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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)エヒメアヤメの咲く山

 **さん(北条市下難波 大正10年生まれ 74歳)
 **さん(北条市下灘波 大正3年生まれ 81歳)
 **さん(北条市下灘波 大正3年生まれ 81歳)
 **さん(北条市下難波 大正6年生まれ 78歳)
 腰折山(こしおれやま)(北条市下難波(しもなんば)、215m)のエヒメアヤメ自生南限地帯が、国の天然記念物に指定されたのは大正14年(1925年)、ちょうど70年前になる。
 『愛媛の文化財(⑮)』によれば、中国東北部及び朝鮮半島に産する大陸性植物の一つで、日本西南部とアジア大陸の植物分布を究明する上で貴重な植物とされている。愛媛県では、腰折山の南側の乾燥した山腹に自生し、毎年4月10日前後に、小さい紫花を開くと記されており、「近年のマツ枯れや植生の変化によって減少し、保護保存に努めているところ」とある。
 下難波老人会が「張り番」を始めて35年になるという。会長の**さんは、「見に来てもらうのはかまん(構わない)のじゃけど、貴重な花じゃけんな、大事にしてもらわにゃいけんのよ。」と、温和な笑顔であるが、きっちりとおっしゃる。
 4月15日は、**・**さん夫婦が張り番をしていた。
 「昔はなぁ、山のとんつら(頂上)まであったのに。」と自生区域を教えてくれた**さんは、杖を片手に上の記念碑(写真4-2-6参照)まで登って、開花したエヒメアヤメの株を数えていた。この日は28株と「腰折登山日記」に記されている。
 かなりの急斜面である。北条市教育委員会が刈り取った下草は枯れて、低いマツもまばら、受光量は十分とみたが、前日の雨でうさぎ道は滑る。
 明治43年(1910年)、今から85年前の3月の末、三由淡紅の結婚披露園遊会で鹿島に一泊した村上霽月が、子供たちを伴って腰折山へ来たときは、安山岩の大岩の上でエヒメアヤメを見つけている。とんつらまであったと言う**さんの言葉を裏付けるものである。
 『北條と鹿嶋(⑪)』の「鹿島集(紀行文)」に、「胸がくつい程道もない山腹を上って、・……(中略)……鹿島の神様が投げつけて此山の腰を折ったといふ絶壁の下に腰を下して……(中略)……。凡そ二三丈と見上ぐる絶壁の上に一本の老松が章魚(たこ)の足の様に枝を垂れて居る。岩の色は焦げた様にくすんで石垣を築いた様に満面の亀裂がある。今にも崩れて来そうである。……(中略)……絶壁の上の章魚の松の根を踏んで少し西の方に上った時、不図何もない赤土から忽焉(こつえん)として薄紫の一花萠え出た様に咲て居る立派な小杜若(こかきつばた)を発見して余は覚えず快哉を叫んだ。皆寄って来て見る。……(中略)……蘭も珍らしいと兒等(こら)は二三株掘って茲に登山の目的を達して」山を下った霽月は鴻の坂の茶店へ立ち寄っている。店の主婦が驚き顔で「早や咲いとりますか。」と言うので、「今春の初花」とひそかに愉快であったとも述べている。**会長の言う4月10日前後が、花の盛りなのである。
 霽月が紀行文の中で「難波村には春の水を湛えたる深田に耕地整理の白い測量杭が目につく」、「大師堂の側から右に入って腰折山に登る。此園の東の方も松を伐って拓きつゝある。腰折山も二三年の後には果樹園になって仕舞ふて小杜若の名所は梨や林檎の名所になるかも知れぬ。(⑪)」と描写する難波村の景観は、里の水田を残して一変した。ナシからイヨカンへの変身であった。しかし、「梨の荷出しに賑はへる」と浅海(あさあみ)驛をうたった鉄道開通の歌にあるごとく、梨の特産地であった浅海村や下難波村は柑橘(かんきつ)への転換が比較的遅かった。
 窪田重治さんは、『伊予史談286号』所収の「北条平野山麓地帯の柑橘産地の形成と変容(⑯)」の中で、梨ブームは昭和4年(1929年)まで、梨栽培のメッカ浅海村でも昭和17年(1942年)年の2,775tをピークに、伊予梨の本場が柑橘産地化していったと述べている。
 実は、エヒメアヤメの自生地が、山麓の柑橘園拡張に伴って縮小していったのである。
 **会長さんは、近くの新城山(しんじょやま)にも昔は生えていたと言う。「ほうぼこ(方々)へ生えよった。あそこ(腰折山)の5反(50a)だけじゃなしにな、腰折山の下手の山(新城山-地元では、大新城(おおしんじょ)・小新城(こしんじょ)と区別する)にもあった。」という小新城山は、昔は農家でたい肥を作るために下草を刈り取ったのでエヒメアヤメがよく育った。果樹園との境界は、今はツツジやシダ類が生えて雑木林に近い状態になっているらしい。
 「シンシバ刈り」もしなくなったためだと**さんは言う。灯油やガスを使い始めるまでは、シンシバ刈りに山へ入って、1年分の煮炊きの燃料を確保した。いわゆる入会地(いりあいち)で、他人名義の山でも、雑木(ぞうき)の伐採までは許され、農家の冬の仕事として子供たちも駆り出されたのである。**さんはシンシバ刈の「シン」は「芯(しん)」ではないか、雑木の若木を中へ入れて、「荷をこさえ(こしらえる-シバを束ねる)帰りよった。半日で5束しかできんとこが、8束くらいできよったし、焚(た)いても火もちがしてイドリ(木が燃えて赤くなっているもの)が残らいなぁ。」と、芯の効果を説明する。そのシンシバ刈りが、エヒメアヤメの生育を助けたわけである。
 越智郡玉川町でエヒメアヤメの実生(みしょう)を育てている**さんが、面白いことを言っていた。
 「わたしが八木先生と一緒に行ったんですが、採集したのは新城山ですわ。はい。そのころから久松さん(元愛媛県知事)ともお付き合いがあってね。あの方は何でもかんでも実生(みしょう)にしようと、で、今うちにある植物もほとんど実生ですわ。エヒメアヤメとの付き合いも30年どころじゃない。」と。下難波の生き字引と言われる**さんが、「こかきつばたも、昭和50年ころにブームがありましてなぁ。」と語ったのと一致する。面白いのは、「種子は、油断しとったら、散ったあと、分からんようになってしまうんです。アリが結構引きましてね。「タネマクラ」と呼ぶんですが、これが綿みたいなんですが甘い。だから、アリが種子を運搬して増えるという気もするんですが。アリが引くことは、わたしも自分の家で記録しとるんです。」
 なるほど、これなら地上の熱にも耐えられる。**さんが、腰折山を歩きながら説明してくれた、「去年(1994年)の異常渇水がね、あれがどう幸いしたのか今年は出来がえぇ。以前に山火事があった後もたねが切れとらんのよ。」の、なぞ解きが半分できたような気になった。実生を育てて、それを山へ返すのがよかろうと**さんは言われる。が、すでに北条市では、愛媛県立農業試験場に依頼して、バイオテクノロジー(生物工学-成長点培養)によって、遺伝子保存は成功しているので、もはや絶滅の心配はない。
 それにしても、この35年間にわたって張り番を続ける下難波のお年寄には頭が下がる。今年の「腰折登山日記」は4月1日に始まり、5月3日で終っている。6輪1株、5輪2株と観察記録があり、登山者も明記されている。新聞社やテレビ局の取材も多く、忙しくて昼食が午後3時になった日もある。ある日の日記には、「今年も逢へるあやめに感謝しながら弁当つくり8時に出発しました。…(中略)・‥。どんくさい尻餅笑うひめあやめ」とあって、思わず笑いが込み上げた。
 また、わたしが訪れた日の記録には、「登山者(4名)とのお話が楽しかった。来年もこられるようにお祈りしつゝ下山しました。」と書かれていた(写真4-2-9参照)。

写真4-2-6 下刈りした自生地と記念碑

写真4-2-6 下刈りした自生地と記念碑

朝日を受けて急斜面を登る81歳の**さん。平成7年4月撮影

写真4-2-9 腰折山から見下ろした下難波

写真4-2-9 腰折山から見下ろした下難波

鹿島、斎灘を見下ろす眺めはすばらしい。平成7年4月撮影