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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)線路の復興

 **さん(松山市津吉町 昭和2年生まれ 68歳)
 **さんは、昭和20年(1945年)3月に農業学校(林科専攻)を卒業し、全国森林組合連合会松山事務所に就職した。しばらくして、湊町の作道呉服店に間借りしていたその事務所が、統廃合されて高松に移転することになった。**さんは三男であったが、兄が兵隊にとられたり幼いころに死んだりしていたため、父親から「心細いんで、家におってくれ。」と言われ、高松へは行かず、退職して松山に残っていた。このあとに巡ってくる伊予鉄入社のきっかけから、語ってもらった。

 ア 入社後まもなく大空襲

 7月の初めに職業安定所から呼び出されまして、「若い者(もん)が遊びよったんじゃいかんが。銃後を守らないかんのじゃ。今、鉄道関係が忙しいけん、伊予鉄に入れ。」と言われて、まあ無理やり行かされたような形で、入社することになりました。
 「何の仕事するんじゃろ。」思って会社の庶務課へ行くと、「線路課が人手が不足しとるけん、行ってくれ。」と言われました。で、行ってみたら、年寄りの係長さんと先輩の技術者の二人しかおらんのですよ。そこで、線路の設計や保守を統括する技術者が不足していたためか、「保線係員」という辞令をもらいました。
 線路のことなんか何もわからんから、最初の1週間くらいは、現場の人と一緒に各線をずっと回って、それから事務所に入ったんです。しばらくしたら、7月26日の松山大空襲ですよ。
 通勤はね、家から森松まで重信川沿いに自転車で行って、そこから市駅まで森松線で行きよったんです。空襲の翌朝、汽車は森松に疎開しとりましたから立花までは乗客を乗せて走ったんですが、そこから市内へはもう行けんもんじゃけんね、線路づたいに歩きました。石手川まで来たら、土手が高いけんねえ、焼け野原の真ん中にお城山がパーッと見えるんですなあ。家は焼けてしもとるし、線路を見たらぐにゃぐにゃでしよ。「ありゃ、これは大事(おおごと)じゃが。まあ、どこへ行ってええやら…。」と思いました。中の川まで行ったらねえ、もんぺ姿の女の人が片足をあげたまま黒焦げになっとったり、死骸がどっどっどっどっ、相当いっぱいありましたが、まだ片付けてなかったですな。
 横河原線・森松線のほかにも、高浜線は市駅から古町(こまち)辺まで、郡中線は市駅から土橋(どばし)辺まで、やられとりました。高浜線は複線で幅が広いし、電車が走れるように重い30kgレール(1m当たりの重量が30kg、当時としては重いほう)を使(つこ)とりましたから、レールそのものの被害はまだ少なかったんです。ところが他の線は、まだ坊っちゃん列車が走っとったころですからレールも細くて軽いし、単線なんで、両脇の民家が燃えたその勢いもあってレールはぐにゃぐにゃになってしもとるし、ほれこそ枕木も焼けとりました。
 まもなく会社にも戦災復興係ができ、「市駅から復興せないかんが、並行して、電車も早よ動(いご)くように線路も直さないかん。」ということで、トタンをどこぞで拾ってきて、駅の待合所をこしらえるのも手伝うたりしました。早(は)よ直さないかんが、人も道具も足りんのです。敷き替えるレールを切るための鉄挽(ひ)き鋸(のこ)がないので、たがねを使ってハンマーの勢いでたたいて切るような元気な人がおったのを覚えとります。レールの厚みは10cm以上あるんでなかなかきれいに切れんから、上から少しずつ、たたいてたたいて切っては、順々に整えていくんですが、「えらいもんじゃなあ。」と、思いましたねえ。
 戦争で、図面が皆焼けてしもたでしょ。認可申請のときに高松の陸運局に出したのが保管されとったので、それを全部借りてきてトレーシングペーパーで写しては、お日さんを頼りに天日で青写真に焼いて復元しました。夏休みには工業学校の生徒を雇ってやりましたが、路線ごとに分厚い書類の綴(つづ)りで、それは膨大な量じゃったから、2、3年はかかりましたわい。そんなことで、応急復旧はとても早かったですが、波乱のスタートでした。

 イ 戦後の復興とともに

 (ア)市内電車の路線延長と軌道変更

 松山市内が焼けたんで、昭和21年(1946年)に立案された戦災復興土地区画整理事業に基づいて道路を広げて整備することになりました。あわせて市内電車も線路を道路の中央に敷き替えることになったので、やり手の先輩に付いてず一っと測量して回りました。
 昭和22年ころから、花園町線(南堀端~市駅)の新設、本町線(西堀端~本町)の移設などを順次手がけ、一番町通りの道路拡幅に合わせて、県庁前から一番町の間の工事に着手しました。裁判所の前辺りは、道幅も狭いし、単線じゃったんですよ。自動車はまだ多くなかったけん、電車の横を馬車が通ったり、人も一緒に歩いたりで、混雑しよったんです。その後も、戦後の都市計画で道路が広がるのにあわせて、松山駅前、市役所前~西堀端、などの軌道を順次移設していきました。

 (イ)郡中線の電化

 戦後のもう一つの大仕事としては、昭和25年に完成した郡中線電化の設計を手がけました。重たい電車が走るんですから、レールはもちろん、その下の構造物も全部補強したり取り替えをせないかんのですから、苦労しました。レールは最低でも30kgにせないかんのですが、終戦後のお金のないときじゃけん、どこぞ国鉄の払下げの、「使(つこ)うて使うて、もう要らんような、よいよ(とても)ぽろい」レールを買うてきて、11kmほどを交換しましたわい。
 カーブの所も敷き直すわけですが、もともとレールはまっすぐですから、曲げないかんでしよ。専門の係員がレールを曲げる「ジムクロ」(甚九郎(じんくろう)さんが考案したと言う説もある。)という器具を使うと、あの硬いレールがね、やおい(やわらかい)もんで、それこそ飴(あめ)みたいなもんですよ。
 そういう大々的な工事は、夜間じゃないとできません。最終列車のあと、「古いレールを外してはさっと入れる」ちゅう具合で、一晩に数百mぐらいずつ順々にやりましたわい。沿線の家々を回って、工事のお断りをして歩きました。線路沿いに住んでおられる人に聞くと、電車の音や、踏切の警報機がチャンチャンチャンと鳴り出すのは、あんまり気にならんそうですが、夜間工事での、レールをたたく音や、「よっしゃあ」じゃのいう人の声は、やっぱり特別に響くようでした。