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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)堀江港の移り変わり

 ア 県下でも珍しい一文字防波堤

 **さん(松山市堀江町 大正9年生まれ 75歳)
 **さん(松山市堀江町 大正13年生まれ 71歳)
 堀江港の移り変わりについて、堀江の歴史に詳しい**さんに語ってもらう(図表1-2-10参照)。
 松山市の北部に位置する、堀江港は、万葉集に歌われた「熟田津(にぎたつ)」と関連づけることもあるが定かでない。それは別としてもかなり古い開港であることは確かである。
 中世には福角(ふくずみ)港と呼ばれ、伊予の国守河野氏が国外に赴く場合に利用するなど、中予の要衝の地として栄えてきた。自然の良港として知られ、江戸時代には松山藩の貢米(こうまい)積出港となるほどで、荷物の積卸しは堀江、客は三津浜という時代が帆船から汽船に変わるまで続いた。
 港湾としての計画がなされたのは、享保元年(1716年)ころであった。その後、計画内容は練られ、沖合に150間(約270m)の一文字を作り、東西に延長170間の防波堤を築造し、東西2か所を開口してどんな暴風でも船舶の出し入れに支障のない安全な港の築造が図られた。しかし、その計画も西日本に大きな被害をもたらした享保の大飢饉(ききん)(享保17年〔1732年〕)という災厄のために、自ら計画を取り下げた。この計画は総工費のうち8割を公費で、後の2割を地元負担で行うというものであったから、条件としては良いものであった。この計画がもし実行されていたとしたら、堀江港は県下屈指の良港となっていたと思う。
 次に計画されたのは、弘化・嘉永年間(1844年~1854年)のことであった。今回は官費に頼らず自力で小規模のものとした。嘉永6年(1853年)2月、代官奉行所の許可を得て起工した。しかし、途中風波のため破壊されたり、若干の事故はあったものの、安政2年(1855年)2月完成した。しかし、この工事代金は10か年賦であったから、その返済には難渋(なんじゅう)した。村民の窮状に藩は同情し、当時藩内では例のない芝居・相撲興行を春季に1週間以内、牛馬市を秋季に5日以内、10年間許可した。その収益が返済に役立った。
 明治・大正・昭和にかけて、暴風雨のため何度も一文字防波堤は破壊され、その都度修復工事に着手してきた。この後港湾施設は長く使用されたが、昭和21年(1946年)南海大地震による地盤沈下で嵩(かさ)揚げ工事やフェリーの着岸設備の工事などが行われた。
 現在の港について、**さんは「現在は昔の模様とはかなり異なっていますが、しかし、常に一文字を沖に見て、東西に防波堤を見る点は変化はありません。この一文字防波堤の内側に二つの出入り口を持つ形式は愛媛県下でも珍しいものの一つです。しかし、現在この港湾設備も狭隘(きょうあい)と潮の干満によって、フェリーボートへの車両の積み込みも、前進状態での乗船は一日に2回くらいで、その大部分はバックでの積み込みとなっています。もう少し港が大きく、フェリー着岸ブリッジに余裕があれば前進での積み込みが可能になるのですが。」と語る。
 また、漁業に長くたずさわっている**さんは「今のフェリー乗り場付近には、かつて魚市場があり、魚のセリが行われにぎやかでした。でも、戦時中物価統制令で姿を消し残念です。そして今の原食料品店のあるところに、日本で最初の私設水難救済所の事務所がありまして、そのお陰で明治25年(1892年)の軍艦千島遭難の際も、直ちに救済活動を行うことができたと聞いております。」と語る。
 「時代とともに港湾設備も改良が必要ですが、いまもし一文字防波堤のより沖合への移設だけの工事をするにしても、ばく大な経費と負担が必要です。それを思うにつけても、堀江の先人が試みた工事が、いかに皆の決断と村民の血のにじむような苦労と努力によってできたかが分かります。」と**さんは語る。

 イ 日本最初の堀江水難救済所

 「堀江水難救済所、これは私立ですが、全国に先がけて多度津(たどつ)(香川県)と堀江にできたのです。それは当時の堀江村長門屋履徳(かどやりとく)さんと金比羅宮宮司の琴陵宥常(ことおかゆうじょう)さんが親しかったからです。」と**さんは語る。
 このことについて、堀江地区委員会の『我が町のシンボル調査報告書(⑫)』は、「明治22年(1889年)2月門屋履徳堀江村長は、香川県金比羅宮宮司琴陵宥常の勧めに応じ、堀江の漁民白鷹助蔵(しらたかすけぞう)、忽那左平次(くつなさへいじ)等と相計り設立したのである。なお、琴陵宮司は愛媛県宇和島市の出身で、門屋村長とは旧知の間柄であった。堀江と多度津の水難救済所は実に日本最初の救助所である誇りを得ることになった。これら先人の先見の明に深く感謝せねばならない。」と記している。
 明治25年(1892年)11月30日の朝、堀江の海岸は異様な興奮で明けたという。それは、今まで見たこともない大きな商船が堀江湾に出現していたからである。この商船とは、イギリスのビーオー会社所属汽船ラベンナ号で、この日午前5時前、軍艦千島と釣島(つりしま)水道の興居(ごご)島と睦月(むづき)島とのほぼ中間で衝突し、悲運にも軍艦千島は約2分間で沈没したという。ラベンナ号自身の損傷は軽いものであったが、それでも船首に亀裂を生じ、応急修理のために安全な堀江湾に避難して来たと言われる(この件について、**さんは海流のためにたまたま堀江湾に流れて来たのではないかと語っていた。)。
 堀江水難救済所はその後、明治36年(1903年)に大日本帝国水難救済会に加盟し、「堀江水難救護所」に改められる。戦後は海上保安部が主導する形となったが、しかし、今もなお一旦緩急の際は直ちに出動するという。事務所兼艇庫は今の堀江漁港東側へ移転している。

 ウ いま、港は

 昭和21年(1946年)堀江-仁方(広島県呉市)間の連絡船が開通(昭和57年に廃止)し、さらに昭和26年(1951年)地方港湾に指定された。昭和39年(1964年)にフェリー基地が完成して、呉市阿賀とを結ぶ民営のフェリー便が就航し、現在1日18往復のフェリーが発着している。今年(平成7年)より定員320人で乗用車50台を積める新造船「かめりあⅡ」(639トン)が就航し、松山市と呉市を1時間50分で結んでいる。

図表1-2-10 堀江港湾年表

図表1-2-10 堀江港湾年表

『堀江港湾年表(⑩)』より作成。