データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)ノリ養殖にかける人々

 ア ノリの合間の米づくり

 **さん(東予市壬生川 昭和13年生まれ 57歳)
 **さん(東予市大新田 昭和16年生まれ 54歳)
 **さん(東予市大新田 昭和4年生まれ 66歳)
 **さんは、「入植してから、わたしで7代目になるんじゃ。周布郡(しゅふごおり)の周布村から大新田(おおしんでん)(*5)へ出てきたと聞かされとるんです。周布の密乗院(みつじょういん)さんが、うちのぼだい寺で。」と、大新田が干拓されてから移り住んだことに始まり、1.8haの田んぼ(写真4-2-17参照)は、ノリ養殖の合間にやるという、第一種兼業漁家の、漁業暦・農業暦を語ってくれた。

 (ア)**よい!ちいとうのてみるか

 今年(平成7年)米寿を祝った父親から摘菜(ノリ摘み)をはじめて命じられたのは、中学校を卒業したときであった。
 「思い出しますかい、『**よい!ちいとうのて(担うて)みるか。』じゃの言うて。」と、沖から我が家まで、メダケで編んだかごを二つ担い棒の前後に掛けて、遠浅を歩いた様子を語る。昭和33年(1958年)ころはまだクレモナ網になっていなかった。ノリ笹の枝がしなやかに曲がって潮につかり、それに付着したノリを摘んでバケツに入れ、かごに集めた。
 「コバ(ノリ漁場の区画)はほとんどが今と同じ(写真4-2-18参照)で、潮がくるまで摘んだてかごに2杯か3杯、うのて帰れるほどじゃけん。ありましたかい、距離が。みなが競走みたいに帰るもんじゃけん、降ろして休むと風(ふう)が悪い。しんどかったですぞ。かれこれ足を使うし、腰が曲がるのはお百姓さんより早いように思います。」と言う。
 それ以来、**さんは定時制高校へ通いながら、農漁業に従事し、**家の大黒柱として頑張ってきた。農業は機械化が進み、田植えも収穫も機械で行うようになり、イネの消毒液に悩みながらも、米づくりが楽になっていく一方で、ノリ養殖の機械化は遅れたようである。**さんは、米づくりについて次のように語った。

 (イ)22日苗、5条植えで3日

 **さんは5月21日に種まきをした。2尺×1尺(1尺は約30cm)の苗箱は、種まきの10日前までに、粒剤(養分)を入れて準備しておく。田んぼが約1.8haだと苗箱も360~370枚になる。苗箱を納屋へ積んで濡(ぬ)れむしろをかけ(保温)、白く芽が出てくるのを待つ。その間に、本田(ほんでん)をかいて苗床を作る。苗床は、2尺×1尺の苗箱を2列に並べて、針金を丸く曲げて3尺おきに立て、上を銀色の保温用のシートで覆う。熱を十分とった苗が、7日くらいで少し青味がでてくるとシートをのけて、自然に馴(じゅん)化(なれ)させる。雨に当たり、日に当たりした苗の育ち具合をみて植え付けに入る。20日~25日苗がよいようだ。
 1町(60間四方、1ha)にきちんと区画された田んぼは、水を引いて代(しろ)がきしてある。5条植えの田植機で、3日もあれば植え終わる。
 「田植えが済むと……昔と比べていよいよ田んぼへ入らんですねぇ。」と、昔とは変ったイネの世話を思い浮かべる。田植え後の除草剤散布(1週間~10日後)を済ませると、7月20日ころに中干(なかぼ)し(水を抜く)して、水を張った後はぼちぼち水を見に行く程度である。8月2日に1回目の消毒をした。消毒も、あとは8月20日過ぎに、出穂しかけたときウンカ、ツマグロヨコバイ、ゴマハ枯れ病の予防をし、穂が出そろう9月下旬にもう1回行うだけである。消毒では奥さんがホースを持ち、夫婦の共同作業となる。イネの品種は、ノリの作業日程から、早場米(はやばまい)にするか中性(なかて)にするかを決める。ノリ養植の合間にやれる品種を選ぶわけだ。

 (ウ)コバ(漁場区画)を増やす

 **さんも田んぼを作っているが面積はさほど広くない。しかし、機械化された今の農業だと狭い田んぼはかえって手間のかかる仕事に感じるかもしれない。生業の主体はノリ養殖である。今年(平成7年)はコバを3か所にした。また1か所増やしたのである。
 「奥さんを亡くして、一人で網をしよる人もあるんじゃがね。一人になると長続きせんでやめていく人も出らいね。」と、89コバある中で、休みコバができる話をする。後継者が無くて、やむを得ずやめる場合もある。
 大新田のノリ漁業生産組合に27年勤務している**さんは、名儀は53名になっているが、生産者は27名だと言っていたので、休業者がかなり出たことになる。昔ほどではないにしても、ノリ養殖の作業は、厳寒の水中の仕事である上、お天気次第という不安定な要因もあって、なかなか辛抱しにくい仕事であったようだ。
 コバは、漁業組合から個人が借り受けており、個人間で貸し借りも、ましてや売買もできない。どの場所が当たるかはくじ引きだと**さんは言っていた。「近くにコバがくっついとると都合がいいのにね。」と言ったら、潮の満ち引きに合わせた、干潮時の作業であるから、必ずしも隣り合わせはよくないのだと言う。

 イ 室内採苗と自動化

 **さんは壬生川漁業協同組合長として、積極的にノリ養殖を振興している。組合を訪ねること両三度、いつも来客や電話で席の暖まる時がなかった。「種付(たねつ)け」(写真4-2-19参照)という一番忙しい日が、お話を聞ける唯一の日になった。ノリ生産者の一人として網をたぐり、胞子の付着を確認する現場を離れなかったお陰である。
 「組合長さん、ちょっとのぞかせて!」と、強引に割り込んで双眼実体顕微鏡の前へ出る。先刻から動かずに、ずーっと検鏡しておられる福田さんは無言で胞子の数を数えている様子、「もうちょっとじゃな、今、10個ぐらい。」と向き直られた。標本を外して、カキ殼を載せた時計皿の海水に、繊維の切れ端(約5cm)をつけて、セットした顕微鏡のピント調節をして席を譲ってくれた。視野の中に、星かダイヤモンドのように、金色に輝く胞子を見た。3個と言われたが、慣れないために、その視野では2個しか確認できなかった(写真4-2-20参照)。
 水車をゆっくり回転させる水槽には、前後左右に垂架(すいか)式の種ガキが約1万個、入れ替えをしながらつるされ、胞子を放出し続ける(*6)。
 鉄製枠に架設された8基の水車と水槽、種付けができた網をたぐり込んで一晩ねかせる養生槽などは、取り付け取り外しも簡単、海水の導入まですべて自動化している。
 「昨年から、小組合単位の管理に切り替えた。」と組合長夫人の**さんが語った種ガキの飼育管理は、コンピュータ制御で温度調節される。
 今年で3年目に入った室内採苗も、年々改善されて、当初から指導してこられた県漁連今治出張所の福田所長さんからも、胞子がそろってきれいに付いていると、折紙付きの種ガキ飼育ができたようである。
 「特に熱心なんです、うちのグループは。」と**さんは、**組合長も属する専業組合の熱心な取り組みとチームワークのよさに感心し、「所長さんにはね、飼育過程を何段階かに分けて診てもらうんですけど、朝も6時半ころからね、わたしが嫁にきて30年になるんですけど、家で飼育したころからず一っと来てくれています。」と、福田所長さんに感謝する。
 事務室の畳の上に顕微鏡がある。聞けば組合長の私物で、**夫人にも観察を要求するという。組合員のだれもが検鏡の力を持つように、その先頭に立って、まず自らが努力する**組合長の姿勢がうかがえる。
 やはり責任がある。「うまくいかなんだら大変でしょう。沖(自然採苗)じゃったら個人の責任で済みますけど、組合全体の運命を背負っているわけでしょう。もう、ほとんど眠ってないですね。」と、種付けの水温18℃を迎える9月下旬までの、息が抜けぬ垂架式種ガキ飼育を語る。自動化はすなわち組織化であり、完全な運命共同体を作りだしたのである。


*5:寛永12年(1635年)、松山藩による干拓が始められ、万治2年(1659年)しゅん工した。
*6:ドリュー博士の糸状体発見により、ノリの一生(生活史)が解明され、カキを使用した人工採苗(室内採苗)が可能に
  なった。本県では昭和33年(1958年)、禎瑞漁協(西条市)に最初の人工採苗施設が作られた。

写真4-2-17 大新田の田んぼ

写真4-2-17 大新田の田んぼ

秋祭りまでに刈り取る。遠景は富士紡壬生川工場。工場から沖へ、富士紡地先の遠浅が伸びる。平成7年11月撮影

写真4-2-18 大新田のノリ養殖漁場と豊貝突堤(1.2.3号)

写真4-2-18 大新田のノリ養殖漁場と豊貝突堤(1.2.3号)

竹杭がきれいに並ぶ。6枚重ねのクレモナ網が張られ、水中でノリが生育中。平成7年11月撮影

写真4-2-19 ノリの種付け(室内採苗)

写真4-2-19 ノリの種付け(室内採苗)

6枚重ねの網10連(60枚)が水車に巻かれて回転する。約1万個のカキ(殻の中の糸状体)から放出された胞子を付着させた網は、養生槽へたぐり込まれる。平成7年9月撮影

写真4-2-20 テレビ画面に映るノリの胞子

写真4-2-20 テレビ画面に映るノリの胞子

「ダイヤモンドみたい。」とつぶやきながら、黄金色に光る胞子に見入る。平成7年9月撮影