の推移

図表3-3-6 土居町のサトイモ生産量の推移

( )はヤマイモ。『愛媛県市町村別統計要覧(⑤)』より作成。

図表3-3-7 土居町(津根地区)水田の輪作体系

図表3-3-7 土居町(津根地区)水田の輪作体系

聞き取り調査より作成。

写真3-3-10 風留神社の小石祠と石塚(風留神社)(豊作を祈る神社)(石鎚神社)

写真3-3-10 風留神社の小石祠と石塚(風留神社)(豊作を祈る神社)(石鎚神社)

燧灘を背にひっそりとたたずむ。土居町小林。平成8年1月撮影