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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(4)車両工場の「鍛冶屋さん」

 **さん(松山市星岡町 大正13年生まれ 71歳)
 **さんは、尋常小学校6年のときに鍛冶屋(かじや)を営んでいた伯父の家に引き取られ、「そこから高等小学校にも通わせてもらった。」と言う。高等小学校を卒業後11年間は、一緒に鍛冶屋をやっていた。戦争中(昭和19年〔1944年〕)に徴兵検査で甲種合格になったものの、軍隊向けの鍬(くわ)を作っていたせいか現役召集は来なかったそうだ。「鍛冶屋さん」が鉄道会社に入ることになったいきさつから話してもらった。

 ア 「鍛冶屋」の名人技に出会う

 終戦明けで、自分が独立して店を持とうと思ても、統制経済で鉄とか炭とかがなかなか手に入らず、入っても半月くらいで使いきってしまうんで、仕事がでけないんですねえ。それで、どっか仕事に行かないかんがどうしようかというときに、伊予鉄の車両課におった別の伯父に相談したら、「今じゃったら人を入れてくれるから、伊予鉄に入らんか。ちいとないだ(しばらくの間)機械でも習(なろ)たら、また役に立つかもわからんけん。」と言われて、昭和22年(1947年)11月に伊予鉄に入ったわけです。
 伊予鉄へ入社しても、鉄(かね)をいろう(扱う)ことに対しては、別に抵抗なかったですし、むしろ、ちょっと天狗(てんぐ)になっとったわけですよ。11年間、おやじとこで鍛冶屋やっとったので、鉄(かね)曲げたりひっつけたりすることには自信がありましたから。ところが、伊予鉄の車両工場(こうば)へ入ったら、もう全然問題にならんのですよ。
 わたしが入ったときは、鍛冶職人(工場内では「鍛冶屋」と呼んでいた。)が、一(ひい)、二(ふう)、三(さん)、四(しぃ)、五(ご)、腕のたつ人ぎりが5人と、大ハンマーで向こう打ち(鍛冶屋と息を合わせてたたくこと)をする先手(さきで)(相方)が、わたしを入れて3人おって、火床(ほど)(鍛冶用の炉)も五つありました。古い人が多かったし、終戦明けですから、よそでこいで(経験を積んで)帰った人が多かったでしょ。だから、皆ものすごい技術を持っとんですね。
 ぼくらが10年、20年やったって追い付かんような、名人技の仕事する人がおったんです。そのころすでに退職されて嘱託で来よったんですが、呉工廠(くれこうしょう)(広島県呉市にあった軍直属の軍需工場)出身の人で、もううまいんですよ。火作りの仕事いうのは、ぼくらだったら、火床に入れた鉄(かね)の色を見もって、「もう焼けたろか、まだ焼けまいか。」と思いながら、汗びっしょりになって待ちよるわけですよ。ようやっと焼けたら、今度は鉄(かね)をたたくわけですが、鋳型に流し込んで作るのとは違いますから、十(とお)が十、つい(同じ)にできないんです。ところがその人は、鉄(かね)焼いとったら、プラーッと工場を一回りして、もんて(戻って)きたらちゃんと焼けてるんです。火から出してポンポンポンッとたたいて、先手(さきで)に大ハンマーで向こう打ちたたかしたら、また、火の中へ放り込んで、また、フラフラと立ち上がってタバコを吸うたりしてね。それでも、まったく同じもんが、十(とお)でも十五でも、火作りでできるんです。そういう時間的な感覚も何もかも、わかってるんでしょうね。ほぃやから、その人に刺激されて、せめて半分でも追い付かないかんという気がありましたけんねえ。
 若かった間は、人にいなげに(変なふうに)言われても、「伊予鉄ぎりが、御天道様(おてんとさん)と米のひら(御飯)が付いとるわけじゃねえ。どこ行たって、食えるがあ。」という気があったんです。職人ちゅうのは、そういう意地っぱりなところがあるんでしょうね。負けまいと思て、かれこれ、ぼくもがんばりましたわ。それは、楽しいということはない、とにかく苦労しましたね。
 今でも、嘱託でたまには修理工場へも行ってみますので、「あれ、どうしたらええんじゃろか。」いうて尋ねられたら、「わしらのころには、こういうふうにしよった。」と答えてますけど、鍛冶屋の仕事は、後を受け継ぐ者がおらんけん、しようないですね。

 イ 坊っちゃん列車の缶をこしらえて、一人前に認められる

 蒸気機関車のボイラーの缶(かま)は、傷みが激しくなると、伊予鉄の修理工場で作って取り替えよったんです。坊っちゃん列車の心臓部ですから、ベテランの人が手作りでこしらえよりました。
 会社へ入って3年くらいでしたが、周りはみんな年取った人ぎりじゃったもんですけん、「お前みたいな若い者(もん)には機関車をやらしたこたぁないけど、そろそろやってみなんだらいかんけん、やるか。」ということで話がきましてね。この仕事をすれば、会社では一人前と認めてくれるという感じでしたので、緊張しましたよ。
 缶の内側は、手前から上、奥、左、右の各部分ごとに鉄板をたたきながら曲面に加工して、リベットでかしめて仕上げるんですが、蒸気を起こすボイラーですから、圧力がかかるとほんの小さな狂いでも水がぼる(漏る)んです。水がぼらんようにできたかどうかを、自社内で水圧検査かけて調べて確認しよったんですが、たまたまそのときは労働基準局が検査に来るというんで、もう、夜も寝れんぐらいにしんどかったですねえ。
 最初は、細心の注意を払ったんで、水もあんまりぼらないし、蒸気起こしてもそうぼらないで、なんとか検査を通ったんですけど、もう早、2回目にやったときは、ざんざんぼりじゃったです。「ああ、やっぱり気の緩みちゅうのはいかんもんだな。」と、思いました。

 ウ 蒸気機関車の廃止処分、そして復元

 昭和29年(1954年)2月に横河原線と森松線でディーゼル機関車の運転が開始されるまでは、蒸気機関車関係の工場は市駅の機関庫の横にあったんですが、古町(こまち)の電車の工場と統合されることになって、機関車の者(もん)は皆、古町のほうへ行かないかんようになりました。
 最初のうちは、鍛冶屋の仕事もあったんです。電車に使(つこ)とるボートー(ボルト)じゃのいうのは特殊物(もん)がだいぶありますから、それを作る仕事とかが当分の間はありました。しかし、やがて工場内で配置転換があり「鍛冶屋一本」とはいかなくなってきました。鍛冶屋やりもって、仕上げも行く、組立ても行く、手間があるときは塗装屋さんも手伝いに行くし、もういろいろやりました。
 ディーゼル化で姿を消した坊っちゃん列車は、しばらくの間は予備の機関車として留置してあったんですが、昭和31年までに、電車庫でバラバラにさばいて、スクラップで売ったんです。そのときは、つらかったですねえ。「惜しいなあ、どうして置いとかんのかなあ。」と思てねえ。1号機関車だけは梅津寺に残っとりますが、昭和42年(1967年)には、日本最古の軽便鉄道用蒸気機関車として、国鉄から鉄道記念物に指定されました。あれは整備さえすれば、今でも走れる状態にしてあります。
 県総合科学博物館(平成6年オープン、新居浜市)に展示してある1号機関車の復元模型は、ぼくらOBが何人かがかりで作りました。初めから作らんといかんが、手がないもんですから屋根の外板と中のボイラーだけは外注して、あとは全部、材質もほぼ同じ物を使って、伊予鉄の車両工場で作ったんですよ。完成したときは、もう、うれしかったですねえ。わたしも、孫が「見に行きたい。」言よんのにまだ行ってないんですけど、会社のOBらから「見に行きましたよ。」言うて声かけてもろて、喜んどります。