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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)タオル一筋

 ア 高級品化路線を支えて

 **さん(今治市宅間 大正15年生まれ 69歳)

 (ア)ジャカードの紋織にいち早く取り組んで

 当産地は、紋織(もんおり)タオルによって代表される。楠橋(くすばし)紋織は会社設立当初から輸出用の紋織を始め、戦後は、プリントタオルの開発、商品化を行い(⑩)、タオルの高付加価値の道を開き、また新しい時代への対応をいち早く実施するなど、当産地を代表する企業である。
 **さんは、昭和22年(1947年)入社で、以来、タオル事業一筋に献身してきた。
 会社の創業は、昭和6年(1931年)、先代社長と実弟による。弟さんが愛媛県立工業講習所の2年の養成講座で、菅原利鑅技師にジャカードを教わり、複雑な模様を織りだせるジャカード織機6台を導入し、スタートしている。
 「ここでの卒業生がこの地方の先駆者になっておりますね。
 当社を含め数社がジャカード織機を設置して、高級品を製作したが、100%輸出用であった。当時国内では紋織タオルは、使用されなかったが、戦後それが足がかりになりました。昭和20年(1945年)の空襲で市内の工場はほとんどが焼け、数社残っただけだったが、楠橋は郊外にあったので、戦災は免れ織機も24台残りいち早く立ち上がることができた。
 入社翌年の昭和23年に民間貿易が再開され、見本取り(見本を出して注文を取る)を始めました。注文があったのは、外国向けと同時に進駐軍(*20)向けの購買局からのものだった。
 昭和26年(1951年)7月1日、統制経済から自由経済に移行し、国内でも高級品が売れるということで、輸出に向けていた物を国内に出してみると、ジャカードの高級品が非常に売れ、今治もその恩恵にあずかった。」とその幸運について話された。
 **さんは、「大阪(泉州)でもジャカードをやり始めたが、どうしても今治のような色のさえが出ない。それは水質によるわけで、今治では、蒼社川(そうじゃがわ)の伏流水で晒(さら)しがよくでき、色のさえがよかった。大阪では今治のような色が出ず、くすんだ色になる。そんなことで大阪は後晒(あとざらし)(織った後晒らす)、今治は先晒(さきざらし)(糸を晒らして織る)という住み分けができるようになった。」と今治のタオルの特色について話された。今は装置にお金をかければできるので、完全な後晒、先晒の住み分けはなくなりつつあるが、先晒には泉川(いずみかわ)(蒼社川沿いの伏流水)の良質の軟水(*21)の貢献があったわけである。

 (イ)世界に先がけ、プリントタオルの商品化

 昭和30年(1955年)にタオルに図案をプリントする技術を、四国工芸社とタイアップして世界で始めて開発し、商品化して多様な製品を送り出し市場の評価を得た(⑩)。
 「タオルケットができたころ、わたしがちょうど東京に行っていた時、高島屋(百貨店)の担当の方が面白い図案を持ちこんできた。これはどう考えても、ジャカードでは無理で、微妙な感じを出すには、プリント以外にはないと思った。それまでは顔料でちょこちょこっとジャカードに筆で書く、手書きみたいなことはやっていた。四国工芸の会長の羽藤さんは、紋紙専業だったが、いつまでも紋紙だけではいかんから、おぼろ捺染(*22)でもやってみるかということで、少しずつ始めていたところでした。羽藤さんと二人で、ああでもない、こうでもないと言って、ピストル式のガンを買ってきたりして吹き付けたりしたが、これじゃ量的にどうにもならん。西陣(京都)に彫刻刀の使い方とか、型彫(型紙に模様を彫る)とかを、羽藤さんに勉強にいってもらって、それから、二人でやろうということがはじめです。
 昭和34、5年(1959、60年)ころまでは、プリントタオルは、当社が独占で利益があがりましたがね。そのころからぼつぼつ捺染業者ができた。この新製品はジャカードでは出しえない色彩感覚があり、高級品扱いされた。」

 (ウ)タオルケットの伸長とジャカプリの出現

 従来の2枚合わせの夏布団を、1枚もののタオル地にしたタオルケットは、生地を厚くして裏地をなくしたらどうか、というようなことから始まった。その空前のヒット商品もその発案者や、開発時期については不明である。**さんは、「昭和30年代にタオルケットができた。そのころ蚊取り線香の普及で蚊帳(かや)が売れなくなっており、夏場の商品がなくて困っていた寝具の問屋は、タオルケットに飛びついてきた。合成繊維が生まれ、その新しい用途はないかと各社が目を光らせていた時だったので、メーカーも注目してきた。こうして三拍子揃って急激に伸長した。」として、①生活水準の向上と洋風化。②企業の研究、開発、意欲と寝具商、商社、合織メーカーの進出。③タオルケットそのもののよさ。をあげられた。
 タオルケットの80%以上が今治で生産されたので、大阪に対して今治が逆転した。
 『えひめのタオル85年史(⑪)』では、今治タオル躍進の原因として、各企業のおう盛な研究意欲と当産地の織機の広幅化とジャカード機の普及が進んでいたことをあげている(写真2-1-8参照)。また、織機の改善が早くより浸透し、技術革新の波に乗って優秀なジャカード、プリントの技術が他の追随を許さなかったことも見逃せない。「ジャカプリは、ジャカード織にプリントしたもので、ジャカードの立体感とプリントの面白さを出すことができる。プリントは、もともとは無地の白い生地にプリントするだけだったが、それだけでは面白くないということでやっている。ジャカード織は、立体感はあるが、色柄の大胆さや鮮やかさではプリントものにかなわない。ジャカプリは一層高級感があり、現在では柄物の相当部分がジャカプリになっている。」と**さんは語る。

 (エ)タオルを織る工程

   a 図案(デザイン)

 ブランド品では、有名なデザイナーのデザイン画などをもとにタオルの大きさや使用目的によってアレンジする。糸の色の種類、織りの方法、加工法の決定。最近では、フロッピィディスクやロムカード(読み出し専用記憶装置)が直接織機を操作する。

   b 整経(せいけい)

 紡績工場で漂白や色染め、糊付けなどをした糸を、織りあげるタオルのサイズに合わせて整経機のドラムに均一に巻き取る。デザイン画にしたがって色糸を配色しながら整経機に経糸(たていと)を巻き取るので整経という。

   c 製織

 織機には、ドビー機(無地タオルや簡単な模様織り用)ジャカード機(紋紙やフロッピーを使った複雑な模様織り用)がある。
 最新鋭の機械は織り上げ速度が毎分25cm、バスタオルだと2列織りで1時間に24枚も織れる計算になる。楠橋グループ全体で1年間に織り上げるタオルすべてをバスタオルに換算すると1,200万枚×1.5mで、ずっと縦につなぐと、長さ18,000km、今治から地球を半周する長さとなる。

   d 仕上げ

 縫製。耳縫(縦を縫う、口絵参照)、ヘム縫(横を縫う)。プリントや、シャーリング(パイルの頂上をうすく刈り取る。ビロードのような仕上げ)、刺繍(ししゅう)(コンピュータによる刺繍機できめ細かい模様をつける)などにより高級感を出す。

 (オ)タオル新時代をめざして

 「くらしを演出する、やさしいタオル。開発マインドの基本は、『生活のさまざまなシーンにあったタオル、人それぞれの個性を生かすタオルの開発』である。」と**さんは話す。

   a 1万個入る自動倉庫

 「タオルを1分間に1個入れることも取り出すこともできる特殊なもので、どこに何が入っているか検索ができ、ボタン一つで出てくる。同社が生産しているタオルは色の違いも含めると年間ざっと7,000~8,000種類にも達するほどの典型的多品種小ロット生産である。」

   b 自動色調するカラーシュミレーター

 「デザインそのものもそうだが、いわゆる色合わせを昔は、染料の現物をもって来て色を合わせてみたり、絵具をちょちょっと塗ってみたりしていた。そういうことがコンピュータを使い画面でできるようになった。商品の最大のポイントはデザインで、このシステムが導入され、筆では表現できない色合わせを行える。」

   c 配送センター「ケイユニオン」

 「グループ15社で東予市に設立した。一つのサービスができるという体制ができなければ、取引先はついてきてくれない。例えば、大阪に送っておいてそれをまた九州へ送る。結構そんなことも多いわけで、こちらに預かっておいてその代わり手数料をいただくことにしていますが、これも一つのサービスです。」

 イ 製織一筋に

 **さん(今治市郷本町 昭和6年生まれ 64歳)

 (ア)製織に習熟して

 **さんは、昭和22年(1947年)今治工業高校を卒業して、タオル工場に就職した。当時は普通織機(*23)の時代であり、製織一筋に歩んできた。今は独立してタオル工場三光産業を経営している。入社したころは、1人で織機2、3台を操作していた。このころの織機は、よこ糸の補給装置をもたない普通織機で、よこ糸がなくなる前に、織機をとめてそれを補給しなければならず、また、なくなると織付をせねばならない、効率が悪く人手のかかる織機であった。
 **さんは、「さぐりというて、よこ糸を感知する装置を最初のころはわたしらが作りよりました。細い鉄板をとがらせて、それにいつもよこ糸が接触するようにして、木管に巻いている糸がだんだん減ってきて、なくなる寸前に織機が止まるような装置を工夫したりしよりました。」という話の中には、織機に熱意を傾けてきた職人の姿がある。
 「以前は、製織中のビーム(*24)の経糸(たていと)がなくなっていくと、糸1本1本手でより合わせてつなぐ、『のべひねり』という作業を、2、3人がかりで、1時間半から2時間かけてやっていた。大変手間のかかる仕事で、その間、織機は停止していた。これがタイングマシン(自動経繋機(たてつなぎき)、経糸のつなぎを行う時に用いる機械)ができて、今は、1人で15分前後で経糸をつなぐことができるのではないだろうか。また、ドロッパーという、経糸が切れると停止する装置が導入されるなど、作業能率も大幅に改善され、今では、革新織機といわれるものになると1人で15、16台扱えるので、それだけ織機の面でも効率的になってきている。今は息子が中心になって革新織機の導入を進めている。タオルの製造現場も大きくイメージが変わってくるものと思われる。」と話される。
 **さんのデザインシャーリングの特許の取得について、『えひめタオル85年史(⑪)』では次のように紹介している。「昭和40年代のはじめ、タオルの新製品や高級品が市場に求められるようになって、シャーリングタオルが見直された。シャーリングには織物表面を均一に全面力ットしてビロード感触を出す全面カットと、製織時に長短パイルを織り出し長いパイルのみカットする部分カットがあり、シャーリング機に直接模様装置を設置して、生地に自由に模様を作り出すデザインシャーリングを開発した。この加工法によって力ットされた部分の深みのある光沢と生地の部分の柔らかい色沢(しきたく)との陰陽による新しいデザインが表現されるようになった。」と、その開発が高く評価されている。

 (イ)四国タオル「技能士研究会」をつくって

 「昭和40年代前半ころまでは、技術は社外には出さなかった。織機調整技能などは会社から外へは出さず、極秘扱いであった。社内でも先輩もなかなか言うてはくれず、盗むようにして覚える状態で昔の職人かたぎが、まだまだ、強かった。
 わたしは昭和46年(1971年)に実施された、通産省の第1回目の『タオル織機調整技能検定試験』を受験して1級に合格した。この試験に合格した者で、四国タオル『技能士研究会』をつくったのは、昭和48年(1973年)である。
 これは、技能士だけの会で、今日まで続いている。今までのようなこそくな排他的なものでなく、合格した当地区の30人ほどの者が集まって、技能を研究する会だから『ざっくばらん』に情報交換をしていた。わたしが第1回目の会長に選ばれたが、労働組合にすぐ結びつくのではないかと心配する経営者もいて、『そんな会には、行かせない。』と言うので、『本当に技術だけの会だから、わたしが、説得に行くから。』と、その会員に言ったのを覚えている。
 これがもとで、今治全体で今まで極秘だった技術を、相互に交流する場ができ、労働者、技能者としてつらいことや困ったことも話し合えるようになった。
 今は顧問になっているが、現在でも2か月に1回会合を持ち、お互いに悩みや新技術への挑戦などを話し合ったり、また、中央の人に講義をしてもらったりしている。この技能者同士の同じレベルでの研究会は、今でも自分らが困ったとき、即、今日の問題として、今治じゅうの会員に呼びかけて相談できる。これは、当地域全体の技術向上にも役立ってきたと思っている。」と、**さんは話している。こうした人々の地道な努力が、日々の生産活動の円滑化に寄与するとともに、コストダウン、品質の向上、新製品の開発等の点でも産地全体のレベルアップにつながってその成果を現すのであり、また、このようなエキスパートが、各工場に多数存在するのも、百年の歴史を踏まえた産地の強みである。


*20:第2次大戦後、日本に進駐した連合国軍隊。
*21:カルシウム、マグネシウム等の塩類の比較的少ない水、硬度では10℃以下の水、可染物の光沢、染むら等に影響があ
  る。 
*22:ナフトール染料(下漬剤(したづけざい))をつけて横糸に織りこみけん色剤を捺染する。下漬剤の付いているよこ糸だ
  け染色する。
*23:よこ糸の補給装置のついていない織機。
*24:織機の幅にあわせて、経糸を巻いているもの。

写真2-1-8 ジャガード織機

写真2-1-8 ジャガード織機

平成7年8月撮影