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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)アイデアで勝負

 ア 造船一筋

 **さん(今治市小浦町 昭和3年生まれ 67歳)
 **さんは、造船業の3代目に当たり、生まれた時から職住接近の中で育った。今治造船の会長であった父親には、5男、6女の子供さんがある。現在長男の**さんが会長で、社長の**さんは3男である。兄弟5人に娘婿6人がすべて今治造船とその関連会社でその発展に一役買っているという。まさに、造船一家である。兄弟の結束の強さが急成長の原因の一つにあげられている。**さんは、今治造船設立の年に入社し、今日までその発展を支えてきた。その歩みの一端を語ってもらう。

 (ア)帆船から機帆船の移行について

 **さんは、「わたしが子供のころの檜垣造船では、帆船を上架(じょうか)(改造修理するために陸上に引きあげて)して、船体の後方にエンジンをつけて、機帆船に改造していた。新船も造りながら、次から次へと改造の仕事をやっていた。どの船にもエンジンを入れたのが昭和10年(1935年)ころから12、3年ころの間でしょうか。当時の機帆船では150トンぐらいが大きい方でしょうね。」と話される。昭和18年企業合同で今治造船株式会社が誕生する。第1回目の新入社員で、入社してまず最初に造ったのは、軍の上陸用舟艇(しゅうてい)。前だけ鉄板を張り、他は木造であった。学徒動員の生徒が来ていたのもこのころのことである。終戦直後、石炭運搬専用の機帆船が瀬戸内海を忙しく行きかう石炭景気もあったが、当時は食糧難時代で、インフレも激しかった。1年で物価が4倍以上の値上がりもあった。
 「当時船を造る経済力のあるのは、日銭(ひぜに)を稼ぐ漁師さんしかなった。伝馬船(てんません)(小型の和船)、海老(えび)こぎ(エビ漁をする船)などの漁船を造った。」と話される。
 「昭和24年(1949年)、ドッジライン(均衡財政政策)の実施や統制経済の撤廃(てっぱい)で、石炭運賃も急落し、新造船の価格は3分の1になった。燃料を積んだら走れるのに、燃料がないため船を繋(つな)いどらんといかん。食糧ぐらいしか運べる荷物もない、そんな時代が続いた。」波止浜船渠が解散し、来島船渠の誕生と一時休業もこの年のことである。戦後も仕事を続けてきた企業合同による造船所は、このころ大半がつぶれたとも言う。
 やがて朝鮮戦争(昭和25年~28年)による転機が訪れた。戦争が始まると、韓国には陸上げ岸壁がないので、日本でアメリカ軍の大型船から機帆船に積換え、それをハシケ(*35)替わりにして韓国まで物資を輸送したので、機帆船の仕事ができた。

 (イ)今治造船の再スタート、小型鋼船の建造へ

 **さんは、昭和29年の今治造船の休業について「こうして回復のきざしがみえかけた会社も李ライン(*36)ができて、漁船がたくさん船ごと韓国にだ捕されるようになると、建造費の6、7割をまず払って後の4割とか3割は漁(りょう)ができてから、漁業会社が支払うという当時のシステムでは、残りが回収できなかった。また、木造船から鋼船への移行もうまくできなかった。」とその原因を指摘された。
 「休業している会社の後を引受けてやってくれと言われたのが昭和29年。それからわたしらの一族兄弟がやった。当時は木造船も限界があるだろうなあ、鋼船に替わるだろうということで、鋼船への準備をすすめていた。」
 昭和30年代は、愛媛の造船業にとって大きな転換期だった。昭和30年は、行政的には今治市が波止浜町などと合併した年でもあり、また造船業界では、今治造船が再スタートを切った節目の年でもあった。さらに翌31年は日本の造船進水量がイギリスを抜いて世界一になった年でもある。
 今治造船では、昭和30年(1955年)には勇正丸(293G/T)が、鋼船の改造であるが竣工している。鋼船新造の第1船は昭和31年の第一富士丸(464G/T)である。「当時、来島船渠も波止浜造船もF型(499G/T、850D/W(*37)の小型貨物船)を造った。3社が木船から鋼船建造になったのもこのころだった。昭和34年から昭和36年ころまでの鋼船移行の時期、機帆船をもっている者が協同組合をつくって、機帆船を売って鋼船につくり替えた。石炭から石油や鋼材へ転換し、荷物の優先順位、運賃の立て方も鋼船に有利とあって海運業界に小型鋼船の需要が高まった。そんなこともあって、昭和35年ごろまでに、この地域の造船所もだいたい鋼船建造の造船所に移行している。
 昭和34年(1959年)、当時呉では戦艦大和を造った世界最大のドックにNBC(*38)(ナショナル=バルク=キャリアーズ)と言うアメリカの資本が入ってタンカーを造っていた。「生まれて初めて見たドックの中で、ほとんどできている8万トンと6万トンの船がいかに大きかったか、正面から見たらタライみたいだった。こんなもの前向いて行くのかなあと思った。船は正面が尖っているものとばかり思っていた。」と当時の巨大なタンカーを見た驚きをこう語っている。今治造船では、F型700~800D/Wの貨物船をシリーズで造っていた。ちなみに昭和34年3月に第15長久丸(495G/T)を竣工させている。鋼船一本化の年で父親が社長に就任した年であった。

 (ウ)船造りの工夫

 **さんは、荷役(荷物のあげおろし)を合理化するためハッチ(船艙(せんそう))に目をむけた。「昔の800D/Wは、ハッチが2つも3つもに分かれていた。物を積んでも、中の掃除をしても、ハッチ数が少ないほど便利だった。そこで、ワンハッチの船を造った。また荷役にディーゼルを採用し子会社の船(正栄丸1,600D/W)で試してみた。当時の船は、ボイラーを炊いてそのスチーム(蒸気)で、荷役をしていた。これはボイラーのスペースを取るし、ボイラー用の水や燃料もいる。ボイラーはいつも炊いていないといけない。火を落とせない。アンカー(錨)とるのも荷役するのもそれでやっていたが、それを全部ディーゼルに直結した。これは当時画期的なことだった。ワンハッチにして、ボイラーのスペースもいらない、エンジンルームの長さも短くなる、そのための水や燃料もいらない。用船料は同じで、船価はずっと安い。荷役はしやすくて他社より荷をよく積む。荷主さんに好かれる船でした。
 ソ連へ行って北洋材を積む近海船の建造にも、他の造船所にさきがけ、北の寒いところでも凍らない油圧を荷役装置に採用した。」

 (エ)内航船(*39)から近海船(*40)への進出

 「安くて高性能」は今治造船が鋼船建造に乗りだしてからの一貫したキャッチフレーズであったが、IS-6型(今治シップ6,000D/Wの意味)は実用的な船でした。IS-6型シリーズ第一船は、昭和41年(1966年)、1月竣工の第一山久丸(2,999G/T)であり、また、南洋材専用の第一船に正伸丸(2,984G/T)が、翌年11月に竣工し、以後IS-6型シリーズが北洋材(*41)、南洋材(*42)の木材運搬を中心とする近海船市場に進出した。昭和40年代は住宅建築ブームなどによる木材需要の活発化から、インドネシア材を中心に南洋材の需要が急増した。このような状況の中で、県内海運業は、船腹過剰(*43)により内航船建造が難しくなったことから運航コストが割安で高収入が期待できる近海船へ積極的に進出し始めた。この県内船主の近海進出に大きく貢献したのが、ISシリーズのような近海同型船の建造による船価の低減と大量受注体制であり、昭和44年には、県内全建造量の6割強が近海船で占められるに至った。

 (オ)積極経営

 **さんは、「内航船のときもそうですが、近海船のときにも、わたしの方(造船所)で、あらかじめ用船先(*44)と用船料(チャーター料)について交渉をした後、地元の船主さんに、この型の船を造ったら船の建造費はいくらで、用船料はいくらだ。これだけの収益があるが船を造りませんかと積極的に勧めていた。
 当時は、経済が成長している時で、船がいくらでもいる時代だったので、銀行も、用船先があるからといえば、融資を了解してくれていた。大手の造船所では6千トンや1万トンみたいな船は造らず、6万から10万トン、さらに昭和40年代後半になると、20万トン、50万トンのタンカーを造っていたわけですから。」と高度経済成長期の様子を話される。

 (カ)外航船(*45)への進出

 昭和40年代後半になって近海船が船腹過剰となると、外航大型船を目指すようになった。今治造船は、香川県丸亀市に適地を見い出し、昭和45年(1970年)、パナマックス(パナマ運河を通れる最大船型68,000D/W)を造ろうということで進出した。昭和48年、飯野海運から8万9千トンのタンカー4隻の一括受注があった。**さんは、「注文する方も、注文を受ける方もそんな大きなものをね。当時50億円ぐらいの船で4隻というと200億円になるんですよ。『契約をした後、船主さんの本当に気に入るような船がつくれなかったり、2~3年のうちにインフレにでもなったら。』と思うと、この大きな契約の当時者としての責任の重さを強く感じた。幸い安い船価で請け負っていたのでキャンセルもなしに飯野海運さんが受け取ってくれた。
 呉でタライみたいな巨大船に驚いてから14年後に、同じ大きさの船を造っているわけです。夢でも見ないことが現実におこる。夢で見る範囲も限られているということですかね。丸亀工場ができ、4隻のタンカーを造ったころが我々にとっても大きな別れ目だった。」と語られる。
 昭和48年暮れのオイルショックに端を発する世界的な船腹過剰と、円高による戦後初めての本格的な造船不況により、昭和52、3年には、中小造船所の倒産が続出した。昭和52年の波止浜造船の倒産も、地元に大きな衝撃を与えた。業界全体の操業の規制と設備の削減がすすめられ、昭和54年に中小造船所5社(西(にし)造船所、大浦(おおうら)船渠、渡辺(わたなべ)造船、高知の新山本(しんやまもと)造船、今井(いまい)造船)が、今治造船ヘグループ入りした。さらに昭和58年岩城(いわぎ)造船が傘下に入り、昭和61年(1986年)に三原にある幸陽船渠の全株式を取得し、これらグループの建造能力を合わせると約38万CGT(設備能力を示す単位で標準貨物換算トン数)となり、今治造船グループは、日本有数の建造能力を持つことになった。
 現在は、これらグループの造船所を使って様々な大きさの船を効率的に建造しており、営業や資材調達の面でもそのメリットを生かしている。

 (キ)世界を舞台に

 「造船業界は、国際マーケットの中で韓国などの台頭や為替の変動をもろに受けて、大変厳しい立場に立たされているが、国際化という点では、今は最先端の産業だと思える。為替からいったら円高になっただけ日本人の賃金は上がったことになる。日本にはロボットなどの技術が進んでおり、それを利用する以外にはない。国際的な商品である船造りには、国際化と情報化が大切だ。」
 今治造船は、昭和59年に西条市臨海部に60万haの用地を入手、平成7年近代的な工場を建設した(一部稼動開始)。大規模ブロックを一括生産してグループ全体に供給し、これをドック(*46)や船台で組立てて、工程の簡略化、スピード化、省力化を図りコストダウンを目指すものであった。
 「これから50年造船業を続けようと思ったら、これから造船所を始めるというところに立たなければならない。女の子がコンピュータのボタンを押したら鉄板の溶接や切断ができる。そのような工場でないと安泰でない。造船所もやがては、空調した部屋でロボットを動かす時代になる。」と、時代の先端を見つめて、船造りが進められている。

 イ より良い船をめざして

 **さん(今治市高部 昭和7年生まれ 63歳)
 **さんは、今治造船の再スタートの翌年、昭和31年(1956年)の入社である。内航船から近海船への進出の時期、近海船のヒット商品IS-6型の設計を担当した。

 (ア)地元の船主さんとともに

 今治、波方、伯方地区に多くの船主がいることは従来からよく知られている。そうした地元の船主とのつながりを最もうまく生かして成長してきたのが、今治地区の造船所であると言われている。
 **さんは、「今治地区の造船所が成長した背景には、地元の船主とのつながりを大切にしてきたことがある。設計にあたって何よりも、『地元の船主さんと共に』を合言葉にしてきた。それは生きた情報が入って来ると言うことでもあった。
 地元のたくさんの船主さんは、今でこそ船会社の社長さんで船に乗ってないが、昭和30年代から40年代には船長さんとして、実際に自分の船を運航しているので、体験した者でないと分からない細かいところまで船のことをよく知っている。そう言う人が身近にいてくれるので、経験と言うか体験と言うか、生きた生の声を頻繁(ひんぱん)に聞くことができた。そんないい環境にあった。
 若い時には、船ができて、ああしたらよかったかなと疑問に思うと、その船の処女航海の時に、乗船してみたりもした。そして、実際に荷役をするところなどをこの目で見ると、ここはこう改造しなければいけないという、実際と頭で考えていたこととが違うことが相当あった。理論だけが優先してもいけない。現場の体験を兼ね備えなければと、常に自分に言い聞かせて今までやってきた。」と話される。

 (イ)右手に鉛筆、左手に算盤(そろばん)

 「右手の鉛筆で図面を書く時に、よかろう高かろうだけではいけない。常に左手に算盤を持ってやらなければとてもやれない。そう言うコスト意識を、常に念頭に置いて取り組んできたつもりです。船主さんが何を本当に求めているか。良い船とは、結果的にようけ(たくさん)儲(もう)ける船、荷物が1tでも多く積める船だと思う。総トン数が同じでもより多く荷物が積める。それが設計の使命だ。例えば、エンジンルームを他社の船より狭くして船艙(せんそう)を広くする。それにはいろいろ苦労がある。それを、一つ一つ解消していったということです。何んでもないことのようだが、専門的に設計をしている人には過去にとらわれて、なかなかそうはいかない。船の長さが決められたらエンジンルームは何%ぐらい取るもんだ、などの設計数値が一杯あって、ましてや、造船と言うのは経験工学だと言われる。その気持ちを打破してかからなければいけない。」と、固定した考え方にとらわれない取り組みを、**さんは強調する。

 (ウ)ずんぐりむっくり船

 「昭和30年代後半からの近海船は、外材を積んで帰る船だったから、ラワン材をたくさん積める船が優秀な船だとされました。そして、乙種(*47)の船長免許で乗れる船で、少しでもたくさん積める船を、みんなで競って設計して勝ち残ったという感じです。
 木材運搬船は、船艙の中だけでなく、デッキ(甲板)の上にも木材を積んで運航するのが特徴です。
 当時は、船の幅の3分の1の高さしかデッキの上に積めないのが常識になっていたが、『そんなことがあるものか、もっと高く積めるはずだ。』それにはどうしたらいいのか。ということで、挑戦したわけです。
 長さと幅や、深さについては、長い間の蓄積を元にした設計基準があって、一定の長さに対して必要以上に幅を広げたら、スピードが落ちるなど弊害が確かにあります。
 しかし、デッキの上により多く積むには、長さに対して幅を今までより広くとらなければいけない。そんなずんぐりした幅の広い船で、スピードを出すにはどのような船型にしたらよいか。長い間蓄積された設計データと違うことをするわけですから、言葉ではいえない苦労がようけありました。
 当時、『ずんぐりしたそんな船でスピードが出たりはしない。』と大手の船会社の方から言われていたが、わたしらは、そのような船型が経済的だと言って研究を続け、結局造船業界も、傾向としてはそうなってきました。船は長いほど造船コストがよけいにかかる。同じ容積でも正方形のものが一番安くできるわけです。」

 (エ)同型船効果

 **さんは「特に、近海船を建造する時に、同型船効果をねらおうという経営的意見が出てきましてね。自動車産業のように一年中同じ船を造るのと、船型の違う船を1隻1隻造るのでは、相当効率が違うだろうということでした。同型船を10隻とか20隻とかまとまった注文をもらって、同型船効果を十分に発揮するには、船の性能が他社の船に負けない船でないといけない。まとまった注文が取れれば、たしかに材料の買い付けでも、1隻分買うより10隻分まとめて買えば安くなる。一人の船主さんが普通は1隻ずつしか注文しないんだから、船の性能が良くなくて、みんなが注文してくれなかったら、同型船効果は発揮できないわけです。IS-6型シリーズは、船の安定性が非常に高く、スピードが出て、荷物はたくさん積めるので、近海船のヒット商品となりました。船価が安いとほめてもらったこともありました。」と同型船効果を発揮するための並々でない苦心を話される。

 ウ おう盛な研究心。

 **さん(今治市石井 昭和8年生まれ 62歳)
 『日本の内航海運(⑱)』によると、朝鮮戦争、スエズ動乱(昭和31年〔1956年〕)を経て、阪神、京浜のオーナーオペレーターは近海から遠洋へと着々と船隊を拡充し国際舞台に復帰したが、その後を受けて、地元船主による小型鋼船が内航から、近海・遠洋へと進出した。高度成長期初期の我が国産業界の物流合理化の要求にこたえて、新しく彼ら独特の新造船を整備し内航海運の主力になっていたのである。これには、溶接技術の進歩により、従来の木船の造船所でも容易に鋼船が建造できるようになったことなどもあり、身近な所で、安い船価で次々に新しい型の船が建造されたという背景がある。

 (ア)リベットから溶接へ

 **さんは、「わたしらが鋼船の建造を始めたころから、溶接船が造られるようになった。それまではリベットを打っていた(鉄板と鉄板、鉄板と鉄骨をつぎ合わすのに、焼いた鋲(びょう)を挿入して両方からつぶす。)が、大変な手間と時間がかかった。穴をあけてはつぶし、しかも重なった部分は鉄が2倍いる。リベットから溶接になって、鋼船が簡単にできだした。」と、地方の造船所でも鋼船建造が可能になった技術的改革について話される。
 今治造船の再スタートしたころの様子を『今治造船史(⑮)』は、次のように記している。
 「船台は、499トン型が5基あったが、レールを敷いたコロの船台で設備らしい設備もなく、クレーンはまだなかったから、鉄板を移動するのも10人か15人がかかって人力で動かした。鉄板を曲げるのもハンマーでたたいて曲げた。パイプも現在なら油圧で簡単に曲げるが、当時は中に砂を詰めて(砂を詰めないといびつに曲がる)、真っ赤に焼き人力で曲げた。」
 **さんは、今治造船が再スタートする2か月前、昭和30年(1955年)2月に檜垣造船に入社している。ちょうど会社が鋼船準備を進めていたころで、**さんと出会って「鋼船になったら溶接やガス(CO₂)取扱いの資格をもっているので手伝ってあげます。」と言ったのが入社のきっかけだった。
 **さんは、溶接技術の変遷について、「当初は、被覆溶接棒(ひふくようせつぼう)という40cmぐらいの棒で、溶接をしていた。昭和54年(1979年)ころまで続いたですね。それが被覆からガス(CO₂)で空気を遮断するようになり、溶接棒もワイヤーとなった。これで、溶接の自動化が大幅にすすんだ。」

 (イ)連続建造に挑戦

 「昭和40年代に、連続建造やったらどうかと意見があり、3グループぐらいに分かれて九州、中国、東京方面に視察に行った。東京では石川島播磨重工業が連続建造(*48)していたが、工場見学はできなかった。帰りの船の中では議論がはずんで、寝る間がなかった。会社に帰ってからも議論をつくし、結局、あらゆるものを一つのメーカーに注文して連続建造したらよいとの提案をとりまとめた。」
 連続建造は、若さで積極的に挑戦した仕事だった。

 (ウ)設計と現場のコンビネーション

 「設計の見落としは、現場が気付く。現場の見落としは設計が気付く。そのコンビネーションがあったから、故障の少ない船ができた。木材運搬船が1本デリック(荷役装置)に変わった時にも、わたしのところでは大きめ、大きめに造らせたためか、他社のものは海外に行って、木材を船積みしていてデリックが曲がったが、今治造船のは曲がらんと言うことで評判になった。大き目、大き目に造らせたことが効を奏した。」

 (エ)鉄は生き物

 「鉄は、焼いて冷却すれば、収縮する性質がある。この性質を知って建造しないと、長さ、幅、深さが計画より小さくなる。建造して1,000分の1は収縮してもよいと言う内規があるが、それも、『収縮させるな。逆に1,000分の1大きく造れ。』という発想が現場にもあり、収縮データによる許容量一杯の船を造り始めたのが、昭和40年(1965年)ころからである。
 ブロック建造法にしても、昭和30年代の、内航船のころにはブロックを自分たちで造っていたが、溶接技術が確立した結果船をいくつかの部分にわけて他の場所でつくっておき、船台上で組み立てる方法が普及した。
 データーを取るのは好きだった。自分が溶接して、テストピースを造って、いろいろ実験をした。なんぼ(いくら)欠陥(溶接の不良)部分を残したらどれだけの強さしかないとか、端に残すのと、真ん中に残すのと、どんなに違うかとか、そんな溶接の強度テストをしていた。
 懇意にしていた溶接棒などを作っている会社の社長さんから、『新しい溶接棒(*49)ができた。使ってみて意見をくれ』と言われ、即、意見を言ったりもしていた。
 こんな好奇心をばねに、溶接部のレントゲン写真を撮って欠陥の手直しについて、議論したのを今も覚えている。

 (オ)わたしは、よろずやよ

 **さんは、「失敗もあるが、人がしないこともして、溶接工でありながら、エンジンのことも勉強した。公試運転(完成した船を実際に走らせて最終的にチェックする)を最大限利用して、エンジンルームにつきっきりで、わたしが根掘り葉掘り聞くので、『あんたエンジニアか』と言われ、『わたしはよろずやよ。』と言い返したりしたこともあった。また、大阪などでの展示会で勉強して帰って、曲げやひずみのとり方で議論したりもした。わたしらの年代だったら、設計のことも溶接のことも、浅く広くではあるが知識をもっている。その上に専門家がいるからうまくコンビネーションができている。わたしらが、今まで伸びてこられたのはそれだろうと思う。」
 船に精通した人々の、船造りへの思いが伝わってくる。


*35 : 波止場と本船の間を往復して旅客、貨物を運ぶ小船。
*36 : 1952年韓国の大統領李承晩が発した海洋主権宣言により韓国周辺の公海に設定した海域線。
*37 : 船に積載しうる最大重量を表す数字。積載(積み)トンともいい、貨物船関係に用いられる。D/W(Dead Weight
  Tonnage)と略記されることもある。
*38:この米国NBCが「大型船の時代」が来ると読んで、呉のこの施設に着目し昭和27年(1952年)から大型船の建造を始
  めた。ここで、米国流の大量生産技術が吸収され、日本の造船業の発展の要因となったと言われる。
*39 : 通常3,000トン未満の船舶で国内港間の輸送に従事。
*40 : 近海区域を航行する船舶。近海区域は、東経94度(マレー半島西)と175度(日付変更線の西)、北緯63度(カム
  チャッカ半島北)と南緯11度(ジャワ島)の線によって囲まれた海域。
*41 : ロシア極東地域からの輸入材の総称。
*42 : 熱帯地域の国々に産出する木材。
*43 : 輸送力として船を表わし、それが、過剰である。
*44 : 船主(オーナー owner)は、運送業者(オペレーター operator)と船舶の使用について用船契約を結ぶ。用船とは、
  他人の船を自分の運送のために一定の約束で借りることをいう。船主で運送業を営む者はオーナーオペレーターと呼ばれ
  る。
*45 : 通常は3,000総トン以上の船舶で、海外輸送に従事している。
*46:dock、海面より低い大きな堀割りの三方はコンクリートで固め、開閉自由な扉で海水を入れたり出したりする。船の建
  造や修理が終わったら海水を入れて浮かべて海へ出す。
*47:総トン数が3,000トンを超えると甲種船長免許が必要。これ未満は乙種船長免許でよい。
*48 : 手間のかかる船尾部分だけを、建造中のドック内のあいている場所で先行して建造しておく。
*49 : 金属の溶接のとき、母材とともにとけて、接合を助ける金属棒。

「用船契約」

「用船契約」