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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)自転車がかけ抜けたまち

 **さん(新居浜市新田町 昭和3年生まれ 67歳)

 ア 入社したころ

 「わたしは、昭和24年(1949年)に住友化学工業に入社した。当時、会社は、新居浜製造所と菊本製造所に分かれており、わたしは新居浜製造所に配属された。住友化学は、現在では、ファインケミカル(精密化学)とよばれる分野を中心に、さまざまな工業製品を生産しているが、そのころは、主に硫安(硫酸アンモニウム)などの肥料を製造していた。当時は、全国的にまだまだ衣食住に事欠いていた時代であったので、主食である米の増産に不可欠な肥料については、政府も力を入れており、それに応(こた)える形で企業も従業員も増産に努めていた(昭和28年〔1953年〕ころになると硫安が過剰気味になったため、これを機に住友化学は、経営の多角化を進めるようになった。(⑨))。
 わたしが入社したころの通勤手段は、主として自転車だった。しかし、そのころの自転車は、ほとんど戦時中の老朽化したものであり、修理や整備をしても、悪路や長距離を走ると、パンクや故障をすることが多かった。そのため、主な通勤路沿いには自転車店が店を出し、けっこう繁盛していた。わたしは、入社のときに、父から新車を買ってもらったが、値段は、だいだい月給の5、6か月分に当たり、目が飛び出るほど高かった。また、新車を購入するには順番を待たねばならず、そんなこともあり、会社でも新車に乗っているものは珍しかった。
 昭和30年代に入ると、産業界も復興し、所得も上がり、生活に潤いがみられるようになった。自転車も、比較的簡単に手に入るようになり、便利な乗り物として各家庭に浸透し、新居浜市内でも自転車で買物に行く主婦の姿などを多く見かけるようになった。通勤の自転車も新車が増え、新居浜の街を銀輪を輝かせてさっそうと通勤する光景が、普及し始めたテレビで放映されたりして、新居浜は『自転車がかけ抜けるまち』として有名になった。」

 イ 自転車通勤花盛り

 「わたしが勤めていた住友化学は、すぐ隣に住友重機械工業があり、両方を合わせると、通勤者の数は数万人に達した。そのほとんどが自転車通勤なので、工場へ向かう道路の通勤ラッシュはすごかった。通勤の時間帯はせいぜい朝夕30分くらいだが、その間、自転車の列が、帯状に連なって道幅いっぱいになって流れていく様は、波が押し寄せてくるようで壮観だった。
 わたしも役職上、新須賀町にある会社の研修所に行くことが多かったが、通勤時間帯と重なると、ラッシュの流れと逆方向に進まねばならず、たいへん苦労した。昭和通り(かつては、両側の歩道もなく、現在よりも道幅は広かった。)などは、自転車が道幅いっぱいになって、かなりのスピードで走ってくるので、とても横切ることはできなかった。そこで、遠回りになっても、敷島通りや新居浜工業高校の横など、とにかく通りやすい道を選ぶように心がけていた。自転車とぶつかってもたいしたけがはしないだろうが、とにかく、ものすごい数の自転車に圧倒されて、怖ささえ感じ、いつも遠回りをした。ペキン(北京)の自転車通勤の様子がよくテレビで放映されるが、あれよりもっと激しい状況で、巨大な自転車の群れが、工場へ、工場へとなだれ込んでいった、というのが実態だった。
 帰りは、朝と逆の流れになる。退社時刻の午後4時を過ぎると、自転車が正門の前へずらりと並び、タイムカードを押すやいなや、わ一っとあふれ出てきた。わたしなどは、混雑をさけて少し間をおいて会社を出ていたが、それでもたくさんあるタイムカード押し場付近は、いつも自転車がひしめいていた。
 夜も、夜勤の出勤時間帯になると、わたしの家の前の道なども自転車のライトでパーと明るくなるので、『ああ、夜勤の者が来よるな。』ということがすぐわかった。昔は、今ほど家がなく、道が田んぼの中を走っていたので、よけいライトが目立った。
 自転車通勤の範囲も相当広かった。市内はもちろんのこと、東は宇摩郡土居町から、西は西条市や周桑(しゅうそう)郡小松町辺りまで通勤圏だったように思う。」

 ウ 自動車の時代

 「昭和40年代の前半くらいまでが自転車の全盛期だったように思う。その後、単車からやがては自動車に変化し、昭和50年代には完全に自動車の時代になった。しかし、自動車通勤は、むだが多いと思う。自転車だったら、簡単にどこへでも置けたが、自動車になって、会社の敷地内や周辺に相当広い駐車場が必要になった。通勤時間帯などは、道路が渋滞して周辺の人も困っている。ただ、今は、自転車通勤全盛のころと比べると、工場に入る人の数が、かなり減ったので、何とかなっているが、昔と同じ人数が、今みたいに自動車通勤をすれば、たいへんなことになっていただろう。考えてみると、高度経済成長期以降、『スクラップ・アンド・ビルド(効率的でない施設を廃棄し、効率のよい施設を新設すること)』方式のもとで、工場が大きくなり、オートメーション化が進むたびに、加速度的に人が減り、それと反比例するように、自動車が増えていったように思う。
 排ガス公害、駐車スペース、道路の渋滞、そんなことを考えると、あまり遠くなければ、自転車は理想の通勤手段ではないだろうか。マイカーをやめて、もっと自転車通勤が増えれば、健康にも、環境にもよくなるのではないかと思う。
 わたしは、退職まで自転車通勤を通した。そのため、今でも自転車には愛着があり、どこに行くのも自転車を愛用している。冬でも、自転車であれば、少し走ると暖かくなるし、わたしにとっては、便利な乗り物だ。」

 エ 潤いのあるまちをめざして

 「わたしは、現在、若宮公民館長をさせてもらい、豊かで、明るい、潤いのあるまちづくりを目指して、公民館事業に取り組んでいる。
 わたしの地域は、工場地帯と隣接しており、以前は、若い人たちがたくさん住んでいて、活気と潤いに満ちていた。ところが、戦後50年を経た現在では、社宅の一部撤去や道路の拡張による家屋の移転、マイカー通勤の普及による郊外への転居などが原因で、大幅に人口が減少してきている。
 情報化社会が進み、高速交通網が整備されるにつれて、若い人たちの都会への流出はますます激しくなってきているが、そうした状況の中での、新しいまちづくりはどうすればいいのか、そんなことを、市ともども考えている。
 今、ここにくらしているわたしたちはもちろんのこと、新居浜に一度来た人が、二度、三度と来てみたい、住んでみたいと思う魅力のあるまちづくりを目指して頑張っている。」

写真2-2-9 通勤路の一つ、病院前商店街

写真2-2-9 通勤路の一つ、病院前商店街

入口には、県下でも珍しい自転車並進可(通勤時間帯に限る)の標識がみられる。現在も、通勤時間帯には、自転車と単車でいっぱいになる。平成8年1月撮影