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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)四阪島のくらし

 ア 島通いの船

 **さん(新居浜市宇高町 大正13年生まれ 71歳)
 **さんは、四阪島航路の船長を長く勤め、燧灘(ひうちなだ)を自分の庭のように熟知している。

 (ア)水を運ぶ

 「わたしは、昭和15年(1940年)7月、住友鉱業に入社した。以来、昭和48年(1973年)に別子銅山が閉山して船舶部門がなくなったため、惣開商運(そうびらきしょううん)という住友出資の会社に移りはしたが、昭和57年(1982年)に退職するまで、住友の船に乗り続けた。
 わたしが四阪島航路に乗るようになったのは昭和45年(1970年)で、はじめは『日進(にっしん)丸』(総トン数349.1トン)という水運搬船に乗った。この船が運ぶ水の量は、一度に約350tで、島の使用量にもよるが、1日平均2航海をした。以前就航していた木造の『美(み)の浦(うら)丸(*18)』は、110tほどの水タンクだったので桟橋から揚げていたそうだが、船が大きくなってからは、専用の水揚げ場を設けてそちらに着けるようにした。水を揚げるのに約1時間かかった。貯水タンクは、工場と桟橋近くの水船専用の水揚げ場に一つずつあり、そこから山頂のタンクに移されて各戸に配られた。
 船が四阪島に着くと、水タンクの目盛を見て『今日は、よう使っとるな。もう1航海せんといかん。』とか、『おっ、今日は2航海ですむぞ。』などと一喜一憂した。工場の方で頂上のタンクへ水を揚げるのを忘れていて、最初の航海では目盛が一杯で『今日は、楽ぞ。』と喜んでいたら、次に来たときには、頂上のタンクに水を揚げたため目盛が一気に減っていてガクッときたこともあった。
 運搬する水は飲料水だが、工場用水にも兼用している。昔は水はきびしかったらしいが、わたしのころには制限なく使えるようになっていた。昔だと2航海で500tまでだったのが、徐々に増えて1,000t。 足りなくなったら臨時の水船も出るし、多いときには1,500tくらい使ったのではないかと思う。
 四阪島航路の大きな役割が、水の運搬であったことは間違いない。」

 (イ)客を運ぶ

 「客船には昭和48年(1973年)から乗り始めた。最初に乗ったのは『みのしま』(*19)で、昭和55年3月、現『みのしま』(*20)(写真2-2-13参照)が就航してからは、船を降りるまで、これに乗っていた。
 わたしが客船に乗り出したころには、四阪を起点に新居浜へ5航海、今治へ3航海の、計8航海になっていた(*21)(図表2-2-13参照)。四阪島は、今治と新居浜のちょうど真ん中で、どちらへも約50分の航海であるが、1日8航海というと、朝は7時が始発、最終便は四阪着が夜の10時50分で、わたしらにはあまりありがたくなかった。昭和52年(1977年)、島を引き揚げて通勤になってからは、新居浜を起点に3航海になった(現在は、4航海。図表2-2-12参照)。
 四阪島を基地にしていたときは、乗組員の多くは社宅住まいであったが、わたしは新居浜に家があったので、2日に1回くらいの割合で船に泊まった。最終便で島に着いて船の掃除をしたりしていると、すぐに12時になる。朝は7時が始発だから、6時ころには起きないといけないが、わたしは16歳から船に乗っていたので、眠れないというようなことはなかった。食事は担当者が作ってくれたが、最後は弁当になった。船の利用客はほとんどが島民だった。夏になると、四阪島の海水浴場に来る人もいたが、平常は、何か行事でもなければ、それほど多くはなかった。新居浜に行く人は買物が目的で、今治の方はアルバイト(パート)に行く人が多かったように思う。また、給料日直後は島から出る人が増え、日数がたつにつれてだんだん減ってきた。日曜日には、家族連れもたくさん出て行った。家族連れは、新居浜よりは今治へ出ることの方が多かったように思う。たぶん、松山の方へ行ったのだろう。
 今でもよく覚えているが、子連れの家族が転勤で島を離れる時、船が桟橋を離れてはじめて、子供が桟橋に取り残されていることがわかり、『あっ、子供がおらん。』と言うので、あわてて引き返したことがあった。見送りの人たちが『かわいい、かわいい。』と、子供を抱き回していたのを、親も気が付いてなかったらしく、『おまえ、しゃんとせえよ。』とみんなから冷やかされていた。そんな笑い話みたいなこともあった。長く船に乗っていると、いろいろなことがあったが、いい思い出の方が多かったように思う。
 いろいろな人が、いろいろな思いを抱いて、海を渡ったということなんじゃろうね。」

 (ウ)北東風(きたごち)の吹く海

 「四阪島航路は、島影の少ない燧灘(ひうちなだ)を航海するので、風の影響を受けやすいという一面があった。わたしら慣れた者にとっては、自分の庭みたいなもので、あまりむずかしさは感じなかったが、わたしらの船がドック入りしたときなどにやってくる代船の人などは、『やっぱし(やはり)波が高いな。ここはやれんわ。はよ(早く)出て来て、代わってや。』とよく言っていた。この航路で注意するのは北東風と西風で、なかでも北東風は、ほとんど真横から風を受けるので、しけのときは特に波が高くなるところがあった。わたしらであれば、その辺りはもう飲み込めているので、『このくらいの風だったら、あそことあそこが波が高い。』とか、『ここさえ乗り切ったら、大丈夫だ。』というのがわかるが、よそからきている人は、そこのところがわからないので、たいへんだったようだ。
 四阪島が基地になっていたときは、一般のお客さんを運ぶので、あまり無茶なことはできなかった。また、『今日は、危ないな。』と思うときは、船を出さなくてもあまり支障はなかった。ところが、島が通勤体制になると、工場を止めたらいかんという気持ちから、少しくらいのしけだったら、『ちょっと無理かな。』と思っても船を出した。島へ上がったあと、船に酔ってしばらく仕事にならなかった人もいたそうだ。同じ船に乗っていた者と会うと、『あのころはようやったのう。』と笑っている。
 住友のころにはたくさん船がいて、毎年若い船員が入ってきたが、昭和48年(1973年)ころからは、若い人は入らなくなった。惣開商運に移行したとき、そこに残ったのは中高年者を中心にしたごくわずかな人数で、若い人は大部分が四国中央フェリーの方へ行った。会社も船舶部を閉鎖するにあたって、その辺りはきちっとしたようだ。
 退職は昭和57年(1982年)12月末だったが、休暇も残っていたので、12月20日ころに船を降りた。船には愛着があったので、最後の航海では『ああ、もうこれで終わりかな。』と思うと、何となく妙な気持ちになった。退職後は四阪島には行っていない。船は浜に行くと見えるので、『あれにもよく乗った。』と懐かしく思う。同僚に会うと、今でも昔のことをいろいろと話す。住友の船は、船でもいっしよ、家(社宅)でもいっしょというところがあり、みんな家族みたいなものだった。若いころから住友の船に乗って、九州に行ったり、大阪に行ったりしているので、あれもこれも、いろいろ思い出がある。
 職場として海を見た場合、なぎの時などは、『これはええ商売じゃなあ。』と思うが、ひとたび海がしけると、『この商売ももうやめないかんなあ。』という気になる。いくら慣れた海でも、予測ができないことがあるし、海というのはやはり怖いですよ。」

 イ 一島一家

 **さん(新居浜市坂井町 昭和7年生まれ 63歳)
 **さんは四阪島での生活が長く、四阪工場勤務経験者のOB会である「一島一家の会」の第2代会長を務めている。

 (ア)製錬所とともに

 「四阪島で生まれ育って、昭和22年(1947年)四阪工場(四阪島製錬所)に入社した。同期に学校を出た者のうち、9名が四阪工場に入った。わたしは、入社後、四阪にあった会社の青年学校の本科へ入ったので、入社したとはいえ、朝から晩まで一日中勉強の毎日だった。そこに4年間通う予定だったが、1年で制度が廃止になってしまった。入社した年は、学校に行きながら1か月に460何円か給料をもらった。これは実際に働いている人と同じ額だったと思う。
 当時の四阪工場は、銅製錬が中心だった。鉱石は、別子や佐々連(さざれ)(伊予三島市)などから来ていたが、戦後まもないころには、採掘能力が十分に回復していなかったり、採掘機械そのものが今のように効率的でなかったことなどから、鉱石を確保するのがむずかしい時期があった。
 燃料とともに溶鉱炉に投入された鉱石は、下に落ちるにつれて温度が上がり(1,200℃から1,500℃くらい)、前床(まえどこ)という炉の下からどろどろに溶けた銅となって流れ出てくる。それを今度は転炉(てんろ)に入れ、もう一度濃縮させて純度が98%くらいの粗銅にして、新居浜の方に送るしくみになっていた(新居浜で粗銅中の不純物を取り出して、純度を99.9%くらいまで上げる。四阪で行っていた工程は、現在は東予工場で行われている。)。
 銅以外の不要物(鍰(からみ))は、明治38年(1905年)の操業以来、ずっと海岸に流してきた。大きな容器に溶けた鍰を入れて、電車で海岸まで運び海に流した。工場では、鍰を小さな器に入れ、その余熱で弁当を作ったりもした。米とおかずだけを持ってくると、昼ごろにはちゃんと暖かい弁当ができているので、ほとんどの人がそうしていた。昭和33年(1958年)鍰の水砕設備が完成した。これは鍰に水圧をかけて砂状にするもので、以後、鍰は肥料や造船所の錆び落としに利用されるようになり、海には流されなくなった。
 昭和27年(1952年)四阪工場でニッケル製錬が再開された。ニッケル製錬は、昭和14年(1939年)ニューカレドニアから鉱石を輸入して始められたが、戦争が激しくなって中止していたのを再開したもので、このころから社員が増え、島は一層活気を増してきた。ニッケルは西工場、銅は東工場と現場は離れていたが、交流は大いにあった。
 昭和38年(1963年)カナダのベスレヘム銅山からの第一船が入港した。鉱石を砕いて銅分だけを分離した、どろっとした団子状の精鉱で、銅を70~90%くらい含む高品位のもの(別子の銅はせいぜい20数%程度)であった。このころから輸入鉱が増えてきた。
 昭和46年(1971年)銅製錬の鉱石が量的に減少したので、日量を530tから210tに減産したあと、9月に炉を止めた(吹き卸(おろ)し)。この年、自熔炉を備えた東予工場が完成し、以後、銅製錬は四阪から急速に離れていくことになるが、このころには『銅精錬は四阪島ではしない。』ということは、かなりはっきりしてきていた。四阪工場の場合は、設備そのものの効率が悪く、国際競争力を備えた製錬所の理想からはほど遠いものであった。また、最新の設備を導入するにしても、島にはその余地がないというのが現実であった。ニッケルについても、鉱石を輸入して製錬するという時代はそう長くは続かないだろうという見通しがあり、いずれは新居浜の方へ移っていくだろうと、だれもが感じていた。
 昭和47年西工場のニッケル製錬をやめたのを契機に(ニッケルは46年末から東工場で操業)、11月、1年1か月ぶりに銅製錬を再開した。しかし、東予工場の操業開始以来、四阪には最低の人数だけしか残さない、という考え方でやっていたので、人員は東予工場に移り、次第に減ってきていた(図表2-2-14参照)。わたしは、総務の仕事をしていたので、この時期はたいへん忙しかった。
 昭和51年(1976年)12月3日閉炉式を挙行し、6日に炉の火を消して銅製錬は四阪から撤退した(実際には銅故滓処理が昭和53年まで続けられた。)。」

 (イ)社宅のくらし

 「四阪島では、みんな社宅住まいである。島のほとんどの社宅は、長屋形式の、いわゆるハーモニカ住宅であった。わたしが子供のころに住んでいた社宅は、1畳半ほどの炊事場が付いている1部屋だけのもので、このような社宅が、1棟に10戸くらい並び、棟の両端に共同トイレがあった。広さは6畳、8畳、10畳があり、家族が多くなれば広いところに入ることができた。戦後は、10畳の部屋を6畳と4畳にして個室や子供部屋を造るなどの改造が行われた。
 島では、いくつかの社宅を移り住んだ。美(み)の浦(うら)は、2畳の玄関と6畳二間、それに2畳くらいの炊事場と風呂と土間があり、そこに流しなどがあった。2階は6畳と4畳半でかなり広かった。吉備浦(きびうら)は平屋で、6畳二間と炊事場と2畳半くらいの子供部屋、それに風呂が付いていた。また、美(み)の上(かみ)は、ここも平屋で、2畳の玄関とその横に4畳半と8畳の座敷があり、裏に6畳と3畳の茶の間、それに風呂と板間の炊事場が付いていた。最後にいた美の浦は、2畳の玄関とあと8畳二間に4畳半、それに炊事場と風呂があった。
 島には、頂上と美の浦と中央クラブの3か所に大衆浴場があったので、風呂はほとんどの人がこれを利用した。それぞれの浴場に、50名くらい入れる大きな浴槽が二つずつあり、島の人がみんな入っても十分だった。毎日夕方4時ころから9時くらいまで入ることができ、もちろん無料だった。会社にも風呂があり、これは24時間わいていたので、夜勤の者などが利用した。
 四阪島の風呂についてはいろいろな話が残っている。戦後しばらくは海水をわかしていたので、風呂から出ると塩気で身体がじっとりとする。そこで、風呂に行くときは大きな容器に真水を入れて持っていき、それを浴槽の中につけておく。そうすると、出るころにはちょうどいい温度になっているので、それを上(あが)り湯に使っていた。容器は個人持ちなのでいろいろな形があった。」

 (ウ)水のない島

 「島は水が出なかったので、飲料水は全部新居浜から船で運び、ポンプアップして山頂のタンクに貯水したものを、各集落までパイプをひいて利用していた。戦前は水が汲(く)める場所や1日の水の量が決まっていた(図表2-2-16参照)が、わたしが就職したころには自由に使えるようになっており、昭和35年(1960年)ころからは、各戸に水が行くようになった。この時分には、客船を兼ねた水船が上にお客さんを乗せ、船の底には淡水を積んで新居浜と四阪島の間を往復していたので、量的にもかなり余裕が出てきていた。」
 **さんの先輩の**さん(「一島一家の会」初代会長)は、水汲みの厳しさを次のように記している(⑲)。
 「島の子供の日常任務に水汲みがあった。各社宅の要所々々に水渡し場があるが、遠い所は大変である。
 水汲みは登校前の早朝にやる。水渡し場のおいさんに木札を渡すと、数量に応じた『正』を記入してくれる。子供達は小さいから水汲桶の紐(ひも)を『さす(天秤棒)』に何重に巻いても、担って階段を下りる時は、桶の底がつかえて水がこぼれる。
 冬の寒風の朝など、まだ夜は明けきらず、こぼれた水で地面や鍰の階段は凍りついて危かった。雨の日に合羽を着ての水汲みもえらかった。また、遠い所では何度も休憩せねばならなかった。
 このようにして汲んできた水は、大きな水がめに溜めて、大切に使用したのである。」

 (エ)島の一年

 再び**さんの話。
 「島の一年は、元旦に山頂の大山祇神社に社員全員が集まって行われる新年式で始まった。続いて7日には、鎔鉑(ようはく)式があった。これは、前の年に別子銅山で掘り出された一番品位の高い鉱石(元日に新居浜で大鉑(たいはく)式をして奉納されたもの)を、四阪島で溶かす儀式である。溶鉱炉の挿入座(そうにゅうざ)で儀式をしたあと、鉱石をハンマーで小さく砕いて炉に入れていく。これが仕事始めの儀式となった。溶鉱炉の火は年中消えることはなかったが、この鎔鉑式が一つの区切りになっていた。
 5月になると、島の頂上にある大山祇神社のお祭りがあった。一年中で島が一番にぎわう時期である。5月1日は、宮窪から来た神主さんの手で神事が行われた。また、境内の相撲場では相撲大会が開催され、一日中にぎやかであった。参加者はそれぞれ化粧まわしをつけ、大関や関脇などの番付もあった。子供たちも参加した。3日には音楽会や歌舞伎があった。京都から歌舞伎が来て、劇場(娯楽場)で上演された。今は取り壊されて残っていないが、昔ながらの回り舞台や花道もあり、1,200人くらいは入ることができた。
 7月は安全週間があり、会社が催し物として展覧会を開いた。場所は中央クラブだったが、大変盛大だった。
 8月には、隣の明神島が海水浴場としてにぎわった。会社が、休憩所をつくってくれたり、船でピストン輸送してくれたり、便宜を図ってくれた。夏休み中だけだが、毎日たくさんの人が泳ぎに出かけた。よそから遊びに来た人を連れていくととても喜んでくれた。
 10月の地方祭には休暇をとって里へ帰る人が多かった。
 10月下旬か11月上旬には、島民運動会があった。これは全島民が参加するもので、非常ににぎやかであった。社宅対抗のような形で小中学生も参加した。当日は溶鉱炉も蒸し込んで(*22)しまい、それを管理する人が何名か交代で残るくらいで、会社はほとんど休業状態だった。
 こんなところが、島の一年だった。」

 (オ)映画と買物

 「映画は、月に2回くらい、昼と夜それぞれ1回ずつ上映された。フィルムは新居浜の映画館と契約して、次の館にフィルムを送る間を利用して借りてきた。映写技師は社員が務め、機械も最新式のものをそろえていた。もちろん無料だった。島で行う行事はすべて無料で、全部会社の負担だった。
 島には、昭和25年(1950年)前後まで、会社が直接経営する日用品販売所(のち生協となる。)があった。ほとんどすべての日用雑貨が安く販売されていたので、ここへ行けばほとんどのものが間に合った。昔は掛け売り帳で買って、給料から差し引く形をとっていたらしいが、戦後は全部現金売りになっていた。ここで働く人も全員社員だった。
 明神島には、会社の嘱託(しょくたく)という形でお百姓さんが野菜を栽培し、それを島に持ってきて売っていた。朝、桟橋近くの海岸で売っていたので、みんな買いに下りてきていた。今で言う朝市みたいなものができていたわけで、会社からの嘱託料とその売り上げが彼らの収入だった。このようにして会社は島の野菜を確保していた。また、魚は宮窪などの漁船が売りに来た。夜のうちに取った魚を、朝、直接船を着けて売っていたので、生きのいいのを買うことができた。漁師のおかみさんが、頭に乗せて社宅まで売りに来るので、下まで行かなくてもよかった。
 このように、島の中では手に入るものがほとんど同じなので、生活水準というか、生活の中身もほとんど同じだった。みんなが心安く行き来でき、島全体が一つの家族のように親しく付き合えたのは、そういう関係があったからかもしれない。」

 ウ 島の子供たち

 **さん(新居浜市中萩町 昭和5年生まれ 65歳)
 **さん(今治市桜井団地 大正4年生まれ 80歳)
 **さんと**さんは、四阪島小中学校に長く勤務し、島の子供たちを見つめてきた。

 (ア)別子学園四阪島小中学校のこと

 **さんの話。
 「わたしが四阪島の学校に勤めるようになったのは、昭和24年(1949年)である。当時は住友の私立校で、『別子学園四阪島小学校(中学校)』という名称だった。身分は住友の社員で、わたしは、『社員を命ず』『別子学園出向を命ず』『四阪島中学校教諭を命ず』(最初は中学校に赴任)という3枚の辞令をもらった。
 別子学園は、当時、四阪島と新居浜市の東平(とうなる)にあり、県下でも私立の小学校は珍しかった。住友がこうした学校を設立したのは、人里離れたところで安心して生活を続けてもらうためには、子女の教育に力を入れなければならないという背景があったものと思う。四阪島と東平の間では、山の先生は『山がいい。』と言い、島の先生は『島がよい。』と言うので、人事交流はあまりなかった。四阪島小学校はほとんどの時期が12学級だったが、団塊(だんかい)の世代のころに3学級の学年が3学年くらいできたことがあった。校長や養護教諭は小中学校兼務だったが、教頭は小中に一人ずついた。私立という関係からか、男子教員の方が多かった。待遇面では、住友の社員の給料体系がベースになっていたので、公立よりも優遇されていたが、公立のように男女が同じというわけにはいかなかった。
 学校の施設や設備も、よその学校に絶対負けないというのが会社の方針だったので、かなり恵まれていた。出張旅費なども潤沢(じゅんたく)で、島外の研究会などにも積極的に参加させてもらえ、教育関係の情報も遅れることなく入手できた。」

 (イ)保健室から見た子供たち

 **さんは、31年間養護教諭として保健室から島の子供たちを見守ってきた。
 「わたしは広島県の生まれですが、父の勤務の関係で4歳のころに四阪島に来ました。そこで小学校を卒業し、大阪の回生(かいせい)病院の看護婦養成学校に入りました。当時は島にはまだ桟橋がありませんでしたので、渡し舟に乗り沖合に泊まっている四阪丸という住友の大きな船に乗って尾道に渡り、そこから汽車に一晩揺られて大阪に行きました。わたしが大阪を選んだわけは、上級生がそこに行っていたからで、今考えると、なぜ新居浜の住友病院を受けずに大阪まで行ったのかと思います。やはり、都会に憧れていたのでしょうかね。その時分は職業婦人が少なかった時代で、みんな家で裁縫したりしていた時代ですから、看護婦でないといけないということでもなかったのですが、何か仕事を持ちたかった、職業婦人になりたかったということでしょう。病院は堂島にあり、橋を渡ると中之島でした。大阪のくらしは、島のくらしとは全然違いました。
 昭和17年(1942年)四阪島小学校に勤め始めました。当時は、子供たちにトラホーム(伝染性の慢性結膜炎(けつまくえん))という眼の病気が多く、住友の病院から先生が来て処置をしていたのですが、忙しくてたびたび来られないので、保健室を開いたようなわけです。最初は正式な部屋もなく、職員室の横に仮の保健室を作り、いろいろな医療器具を買いそろえましたが、それらの手配は、全部わたしがしました。校長先生からは、『**さんは、トラホームを治したらええんじゃ。』とよく言われましたが、わたしも眼科の専門ではありませんので、学校から出張させてもらい、新居浜の住友病院で1週間研修を受けたりしました。
 辞令は小学校でしたが、実際には中学校との兼務でした。やはり免状がないと都合が悪いということで、夏休みを利用して、1か月かかりましたが、松山の三津にあった師範学校で検定を受けて、免状をとりました。それから昭和48年(1973年)3月に退職するまでずっと四阪島で暮らしました。わたしが就職したころは、保健(養護)の先生は県下でも少なかったようでした。
 保健室が開かれたころには多かったトラホームも、マイシン(抗生物質の一種)などができてなくなりました。けがも多かったですね。大きいけがのときは、子供をおんぶして病院へ運んだり、家庭への連絡をしたりしました。学校は山の上にあり病院は下の方でしたので、坂と急な石段を何回も下ったり上ったりしなければならず、とてもたいへんでした。健康診断の時なども、わたしが一人で、眼科や内科や歯科の先生の教室を掛け持ちしながらやりました。今考えると、若かったし、慣れた仕事だからできたのだと思います。待遇はよかったと思います。給料面でも公立の先生よりもよかったようですし、研修ということであちこち出張させてもらいました。公立に移管したときはだいぶ給料が下がりました。宮窪町の教育委員会では、『先生の給料だったら、町では助役さんくらいの給料だ。』と笑われました。
 四阪島で給食が始まったのは、割合遅れていたように思います。昭和42年(1967年)に水族館(*23)のところに給食センターをこしらえて、完全給食が始まりました。それまでは、子供らはたいてい家に食べに帰っており、お弁当をもって来る子はおりませんでした。のちにはお母さん方が順番で手伝いに来て、学校の広い炊事場で給食を作るようなこともしました。献立は家庭科の先生が作り、わたしらも野菜が何gなどと計ったりしました。先生方は昼食によくうどんをこしらえていました。『四阪に来ると、うどんが食べられるからいいぞ。』とか、『四阪のうどんはおいしい。』などとよく言われました。
 わたしが勤めていたのは、生徒数が多い、一番忙しい時代だったように思います。昭和30年代前半には小中学校あわせると、900名をこえる児童生徒たちが通学していました。辞めたあとも『保健日誌を書かんといかん。』などという夢をよく見ました。いつも心にとめていたからでしょうか。同じ学校で31年間も保健日誌を書き続けていましたので。
 退職まで大きな事故もなく、大過なく過ごさせてもらったことを感謝しています。」

 (ウ)島を離れる子供たち

 再び、**さんの話。
 「島の子供はとても優秀で、今治市内の学校と比べても引けをとらなかった。子供たちは、みんな家庭環境が似通っており、保護者の職場環境も同じということで、均質な集団とでも言うか、とにかくあまり差がなく、大変教えやすかった。家庭環境が安定していたし、よその子でも、気が付いたら近所で注意しあっていたので、非行などもなかった。子供たちの世界も、まさに一島一家で、学校だけでなく、家の生活もずっといっしょというようなところなので、とにかく子供たちの結びつきが強かった。わたしが最初に送り出したクラスは卒業から45年もたつが、いまだにクラス会が続いている。もうみんな還暦だから、向こうの方が頭が白かったりして、『おまえの方がわしの先生みたいじゃが。』などと笑ったりしている。
 子供たちの多くは四阪の製錬所へ就職を希望していたが、採用が少なかったので、卒業すればほとんどが島を出なければならなかった。昭和30年代までは女子は、西条のクラレなどにたくさん出ていった。今治辺りにも、タオル工場やハリソン電機などにかなり就職している。島で生まれてそこで育った子供にとっては、島から出て生活するということは勇気のいることだったろうし、外へ出たときのショックはかなり大きかったのではないかと思うが、あまり挫折(ざせつ)したという話は聞かない。島を出た卒業生は、だいたいみんな地道な生活をしている。それだけ島の子供は、純真だったのではないかと思う。高校進学も島を出なければならず、祖父母や親類のところへ行く子もいれば、会社の寄宿舎に入る子もいた。そんな関係で、高校が小学区制の時分(*24)でも、別子学園は県下どこの高校へ行ってもよいとされていた。とは言え、下宿となるとどうしても費用がかかるので、進学率はあまり高くなかった。進学先は、新居浜と今治が半々くらいだったと思う。」

 (エ)公立への移管

 「学校が公立へ移管されるという話は、移管の1年ほど前から出ていた。その背景には、景気の悪化、会社の業績不振などから会社が合理化を進めるに当たり、学校という生産とは異質なものを分離し、学校はしかるべきところでやってもらおうという発想があったように思う。会社としても、明治34年(1901年)に学校を開設してここまでやってきたが、『もうこれ以上は、……』ということだったのではないだろうか。
 教員に対しては、身分制度に関連することだから、住友金属鉱山の労働組合を通じて話があった。移管後、住友系の会社へ行った者もいたし、辞めた人もいたが、ほとんどは公立へ移った。子供たちには公立移管の話はあまりしなかった。われわれとしても、子供には動揺を与えないように最大限の努力をしよう、ということで一致していたし、保護者自身も、『学校さえ残れば、私立だろうが、公立だろうが、ええじゃないか。』という醒(さ)めた気持ちがあり、子供自身はあまり影響されなかったのではないかと思う。昭和36年(1961年)4月学校は宮窪(みやくぼ)町へ移管され、それとともに新しい先生が次々と島に来るようになり、学校の空気が次第に変わっていった。
 わたしは昭和40年(1965年)に島を離れたが、そのころはまだまだ島もにぎやかだった。そのあとしばらくして工場が縮小され始め、島もにぎわいを失っていった。考えてみると、わたしがいたころが、四阪島にとっても一番輝きがあった時代かもしれない。
 今は、四阪島も遠いところになってしまった。」


 【四阪島小中学校略史(⑳)】

   〇明治34年2月29日
     私立住友四阪島尋常小学校(4年制)開設
   〇明治34年4月1日
     開校(在籍数35名)
   〇明治36年8月5日
     高等科(2年制)併置、私立住友四阪島尋常高等小学校と改称
   〇明治40年10月13日
     新校舎落成(現在地)
   〇明治41年4月1日
     義務教育年限を6か年に延長、私立住友四阪島尋常小学校と改称
   〇大正2年1月12日
     高等科併置(2年制)、私立住友四阪島尋常高等小学校と改称
   〇大正9年4月1日
     年度当初の在籍数、1,012名(最大)
   〇大正15年7月1日
     私立住友四阪島青年訓練所創設
      (昭和14年4月1日私立住友四阪島青年学校として独立し、校内に移転)
   〇昭和22年4月
     学制改革で、別子学園四阪島小学校・中学校を設立(在籍数、小学校506名、中学校181名、計687名)
   〇昭和24年9月1日
     財団法人別子学園として発足
   〇昭和32年5月20日
     水族館開館(50周年記念事業)
   〇昭和36年4月1日
     公立移管、宮窪町立四阪島小学校・中学校と改称
   〇昭和36年4月10日
     開校式(在籍数、小学校592名、中学校319名、計911名)
   〇昭和42年12月1日
     給食センター設立(水族館廃止)
   〇昭和52年3月25日
     閉校(2月1日現在の在籍数、小学校76名、中学校50名、計126名)


*18:客船兼清水タンカー船。昭和23年(1948年)4月から40年2月まで就航。総トン数99トン。旅客定員226名。
*19:客船。昭和40年(1965年)3月から55年3月まで就航。総トン数135トン。旅客定員220名。
*20:客船兼清水タンカー。総トン数454トン。旅客定員130名。
*21:四阪島航路の便数は、昭和42年(1967年)12月までは、新居浜3、今治2、計5航海。昭和45年12月までは、新居浜
  4、今治2、計6航海で、昭和46年から8航海になっていた。
*22:溶鉱炉の中で溶けてどろどろになったものが固まらない程度に燃料を入れて、ふたをしておくこと。
*23:昭和31年(1956年)11月、別子学園四阪島学校創立50周年記念事業として着工し、翌年5月に開館した。「魚の家」
  とよばれ、四阪島周辺海域で釣りあげられた魚が、水槽の中を美しく遊泳していた(㉑)。
*24:愛媛県では昭和39年度から、県立高校普通科の通学区が、小学区制から東・中・南予の三つの大学区制に切り換えられ
  た(㉒)。

図表2-2-13 四阪航路時刻表

図表2-2-13 四阪航路時刻表

昭和46年1月から昭和52年4月まで。

図表2-2-14 減少する島の人口

図表2-2-14 減少する島の人口

各年とも1月末現在。宮窪町住民基本台帳による。

図表2-2-16 飲料水割当量

図表2-2-16 飲料水割当量

1斗=10升。1升=1.8ℓ。

写真2-2-16 四阪島小学校とかつての通学路

写真2-2-16 四阪島小学校とかつての通学路

子供たちの声も今は聞こえない。平成7年12月撮影