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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)「エソ」にこだわる

 宇和島市の水産ねり製品の特色が「高級かまぼこ」にあることは先にも触れた。それは、全国の他の産地が、スケトウダラの冷凍すり身(*13)を使用して大量生産されるのに対し、宇和島では、地元で漁獲される新鮮な「エソ」を主原料とし、でんぷんを用いずに生産しているところにその理由がある。そこでまず、「宇和島かまぼこ」を語る場合には欠かすことができない「エソ」を取り上げ、その特色と「エソ」漁にかかわる人々のくらしぶりを見ることにしたい。

 ア 「エソ」、あれこれ

 **さん(宇和島市遊子甘崎 大正13年生まれ 71歳)
 **さんは、宇和海に細長く伸びる蔣淵(こもぶち)(遊子(ゆす))半島で長年、「エソ」漁に従事してきた。
 「エソ」にまつわる全般的なことを、**さんの話をもとにまとめてみた。

 (ア)「エソ」の名称とその特質
 
 a 「エソ」は、恵比須(えびす)信仰(*14)につながるので、祝い事に「エソ」を原料としたかまぼこを作り、人間に食味さ
  れたと言われている。
   「エソ」はねり製品に適する。その理由は何より「エソ」の身のねばりのよさ。それに加えて、色合いや味が淡泊で良
  く、身が取りやすいことなどがあげられる。主として底引き網で獲り、また焚寄網(たきよせあみ)(松明(たいまつ)をたい
  て魚を集める。)でも獲れるので、昔は水揚げ量が多かったようである。
 b 宇和島地方では15cmくらいまでのものを「ボラメ」といい、正月の雑煮(ぞうに)のだしとして最も大切な魚となってい
  た。正月を迎えるために、必ず「てんぐり網(手繰網)」を引っ張り出して獲ったものである。昔は、買うことはなかっ
  た。これで、正月中のだしが全部用意できた。
   「マエソ(エソ)」を本エソともいう。エソ類中で、かまぼこ・そぼろの原料として最高である。15cmから25cmくら
  いまでのものをコエソ、25cmから50cmくらいまでをエソ、さらにおおきな1m級のものをオオエソと呼ぶ。オオエソに
  なると、沖合(おきあ)いにすむようになるが、昭和30年(1955年)ごろまでは、1m級ぐらいの大きさのものはたくさん
  獲れていた。
   日振島(ひぶりじま)より沖に多く生息しているのが「アカエソ」(背中は赤褐色(せきかっしょく)、腹部は淡黄色(たん
  おうしょく))である。かまぼこの材料になりはするが、あまり味はよくない。また、沿岸の浅海域にすむ「オキエソ」
  も、味に関しては「アカエソ」と同じようにあまりよくない。

 (イ)「エソ」の生態

 a 生息地は、水深8m~30m位の海底で、湾岸や沖合いの砂地にすむ。ときには、岩場にもすむことがある。小魚や甲殻
  類(こうかくるい)(エビ、カニなど)を餌(えさ)とする肉食魚であり、歯はまことに鋭い。
 b 日の入りころ、少し薄暗くなると水面に浮いてくる。群れが、「ポチャッ、ポチャッ」という音をたてて跳ね上がるが、
  その様子はすごい。

 (ウ)「エソ」の漁獲方法

 「エソ」は、釣るかまたは底引き網で獲る。底引き網にはいろいろある。手繰網(てぐりあみ)、ぶり網(手繰網の大型)、この二つは網を手で引く。ほかに、帆に風を打たせて網を引く打瀬網(うたせあみ)、エンジンのついた船で引く機船(きせん)底引き網・トロール船網などがある。
 手繰網の起源ははっきりしないが、この地方(遊子(ゆす))の言い伝えによると、この網は安徳(あんとく)天皇(*15)の死体を引くために使用したという話であるから、早くからボラメ、エソを海底から引き上げていたと思われる。ただ、これはあくまでも言い伝えであり、明確な史料はない。

 (エ)「かまぼこ」にまつわる歌

 「子かお、子かお。どの子がほしいか。いっちのはたの、フミさんがほしいわ。連れていんで、何々食わさ。一の膳、二の膳、かまぼこそえて、がちでもしょうか、舟でもしょうか。うんとこどっこいしょ。」といいながら、相手の組の一人一人の抜き取り合戦となる。
 終戦まで歌われていたというこの歌では、抜き取って連れてきた者へのごちそうに、かまぼこが挙げられている。子どもの遊びの中にも、このような歌で、かまぼこが高級かつ貴重なものであったことがうかがえる。
 以上が「エソ」にまつわる概略であるが、それでは次に、昭和30年代ころまでの「エソ」漁の具体的な様子と、「エソ」と漁村の人々のくらしとのかかわりを追うことにする。

 イ 「エソ、ひきにいかんか」

 **さん(宇和島市遊子 昭和4年生まれ 66歳)
 遊子漁業協同組合長であり、宇和海の漁業に詳しい**さんに、「エソ」漁について話をうかがった。
 「手繰網のことを、わたしとこらでは『てんぐり』と言いますらい。通常は『網』の言葉はあまり付けません。この『てんぐり』を、わたしも引いたことがありますらい。昭和17年(1942年)ごろから昭和25年(1950年)ごろですかね。まあ、昭和20年代がボラメ(エソの子のこと)の漁の盛りだったんでしょうなあ。この遊子の湾内にはボラメがよく育っとるんですね。『〝てんぐり〟行かんか。ボラメ、引きにいかんか。』言うて、相手をさそうんです。このボラメがうまいんですよ。正月の雑煮のだしにね。雑煮言うても、わたしらは、米を粉にして練ったもちを使います。このもちの雑煮を食べなんだら、雑煮を食べたうちに入らん。ボラメを強火でほんのちらっと(ちょっと)焼いてね。焼かなんだらだしが出ん。その焼いたのをだしにして、米の粉のもちを大きな釜に入れて作るんです。
 その時分のボラメ漁は、正月の料理のだしをとりにいくというのが一番でしたんよ。そして、次は10月のお祭りの『だしびき』よ。この『だしびき』には祭日の五日ぐらい前から沖に行って、『てんぐり』を引くわけやな。そして引いたボラメは、売るよりも、ほとんど自分とこで食べよったな。
 『てんぐり』の仕掛け方は、船が手前で錨(いかり)を下ろし、網は、はるか沖に約400~500mも水中に広がります。それから綱で引いて、ごんごんとボラメを寄せてくるんですな。綱で囲って追い込んだボラメが、全部網に入ってくるんよな。綱を置いたら(周りに張ったら)ね、ボラメは綱から逃られんのですな。わずか1本のこんまい(小さな)綱におとろしがる(こわがる)ものですよ。
 『てんぐり』は、藩政末期から昭和40年代半ばまで残っておりましたよ。けど、養殖漁業が盛んになって、海を生けすやいかだが埋めてしまってからは、網が使えなくなりました。
 1日の内で網漁を行う回数は、『商売』(営業用に獲る)と『だしびき』とでは違っておりました。網漁1回にかかる時間はだいたい1、2時間で、『だしびき』だったら1日に2、3番(2、3回)、『商売』になると1日に10番くらいもやっていました。朝、夜明け前に1番あげときます。『朝まずめ』が漁獲量は多いのです。次に『夕まぐら』です。例えば『夕まぐら』ならば、太陽が西の空に傾いてちょっと暗くなってきたとき、魚が昼から夜の構えをする。その時に魚がかたまっておるのよ。そこを網で引く。夜から昼に変わる『朝まずめ』の時にも、同じように魚が群れてかたまるものなんよ。
 祝いの『魚(さかな)びき』いうのがありよった。魚の種類によって習性が違うので、対象の魚によっていろんな網を出してね。これは普通の『ケ』の日じゃなくて、『ハレ』の日、つまり結婚式とか、節句の祝いとか、船おろし(進水式)とかいうふうな祝いごとで魚のいる時に、親せき中が寄り集まって魚を引きに行く。日振島(ひぶりじま)、戸島、嘉島(かしま)、それから由良(ゆら)半島など、季節や潮によって網代(あじろ)(網漁業を行う漁場)を決めて、その中のどこかに引きに行く(図表1-3-15参照)。主に、イサギを獲りに行きよった。御膳(おぜん)(料理、ごちそう)のことを『さかな』言いますけんな。そんな時に、大漁すると保存食として自分でかまぼこを作るのよ。3枚におろす者、すり鉢でする者と、作業を手分けしてみんなが作りよった。明治以前から昭和40年代ごろまではやりよった。今はしてない。昭和20年代、30年代は、わたしらは自給自足やった。船こそ作らなかったけれど、わらじは作る、糸は紡(つむ)ぐ、機(はた)は織る、着物は縫(ぬ)う。なんでも自分らでやりよった。料理を鉢(はち)に盛るときは、かまぼこは貴重品やきに(だから)、大きなサトイモやダイコンを掘ってきて、外から見えない下盛りや中盛りはダイコンかサトイモで盛って、見える外側や縁だけはきれいなかまぼこや肴(さかな)もので盛り付けたものよ。早く食べにいかんとかまぽこはなくなって、中のダイコンだけになってしまう。」
 **さん、**さんの話からうかがえるように、宇和海で「エソ」が豊富に獲れていたころ、人々にとって「エソ」は、「ハレ」の日の祝いの料理には欠かすことができない魚であった。そして一族総出で作業を分担し、お互いが「ハレ」の日の喜びを分かち合いながらその身で作るかまぼこは、めったに食べることのできない高級品・貴重品であり、特別な思いの詰まった食べ物であった。
 次に、話の舞台を漁村から町に移し、町のかまぼこ屋におけるかまぼこ作りの様子や、それにまつわる出来事などを探ってみることにしたい。

 ウ 町のかまぼこ屋

 **さん(宇和島市堀端町  昭和10年生まれ 60歳)
 **さん(宇和島市本町追手 昭和11年生まれ 59歳)
 **さん(宇和島市恵美須町 大正11年生まれ 73歳)

 (ア)かまぼこを作る

 現在、かまぼこ店を経営し、かまぼこ作り一筋に歩んでこられた**さんに話をうかがった。
 「明治、大正、そして昭和の初期ごろまで行われていたかまぼこの作り方というのは、最初に『荒ごしらえ』という作業から始まります。これはまず、『エソ』のうろこをきれいに落として、刺身をつくる要領で3枚におろします。そのおろしたものを包丁(ほうちょう)で皮をすいて身だけをとるのが『皮すき』(写真1-3-9参照)。それから『水さらし』、『しぼり』と続きます。ここまでで約2時間かかります。次に、『うらごし』または『ミンチ』の作業に移ります。『ミンチ』は『チョッパー』とも言います。細かい細片(さいへん)にするわけですね。この『うらごし』と『ミンチ』の工程は、機械がない時代には、『荒づき』と言って、『ウサギの餅(もち)つき』の要領で、臼(うす)で魚の身をついて潰(つぶ)していきました(写真1-3-10参照)。40、50分ほどかけてつきますが、どうしても骨が残ります。この残った骨を、中華包丁の様な包丁の刃でたたいて取り除いていきます。この作業を『すじ抜き(*16)』と言いますが、これが20分ぐらいかかります。ここまでできたものに今度は塩などを加えて、臼で約1時間ほどつきます。ここまでで『つく』という作業が2回出てきましたが、慣れない者がやると、1週間ほどは体が動かなくなるほどの重労働です。このあと材料をかまぼこ板に盛り付け、焼く(『火どり』と言われる)あるいは蒸すの工程が続き、約1時間を経(へ)て完成品となります。全工程約6時間で、一臼(ひとうす)で約70本から80本のかまぼこが出来上がります。これらの技術を習得するのに早くて5年はかかりますね。」
 以上が、昭和の初期ごろまでのかまぼこの大まかな製造工程である。『臼でつく』という作業に、かなりの労力を必要としたことがうかがえるが、それだけではなく『火どり』の作業についても、特にこれに従事した女性従業員にとっては、大変な労働であった。**さんの話を続けることにする。
 「昔は、ウナギを焼く火鉢があるでしょう、ああいう火鉢でかまぼこを焼きました。はじめ炭火の上でかまぼこの裏側(板肌(いたはだ))を焼いて、そうすると、板と魚の身がなじむ。つまり引っ付くわけです。それを今度ひっくり返して表を焼き、次に横をというように焼いていきます。この作業を『火どり』と言いますが、この作業をする女性は、手首から肘(ひじ)にかけての内側が火の熱さで焼けて、肌の色が紫色に変わっていました。腕抜(うでぬ)きをしていても、半日ぐらい火鉢の上に手を置き続けていますから、全然役に立ちません。かまぼこ1本で15分くらい火鉢の上に置いていますね。」
 この「火どり」作業の大変さを、実際に作業に従事した**さんに話していただいた。
 「わたしがかまぼこ製造作業にかかわり始めたのが、昭和34年(1959年)でしたので、今年(平成7年)で37年目になります。一番大変なのは、やはり『火どり』でしょうか。手の方はまっ赤になるし、それでちょとやりよって、炭に灰がかぶさってきたら新しい炭に入れ替えないといけませんでした。この炭は普通の炭ではだめで、『白炭(しろずみ)(*17)』と言って、たたくと金属音がするような固い炭です。これの良いものがないと、かまぼこもしくじります。
 最初からかまぼこをうつむけると盛った身が板からはずれますから、先に板の方からぬくめて、それから裏返したり、横をというふうにしていきます。手首から肘にかけての内側は、火に当たりますからまっかっかになるんです。赤くなったのは、1日中治りません。その作業が毎日続きました。1日に5、6時間、年末の繁忙期(はんぼうき)になったらそれどころじゃない時間、火に当たっていました。
 あと、大変な作業としては、『身しぼり』がえらかった(大変だった)です。今は、電気動力の機械で絞(しぼ)りますが(写真1-3-11参照)、その機械ができるまでは、縦1m、横50cmぐらいの木綿袋の中に身を入れてジャッキを手で回して絞っていました。あまり力まかせに絞っていきよると袋の目に身が詰まって、水が抜けなくなる。そうすると袋が張り裂けて、ポーンと中身が天井まで飛び出していきます。3mや5mぐらいは楽に飛びました。じんわりと絞ったときは、袋から身がコポッとのくんです。でも、力まかせに絞ると、身が袋の目に詰まっていますから、またあとから身をこそげないといけない。
 昭和37年(1962年)ころまでは、こういう作業がまだ残っていました。その時分は、かまぼこに巻くセロファンは、七輪(しちりん)の中で熱した焼き火箸(ひばし)で付けよったぐらいですから。今は、セロファンを巻いてそれを電熱器に通すと、セロファンはくっつきます。」

 (イ)かまぼこ屋の1日-昭和10年代のある日-

 昭和10年代ころのかまぼこ作りは、1日の中ではどのように行なわれていたのであろうか。宇和島蒲鉾(かまぼこ)協同組合理事長にも同席してもらいながら、**さんの話を中心に、その1日を再現してみた。
 「わたしがかまぼこ作りに携わって約60年がたちます。だいたい魚屋は朝がみな早いんですけんね。わたしらは朝の2時、3時には起きていました。それから、かまぼこ作りの作業にかかります。材料の魚は、前の日『皮すき』までの処理をしたものを冷却しています。これを、『荒づき』から『すじ抜き』、『塩づき(*18)』、『火どり』、『蒸す』と続けてかまぼこにしていくわけですが、もう、夜明け前には作業もあらかた目処(めど)がつきますので、あとは家族や従業員に任せて、わたしは魚市場へ魚の仕入れに行きます。6時、7時には帰って来て、仕入れた魚の『皮すき』までの処理を1日かかってやります。翌日の準備です。かまぼこは、朝の6時、7時にはできておりました。朝仕入れた魚をその日の夕方までかけて、かまぼこにする業者もありました。それは、わたしのところとは売り方が違うからです。わたしのとこは、かまぼこができるのを待ちよる人がおるわけです。朝来てね、できた製品を持って売りに行く『売り子さん』(行商人)がおりました。男の人も女の人もおりました。こういう人のためには、朝、製品ができていないといけない。また、自分の店だけで売るならば、夕方にできたのでもいい。夕方、できたものをかごに提げてお得意さんを一軒一軒回っていく。仕事の流れが2種類あるわけです。
 朝早く起きて、晩方まで働くのは、やっぱり辛(つら)いですよ。寝るのは、午後の8時ごろです。『因果(いんが)な商売じゃのう。』と思うた。『やめてやろうか。』と思うこともありました。体が元気じゃないとできませんな。こしらえた製品の出来上がりがよかった時や、行商の人から『今日の品物はよかった。味がええなあ。』と言われると、やっぱりうれしいですね。
 戦前は、従業員は10人ほどおりました。機械化がまだされていない時分ですから、人手がよけ(多く)かかりよったんです。『今日はかまぼこを300本作った。』言うたら、回りのもん(者)がたまげよった。板にねり上げた魚の身を付ける作業では、数多くやると、板を手で握ったときに、板の角で手を切りよったぐらいです。今は、1日に3,000本から5,000本は作るけんな。『ちょっとしたぞよ。』と言うたら5,000本から1万本は作るけんね。機械は手作業の20倍ぐらいの能力がありますけん。戦前では、定休日というものは、一年中で11月25日のたった1回でした。あとは、盆と正月の休みだけです。それで、なぜ『11月25日』かというと、昭和天皇がまだ皇太子の時分、大正11年(1922年)の11月25日に宇和島においでになられた。それを記念しての休日なんです。今は、年間65日休み、300日稼働と聞いております。昔の人は、よう働きよったんですよ。だから、まずは体が元気じゃないと仕事に耐えれません。また、水仕事が主ですからカゼもひきやすい。作業着は、はんてんに前掛けでした。身軽に仕事をせな(しないと)いけませんけんね。冬場なども当然、暖房などはありません。風が入らないように囲っているだけの作業場といったらいいでしょうか。とにかく、かまぼこの出来の善しあしは、まずは魚の鮮度で決まりますから、すり身を冷やすことはしても、温めるようなものはあったらいかんのです。だいたい10℃ぐらいがいいらしいですね。でも寒いからといって、着込むこともしません。着ぶくれしておっては仕事になりません。第一、魚の身を臼でつく作業などは、ちらちら雪が降りよっても、裸で汗をかきながら作業をやる人かおるぐらいの重労働ですから。
 わたしが幸せだったのは、わたしが作業場で働くようになった時分、昭和12年(1937年)ころですが、初めて魚肉採取機(ぎょにくさいしゅき)(写真1-3-12参照)が入って、手作業で身をすかなくてもよくなったことです。頭を落して洗ってウロコごと機械にかけたら、身と皮とが別になって出てくるからね、いよいよ楽(らく)しました。また、臼でつくのも、昭和10年時分にはだいぶん下火(したび)になったけれど、昭和7年ころには盛んにつきよったです。「擂潰機(らいかいき)」(写真1-3-13参照)、言うたら「電動臼(でんどううす)」ですな。これが入ってきたのが、昭和11年(1936年)か12年ごろだと思います。やはり、これでも仕事がずいぶん楽になりました。」

 (ウ)かまぼこ、汽車に乗る

 **さんの話の中に出てきた「売り子さん」(行商人)とは、どのような活動をしていた人なのだろうか。同じく、**さんに説明してもらった。
 「『売り子さん』は、戦前は10人ぐらい、戦後は、30から50人ぐらいはおりましたな。ねり製品だけ扱った人もおるし、そうじゃなくて、いろんなものを仕入れて、売りに行く人もおりました。だいたいは、宇和島市内ではなくて、鬼北(きほく)地方(北宇和郡。三間町、広見町、松野町方面)へ汽車を利用して売りに行っていました。早い人で、朝の6時、7時ぐらいには仕入れをすませて駅に集まって、汽車に乗って売りに行きよったですな。『おくいきさん』と言われましたな。宇和島の海岸を起点として考えると、郡部は『奥(おく)』になりますから、そう言われたのでしょう。昭和45年(1970年)ごろまではおいでたと思います。昭和40年(1965年)ぐらいからでしょうか、とにかく自動車が普及しだしてからは、市内から出ていくばかりであったものが、郡部からも市内に直接仕入れにやって来て、持って帰って自分の店で商売をする。そのうち、魚市場から魚を仕入れて帰って、自分のところでかまぼこを作り始めた業者もおりました。こういうふうになってくると、当然、『おくいきさん』さんは必要でなくなり、自然消滅します。今は、もういませんね。」


*13:一般に魚肉をそのまま凍結(とうけつ)するとタンパク質が変化して、かまぼこなどの原料として使用できなくなる。そ
  こで、身をとって十分水洗いしたのちにタンパク質の変化を抑える物質を混合すれば、長期冷凍貯蔵後もねり製品の原料と
  して使用に耐えるようになる。
*14:エビスは日本の民間信仰において、その生業を守護し、富や幸せをもたらすと信じられている。現在一般にエビスの神
  体と考えられている、タイと釣りざおを担いだ神像によってもうかがえるように、元来は漁民の間で信仰されていたもの
  が、しだいに商人や農民の間にも受け入れられていったと考えられる(⑪)。
*15:在位1180-1185年。高倉(たかくら)天皇の第一皇子。母は平清盛の娘徳子(とくこ)。2歳で即位し、源平争乱の渦
  中、1185年壇(だん)ノ浦(うら)の戦いで平氏が滅亡するときに入水し、平氏と運命をともにした。
*16:この包丁には刃が付いてなくて、盛りつけた肉を切りおろすと、刃先に小骨と硬い筋が残る。これを除いていきながら
  何度もくり返す。
*17:木炭の一種。製法は黒炭(くろずみ)とほぼ同じでるが、炭化の最高温度は約1,000℃と高い(黒炭は約700℃)。また冷
  却は炭化終了後、窯(かま)の外に取り出し、消粉(けしこ)(灰と砂に少量の水を加えたもの)をかけて急速に行う。このた
  め硬質(こうしつ)となり、また、木炭の表面に消粉がつき白くなるので白炭の名がある。白炭は火持ちがよく、長時間の暖
  房のほか、魚、肉、もち、せんべいなどの焼き物に適し、なかでも紀州備長炭(きしゅうびんちょうたん)(炭材はウバメガ
  シ)は蒲焼(かばや)き、焼き肉用料理に珍重され、料理店での利用は多い。愛媛県の南予でも、ウバメガシを使用して作ら
  れている。
*18:塩を添加して30分くらいつく作業(⑭)。

図表1-3-15 宇和海地図

図表1-3-15 宇和海地図

□は**さんの話にでてくる地名。

写真1-3-9 「皮すき」の作業

写真1-3-9 「皮すき」の作業

包丁を左から右へずらしている(写真2枚を上下に合成)。平成7年11月撮影

写真1-3-10 臼(うす)と杵(きね)

写真1-3-10 臼(うす)と杵(きね)

野中かまぼこ店にて。平成7年11月撮影

写真1-3-11 機械によるすり身の脱水・裏ごし

写真1-3-11 機械によるすり身の脱水・裏ごし

機械の右側上部より、さらしたりすり身を流し込むと、脱水・裏ごしされたものが左端より出てくる。平成7年11月撮影

写真1-3-12 魚肉採取機(現在使用されているもの)

写真1-3-12 魚肉採取機(現在使用されているもの)

中央に、腹を割いたエソを、皮を上にして開いて置き機械にかけると、手前に身が集まり、向こう側に皮だけが落ちる。平成7年11月撮影

写真1-3-13 擂潰機(現在使用されているもの)

写真1-3-13 擂潰機(現在使用されているもの)

平成7年11月撮影