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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)坊ちゃん列車と機関庫魂

 **さん(松山市土居田町 昭和5年生まれ 65歳)
 機関助士として坊っちゃん列車の運行に携わってきた**さんに、思い出を語ってもらった。

 ア わしは機関車乗りになるんじゃ

 戦時中じゃし、兄貴も軍人やったけんね、だいたいは少年航空兵になりたかったんですわ。同級生は少年航空兵に行ったけど、わたしはちょっと身長が足らんもんじゃけん、いかなんだんですよ。ほて、昭和20年(1945年)、高等小学校卒業後に丸善石油へ就職して、そのまま横須賀(神奈川県)にあった海軍の燃料廠(しょう)に行かされました。そこが空襲に遭うたんで松山にもんた(戻った)ら、松山も空襲に遭うて(同年7月)やがて終戦(8月15日)となり、軍需工場だった丸善は解散になったんです。
 その年の9月初めに、伊予鉄(伊予鉄道の通称)に勤めよったおやじが死んで、おふくろが会社の人に、「就職してない息子が一人おるんじゃ。」言うたら、「ほったら連れておいでなさいや。まあ、電車の車掌でもしたらどうぞな。」と言うてくれたんですよ。おやじは古町(こまち)の車庫で修理屋をしとりましたし、家が近所じゃったんで昼の弁当持ってわたしが車庫へ行ったり、夏には梅津寺(ばいしんじ)の海水浴の券もろて(貰って)きたりするんで、伊予鉄いう会社には、親しみはもっとりましたから、11月に入ることになったんですわ。
 ただし、「電車の車掌」を勧めてくれたんやけども、戦時中には女性が車掌しよったし、わたしの友達が、「わしは、おなごができるような仕事はいやじゃ。機関車乗りになるんじゃ。」と言うて国鉄の機関庫へ入っとったんで、わしも、「おお、こんな(こいつ)らに負けてたまるか。車掌は、おなごでもやれるが。機関車はこんもう(小さく)ても、わしも機関車乗りになったろか。」と思って、「とにかく、機関車乗りになりたいんじゃ。」と強く言うたんです。「おお、ほぃたら、機関庫へ入るか。」と言うてくれて、機関庫の構内士になったんですわ。高等小学校を卒業した年(15歳のとき)の秋のことじゃから、今で言うたら中学校3年生の年齢にならいね。

 イ 終戦当時の運転状況

 わたしらが会社へ入った折は、市駅(松山市駅の通称)とか古町駅の地下道にも、会社の事務所がまだ入っとったんですが、機関庫の事務所や電車(市内線と高浜線はすでに電化済)の詰所は、建てるの早かったですよ。機関車の乗務員らは、昼から出勤して翌日の昼までという交代勤務ですけん、半数の人間は全部機関庫に泊まらないかんのですわ。よいよほったて小屋みたいで、11月じゃったけん、寝るいうたら寒いんですが、機関車用の石炭は十分あるけん、なんとかストーブで過ごしよりました。機関庫を建てたのも、2階建ての本社事務所よりは早かったねえ。本社事務所は、最初バラックみたいなんを建てて済ませて、乗務員関係の施設の復興を優先したというのは、やっぱ、鉄道会社らしいですわ。
 坊っちゃん列車の機関車は、1号から15号までおりました(途中欠番あり)。ほとんどはドイツのクラウス製で、ちょっとこんまい1~4号が郡中線専用です。5、6号からが、ちょっと大きくてボイラーも強いし、11~14号も強かった(5、6、11~14号は、横河原線と森松線用)。いっちょだけ違う型の15号はコッペル製で、新しいし格好はええんですが、力は弱うて、あんまりようなかったねえ(15号は、朝夕のラッシュ時に補助機関車として使用)。機関車によって、ボイラーが焚(た)きよいんと焚きにくいんとがありました。
 伊予鉄の機関車は、すべて向きが一定で、方向転換はやりません。ですから、市駅発の横河原行きと森松行き、郡中港発の市駅行きは「前進運転」ですが、逆方向の列車は、終点で客車を切り離した後で、後ろ向きのまま先頭に付き、「バック運転」で折り返し運転をするんです。
 バック運転で一番困ったんは、ブレーキ操作じゃねえ。客車にはブレーキは付いてないけん、機関車のブレーキだけで止めないかんのですよ。前進の折は、機関士が蒸気ブレーキを取り、蒸気の圧力で車輪(動輪)をピシャーッと締めるんで、強いんです。ところが、バック運転の折は、機関士が後ろ向いて運転せにやならんので、助士が別のブレーキを操作するんです。これは自動車のサイドブレーキのような構造のハンドブレーキで、ブレーキカが全然違いますけん、惰力をいかに上手に落として駅のホームに入るかが難しいんです。とくに横河原から見奈良(みなら)までもんてくる下り坂で、雨でも降られた折には、ブレーキ用の砂(車輪とレールの間にまいて、摩擦力を強める。)でもうまいこと出なんだら、相当勢いがついてますけん、滑るんで難儀しました。

 ウ 機関士と助士、息をあわせて

 「担当制」いうてね、機関車ごとに担当の機関士と助士が決まっとって、乗務の組も常に一緒ですわ。乗務路線の関係でほかの機関車に乗ることもありますけど、担当したら、その機関車は責任をもって整備やなんかはするんです。「洗缶の日」(ボイラー内を洗う日)がだいたい十日に1ぺんくらいあって、その日は乗務せんと整備をするんですわ。その折には、機関士が、ロットとか足もとを、油差しから全部調整して、助士はボイラーの中の水を抜いてね、湯あかを落とすんですわ。そうしとかんと、蒸気がうまく上がらんのです。
 蒸気機関車がうまいこと走るか走らんかいうのは、助士が缶(かま)をどう焚いて蒸気をどう上げるか、機関士がその蒸気をいかに上手に使(つこ)うて運転するかで決まるんです。雨降りで石炭がびしょびしょになっとると、蒸気が上がりにくい場合があったりでねえ、二人の息が合うか合わんかが一番に大事なんです。合わなんだら大事(おおごと)で、ひどいときは機関士と助士とがくってかかってけんかやったりしてましたねえ。
 「担当」の組は半年に1ぺんくらいで変わるんですが、問題は、たまに相性の悪い人と組んでしもたときなんですわ。中には荒くたい機関士もおるけん、そんなんと一緒に乗ったら、助士は弱らいね。逆に、年配の機関士は自分自身にプライドがあるもんじゃけんね、新入りの助士とコンビを組むのを嫌がりよりました。
 今の郊外電車も同じじゃと思いますよ。車掌が笛吹いたり案内もしよるけど、頼りない案内でもしよったら、運転する者は、「おどれ、ぼけっとしとるねゃ。」と思(っ)たりして、気にかかるもんですわ。というのは、自分が正常にして安全運転しようと思てもねえ、それに協力してくれなんだら、カッカカッカくるでしょうが。二人で一つの仕事をするのに、息が合わなんだらうまいこといきませんわ。

 エ 横河原行きは、機関助士泣かせ

 「ボッボッ、ボッボッボッボッ」言うて汽車は走るでしょ。あの「ボッボッ、ボッボッ」言よる間は、蒸気を使うてその力で走りよるんです。ほて、蒸気の力を使わずにそれまでの勢いで走る「惰力」の折は、「ボッボッ、ボッボッ」なしで、もうスーツと行きます。
 蒸気機関車の力そのものは70馬力くらいしかないけど、実際は、その3倍くらいは力を出します。というのは、自動車の場合は動力源と車輪とはギヤでつながっとるけん無理したら飛んでしまうけども、蒸気機関車の場合はギヤは一つもないけんね、全部「弁」じゃけんね、無理がきくんですわ。ようけ(たくさん)客車をつないどって、ジャーツと蒸気上げてやっても動(いご)かん折には、少しバックして、ちょっとずつすきまのある連結の間隔をガクンと言わすんですよ。ほたら、ガクンガクンとなった折に反動で車輪が動くんで、グッと引っぱったら、グッと動き出すんです。1ぺん動いたらかまんのです。
 機関助士にとって一番きついんは、横河原行きの列車ですわ。ずっと上り坂で蒸気かけっぱなしやけん、これはもう目いっぱいやらないかんのですわ。上りぎりじゃから、惰力を取る所がないでしよ。惰力を取る折があったら、ゆっくり缶でも焚いて余裕があるんじゃけれども、ドッドッ、もう焚きっぱなしですわ。ほれに、蒸気を使うからボイラーの水がのう(無く)なるんで、水も入れないかん。伊予鉄は「タンク機関車」(水タンクが下にある)やけん、国鉄の「テンダー機関車」(水タンクが後ろにある)と違(ちご)うて、下のタンクから上に水を上げないかんのですわ。そうすると、冷たい水が入るんで温度が下がるから蒸気がでけん、それをまた焚かないけんでしょ。見奈良へ着いたら、もうしんどいし、終点の横河原までは時間があるけんね、機関士が、「おう、まあゆっくり上がろぜ。」と言うて、人が歩くよりちょっと早いくらいでぽつぽつ行くんです。学生が、走りよる列車から飛び降りて、小便をしてからまた飛び乗れるくらいゆっくりなんですわ。わたしらも、畑に走っていってサツマイモを失敬して、ボイラーで焼芋にしたりねえ。
 今の時代では通用せんようなことまでが、いろいろ通用しよりましたわいね。貨車でもつないどって、立花の坂を上がらなんだら、お客さんも一緒になって「お一っ」と押したりね。坊っちゃん列車が走り始めたころは、機関車の火の粉が飛んで、秋になると線路端のわらぐろをちょいちょい焼いていかんというので、火の粉が通過せんような金網を取り付けた改良型の煙突で走りよったねえ。田んぼで仕事しよる人なんかでも、「あっ、昼の汽車や。ほしたら、昼飯に帰るかや。」言うて、汽車が通るのが時計がわりになっとったし。ほらあ、みんな、おおらかじゃったんですかね。

 オ 火力発電所へ石炭を取りに走る

 高浜線には、電車のあいなか(合間)を縫うて、蒸気機関車が貨物列車を引いて走りよったんです(1日4往復)。高浜線で貨物を取り扱うんは、古町と、三津と、高浜ですわ。三津は堀川のほうに、高浜も火力発電所(大正9年〔1920年〕に竣工、2,000kw、旧高浜港南桟橋の南側)のほうに、それぞれ引込線が入っていっとりました。
 昭和17年(1942年)までは伊予鉄は「伊予鉄道電気」じゃって、高浜には火力発電所があったんです。石炭は、火力発電にも機関車にも必要なんで、九州から運ばれてきて高浜へ荷揚げされよったんです。それで、機関車で焚く石炭を貨車へ積み込んで、市駅まで引っぱって帰ってね、機関庫の横の石炭場に降ろしよったんです。
 貨物のことで、乗務員が駅員とけんかやることも、再々ありました。普通は、客車5両にワゴン車(屋根付きの貨車、有蓋(ゆうがい)貨車)1両の6両を引っぱるんじゃけどね、駅に置いとる貨車に荷物があったら、それを客車に連結して帰らないかんのです。その折には、いったん客車から機関車を切り離して、留置線に行って貨車を連れてきて、またつないで市駅まで行くんですわ。ですから、駅員に「引っぱってくれ。」言われたら、まじめな機関士はすぐに引っぱろうとするんですが、機関士の機嫌が悪かったり、定刻より遅れて走りよったら、「おどれ、今日は機関車の調子が悪いけん、いかんぞっ。」じゃの言うてねえ、拒否することもあったんです。手間も時間もかかるし、1両余分につないだら缶焚き(助士)がえらいんじゃけんねえ。
 終戦後は、石炭が悪かって泣かされましたわ。ぼた(石のように固く質の悪い石炭)みたいな石炭がくるし、一時は、海軍が使いよっだ練炭が配給されたんで、それを割って使ったことがあるけんどが、やっぱ石炭の火力やないといかんですわ。

【鉄道と電力の併営……大正~昭和初期の伊予鉄道史】
  〇大正5年(1916年)
    伊予水力電気と合併、伊予鉄道電気創立
  〇大正10年(1921年)
    松山電気軌道(松電)と合併
  〇大正12年(1923年)
    旧松電(一番町~江ノロ間)の軌間(線路幅)を伊予鉄道と統一
  〇大正15年(1926年)
    道後~一番町間を複線軌道化し、旧線を廃止(現在の市内電車・城南線区間の原形となる)
  〇昭和2年 (1927年)
    駅名改称、松山を「松山市」駅に(国鉄線の開業を控え、「松山」駅という駅名を譲る)
    城北線(木屋町~一万)、連絡線(古町~松山)、開通(現在の市内電車・環状線城北区間の原形となる)
    国鉄予讃本線、北条~松山間開業、松山駅構内乗入れ開始
  〇昭和6年(1931年)
    高浜線電化
  〇昭和14年(1939年)
    郡中~郡中港間開通
  〇昭和17年(1942年)
    電力部門を四国配電(後の四国電力)として分離後、鉄道部門を伊予鉄道として発足
  〇昭和19年(1944年)
    三共自動車(昭和8年創立)と合併、バス事業開始
                      『伊予鉄道百年史(①)』をもとに作成

 カ 蒸気機関車の廃止、そして電化

 終戦で、進駐軍が来て、日本がこれからどうなっていくやらわからんのやけん、まして、「将来、機関車が廃止される。」じゃのいうことは、考えたこともなかったね。それに、最初は構内士、次は機関助士でしよ、「いずれは機関士に。」と思とりましたけんね。ほじゃから、「ありゃっ。郡中線を電化するじゃの言よるが、よい、こりゃあ、ややこしなるねやぁ。」とは思たね。
 昭和25年(1950年)の郡中線の電化で、機関庫の若い者(もん)もだいぶ電車のほうへ変わったんですが、その折には、「なにくそ-っ、おどれっ。まだ、頑張っちゃる。」いうて思とったんですわ。ほなところが、横河原線・森松線もディーゼル化して、将来は(蒸気)機関車が全部のうなる(無くなる)いうことになったでしょ。「これはいかんなあ。そこまでなるんなら、もうこれは変わらなしようない。」いうんで、配置転換の希望を出したんです。ええのは鉄道に残って、ちいとないだ(しばらくの間)ディーゼルに乗ったり、電車に行ったりしたけれども、わたしらみたいにちいとガラの悪い者は、希望なんか聞いてくれず、「お前ら、バス、バス。バスヘ行って、仕込んでもらえ。」じゃの言われて、バスヘ行ったんですわ。
 機関庫という職場はねえ、みんなが「一番厳しい仕事をしよる。」と思とったし、人間的にも、気のおとなしいんでは勤まりませんから、どっちかと言えば気が荒いほうでしたね。だから、酒でも飲ましたいうたら、すぐに暴れるんですわ。郡中線電化の折には、一時、機関庫の者が荒れてねえ。道後の公会堂で会社の慰安会をしよった折でも、重役が「伊予鉄道、万歳!」じゃの言うて最後にあいさつしても、「何ぬかしよんぞ。おどれ、機関庫万歳じゃ。『機関庫、万歳!』やれぇ。」言うて、暴れるんですわ。
 まあ言うたら、「わしは、伊予鉄の従業員じゃないんじゃ。『機関車乗り』なんじゃ。」という気概があったねえ。