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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(4)カブトガニのすむ海

 **さん(東予市今在家 大正14年生まれ 70歳)
 **さん(東予市今在家 昭和36年生まれ 34歳)

 ア カブトガニ親子三代記

 東予市立郷土館へ**さんを訪ねた。夏季休業中の息子さんも同席してくれた。察するに、**さんの名前は祖父と父から一文字ずついただいたもので、カブトガニにかかわる**家三代を象徴している。おじいちゃんの顔を覚えているか尋ねると、「はい。中学校2年生までは元気だったので。」と歯切れのよい返事であった。

 (ア)まがらさないかんわや

 昭和22年(1947年)、理科の教員になった**さんは、滑り出しの2、3年の間大変悩んでいる。「張り切っておりましてね、わたしも。1時間教えるのに、4時間も勉強しよった。一所懸命勉強せにゃいかん思うてね、ドイツ語の原書なんかは大学で翻訳してもろたりして。それに子供がついてこんのですよ。」と。悩んだ末に、「思うようにならんから、いっそのこと辞めようか。」と栄吉さんに相談した。話を聞いた栄吉さんは、「辞めたて食うくらいの飯米(はんまい)はある。しかし、子供がついてこんのは当たり前じゃ。お前自分がやりよることが分かっとんか?」と諭される。
 「実際に自然に接して、採集したり、見たり、研究したりして、自然と一緒に勉強せにゃいかん。本だけ読んだて分からん。分からんことを子供に教えたて無理。」とたしなめられ、「お前、子供に標本見せたて、『壊したらいかん!』じゃの言うて教えよらせんか?」と痛いところを突かれ、「まがらさな(触れさせなければ)いかんわや。」と注意を受けるのであった。
 理科教育に開眼していった**さんは、当時を振り返りながら、「小学校4年生までしかなかったおやじの時代にね、百姓をしながら、好きで始めた海岸動物の調査などから、自分で割り出したことでしょうがね。」と、感心するのである。それ以来、「自然に学ぶ。」という言葉は、**さんの口癖になった。
 「標本類は、おやじが好きで作っておりましたから、生物の教材には恵まれておりました。広島大学の先生と共同してね、遠浅にすむ海岸動物の分布や海藻の分布を手掛けていたようです。田んぼが広かったもんですから、もちろん、農業の片手間にね、自転車で走り伝馬船をこいで、川之江から中予の北条辺りさらに越智郡の島しょ部まで、それも干潮の時間帯をみてね。」察するところ、**さんの父上は無類の体力と粘り強さの持ち主であったと思われる。

 イ 海を渡った栄吉さんの標本

 栄吉さんがカブトガニの発生に関する研究に取り組んだのは昭和2年(1927年)であった(⑰)。
 『カブトガニ標本室と篠原栄吉(その2)(⑰)』の中で、**さんは、困難なカブトガニの人工ふ化、発生過程(16段階)の解明に向けての栄吉さんの苦労を次のように述べている。
 「海岸からカブトガニの卵を家に持ち帰り飼育を始めた。この間、海岸でふ化の状態を観察しながら、家での飼育の状態と比較観察を行った。毎日海水を朝夕二度とりかえた。……(中略)……海水のとりかえは、酸素供給と温度調節をする上にどうしても欠かすことはできなかった。」と。飼育槽や循環装置、温度調節用サーモスタットなどがなかった昭和初期の飼育方法を説明し、天候の関係や温度変化で失敗すると1年を棒に振ったと述べている。それにもかかわらず、昭和5年、完成にこぎつけた栄吉さんは、カブトガニの発生標本とはく製標本を作り、いろいろな学校へ教材として寄贈している。
 友人のT先生が、浜松で開催された旧制中学校の、理科の全国大会でカブトガニ標本を紹介して以来、全国各地から注文が来るようになり、ついに、東京の動物輸出入商社から、製作権利を買い取る話があった。そのころの千円に余る金は大金であったと書かれている。ところが、「もし権利を売ったら、将来研究する人々に支障があるから。」と、きっぱり断わって、発生標本とはく製標本を1組だけ贈った。後日、この標本が中国大陸へ渡るなどとは夢にも思わなかったのである。
 「おいさん、おいさん。あんたのカブトガニ標本が、コワントン(広東(かんとん) )の博物館に出とったけんな。」と引き揚げてきた教員が言う。「わし、そんなことしゃせんのに。」と返事する栄吉さんへ、「大日本帝国愛媛県周桑郡吉井村篠原栄吉いうて出とったけん。」と、間違いなく国外へ出たことを証言する。「だから、その商社が、おやじの名前で出したんでしょうね。」と、これは良心的だと言うのである。
 **さんが苦々しく思っているのは、研究者仲間のモラルであった。栄吉さんは、何度か嫌な思いをさせられたと言う。珍しいカブトガニの標本だから、資料とともに発表したいと持ち去ったままの研究者や、遠浅のナメクジウオを教えたばかりに、後で学生を引き連れてきて掘り尽くした先生に出会っている。己(おのれ)の利益には目もくれず、後に続く研究者の便宜を考えてカブトガニ標本製作の権利を放棄しなかった父親、環虫類(ゴカイなど)の分布図が完成したときも、「場所を教えることは、種(*4)の絶滅を招くから。」と言われて発表を思いとどまった父親の心を思うとき、**さんはむなしさを覚えるのである。
 生きた化石といわれるカブトガニに対する栄吉さんの思いは燃え続けて、東予市の各漁業組合や関係機関の同意を取り付け、昭和24年(1949年)に県の天然記念物として指定を受けるようになった。その間に、22年の歳月が流れていた。
 昭和50年(1975年)、88歳で亡くなった栄吉さんは、数々の学校から寄せられた感謝状や、義宮殿下御案内(昭和27年)を務めた懐しい記念の品が所狭しと並ぶ部屋の中で、その間苦労を一手に引き受けた奥さんの、写真の笑顔に見守られている。
 二代目**さんも、昭和41年には、皇太子殿下並びに妃殿下(現在の天皇・皇后両陛下)御案内の栄に浴し、先代のカブトガニ標本室をさらに近代的な展示室に発展させて、今も精力的に活動を続けている。三代目の**さんは若く、栄吉さんが人工ふ化に取り組んだ38歳にはまだ達しないが、すでにカブトガニの日中学術交流に招待されて中国大陸へも渡った。海を越えた初代の標本が道を開いたえにしの糸を思わずにはいられない。


*4:ムギワラムシ(Mesochatopterus japonicus Fujiwara)は篠原栄吉さんが発見(昭和8年〔1933年〕)、広島文理
  科大学の藤原力さんが命名した(昭和9年)。