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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)港町「生活博物館」を訪ねて

 ア 港の町並みいつまでも

 (ア)船具のよろずや

 **さん(松山市三津 昭和8年生まれ 62歳)
 三津浜の北西部はかつて栄町・三穂町・須先町・藤井町と言い、海運業、米などの卸商人でにぎわった町で経済の中心地、いわゆる三津浜の銀座通りであったが、今もそのころのたたずまいがあちこちに見受けられる。
 「銀天街商店街」のアーケ-ドの西出口から、さらに西へ20mほど歩くと、**さんが経営する船具屋がある。船の道具ならエンジンと船体を除けば何でもそろうという店である。今は次男が6代目で約160年の歴史を誇る古いのれんを持つ店である。
 店内は、商品で足の踏み場もなく、天井にまでびっしりつり下げられている(写真1-2-3参照)。そんな中で経営者の**さんに、店の移り変わりについて語ってもらう。
 「母が20歳ころには帆船が残っていて帆を巻く木製の滑車(かっしゃ)や帆布がよく売れていたそうですが、このころでは時代の移り変わりとともに材質もずいぶん変わってきました。木から鉄へ、そしてステンレスへ、木綿から化学繊維へと。また、商売の雰囲気も変わりました。わたしが若かったころ、北条市沖の安居島(あいじま)や岡山、九州などから漁具を買いにきた漁師さんは、風を待って1、2時間、店で茶を飲みながら時間をつぶしていました。話し込んでいると気心が知れて親しくなる。客は気の荒い人が多いけど、わたしが病気などしていると聞きつけて、取れたばかりの魚を持って来てくれる人もいたりしました。
 後継者不足で、漁師の客は減ってきましたが、最近は趣味で船を使用する人が増えてきましたからまあ何とかやっております。
 古いのれんを守るのは大変です。今のお客さんははっきりしているので、常に気配りしなければなりません。しにせだと言って安心してはいられません。それに大型スーパーの進出で、あらゆる商品を取り扱っていましてすごく影響しています。」
 江戸時代に建てた住居兼店舗も、須先町(約200m先の道路沿い)に移転の予定。客のほとんどが自動車で来るようになり、狭い路地にある店は不便なのだという。何代も前からこの場所で続けてきた店だが「お客さんのことを考えると仕方がない。」と**さんは語る。
 新しい店は、1階を店舗に、2階を住居として新築された。夏は忙しいが、冬場は海が時化(しけ)るため漁師さんたちも出漁せず、材料もいらないということで商売も開店休業状態となるため引越しは冬にするそうだ。店は移っても**さん夫婦は今の建物に住むという。
 店内には、今では使われない木の滑車や伝馬船の櫓のほかに昔の船具がたくさん残っている。店舗はほとんど開店当時のままで、レトロ(懐古調)感覚があふれている。これだけのものを朽ちさせるのはもったいないと、まちおこしグループでは、同店を「船の博物館」として保存することになった。

 (イ)格子戸(こうしど)に幕末の面影

 **さん(松山市三津 大正2年生まれ 82歳)
 第2次世界大戦の空襲を免れた三津浜には、藩政時代の家並みが至る所に見受けられる。人が住んでいて家自身が生きている。塩蔵があったり、間口の広い2階建ての蔵があったり、レトロ調な街灯に、元銀行の建物があったりする。港の町の、古いたたずまいの中で醤油(しょうゆ)や菓子がつくられ、旗職人が生計を立てている。いつまでも残ってほしい町並みである。**さん宅もその一つである。元治元年(1864年)の作だというからずいぶん古い。**さんは「雨漏りがひどいので30年前に屋根を葺(ふ)き替えました時、元治元年吉日の文字が入った瓦がありました。その瓦を保存しておきたかったのですが、そのときの職人さんが、これは珍しいからぜひ記念に下さいと持って帰りました。」と語る。
 **さんの家は、間口の全部が格子戸になっていて見事なものである。黒光りした巨大な梁(はり)や欄間(らんま)には、今では見られない繊細な細工がほどこされてあり、印篭(いんろう)・屏風(びょうぶ)・鏡・羅針儀など貴重なものがそのままの形で残されている。
 **家は、運送店として船舶荷物を取り扱い三津浜近代経済の基盤形成に貢献してきた。また、祖父は、昭和9年(1934年)から昭和11年まで三津浜町長として三津浜発展に尽力した。
 「祖父が大阪にあった尼崎汽船の幹部をしていたとき、たまたま三津浜に調査に来たことが縁で、明治28年(1895年)運送店を開業して三津浜に永住することになりました。その時この家は小島さんという方から購入したものです。」と語る。
 **さんの母親が『松山有情(⑦)』に「この家の持ち主はわたしたちで三代目ですよ。小島さんという方から買ったんですが、その人は今どこにいるのか分かりません。裏には土蔵があるのですが、その土蔵の上の方に『小』という字が書いてありますのよ。先代の家主の娘さんでしょうか、50歳くらいの人がその字を見せてくれと言うて来ましたが、それは懐かしそうに見つめていました。」と述べている。
 文化財の指定を断って個人で管理している。**さんは「息子たちは建て直しては、と言っていますが、わたしは子供の時から住んでおる家ですから非常に愛着があります。でも、掃除や家の修理が大変ですよ。掃除は、以前は手伝いの人が3名いたので助かっていましたが、現在は家内一人で大変です。また、ちょっと悪いところが出ますと、ここもあすこもと次々に修理しなくてはならないところがでてきまして、年中どこか修理している状態です。幸いに家の手伝いに来てくれていた人の息子さんで、40年前から出入りしている大工さんがまだお元気ですので助かっています。今の若い人たちは面倒臭がって来てくれません。阪神大震災で古い家の方が倒壊しやすいと言われて心配なので、出入りしている大工さんに聞きましたら、ここは柱が大きいので、その付近にいれば大丈夫ですと言われました。天井裏を一度見たことがありますが、細い鉄の棒が張り巡らしてあり、これなら倒れることはないだろうと思っているのですが。」と笑って語る。
 **家は、松山西部地域開発協議会主催の「みつはま生活博物館を歩こう」のコースの一つで、昨年(平成6年)11月12日には、広い土間に珍しい道具を並べて、説明やら水戸黄門よろしく印篭をもってお孫さんと奥さんで演技して見せたとか、**家は今もきれいに維持管理されていて住んでいる人の優しい思いをのぞかせる。

 (ウ)海の便利屋さん

 昔の三津浜らしさが残っていると言えば、内港付近ではなかろうか。その内港を、前述の**さんに案内してもらった。
 明治・大正・昭和の初期までの内港は、毎日、仲仕(なかし)(荷物の運搬を職業とする人)の景気のよいかけ声とともに、荷役作業で活気に満ちていた。それが時代の流れとともに、内港は静かになり、風を避けての漁船のたまり場に変わってきたという。
 堀川に近い内港には貨物船も並んでいるが、これも、けい留されているだけだという。そんな静かな内港ではあるが、三津浜と中島の各島を結んでいる海の便利屋さんの渡海船6隻が雑貨品を積み込んでいる風景が見られた。このときだけはにぎわいを見せるようである。この渡海船は20トンほどの貨物船で、以前はほとんどの船が、船長は婿さん、機関長は嫁さんと言うことになっていたが、今は、小型船舶一級免許で機関長もできるようになったので、奥さんは船長さんの補助役として乗っている。現在二神島(ふたがみじま)(温泉郡中島町)と三津浜を往復しているのは、「長盛丸」と「孝栄丸」で、一日交代で走っている。この日は「孝栄丸」が当番で入港していた。「孝栄丸」の船長**さん(64歳)、奥さんの**さん(63歳)のおしどり渡海船も、今は過疎で人口も減少し、荷物の量がめっきり減ってきたそうである。お客さんも多いときで医者通いのお年寄り4、5人、全然お客がない時もあるとのこと、奥さんの**さんは、「まあ、島の人へのサービスですよ。燃料とおかず代が取れたらええほうよ。」と笑って語ってくれた(写真1-2-5参照)。

 (エ)石鎚神社の「会符(えふ)第一番」

 **さん(松山市神田町 大正12年生まれ 72歳)
 **さん(松山市神田町 昭和3年生まれ 67歳)
 **さん(松山市神田町 昭和5年生まれ 65歳)
 松山市神田町(旧苅屋(かりや)町)に霊峰石鎚山に深いゆかりを持った「石鎚不動明王堂」がある。
 「これは昭和41年(1966年)12月18日に神田町広報委員らの世話で、町内の人、信者、篤志家などから約80万円の寄付を集めて建て直されたもので、石鎚不動尊、子育て地蔵のほか木地屋市左衛門さんの墓があります。江戸後期に建てられた(町民の話で定かでない。)『石鎚不動尊堂』が老朽化したので改築されたのです。」
 今から200年ほど前の安永4年(1775年)同町に住んでいた先達(せんだつ)木地屋市左衛門という人が、石鎚山の鎖を世話したことで、登拝の免許証にあたる「会符」を安永9年に初めて前神寺(まえがみじ)(西条市洲之内口にあり、真言宗石鉄(づち)派総本山。)から、さらにその後明治4年(1871年)石鎚神社から与えられた。
 『石鉄山弥山大鎖小鎖之銘写(⑧)』に安永8年に鎖が切れ、安永9年に木地屋市左衛門が中心に大鎖・小鎖を再興したとある。これ以来苅屋町の人たちが毎年、この「会符第一番」を先頭にお山参りをしているという。こうした因縁から、苅屋町のお山講が登拝した際、山の頂上岩場中腹にあるのぞき不動明王像を写し、掛軸として本尊に祭ったのがこのお堂の始まりという。
 ところで石鎚山の山岳信仰の歴史は古く、江戸初期にはすでに「会符」が発行され、山開きの行事は年々盛んになっていったが、この木地屋市左衛門の受けた「会符」は一番最初に発行されたもので、「会符第一番」を持っている講中には、お山開きのとき御神像の一体を持つ優先権があったという。
 「昔は苅屋町の第一番会符が行かないと、山が開かなかったほどの権威があったといいます。今も、三体の御神像と一緒に祭ってくれます。それでこれは四番目の御神像ですよ。」と語る。
 現在同町に保管されている「会符」を見ると、菊の御紋章がついており、文字も「第一番」とあって、他の地区の会符と区別されているという。
 「町の人たちは、祖先が残した歴史的な『会符』に誇りを持ち、石鎚山にゆかりの不動尊堂の信仰を続けてきましたが、年とともに『会符』の因縁も忘れ去られ残念です。」と語る。現在苅屋町登山一番会の方々が、毎年この「会符第一番」を先頭にお山参りを続けてる。また、お堂の清掃にも当たっている。

 イ 町並みの思い出

 (ア)愛媛女子師範学校時代

 **さん(松山市三津 大正6年生まれ 78歳)
 明治43年(1910年)4月愛媛師範学校女子部が分離されて、温泉郡三津浜町梅田町(現在松山市須賀町)に愛媛女子師範学校が開設された。修業年限は本科第一部が5年、本科第二部が2年だった。
 **さんは、三津浜小学校6年より女子師範学校敷地内にあった付属小学校高等科に入学、2年終了後、愛媛女子師範学校本科第一部に入学した。三津浜出身者は3名(毎年平均して3、4名)、**さんの時は伯方(はかた)町(越智郡)の島出身の方が6名いたという。
 3年生までは全寮制で、当時舎監(しゃかん)をしておられた先生は、食事作法や時間には厳しく、門限(午後5時)、消灯時間は厳守であったという。「校外で菓子など買って帰ったら大変でした。このことを密輸入と言っていましたが。でも、先生ほど心の優しい先生はおられなかった。わたしが寮で病気したときの先生の温かい気配りは、今でも忘れられません。」と語る。
 昭和18年(1943年)3月に最後の卒業生を送り、愛媛女子師範学校は閉校になり、その跡地に戦後警察予備隊、さらに松山西警察署ができた。女子師範学校時代の講堂(方形屋根に、ねずみ色の屋根かわらをのせたレトロ調の木造校舎。)が西警察署の分室として使用されていた。**さんは「その講堂も新庁舎着工の際に姿を消したことが、卒業生として大変寂しいです。」と語る。
 なお、現在は、同窓生により、昭和9年(1934年)東門前に建設された「白楊会館」が、財団法人により維持運営されており、愛媛女子師範学校跡記念碑(松山西警察署構内)とともに、女子師範の名残りをとめている。

 (イ)子供のころの思い出

 **さん(松山市神田町 大正3年生まれ 81歳)
 **さん(松山市住吉  大正14年生まれ 70歳)
 **さん(松山市元町  昭和4年生まれ 66歳)

   a 半鐘台(はんしょうだい)・電柱と米市

 「住吉神社の近くの街角に半鐘台がありました。火の見櫓(やぐら)の上に、火災などを知らせるための小型の釣鐘が取り付けてあって、消防署の方が災害発生の時など登って打ち鳴らしていました。わたしたちがよく登って遊んでいるとしかられたものです。
 また、この街角の電柱に街灯が取り付けてあって、朝と夕、変電所から当番宅に時間ですよと電話がかかってくると、電柱のところまで行ってヒモをひっぱって明かりをつけたり消したりしていたのが懐かしい思い出として残っています。」
 「大正末期から昭和の初期まで、厳島神社の付近に米や野菜などの市が開かれていました。近郊のお百姓さんたちが、大八車で米俵を運んできて、米商人に升(ます)で量って売り、米商人は、町の人たちに売っていました。しかし、後には朝市に吸収されて、ここでの米市は姿を消しました。」

   b レンガ工場の煙突と海水浴場

 「三津浜小学校(現在と同位置)と浜との間に大きなレンガ工場がありました。遠く三津浜を離れて三津の町を展望するとき、いつも第一に目につき自慢していたものに、ここの大煙突があります(三津浜レンガ株式会社は、明治18年〔1885年〕2月に個人経営のもとに創立され、大正2年〔1913年〕株式会社となり資本金40万円に増資して工場を改善整備した。しかし、新製品の進出により需要が減り、ついに会社は閉鎖され、工場も解体された。その後も煙突は名所として残っていたが、地震のため亀裂が入って解体された。)。レンガ工場の敷地内の使わなくなった窯(かま)の上をぴょんぴょんと子供たちは走り回っていました。
 夏が来ると、午後は全校一斉に教室で、男子は八尺ふんどし、女子は水着に着替えて学級旗を先頭に浜に行きましたが、砂浜は焼けつくほど熱く、つま先走りでよく駆け出したものです。当時は泳げなかった人はいなかったと思います。
 浜には、波止めの一文字(船が自由に出入港できるように両端を開口した波止め)があり、お台場と呼ばれた浜には、近くの競馬場の馬が水浴し、のどかな風景が広がっていました。」

 ウ まちおこし

 (ア)しあわせづくり三津浜地区推進委員会

 しあわせづくり三津浜地区推進委員会の活動について前述の**さんに語ってもらう。

   a 我が町のシンボルとふるさと散歩道マップ作成

 「昭和60年(1985年)5月に松山市教育委員会より、各地域にあるコミュニティ資源を掘り起こし、その資料を調査・分析し、さらに具体的な検討を加え、21世紀を志向した町づくりのスローガンを考え、シンボル化を図るための基礎調査がありました。そこでしあわせづくり三津浜地区推進委員会(会長松谷照男さん)では、①お茶屋の井戸、②辻井戸、③三津の渡し場、④厳島神社の秋祭り、⑤三津の内港、⑥三津の朝市をシンボル候補に選びました。そして最終的には、『三津の内港と渡し場』と決定しました。また、昭和61年には、三津浜地区に広がる、『歩くだけで懐かしい気持ちにさせられる』そんな町並みを地域おこしの起爆剤として、地域活動の活性化を図るために、町並み紹介の三津浜地区ふるさと散歩道マップを作成して、各家庭に配布するとともに、公共施設にも置いて町外の方にもいつでも自由に活用できるようにしました。」

   b 文化祭に写真展「三津の今昔」

 「自分の住む町のよさを再発見して、ふるさとづくりへの関心を高めてもらうために、毎年三津浜公民館の文化祭(11月第2土・日曜日に実施)で、三津浜の今昔の写真展を開催しています。第26回(平成6年)には、大正13年(1924年)12月に開館した三津浜図書館と、以来70周年を迎え新築落成した松山市立三津浜図書館(平成6年4月開館)の記念写真などを展示しました。」
 その他、わたしが選ぶ「我が町のシンボル写真」の募集(**さんの「三津の渡し場」も優秀賞に入賞)、三津浜地区シンポジウムの開催、ふるさとビデオの作成などが行われている。

 (イ)松山西部地域開発協議会・平成船手組

 **さん(松山市住吉 昭和24年生まれ 46歳)

   a 「みつはま生活博物館を歩こう」

 「さあ、みんなで自分たちの町をもう一度歩いて見よう…こんなキャッチフレーズを掲げて、松山西部地域開発協議会(会長河野幸男さん)主催、平成船手組(会長藤岡敏明さん)協力のもと、『みつはま生活博物館を歩こう』を平成6年11月11、12日の両日開きまして、地域内外から約2,000人が参加してくれました。」
 三津浜地域に残る蔵や民家など歴史文化を伝える古い町並みを再発見しようと、町内案内図を作成し参加者に配布した。これは、町全体を「博物館」に見立てて、散策しながら今後の町づくりについて考えるものであるという。
 「わたしたちは『三津の新名所にしよう』と港山城跡の展望台を整備しましてコースの準備をしました。また、掘り起こせば価値あるものがたくさんあるので、歴史ある三津浜のよさを残していきたいと思います。」と語る。
 このイベントに参加した三津浜中学校3年生**さんはその感想を次のように述べている。
 「本当のところを言うと今日参加することはイヤだった。しかし、今日の見学でいろんなことが分かって良かった。初めての経験ばかりだった。渡し船に初めて乗ったし、港山という所にも初めて登った。思っていたより渡し船は小さかった。また、距離も近かった。港山に登るのは大変だったが、でも頂上に着いて山頂からの眺めは最高で感激しました。海に囲まれているのを改めて実感した。狭い路地に白壁の土蔵や格子戸の家など古い町並みが残されている。今日参加して今まで知らなかったことが沢山分かった。また、地域の人たちの温かさを感じた。」

   b 「みつはま文学の小道と生活博物館の道を歩こう」

 「昨年(平成6年)に続いて今年も、かつて小林一茶や正岡子規が俳句を詠んだ地区の魅力を知ってもらおうと、『句碑めぐり』のパンフレットを松山子規会副会長の指導で作成して、『みつはま文学の小道と生活博物館の道を歩こう』を開催しました。グループや家族連れなど約500人に古い歴史に育まれた港町の散策を楽しんでいただきました。当日温泉郡重信町から訪れた女性が『三津浜のことを詳しく知りたくて参加しました。特に句碑に注目したい。』と語っていました。」

   c 平成船手組

 昨年3、40歳の26人で始まり、現在49人がメンバー。「平成船手組は、昨年のみなと祭実施に当たって、地元有志の多数が協力し、大きな成果を上げた経験が契機となって結成されたものです。名前の由来は、江戸時代に松山藩に御船子が置かれ、港の物流や治安を任されていました。その機能、形は異なりますが、この港のくらしの向上を願う地域の有志の人たちの賛同を得まして命名したものです。町の歴史や先人の努力に敬意を払いながら、今、わたしたち若者に何ができるのかということをみんなで考え行動したいと思います。」と**さんは語る。

 エ FAZ構想

 平成5年3月松山港、松山空港周辺を中心とする松山地域が、国からFAZ(フォーリン・アクセス・ゾーン)の指定を受けた。
 地方の国際化のモデルケースとして大きな期待を集める中、平成8年春の事業開始に向け官民一体となって国際産業交流と貿易の拠点づくりが強力に推進されている。
 FAZとは、「輸入促進及び対内投資事業の円滑化に関する臨時措置法(輸入・対内投資法)に基づき輸入の円滑化のため、港湾・空港及びその周辺地域において設定された輸入促進地域」のことで、この構想の基本方針は次のとおりである。

   ・四国及び瀬戸内経済圏の貿易拠点の促進
   ・物流効率化による産業の活性化の促進
   ・国際産業交流による国際化の推進

 輸入促進基盤施設について、愛媛国際貿易センターの建設や港湾の整備は、愛媛県が中心となって、また、愛媛国際物流ターミナルの整備は、第3セクターの愛媛エフ・エー・ゼット株式会社によって、取り組みがなされている(⑨)。

 ・愛媛国際貿易センター(通称…アイテムえひめ)
    輸入貨物の流通施設として機能性、経済性、安全性を重視した施設で、松山市大可賀3丁目に平成8年1月25日に完
   工。
 ・愛媛国際物流ターミナル(通称…アイロット)
    四国と瀬戸内の国際産業交流の拠点として、多彩な見本市、展示会、コンペンション機能とオフィス機能を持った施設
   で、松山市大可賀2丁目に平成8年3月にオープン。

 本県も含め四国は長く離島の悲哀をかこってきた。 1988年(昭和63年)の瀬戸大橋開通はこのハンディを解消し、さらに1997年(平成9年)度の明石-鳴門ルート、1998年(平成10年)度の尾道-今治ルートの開通で「本州四国三架橋時代」を迎える。FAZで世界に開かれた愛媛は、さらに、相乗効果を増し、「日本の中の愛媛」としても重要な位置を占めるとともに、国際化時代にあっては世界にはばたくことが十分に期待できる。

写真1-2-3 船具のよろずや

写真1-2-3 船具のよろずや

平成7年12月撮影

写真1-2-5 海の便利屋さん「考栄丸」

写真1-2-5 海の便利屋さん「考栄丸」

平成7年9月撮影