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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)ハウスは花ざかり

 ア 真っ赤に色づくハウスイチゴ

 **さん(越智郡朝倉村南 昭和27年生まれ 43歳)
 越智郡朝倉村は、東を玉川町、北を今治市、南を東予市に囲まれた村である。総面積2,979haのうち林野面積が約64%を占め、耕地面積は735ha (25%)にすぎない。傾斜地の多い農山村であるが、都市化の進展による道路の新設、整備にともなって、山際には企業の工場用地や住宅地が造成され、今治市のベッドタウンとして人口が徴増し、農地は減少する傾向にある。地質は、頓田(とんだ)川沿いの平野部に堆(たい)積した花こう岩質の洪積層、沖積層で砂粒が粗く吸収性がよい。用水源は頓田川とその支流であるが、朝倉ダムの完成とともに、かんがい施設、圃(ほ)場の整備が進行しつつある。やや雨は少ないものの、季節較差の少ない温暖な気候は、農作物の栽培に適している(⑪)。
 近年、本・四連絡橋の今治尾道ルートの完成が迫るとともに、道路網の充実・整備が図られ、人々の交流と物の流れにますます拍車をかけている。

 (ア)イチゴヘのかかわり

 イチゴの旬は、いつの間にか夏から秋口へ、さらに2月に移ったようである。冬のスイカはまだまだ季節的に異和感があるが、イチゴはそれとなく受け入れられている。戦前のイチゴは、幕末ころにオランダから導入され改良されたもので、「石垣イチゴ」などが知られている。現在の栽培イチゴは戦後の生まれで、全国生産量は20数万tに達している。品種は「ダナー」、「宝交(ほうこう)早生」に続いて、「女峰(にょほう)」と「とよのか」が、他の品種を圧している(⑥)。
 「わたしは、7人兄弟の末っ子で、兄2人は都会へ出て公務員をしています。もともと農家ですから、だれに言われることもなく後を継いだのです。ここは、今治市の近郊ですから、昔から露地物の野菜(キュウリ、ハクサイ)の産地でした。
 高校卒業(昭和39年〔1964年〕)の当時は露地物の野菜栽培を手がけていたのですが、そのころから施設園芸が奨められてきたのです。本格的に施設園芸をやるなら、他にやってないものをとの考えから、高校時代に全国的に有名な静岡県ヘメロン栽培の研修に行った経験を生かして、メロンの試作を始めたのです。当時は、この地域でメロンの栽培をしている農家は少なく、自分の趣味を生かし楽しみながら栽培して好成績をあげることが出来ました。昭和40年ころから普及してきたイチゴの露地栽培とともに、ハウス栽培も始まったのです。45年(1970年)以降にはハウス栽培が主体となり、半促成、高冷地育苗による促成栽培と長期株冷による抑制栽培の組み合わせが普及してきました。品種は『宝交早生』と『麗紅(れいこう)』の両品種が多く栽培されていました。わたしは、40年代後半からイチゴの品種を『とよのか』の一品種に絞って栽培を始めたのです。これがイチゴヘのかかわりのスタートでした。スタート当初は色着きが悪く、最も有利なクリスマスに出荷できるものはごく少量でした。」

 (イ)「伊予の北海道」での高冷地育苗

 イチゴは低温(15°C以下)・短日(昼間が12時間30分以下)の条件下で花芽を分化し、高温・長日で花芽が発達する特性がある。この特性を利用し高冷地で一定期間育苗し、平地より早く分化させて、早期出荷し高値販売をねらうのが高冷地育苗促成栽培である(⑪)。
 「有利な販売のできるクリスマス出荷を目指して、約40日間平地育苗したものを、お盆あけの8月中旬東宇和郡の大野ケ原高原に運び、約35日間育苗して花芽分化させ、9月中旬から山下(おろ)しして定植したのです。さらに、時期をずらして2次の植え付けをします。この高冷地育苗による促成栽培法によって、クリスマスの前から早出しすることができるようになったのです。この栽培方法を10年間くらい続けたでしょうか。現在は、夜冷ハウスで低温処理を施し、午後4時には暗幕で覆って真っ暗にして、簡単に短日処理を施すこともでき、山上げと山下しの手間を全て省くことができます。
 苗は露地育苗により、ランナー(小づる)を伸長させ、ランナーから萌芽してきた苗を、ポットに受けて育て、7月後半から8月後半まで、低温・短日処理を施して花芽を分化させます。
 8月後半に植え付けた促成苗は、9月半ばには花がぼつぼつ開いてきます。特にこの時期には、ランナーの伸長や黄色くなった下葉などを摘み取ってやり、病害や成育の具合に気をつけます。」

 (ウ)働き蜂の出番

 「ハウスの中でイチゴの白い花が開き始めると、ミツバチの出番(写真3-3-11参照)です。そのハウスの中に、養蜂業者から借りたハチを、1群単位(女王蜂1匹〔産卵最盛期には1日1,000~2,000個産卵〕、雄蜂〔群全体の1%〕、働き蜂〔卵から成虫までの20日間、成虫から死まで30日余りの生命〕からなり、数千~数万匹の集団)で放してやります。わたしもハウスに入れる程度は養蜂しています。ハチは10枚入りの棚が1箱となって、これが女王蜂を中心とする1群です。授粉用のハチの巣箱は、蜂蜜採集用のものより小型ですから、ハチの数も少ないのでしょう。借用料は棚の数によって違います。小型のハウスに1箱いれると、ハチの数が多すぎて、花粉を混ぜ過ぎるきらいがあるため、1日おきに入れて調節することもありますが、9月の早生ものの開花から休みなしで翌年の3、4月まで働いてもらうのです。ただ、ハウスの中のみでは、花の数と、養分が不足しますので、糖分を補ってやる必要があります。ハチを利用することのなかったころは、一畝(うね)ごとに団扇(うちわ)であおいで、授粉させていたこともありました。
 夜冷ハウスで苗の低温処理の時期をずらすことで、植え付けの時期と開花を調節をすることができ、品種をかえて早出しをすることもできます。」

 (エ)イチゴの味とかおり

 イチゴは素早く品温を下げると肉質がしまる傾向をもっている。収穫して、ケースのまま自宅の小型予冷庫に入れ、収穫が終わって、早く予冷したものから順にパック詰めをしていく。この予冷処置により呼吸が低く抑えられて成分消耗が少なくてすみ、肉質がしまり、パック詰めの時に起こりやすい外傷(押し潰れ)を防ぐ効果がある。さらに、輸送中、市場保管中、小売販売中の腐敗防止の効果がある。これで、地方の生産地から大都市の市場へ輸送ができ、鮮度のよい状態で店頭へ並べられ、人々の口に上るようになった。

 【野菜の予冷】
 野菜の予冷は、冷風を送って冷す冷風予冷と、真空槽を使って気化熱を利用して冷す真空予冷が一般的である。冷風予冷式には「強制通風予冷」と「差圧通風予冷」の方式があり、最も一般的なのは前者である。野菜の入った段ボール箱を、冷蔵庫の中に積み、吹き出し口からでてくる冷風が庫内を循環して、野菜を冷す方式である。施設費も安く、どんな野菜にも適応できる万能型であるが、段ボール箱の外側から冷していくため、中の野菜が目的の温度まで冷えるのに10~24時間もかかるのが欠点である。後者は、野菜の入った段ボール箱の適当な位置に穴をあけ、予冷庫内で特定の方式に積み、ファンで一方から吸引する。これで冷風と野菜の熱交換が速やかに行われ、野菜の品温が急速に低下し、約2~6時間で目的温度に冷却できる。この方式は、小さい果菜類や果実の予冷に適している。イチゴの予冷には最適で、農協では大量のイチゴの予冷にこの方式を用いている(⑥)。

 「現在、朝倉村で栽培されているイチゴの品種は、主に『とよのか』(写真3-3-12参照)ですが、これは、糖度・香りともによく、果汁も多く人気があります。果肉もしっかりしているため、完全に着色したものを収穫します。摘果は、傷つけないように指先と、爪で茎切りを行います。摘果終了後に選別し、パック詰めをして冷蔵し、翌日農協の保冷庫へ搬入します。さらに、量的にまとめて地元の今治と大阪市場へ出荷していきます。最近は、ハイテク栽培によって出回る時期が、クリスマス前になり、イチゴの旬は一般的に2月になりました。しかし、『四季イチゴ』や、端境(はざかい)期の6月から10月にかけては輸入物などを、店先で見かけるようですから、一年中食べられる、旬のなくなった野菜となりました。このようなことから、特に日本人はイチゴ好きと言うことができるのではないでしょうか。」
 イチゴは200種もの香気成分を含み、その主成分はエステルである。それにアルコール類、有機酸、ケトン等が複雑にからみ、イチゴ特有の芳香を形成しているという。しかし、その香りを決定する特定化合物は見つかっていない。なつかしい夏の冷たい「かき氷」にかけられていた、イチゴシロップの真っ赤な甘い香りも化学的に合成されたものである。最近は、より天然に近いイチゴの香り作りが進んでいるという(⑥)。

 (オ)本物志向のイチゴ作り

 「自然の味がするイチゴ、『とよのか』を作るためには、やはり土作りが基本です。そのためには、良質の有機質堆肥(たいひ)が必要不可欠です。この地域のイチゴ生産者が一括して堆肥製造にあたっています。その主な材料は、ノルウェー産の海草と鶏糞を使って、ボカシ(発酵促進剤)によって発酵させる自給堆肥を作っています。
 イチゴ作りで最も問題になるのは農薬ですが、『無』は無理としても、あくまでも『減』を目指していますが、ハウスでは、ウドンコ病の防除と最強の害虫ヨトウムシの駆除が主体ですが、いずれも開花前に散布しなければ、大切なミツバチまで駆除することになります。無害の農薬として、木酢(もくさく)液(製炭時の副産物)を使用したこともあります。
 イチゴ栽培で最も手間と熟練を要するのは、熟したイチゴの摘み取りです。これには親指の爪と指先によって行います。しかも、ハウス内の溝幅(歩道ともなる)が狭い上に、中腰かしゃがんで移動しながらの作業になり、特に疲れる仕事です。家内と二人で、どうにか片付けています。ピークには夜中になることもありますが、その日の分はその日に片付けないと、品質が低下してしまいますので、『即日完了』が鉄則です。現在、イチゴ栽培温室は150坪(約495m²)の大型のもの3棟(写真3-3-13参照)、小型のハウス4棟ですが、温室ではイチゴを4月で終え、そのあとヘメロンを栽培しています。7月下旬にメロンが終われば、イチゴの準備にかかり8月後半に定植します。早出しは10月からという作付体系ですから、年中農作業に追われ、全く時間的にゆとりのない日が続いている状態です。朝倉村は小さい村ですが、豊かな水と美しい自然に恵まれています。この豊かな自然を生かし、調和のとれた近郊農業の展開、朝倉のイメージキャラクターにあるような、明るく好まれるイチゴ作りの実現に努力しています。」

 イ ハウスの切り花たち

 **さん(伊予郡松前町鶴吉 昭和19年生まれ 51歳)
 近年、なにかと元気がなく、縮小生産をたどりつつあるかにみえる農業関係のなかで、花きの生産額は例外的に上昇し、花作り農家は元気いっぱいである。
 それは人々の生活水準の向上やライフスタイルの変化に伴って、くらしにうるおいと安らぎを求める人々が増えるにつれ、そのささやかな求めに、鮮やかに手近にこたえてくれるのが「花」であり「緑」である。切り花、鉢花、草花、花木など、色とりどりのものが生産され、くらしに彩りをそえている。
 総務庁の家計調査によると、平成4年には1世帯が年平均1万2千7百円の切り花を買っているという。これまで花の需要は業務用、贈り物用などに向けられることが多く、価格も高かった。しかし、同4年を境に、景気減速で需要の中心は家庭用に移りつつあり、その求めにこたえて、気軽に家庭のくらしを彩る手ごろな値段の「カジュアルフラワー」として、花き園芸はいま切りかえを図っている(⑫)。
 愛媛県農業における花き生産の地位をみると、農業粗生産額にしめる花きの割合は、昭和59年(1984年)以降は拡大を続け、平成3年の生産額36億8千万円は、本県の農業粗生産額の2.0%を占めるまでに上昇している。また、切り花の生産額についても同じように上昇を続けている。平成6年の同家計調査によると、松山市の1世帯当たりの切り花購入費は、8,838円で、全国45位(県庁所在都市別)という。これからして本県における花きの地位は、生産、需要ともに全国的にみると、まだまだ低いようである(⑬)。

 (ア)切り花は「カーネーション」

 松前町鶴吉地区は、その昔、重信川改修(1601年)以前は伊予川(現、長尾谷(ながおだに)川)の流れていたところといわれている。「ツル」は水路(流水)のある平地、流れ豊かなところを、「ヨシ」は葦(よし)で川辺に葦の茂る肥沃な地を意味しているという。自然に恵まれたこの地区も、市街化の波は避けられない。その中にあって、人々のくらしに彩りを添える切り花作りに生きてきた、**さんの話をまとめてみた。
 「昭和38年(1963年)、伊予農業高校の農業科を卒業した当時は、祖父を中心とした米麦作主体の農家でしたから、当然その後継ぎと思っていたのです。それで高校の園芸科でなく農業科を出たのですが、卒業と同時に今の農業大学校、当時、松山市南町にあった愛媛県立農業試験場の高等農業講習所に入所し、水稲作について研修をすることにしたのです。
 その当時は全般的に花きなど眼中になく、病虫害防除関係を専攻したのです。姉は、松山市三番町のある花屋さんに勤めていました。休日など遊びにいくと、その店の主人は、『松山には、切り花が、特にカーネーションは仕入れようにもない。将来的に有望だから、なんとか試作してみては…。』と勧められていたのです。決断のつかないまま卒業が迫ったある日、その店で伊予農業高校で『草花』の授業を担当してもらった、恩師にお会いしたのです。その先生は亡くなられましたが、バラ作りの大家でした。店の主人ともども熱心に花作りを勧められたのが、この道に入る契機となったのです。
 そのうちに、ぼつぼつと花作りに関心を持っている仲間もでき、まず先進農家の見学から始めたのですが、その見学先が、松山市石井(いしい)地区のカーネーション栽培のハウスでした。そこで先輩として、いろいろと経験談を話されたなかに『重信川から南の地域は、地下水位が高く雨期には排水施設も整備されてないから、花作りは難しいのでは…。』と言われました。同行の仲間は『ベット(栽培用の土床)を高くすれば栽培できるのでは…。』という意見もありました。
 計画を進めるため、さらに県外の先進地を見学することにして、日本でも有名なカーネーション苗を専門に生産して、販売をしている種苗会社を広島県佐伯郡大柿町に訪ねたのです。ここで栽培されているカーネーションの品種と、色とりどりの見事な花には驚きました。その当時松山ではカーネーションといえば、赤とピンク以外は花屋さんの店先になかったのです。
 その種苗会社で、花作りを始めるならこれがいいのでは…、と勧められたのが赤の『コーラル』、ピンクの『ヨソオイ』でしたが、このピンクの色合いがなんともいえない色だったのです。ここまできたからには、ということで、この2種類の苗を注文して帰ってきたのです。
 翌春(昭和41年〔1966年〕)3月にこの小苗が到着して、退(ひ)くに退(ひ)けなくなりました。当時の考えはハウスは後回しにして、とりあえず仮植しておき1、2か月間様子をみることにしたのですが、まず順調に苗が育っていて安心していたのです。その後田植え前に、それぞれが圃(ほ)場を準備し定植をしたのですが、その年は例年になく雨の多い年でした。当時この地域は圃場整備がされてなく、2日も雨が続けば水が退かないのです。そのうえ田植え時期ですので、勝手に水門を閉ざすこともできません。そのうち数日間、豪雨が続いて洪水となって家の門前まで水浸しになり、手の施し用もありません。先輩のいっていたように、ここでは花作りは無理との結論になりつつあったのですが、わたしは『決断した以上、万難を排して続行する』の決心をしていました。
 その後、松前町農業後継者協議会に参加する機会に恵まれたのですが、当時(昭和41年)町内に約30名の専業農業の後継者が活躍していました。しかし、花作りはわたしを含めてわずかに3名でした。この協議会で、返還に最も有利な後継者奨励資金を貸与してもらい、手作りながら150坪(1坪は約3.3m²)のハウスを建設したのです。洪水対策にはブロックを2段積みにして高いベッドを作りました。
 このハウスでカーネーション作りに挑戦したのです。切り花の市場初出荷が昭和42年9月と記憶しています。本格的に出荷し始たのは10月からでしたが、当時の松山市場では地元産は少なく、高価格で取り引きされたのです。出荷本数は余り多くはないのですが、なにしろ単価が高いのです。その当時、高校卒の初任給が約1万円でしたが、市場から1週間分の受領額がその5、6倍に達していたのです。花作りとはこんなに簡単で、楽しいものかとの思いで、前途の困難は眼中になく、借用資金も全額予定より早く返済したのです。」

 (イ)カーネーションには枯れがくる

 「花作りの先輩のよく言っていたことですが、カーネーションは、古い床上で栽培していると、必ず『立ち枯れ病』が発生する、ということです。カーネーションの最高シーズンは5月の『母の日』ですが、その日が近づくにつれ、次々にカーネーションはつぼみを着けてくれます。早く植え替えをと思いながら、ついつい母の日が過ぎて、気温の高い6月に入ってから、2年目の古い床土に植え付けをしたのです。花株はある程度までは成育してくれますが、ある時期がくると、実に見るまに枯れていくのです。いわゆる『立ち枯れ病』で、早朝あれほど青々としてものが、昼になると、もうしおれてしまい、それが次々と伝染していくのです。防除薬の散布も、植え替えも間にあいません。1列500本中、6、7割が枯れるという状況です。予防は床土の入れ替え以外方法がないのを知ってはいたのですが、目先のことばかりに気を取られていたことを、いやというほど思い知らされたわけです。秋口になり少し涼しくなると、立ち枯れは出なくなります。どうにか2年目を過ごし、3年目になると、もう全く駄目で満足のいく花を着けてくれません。原因は土中に病原菌が生息しているためです。
 ハウスを立てて5年目の9月には、台風でハウスが吹き飛ばされそうになり、張り替えたばかりのビニールを鋸鎌(のこがま)で切り破ったこともあります。その年は切り花の収入は零でした。新しい年になってやっと回復してきた状態でした。
 昭和47、8年(1982、3年)ころ、切り花の人気はカーネーション、キク、バラの順位でした。その後50年代半ばから、バラが1位となり、2位カーネーション、3位ユリ、4位キクとなっていったのです。
 その後、花作りについて先進地の視察、研究を続けた結果、花き園芸を専業とするためには栽培ハウスの規模拡大を図る必要があることに気がつきました。昭和53年(1978年)、資金を借入れ思い切って、開閉窓が3段式の最新型ハウスを建設し、栽培床も肥料を混合した無菌状態の新土壌として、カーネーション栽培を専門として取り組みを開始したのです。しかし5年後の58年ころには、カーネーションの人気も下降の一途をたどり、市場価格もバラの4、5割りに下落していったのです。」

 (ウ)土の要らない切り花作り

 「そのころ、『家の光』刊行の『地上』という雑誌に、未来志向の農業、土の要らない農業として、ロックウール(石棉)を使用した溶液栽培の記事が載っているのを読み、土に苦労をしてきた花作りにとって大きいヒントを得たのです。そこで昭和58年に、500坪(1坪は約3.3m²)の全ハウスを、ロックウールによる溶液栽培(写真3-3-15参照)に大改装したのです。おそらく本県においては一番最初ではないでしようか。これでカーネーションの立ち枯れを全て防除できると期待していたのですが、生みの苦労は何をするにも伴うものです。
 その第一点は、設置したプラントは液肥を点滴する方式でしたが、ロックウールハウス全体に均等散布することが難しいことが分かりました。結局、これはエバーフロー(散水用のチューブ)の噴霧孔を、やや大きくすることで解決しました。第二点は液肥の問題です。毎日毎日消費するため、メーカー製を使用していては費用がかさみます。そこで、メーカーの原液について徹底的に成分分析をして、研究と試用を重ねた結果をメーカーにただしたところ、今までの8割の価格に値下げになりました。当時メーカー側にも、成分表示などの点でいろいろと問題があったようです。第三点は、pH(水素イオン濃度)ですが、植物にとって成育と花の色あいに大きく影響します。pHを5~5.5に保つには、一般に石灰を使いますが、わたしは2、3種類の中和剤によって自分で調合して使用していました。花の成育を見ながらpHを変えていくのです。これを基にしてカーネーション作りを4年続けたのですが、年ごとに需要も価格も伸びず下降気味です。品種も色あいも豊富になったのですが、母の日近くにパラッと高値になるのみで、需要の伸びがなく店先でしおれている状況です。」

 (エ)バラ作り一筋に

 「1月15日は『成人の日』です。着飾った女性の手にしている色鮮やかな花は、全てバラです。それを見てショックを受けました。しかし、これで切り花の人気の移り変わりをつくづくと感じ、今までの実績を全て捨てて、バラ作りに転ずる決意をしたのです。新しいハウスにも花にも申し訳なく、未練もありましたが、バラ一筋でいくことにして、思い切って全部のハウスを壊し、600坪(1坪は約3.3m²)のバラ栽培専用のガラス温室を新設したのです。その温室が完成したのが、平成元年の5月上旬でした。中旬には約2分の1のベッド(栽培床)のロックウールにバラの苗を定植(置)して、溶液栽培を始めたのです。切りバラを初出荷したのが8月の中旬でした。少量ながら高価格で市売されました。その年は予定した本数の生産はできなかったのですが、翌年からは、ほぼ一定の本数を出荷し、どうやら順調に経過してきています。
 バラの強敵はウドンコ病とべ卜病ですが、最も大切なことは、発生しない環境作りと次いで予防・防除ということです。ここで、農業試験場の時代に研修したことが大いに役立っているのです。
 最も厄介な害虫は夏に発生するアザミウマですが、これは白バラの花ビラのみを食害します。しかもその痕跡(こんせき)は、消費者の手に渡り開花して初めて現れるので、油断できません。生産者の信用にかかわってきます。
 土の要らないロックウール栽培は、施設費がかさみます。最低1坪から1本の切り花は、1年365日、毎日出荷する必要があるのです。それくらい厳しくしなければ採算にあいません。」

 (オ)切りバラは蕾(つぼみ)のうちが花

 「真夏に生産を上げなければならないバラ作りも、7年目を迎えますが、夏場が特に忙しいのです。1日たりとも花の切り取りを休むことはできません。切りバラは開いたら全く値打ちがありません。固い蕾で切り取り、保冷し、出荷して、店先に並び、消費者の手に渡って花開くのが、バラの切り花(写真3-3-16参照)の命です。気温の高い夏場は、朝の4時ころから切り取りを始めますが、陽が高くなれば、花も早く開きます。花の具合をよく見て午後も切らなければなりません。昨年も今年も猛暑続きですが、7年間のバラ作りで今年は最高の花ができたと思います。夏はバラも暑いのです。バラの気持ちになって涼しくしてやれば、それにこたえて咲いてくれます。温室に入ってバラの気持ちを察してやることが大切なのです。
 家内がこぼしています。『うちは、1年中休みの日がない。子供と一緒に出かけることが、全くできない。』確かにそのとおりなのです。子供たちの小さいとき特に感じたことでしょう。人を雇えばこれは解決しますが、他人はバラの気持ちになっての気配りができません。わたしも他人を当てにするようになります。これが怖いのです。いつかはこれが花にでてくるのです。
 美しいバラの花、くらしを彩る切り花のバラには、育てた人の心がこもっているのです。同じ花でも、品評会用のバラと、プロが育てた切り花用のバラ、商売用のバラとは花そのものの質が違うのです。これがバラ作りについてのわたしの思い入れです。
 現在、品種登録を申請中のピンクのバラは、栽培を始めた年に、『ローテ・ローズ』という赤いバラから1本の色変りしたのを見つけ、それを試作改良して5年目になったものですが、今年中には登録が許可になるものと期待しています。」
 平成8年1月末、**さんに再び話しをうかがった。「昨年末から今年にかけて、従来の好況時に比べて花の需要がさっぱり伸びません。不況のためかクリスマス、正月、成人の日ともに例年より需要が少なく市場価格も安値です。もともと松山市は、緑の自然に恵まれているためか花の需要が少ない都市(全国の県庁所在都市中45位)です。
 生産者側からいうならば、一般の消費者の方は、こんな不況時こそくらしにゆとりと彩りを添えるために、手軽に美しい花を買って、明るく希望をもって立ち向かってもらいたいものです。そのようなくらしよい世の中になることを、期待しているのです。」

写真3-3-11 イチゴの花と蜜蜂

写真3-3-11 イチゴの花と蜜蜂

働き蜂の日齢(成虫の寿命)は約30日。平成8年1月撮影

写真3-3-12 ハウスで色着く「とよのか」

写真3-3-12 ハウスで色着く「とよのか」

朝倉村南。平成7年11月撮影

写真3-3-13 イチゴ栽培用温室(1棟495m²)

写真3-3-13 イチゴ栽培用温室(1棟495m²)

朝倉村南。平成7年11月撮影

写真3-3-15 ロックウールによる溶液栽培のバラ

写真3-3-15 ロックウールによる溶液栽培のバラ

松前町鶴吉。平成8年1月撮影

写真3-3-16 くらしを彩る満開のバラ

写真3-3-16 くらしを彩る満開のバラ

冬の切りバラの寿命は約1か月。平成8年1月撮影