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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)船御幸の日

 **さん(新居浜市港町   大正9年生まれ 75歳)
 **さん(新居浜市中須賀町 昭和10年生まれ 60歳)

 平成7年10月18日、新居浜太鼓祭りの最終日、豊漁と海上安全を祈願して、多喜浜(たきはま)の新居浜東港で、川東地区の船御幸が行われた。港内を一周する2台の台船上では、川東地区の太鼓台7台(楠崎(くっさき)、又野、田之上、松神子(まつみこ)、阿島(あしま)、東浜、多喜浜新田)のかき比べが披露(ひろう)された。色とりどりの法被(はっぴ)姿のかき手が「ソーリャ、ソーリャ」のかけ声も勇ましく、金糸、銀糸に彩られた太鼓台を差し上げると、そのたびに、岸壁からは感嘆の声と大きな拍手が起こり、約3万人の観衆は勇壮華麗な海上絵巻に酔いしれた(口絵参照)。
 太鼓祭りの船御幸は、川西地区で江戸時代から隔年実施され、伝統行事化しているが、川東地区では、東港がほぼ完成した一昨年から始まったもので、今回が二度目である。
 新居浜太鼓台の起源については定説がないが、「太鼓」、「神輿(みこし)太鼓」の文字が文献に登場するのは、江戸時代後期の文政(ぶんせい)年間(1818~29年)のことである。文政10年(1827年)には、西条藩の寺社奉行鷲見(すみ)八左衛門が、祭礼行列に対して、「とりわけ神輿太鼓は大作りな織物を用いるなど心得違いであり、今後は華美な飾りは一切差し止める」旨の触れを出している。また、船御幸については、一宮(いっく)神社の祭礼で、神輿の御幸が、初日金子村、翌日新居浜浦となっていたのを、享保(きょうほう)17年(1732年)新居浜浦から、御幸の先後を両村交互にするよう申し出があり、以来、新居浜浦が先御幸の年には、大江海岸から神輿、台車(だんじり)、太鼓を船で中須賀海岸に渡すことになったのが起源とされている。両村が交互に先御幸を行うという制度はやがて消滅したが、船御幸を隔年実施するという習わしは今日まで受け継がれてきた。また、その模様については、『西條誌』の天保13年(1842年)の項に、「この浦(新居浜浦)の氏神は、金子村の一宮明神なり。9月19日祭礼の時、隔年に船御幸あり。これは、神輿を始め、鉾(ほこ)・槍(やり)・鳥毛槍・幟(のぼり)にいたるまで、一切供奉の器杖(きじょう)、及び台尻(だんじり)、神輿太鼓というものなどを、大江橋の辺より舟に載せ、浜手を漕ぎ廻す。陸より望みてはなはだ見事なり。台尻・神輿太鼓、金子村と合わせて十七あり。」と記載されている(①)。
 昭和以降の船御幸について、大江で生まれ育ち、自治会長として長く太鼓台の世話をしてきた**さんは、「わたしが子供のころは、大きな『しばり船(しばり網漁の船。長さ約10mで、4丁艪(ろ)で漕(こ)ぐ。)』を2そうくっつけて、それに太鼓(*3)を1台載せて、両方の船を8丁の艪で漕いでいた。昭和の始めころの太鼓は、まだ現在のものほど豪華ではなかったが、それでも、船は喫水(きっすい)が低いので、太鼓が海に映えて、それは見事だった。昭和30年代の始めころになると、船は『だるま船(荷物を運ぶ、幅広の大型はしけ)』に替わった。その後、フェリーボートが利用された時期もあったが、昭和49年(1974年)現在の台船が登場した。」と話す。
 また、中須賀で長く太鼓台とかかわってきた**さんも、「川西地区の船御幸は、大江浜から中須賀海岸までのコースで行われることになっている。8台の太鼓(大江、東町、久保田、江口、西町、中須賀、西原、新田)が2隻の台船に分乗する。台船1台に太鼓4台とかき手が乗って、かき比べをする。少々、海が荒れたくらいで、中止になった記憶はない。」と話す。


*3:新居浜では、一般に、「太鼓台」のことを単に「太鼓」と呼ぶので、以下、聞き取りの部分では、「太鼓」と記すことに
  する。