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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(5)車両の近代化

 **さん(松山市千舟町 昭和10年生まれ 60歳)
 京都の学校で電気を学んだ**さんは、卒業後は家庭の都合で地元に戻ることになった。技術系の仕事で転勤がない職場ということで、昭和33年(1958年)に伊予鉄に入社した。縁の下で鉄道を支える技術者の立場から、車両の変遷などについて話してもらった。

 ア 鉄道会社の合理化とともに変化してきた鉄道車両

 専門は電気なんですが、「最初は現場から」という鉄道会社の慣例で、最初の3、4年間は車両課に配属され、次に、やっと変電所の現場に行きました。
 おそらく変電所は、鉄道会社の中で最も変化してきた部分なんじゃないでしょうか。というのは、もともとは、変電所ごとに設備の状態を監視するために人が張り付いていないといけなかったんですが、自動化が進み、遠隔制御で複数の変電所を1か所でコントロールできるようになると、人が要らんようになるでしょ。ほじゃから、変電所担当の人員はどんどん減少し、代わって、ビルなどの電気・空調・防災システムなんかまでが、本業として入り込んできたんです。それで、車両の仕事のほうにも携っておりました。
 鉄道のルーツは、駅馬車(鉄道馬車)ですけんねえ。機械に引っ張られるようになったけど、もともとは「箱」。それが、どんどん自動化・合理化されて変化してきたんです。
 市内電車は、昭和45年(1970年)のワンマン化に合わせて、大幅に改造しました。郊外電車は、横河原線の朝のラッシュ時の2列車を4両化(通常の3両に1両増結)することになり、昭和53年(1978年)に自動解結装置(市駅構内での連結解放作業を自動化するための装置)を取り付ける改造を行いましたし、翌年には、輸送力増強の必要から、それまで2両編成で走っていた600形(昭和33年に新造)も、長野から中古車両1両を譲り受けて3両編成に固定化する改造を実施しました。
 ところが、先のことはなかなかわからないもんですねえ(図表3-1-4参照)。その10年後には、逆に、乗客の少ない昼間の時間帯には、3両のうち1両を切り離して2両編成で運行することになり、中間の車両に運転台を取り付ける改造を実施しました。車両ちゅうのは、その時代時代に合わせて、変えていかないかんですからねえ。
 御存じないかもしれませんが、昔は運転席の窓にはワイパーもなかったんですよ。その後、手で動かすのが付いて、今はエアーで動かしてますね。電車の扉も、昔は全部手動で開け閉めしよった。郊外電車の場合は、ホームに駅員がおって、電車が到着すると、施錠してあるラッチをカチャカチャカチャカチャと開けよったんですからね。今は、車掌さんが一発引いたらパシャーッと開くでしょ(昭和25年〔1950年〕、自動式ドア設置)。それで、駅の合理化が進み、無人化も目立つようになりましたわいね。今は、駅員のおる駅のほうが少ないくらいでしょ。
 合理化によって、利便性が向上したり、車両の保安度が高くなったり、いい面も多いんですが、従業員にとっては、働き場が次々減っていくなあという感じでした。

 イ 冷房化改造

 地方の私鉄の中では、伊予鉄は電車の冷房化に積極的で、わりと早くから冷房化改造に取り組みました。当初、われわれは、「なんで、電車にまで冷房付けないかんのか。」という感じを持ちましたねえ。しかし、皆、家にクーラーが付くようになって、徐々に「ぜいたく」とは言えん時代になってきましたから。
 昭和56年から59年にかけて、市内電車の冷房化改造を行ったんですが、まず、問題になったのが車体の強度です。床下や屋根の上に冷房機器を取り付けるんですが、軽量化されたとは言っても、かなりの重量(屋根の上のユニットが約655kg)になりますからね。
 市内電車の車両を大別すると、①車体が重くて頑丈な50番台(51~61号車)、②現代的だけど軽量で車体がやわい60番台(62~69号車)と、ほぼ同型の1000番台(1001~1003号車、元呉市交通局)、③ちょっとがっちりして電車らしくなった70番台(70~78号車)、④幅広で重厚感のある2000番台(2002~2006号車、元京都市交通局)の4種類になるんですが、このうち60番台は軽くて当世風な構造が裏目になり、冷房機器の荷重に耐えられるかどうかが問題になりました。それで、しわりがどれだけいくか、いろいろ計算して調べたり測定したりしました。
 そのころは、昔の技工さんや職人さんがおりましたからねえ。伊予鉄にも、鉄(かね)をいろて工作を行う「鍛冶屋さん」がだいぶおったんですよ。なんでおったか言うたら、明治時代から走っていた坊っちゃん列車(蒸気機関車)を、手作りで直しよったんです。鍛冶屋さんが、ボイラーの缶(かま)をたたいたり、鍛造(たんぞう)したりしておりました。そういう方々がだいぶ残っとったので、車体を補強しながら、見事に改造しましたねえ。

 ウ 中古車両の譲り受け・改造

 去年(平成6年)の12月に新聞にも載りましたが、郊外線に37年ぶりに新造車両(610形)を4両投入しましたわいねえ。新車を導入するとなると何億円という投資になりますから、なかなか大手私鉄のようにはいきません。それで、中央の私鉄で活躍していた電車を中古で譲り受けることになるんですが、これもそう簡単にはいかないんですよ。
 車両の大きさなどを法で定めた「車両定規(じょうぎ)」のほかに、それぞれの鉄道会社には独自の「定規」があり、車両の寸法がその範囲内でないと許可にならず、走らせることができんのです。例えば、ちょっと詳しい人なら御存じでしょうが、伊予鉄もJRも線路の幅は1,067mmで一緒です。「それなら、東京のように相互乗り入れをしたらええが。」とよく言われるんですが、できないんです。線路の幅は同じでも、電圧も違うし、JRの「定規」のほうが大きいんで、伊予鉄に乗り入れたらほうぼうぶち当たりますからねえ。
 ですから、中古車両を求めてあちこちの鉄道会社を訪ねて行っては、走ってる電車、車庫に留めてる電車を見せてもらいながら、「どういうようにして、伊予鉄の『定規』に合わそうか。」と考えるんが、一苦労ですね。大手私鉄の電車は、今は20m級の大型車ですからとても入りませんが、昭和30年代に製造された18m級の電車であれば、なんとかOKなんです。ただし、必要な車両数を確保するためには、どうしても伊予鉄の「定規」を一部変更せざるを得なくなり、他の部門にも協力してもらって特別認可を受けたんです。現在主力となっている710形、810形は、どちらも京王帝都電鉄で活躍していた電車で、電圧や台車などを伊予鉄に合うように改造しました。
 市内電車にも、呉市や京都市から譲り受けた電車がおりますが、塗装も含めて、すっかり伊予鉄の線路になじんどるでしょ。保守の面から言うとね、できるだけ「伊予鉄型」にしといたほうが、統一されてええんじゃなかろか。広島電鉄(広島市)や土佐電鉄(高知市)では、国内はもとより海外からも積極的に譲り受け、塗装も現地のままで走らせとりますねえ。これも風情があってわたしらも心を動かされますが、運転士さんや車両担当の技術屋さんは大変じゃろなあと思います。

 エ 「乗り心地がええなあ」と言われるために

 鉄道会社というのは、お客さんを安全にお届けして、初めて運賃をいただくことができるわけですからねえ。途中で車両が故障したら、パーですから。常にそれを考えてますねえ。だから、作業に対して非常に念が入ってくる。
 電車というのは、オーダーメイドでメーカーに発注する「手作り」の物ですからね。保守する側も手作りでという感覚です。点検・修理で車庫に入ってきますと、そのときに「ちょっと、ここをいじっちゃろ。」と思て改造する場合があるんですよ。そうすると、同じ型式の電車でも、年数がたつうちに全然違う「車」になって、それぞれに個性が出てくるんですかねえ。
 それでも、今の電車ではそんなことも減ってきて、いかん部分を直すんじゃなしに、ユニットをそっくり取り替えるようになってきよりますから、技術屋も、エンジニアじゃなしに、「チェンジニア」じゃないと間に合わんようになってしまいました。
 もう一つは、われわれ技術屋は最新技術を追って高性能化を目指しがちなんです。保守整備の合理化につながるなどの利点もありますが、伊予鉄のように駅間距離の短い路線では、スピードにも制約があるわけですから、「箱(客室)は悪いけど、脚(性能)は良かろ。」というのは、技術屋の自己満足という気がします。車両というのは、やはりお客さんに乗ってもろて「乗り心地がええなあ。」と言うてもらうのが本当やないでしょうか。37年ぶりの「新車」と言われる610形は、実は、脚まわりは中古部品を多用しているんですが、新しい車体を乗せて、お客さんに気持ちよく乗っていただこうという意味で、よかったと思います。

 オ 高齢化社会に対応した理想的な路面電車

 学生時代(昭和30年〔1955年〕ころ)を過ごした京都は、当時、ちょうど市電の最盛期でものすごく路線網が発達していました。そのうちに自動車が増えて軌道敷を走るようになると、「電車が邪魔で交通渋滞の原因になるから、廃止するらしい。」ということになり、とうとう廃止されてしまうんですよね。それで交通渋滞が解消されたかというと、かえって増えとる。「あれは、解決の手段じゃない。へ理屈じゃったんだな。1車線取り戻そうといういじましい発想で、よう市電をなくしたわい。」と思いましたね。
 それに替わって、今、地下鉄ができてますが、あれ、お年寄りなんかに乗りやすいですかねえ。路面電車なら、「おーい、待ってえ。」言うて乗せてもろたり、窓ごしに景色見ながら、「あっ、だれやらさん所じゃ。降りようか。」って、降りることもできましたが。今、もし京都に市電があっとおみなさい。風情のあるいい街になっとると思いますよ。
 今の電車はステップが高いんで、まだ理想的ではないですねえ。ヨーロッパでは、すでに「超低床式」の路面電車が開発・実用化されておるそうです。この電車は、車軸をなくしてモーターを車輪に直接つなぐ方式なので、床を低くできますから、FL(地上から床面までの高さ)が20cmくらいで、非常に乗りやすいんじゃそうです。伊予鉄に限らずほとんどの路面電車は、FLが75cmくらいあるんですが、間にステップが1段あるだけですから、普通の人でも「よっこらしょ。」ですよ。
 わたしも、こないだ市内電車に乗ったんですが、なかなか発車せんので、ふっと中央の乗降口を見たら、足の悪いお年寄りが上がれんので、床に腰を降ろしてから上がろうとしよったんです。見るに見かねて引いてあげたんですが、実はわたしも腰を痛めとったんで、「あっ、しもた。」と思たけど、その人がまた重いこと。こういった人たちが路面電車の利用者になるわけですから、地下鉄にしてしまうじゃのいうのは(大都会では仕方ないかもしれないけれど)、階段一つにしてもね、とんでもない話ですよ。
 もう一つは、安全地帯ですねえ。伊予鉄の場合はだいぶ整備されてきたんですが、道路の制約があって、「公園前」の一つだけは今もホームがないまま残っとんです。あれができれば、ホームの高さに応じて電車のステップの高さを調節することもできるし、安全に乗り降りできるようになるんじゃなかろか。
 日本の鉄道技術はいいと言われますし、車両メーカーも、大量高速輸送という時代の最先端の技術開発には力を入れています。しかし、路面電車というのは全国的にもあまり注目される存在ではありませんでしたからね。先ほどの「超低床式」路面電車といったような、最先端のもう一つ手前のソフトの部分では、日本のメーカーはまだまだで、ドイツやチェコあたりのほうが進んでいるように思います。
 ですから、郊外電車は、今の姿を基本に徐々に改良していけばええと思いますが、市内電車は、国内より進んでいるヨーロッパのメーカーに「超低床式」車両を伊予鉄が発注して、車椅子(いす)でも乗れる電車が走るようになるといいなあと思うんです。明治21年(1888年)に走り始めた坊っちゃん列車の蒸気機関車は、ドイツのクラウス製でした。そして再び松山にヨーロッパ生まれの電車が走ることになったら、おもしろいなあ。

図表3-1-4 伊予鉄道(郊外線・市内線)の年間乗客数の推移

図表3-1-4 伊予鉄道(郊外線・市内線)の年間乗客数の推移

「伊予鉄道百年史(①)」ほかより作成。