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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(4)木炭バスとの運命の出会い

 **さん(宇和島市伊吹町 大正8年生まれ 77歳)
 **さんは、大阪の学校を出て、近永(ちかなが)(北宇和郡広見町)の旭タクシーに運転免許を取るために入り、昭和14年(1939年)には、もう免許を持っていた。そして翌15年4月10日、善通寺(香川県)で陸軍に入隊し、宇品港(広島県)から中国へ渡った後、南方の島々で従軍した。そんな**さんが、宇和島自動車のバスに乗るようになるいきさつから語ってもらった。

 ア 初めて宇和島自動車のバスに乗るまで

 軍隊では、野戦での運転をいろいろ経験しました。一番思い出深いのは、最前線の戦地へ向けて弾薬を満載したトラックを運転していたときの出来事です。長い長い上り坂で、やっと峠を越えた所でブレーキが効かなくなり、サイドブレーキも焼けた状態で、エンジンブレーキだけで100km近く走ったことと、その復路に、同じトラック(ブレーキがこわれている)に上官と炊事班を乗せて帰る途中、同じ峠の下り坂に近づきスピードを緩めて走っていたら、助手席の上官に「こらっ、何をするかっ。もっと、早よ走らんか。」と怒鳴(どな)られ、とうとうギヤで減速することができず、ニュートラルの状態で、長い長い下り坂を走ったことです。
 戦後、捕虜生活を経て、昭和21年(1946年)6月1日に名古屋港に上陸、6年ぶりに故郷(広見町)に戻ると、宇和島まで汽車も通じており、「空白の間」に変化した様子に、「見るもの、皆、新し」といった感じでした。実家に帰るとちょうど田植えで、1年間は、病弱の兄を手伝って家の農業を手伝っておりました。内地には男性が少なく、あちこちの資産家から「養子に来ないか。」と誘われたのですが、「兵隊で苦労したんだから、物のある所へ行くよりは、ない所で、一からやったほうがええんじゃなかろうか。」と思い、宇和島にいた岩松(津島町)出身のふたいとこと結婚することになったわけです。
 「今まで兵隊で6、7年外国におったから、戦争というイメージを忘れるためにも、旧姓をやめて、奥さんの姓に変えたほうがええ。結婚式も軍隊に入隊した日と同じ4月10日にしよう。」ということで、昭和22年(1947年)の春、結婚式のある岩松へ向かうため、初めて宇和島自動車のバスに乗ることになりました。

 イ 満員のバスに揺られて

 結婚式の当日、嫁は支度があるので朝一番のバスで、一足先に岩松に向かいましたが、わたしは、「10時ころのバスに乗っていけば、昼までには着けるだろうから、夕方からの式には十分間に合う。」と考えて、追手(おうて)の営業所へ行きました。当時、宇和島から南の方面への交通機関は、船便も多少はありましたけれども、頼りになるのは宇和島自動車だけやったもんですから、バスを待つ人たちで、営業所はものすごい人だかりでした。
 発車時刻が近づくと、係員が出てきて人数を数え、わたしから3人前の人の所で、「ここからあとは、満員になりましたので、誠に申し訳ありませんが次の車にしてください。」ということで、乗せてもらえんのですよ。今度は、しばらくして来た次のバスが「故障で、定刻に発車できない。」と言われ、3、40分遅れてやっと乗せてもらえました。そのとき初めて、「ああ、木炭自動車が走っているんだな。」と意識したのを覚えとります。
 松尾坂(宇和島市から津島町に向かう途中の峠)を登りかけましたら、その車が、ガタガタ、カタカタ身震いするように感じて、進行ができなくなりました。満員の乗客が乗っとりましたが、「一等のお客さん(幼児と老人)以外は、降りてバスを押してくれ。」という車掌の声に、文句を言う人は一人もなく、男も女もみんなで、バスの両サイドを持って、押しました。エンジンはかけたままなんですが馬力がないですし、カーブが多い上り坂を頂上まで押すんですから、相当なもんです。
 ちょうど登りきった所に2軒ほど茶店がありましてね、そこで一休みしたら、今度は下り坂。それまでの登り坂では、ヨタヨタした走り方で気が付かなかったんですけども、下り坂になってスピードが出るようになったら、あの曲がりカーブを難なく操縦していくんで、「ああ、運転士さんの技術は優秀だなあ。」と思って、びっくりしました。
 岩松に着くと、もう夕方で、「嫁さんは支度ができたけど、婿さんが来ない。」といって騒動しよったんです。粉じんでまっ黒になった顔だけ洗って、結婚式に臨みました。そのときは、まさか自分が木炭車を扱うことになるとは想像もしておりませんでした。

 ウ 年下の車掌に教えを請う

 家内は、神戸の学校で洋裁を習って洋裁士の資格がありましたので、ミシンの仕事をするのですが、わたしは何もすることはありません。結婚してちょうど1か月が過ぎ、警察官の募集でもあれば受けてみようと思っていたところ、家内の友人が宇和島自動車に入るよう勧めてくれ、早速、「試験をするから来い。」ということになりました。
 軍隊では、ガソリン車に乗っていたので、運転に自信はありましたが、木炭車はまったく経験がありません。「エンジンはかけてあるから、これに乗って走ってみてくれ。」と言われたのですが、ものの5mも走ったらエンストしましてね、それからエンジンをようかけないんですよ。そしたら、「もう、よろしい。」と言われ、「ああ、どうもすんません。」と言うて帰ったわけです。「これは、もうだめだ。失敗したんだから、仕方がないな。」と考えておりましたら、6月に入って、採用の通知が届きました。
 辞令には、「雇員に採用し、運転士を命ず。」とありましたが、木炭車を動かせんのですから、最初は「雑役夫」です。10歳以上年下の、中卒で入った15、6歳の車掌に、頭を下げて、エンジンのかけ方から教わりました。そして、朝4時ころには会社へ行って、車掌さんと同じように木炭車のエンジンを始動して始発のバスの運行準備を手伝い、出庫後は、会社に残って雑役という生活がしばらく続きました。1年ほどで運転士になると、世話になった車掌さんと立場が逆転して乗務をすることになりました。
 運転中の一番の思い出は、やはり木炭車の調子が悪かったことと、道の悪さと狭さに苦労したことです。狭い道の所々にしか、離合できる場所がありませんから、すれ違うバスの時間を考えながら走っておりました。今のように自動車は多くありませんから、渋滞で困ったことはありませんでしたが、馬車のせいで遅れることはしょっちゅうありました。長い電柱なんかを運んどる馬車と出会うと、向こうはバックしてくれませんから、こちらが後退します。相手は馬ですから、避け方が悪いと引っ掛けられるし、荷車の車輪をわだちにすべらしこんで動けんようになると、一度荷物を降ろして、立て直してからまた積み込むといった具合です。じっと待っている間もエンジンは動かしたままですから、木炭のガスが予定より早く切れて、付近の農家で炭を借りたこともありました。
 木炭車に乗っていたころの思い出の一つに、映画出演があります。昭和25年 (1950年)6月30日でした。映画「てんやわんや」(獅子文六が昭和23年に同名の小説を新聞に連載。妻の出身地である岩松が舞台)のロケのために、古い木炭車を動かしてほしいということでしたので、廃車になっておった木炭車を使って運転しました。

 エ バスの熱で入院

 昭和30年(1955年)にね、市内バスを運転しておりましたら、堀端の営業所前で、「ちよっと止まれ。交代の運転士を連れてきとるから、すぐにバスを降りて、社会保険病院で健康診断を受けて来い。」と言われたんです。直前の集団検診の結果がよくなかったらしいんですが、車から降ろされて病院で診察を受けたら、結核の初期じゃと言われて、即入院することになりました。
 実は、そのころ担当しとったのは市内バス専用の車で、市内路線の片道(山際~柿原)を運行していきましたら、タオルを絞るほどに汗びっしょりになって、運転席がものすごい暑いんですよ。その車にずっと乗り続けておったのも、病気の原因の一つらしいんです。わたしが入院したあとで、その車に温度計をつけて走行中の運転席の温度を測定したら、40℃を超えていたそうで、通風設備が悪くて改造したそうです。何台かあった同型車はなんともなかったのに、その車だけ放熱しなかったんですね。

【宇和島自動 ?】
 長い名称を短く略して通称とすることは、とくに珍しくはない。南予地方一円を主な営業エリアとする宇和島自動車の場合は、「車」1文字を略して、地域の人たちから「宇和島自動」と呼ばれている。

 オ これからも重要な「宇和島自動」

 鉄道の終点は宇和島。そこから南では、宇和島自動車は、まだまだ、公共性のある交通機関として、重要な役割を果たしていかなければならないと思います。「これが絶える。」ということになれば、たいへんな問題だと思うんですよ。なんとしても、乗客にはサービスをして、一人でも多くバスに乗っていただくようにアピールもせないけないし、努力もせないけないと思いますね。
 ほとんどがマイカーで、バスに乗る乗客は少なくなりましたね。木炭車時代の、乗客が鈴なりになっていたころが、懐かしいですよ。