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愛媛の景観(平成8年度)

(3)くらし続ける山

 石鎚山系には多くの山小屋がある。石鎚山頂弥山にある頂上小屋(石鎚山頂白石小屋)もその一つである。ここでは、頂上小屋に焦点を当て、その前身の気象観測所の建設から今日に至るまで、そこを舞台に石鎚山とかかわってきた人々のくらしをさぐってみた。

 ア 山頂の気象観測

 **さん(大阪府豊中市北緑丘 大正13年生まれ 72歳)
 **さんはかつて山頂の観測所で不自由な生活をしながら、気象観測業務に従事してきた若者の一人である。
 「石鎚山観測所は、第二次世界大戦中、軍によって建てられ、昭和18年(1943年)10月1日に業務を開始した。建設の目的は、表向きは高層気象のデータがほしかったということだったが、戦争中でもあり、真のねらいは秘密にされていた。
 所員は、今治市の波止浜(はしはま)観測所との兼務で、山頂には常時4名が1か月交代で勤務し、毎日8回(0時から午後9時まで3時間おきに)気象観測をした。これらのデータは、台風の進路予想や、気温、風速、風向などの研究資料としてたいへん貴重なものだが、当時は、データを送るための電源もなく、実際にはほとんど役に立たなかった。
 観測は、4名が2班に別れて、日中と夜間をそれぞれ分担した。業務開始後半年くらいは、炊事係の男性がいたが、その後は、観測当番でない者が食事係を務めた。観測所の生活は単調だった。季節のいいころは、花を見ながら近くの尾根を散歩したり、途中で見つけた木の根でパイプを作ったりしたが、冬は、ストーブの番くらいしかすることがなかった。
 生活に必要な食料や燃料の石炭は、強力(ごうりき)4、5人が、それぞれ14、5貫(1貫は3.75kg)ずつ負い子に背負い、1日がかりで運び上げ、地下の倉庫に入れていた(*23)。食事は、配給の2合7勺(しゃく)の米(1合は約150g 、1勺は0.1合)とわずかばかりの缶詰だけであった。米は、食糧庫の決められた俵から、毎日決まった量を竹べらで取り出して使用していたが、あるとき、使ってないはずの俵が柔らかいのに気がついた。『これはおかしい。』と思って、俵を押さえてみると、中がふわっとしていた。当番が、ひそかに竹べらで米を抜いていたようで、よほどの力持ちでないとかつげない米俵が、軽々と持ち上がった。その後、残りの米俵も次々と細くなっていったことは、いうまでもない。
 石鎚山観測所は、戦後もしばらくは観測を続けていたが、昭和23年(1948年)7月31日に業務を閉鎖した。

   思い出をたどりて行けばかぎりなし 風吹くもよし 霧かかるもよし

 当時の苦労も、いまはなつかしく思い出される。」

 イ 強力**さんと石鎚山

 **さん(周桑郡小松町御殿 明治39年生まれ 90歳)
 黒川一の強力といわれた**さんは、気象観測所の建設から、業務停止後の山小屋の世話まで、山頂小屋と深くかかわってきた一人である。

 (ア)石鎚山観測所の建設

 「測候所(石鎚山観測所)の建設が始まったんは、昭和18年(1943年)の山の雪が消えてからじゃったろう。セメントや砂、ベニヤ板などの資材の運搬は、成就の**さんが引受け、それをおじいが請け負い、黒川の者に手伝ってもらって、背中にかたいで(担いで)河口から黒川道を運び上げた。一人がかたぐ荷は、男で20貫、女衆(おなごし)は13貫くらいじゃった。日当は、かたぐ品や重さによって決まっとったが、1日で3円か4円になりよったかのう。昔はほかに金もうけもなかったしのう。
 河口から上(山頂)まで、おじい一人なら5時間くらいで登ったが、女衆を連れると、10時間近くかかった。朝は、6時半ころに出て、向こに着いたら、日が暮れかかっとんじゃ。下りは3時間ほどで下りたが、それでも家に帰り着くころには暗なっとった。雨が降ったら女衆はええ行かんかったが、おじいは雨が降ろうが、ガスがかかろうが、毎日欠かさず行った。観測機械を据える、『よすま』という、32貫(120kg)もある金の枠を上げるときは、成就で1泊し2日かがりじゃった。負い子でかたいでも、頭の上にだいぶ出るんじゃが、これを4つ運んだんよ。昔は力があったからのう。じゃが、難儀(なんぎ)したものよ。」

 (イ)山小屋の経営

 「測候所がやむ(閉鎖される)ときに、建物を払い下げてもらおうと、引き揚げ荷物を運ぶトラックの荷台に潜り込んでの、上田勇所長さんと高松まで行ったんじゃ。ところが、『土地が神社の土地じゃから、個人には払い下げられん。神社によう(よく)言うとくから。』ということで、神社に払い下げられたんを借りることができたんじゃ。山小屋(頂上小屋)は、昭和26年(1951年)まで続けた(*24)。
 小屋には、はじめ、泊まる部屋が4間とおじいの寝る部屋が1間あった。ところがの、小屋は、ベニヤ板じゃけん、すぐに傷むんよ。それで、2年目くらいに、修繕しての。そのときに、コンクリートの上に柱を建てて、棟を起こしてトタンを葺(ふ)いて、2階をつくったんじゃ。それで倍くらい泊まれるようになった。物がないんでめんどい(むずかしい)時代じゃっての、氷見(ひみ)(西条市)の藤原いう店で世話してもろたんじゃ。
 小屋は、お山開きが終わる7月10日から、昔の明治節にあたる11月3日まで開けとった。おじいは、その間、毎年ずーっと山におった。荷物を運んだりするときも、下に泊まったりはできんのよ。その晩に帰っとらんとの。風呂にも入らずにの、難儀したもんよ。山には、女(おなご)も行っとったが、なごう(長く)はおれんのよ。月厄(つきやく)(生理)ちゅうのがあるけんの。あのときは下におりとるんよ。その間、おじい一人ちゅうわけにもいかんけんの。どうしても、2人、3人いるのよ。お客、おるやらおらんやらわからんけどの。
 泊まりに来たのは、学生が多かったのう。高知へんからよう来よった。お客が、一番ようけ(たくさん)泊まったときは、200人を超えとったのう。雑魚寝(ざこね)じゃから、寝れたんよ。おじいは、炊事場に寝ての、我(わ)ら寝よるとこも、お客寝ささないかざった(寝させないといけなかった)。
 泊まる人には米を持ってきてもろて、朝晩それを炊くだけしてあげよったが、山は湿り気が多いとこじゃけん、たきもの(薪)が乾かんでよう燃えん。たきものは、山で集めた。営林署の山じゃけん、生木(なまぎ)は伐られんけんの、だーまって(黙って)枯木をの。枯木はなんぼでもあったんじゃ。それをの、集めてきては炊きよったんじゃ。一番ようけ炊いたときは、1回で3斗の米(1斗は約15kg)を炊いた。いっぺん(一度)に1斗2升(米1升は1.5kg)炊ける大きな釜があるんで、それで炊いた。2升や3升なら、こんまい(小さい)はがまで炊くんじゃが、大きな釜は火の加減一つじゃけんのう。なかなかめんどかったのよ。飯は、およそで計って出したんじゃが、くじくる(文句を言う)お客は、なかったけんのう。
 おかずは、味噌汁と福神漬け、塩昆布くらいを出しよったかのう。神さんのとこじゃけん、生臭(なまぐさ)は食わさんのよ。缶詰なんか持って来とっても、『生臭食うたら、雨が降る。』言うて脅しての、食わさんのよ。おじいが作る味噌汁がまた、うまい言うてのう。何を入れとんの、言うて聞かれるんじゃけど、何も入れとらんのよ。ふう(麩)を2つほど入れとるだけよ。みそがうまかったんじゃろ。おかずがなくなった時なんかはの、夜、客を寝さしといて、それから黒川の自分とこの家まで提灯つけて下りて、朝、飯炊くまでに上がったりもしたもんじゃ。あの山のせばい(狭い)道を提灯の明かりで、けがもせずに。今考えたら、ありがたいもんじゃった。
 朝は、飯を炊かないかんけんの、3時ころには、起きとったのう。お客は、みんな朝日を拝んで出るけんのう。学生なんか、昼までおるのもしっかり(けっこう)いて、出んので困りよった。一人だけはよ(早く)出るゆうても、朝早くから支度せんといかんし、わりあい、むつかしいもんじゃ。昼間は、掃除もしたり、ランプじゃけんの、それに油も入れないかんし、火屋(ほや)もふかないかず、仕事は、あったぞ。お客がはよ出てくれりゃええが、お客がおるうちはそうじもできずの。わりあい思うようにはいかざったわい。
 小屋の下に、大きなタンクと倉庫があっての、雨水をそのタンクにためて使いよったんよ。冬は人間がおらんけん、タンクの水が凍ったりしての、難儀したもんじゃ。天気が続いて雨が降らんと、水もなくなる。すると、面河道の水場から1時間かけて、水を運びあげるんじゃ。1斗5升(1斗は18ℓ、1升は1.8ℓ)入る桶を1回に2つ背負うての。それを17日間も続けたことがある。そんなときはの、一人に顔洗うの1杯と口ゆすぐのに湯飲み1杯、配給しよったんよ。それくらい節約せんといけん。雨が降らんのじゃけん。
 小屋は、冬はだれでも入れるように開けとばしとくんじゃ。山には、新(暦)の正月にはお参りに行きよった。長ぐつで行きよったんよのう。その時分にはまだ雪がこまい(少ない)んじゃ。谷なんかには吹き込んだのがあるがの、尾根は吹きさらしじゃけん、わりあい雪がないんじゃ。長ぐつが埋まらんぐらいじゃ。山の勝手知ったらの、そう怖いこともなかった。谷を渡るときだけはしゃない(仕方ない)けどの。真下見たら、真っ白の沢で木が1本もないんじゃ。こけたら(転げたら)もうそれまでじゃ。ようこけざったものじゃのう。ありがたいもんじゃ。
 小松に出てもう35年になるが、お山さんのお陰かのう、けがもせずに90まで生きたんじゃけん。ありがたいこっちゃ、90まで生きれたいうことは。」

 ウ 山小屋を守り続けて

 **さん(西条市中奥  昭和7年生まれ 64歳)
 **さん(西条市喜多川 昭和25年生まれ 46歳)

 (ア)山小屋を継ぐ

 成就で旅館を経営しながら、頂上小屋も経営している**さんの話。
 「わたしのところが、成就で宿屋を営業するようになったのは、祖父の時代である。もともと成就あたりは住友の土地で(後に別子山村の国有林と交換され、現在は国有林である。)、そこで伐採の請負頭のような仕事をしていた。合間には炭を焼いたりもしており、成就に小屋をもっていたので、明治32年(1899年)ころ宿屋を開いた。当時、成就には夏の間だけ神職さんが交代で滞在していたが、その人たちがいないときに社番をしてくれと神社から頼まれ、そのかわりに成就で年中宿屋を営業する権利をもらったと聞いている。
 頂上小屋は、はじめは**さんに世話してもらっていたが、その後は、わたしのところがずっとやってきた。現在は、**さんにまかせている。祖父の跡を継いだ父が、昭和39年(1964年)になくなったため、当時新居浜の会社に勤めていたわたしは、翌年会社をやめてこの世界に入った。わたしも、まだ父が生きていた昭和38年、堂ヶ森の山小屋建設を始めたとき、現地で建設地を決めたり、建設の契約をしたりした経験があったので、この仕事に関してもズブの素人(しろうと)というわけではなかったが、当時の宿屋や山小屋からの収入は、わたしの給料よりも安かったので、少なからず迷った。しかし、結局、わたしがやる以外にないと思い、決断をした。」

 (イ)登山者の変容

 「わたしが山に入ったころは、ロープウェーもスカイラインもなかったので、高校や大学の登山部員など、歩いて来る人がほとんどだった。当時は、年齢的にも若い人が多かったが、最近は中高年や女性が多くなった。特にここ数年、その傾向が強くなったように感じる。これは、日本全体が高齢化したことによるものと思う。『老化は足腰から来る。』といわれているので、自然に親しみながら、山の中を歩こうという人が増えたせいではないだろうか。また、『日本百名山(*25)』がブームになり、遠方から石鎚に来る人も多くなったように思う。逆に、若い人たちが山から遠ざかってきた背景には、しんどいことは敬遠するという風潮があるのではないだろうか。
 ロープウェーやスカイラインができて、登山者数は増えたが(図表1-1-12参照)、泊まり客は増えてはいない。だれでも簡単に登れるようになり、日帰りができるようになったためだろう。また、軽装での登山も増えた。わたしは、もう10年以上自然保護指導員をやっているが、登山のマナーも今一つである。たとえば、相変わらずゴミを捨てていく者が、あとをたたない。草花や木に対しても同じで、きれいな花が咲いていると、採っていく者があとをたたない。『とるのは写真だけ。残すのは足跡だけ。』という態度で山に来てほしい。そのほか、単独登山はできるだけ避けること(冬季は特に)、登山届は必ず出すこと、時間的な余裕をもって山に入ることなど、自然を甘く見ず、山では決して他人に迷惑をかけない、という精神で山を楽しんでいただきたい。
 わたしがここに来て30年以上になるが、山に入ってよかったと思っている。『人生何のためぞ。』と考えたとき、わたしにとっては、ここでの多くの人々との出会いが、最大の財産になったと思っている。自然が本当に好きな人というのは、みんな謙虚で、ここに来る人の話の中にはそれぞれどこかに感動がある。また、自然を前にすると、みんな平等だということも教えられた。これが、山でくらさせてもらって一番ありがたいことだと思う。気の良い、環境にめぐまれたところでくらすことができるのもありがたいことである。
 最近になって、自分も足腰が弱くなったせいか、山は、健康な者、好きな者だけのものではないのではないかという気がしてきた。自然を破壊することなく、だれもが山に入れて、自然を楽しむことができるように、みんなで知恵を出し合えれば、と願っている。」

 (ウ)山小屋のくらしときびしい自然

 現在、頂上小屋を世話している**さんの話。

   a 山小屋のくらし

 「わたしが、頂上小屋とかかわりを持つようになったのは、大学生のときである。わたし自身、高校まではサッカーをやっており、大学に入るまでは山には行ったことがなかったのだが、クラブ勧誘時に強制的に山岳部に入らされ、山に来るようになった。この小屋も最初はアルバイトでやっていたのが、そのまま居ついてしまい、24、5歳ころから、この小屋をまかされるようになった。今は、4月下旬に小屋を開けて、11月上旬に閉めるまで、夏の間はずっとここでくらしている。
 昔は、小屋で使うものは、全部歩荷(ぼっか)(山小屋へ物資を運ぶのを仕事とする人)で上げていた。昭和40年代後半に、燃料や保存食などは土小屋まで車で運び、そこからヘリコプターを利用するようになったので、たいへん楽になった。しかし、今でも生鮮食料品などは、その都度歩荷で上げている。歩荷で運ぶ荷物の量は、1回にせいぜい30~40kgである。
 昔は、山小屋というとランプとまきの生活だったが、今は便利になり、下の生活とあまり変わらないようになった。寝具も備え付けてあるので、普通の旅館に泊まるような感覚で、山登りの方だけしっかりした格好をしてきてもらえればよいと思う。
 水は、今も天水を樋(とい)でタンクに集めて利用している。11月には、樋をはずしタンクも空にして山を下り、4月の中ごろ樋をかけて、水を集めるようにしている。そうでないと、冬の間に凍ってしまい、樋は割れるし、タンクにもひびが入る。少し雨が降ればけっこうたまるので、普通は水が足りないということはないが、一昨年(平成6年)は、梅雨に全然雨が降らず、7月の七山市のときには水がなくなってしまった。下の谷まで往復1時間以上かけて、1日中水汲みに行き、1日に500ℓくらいもって上がった。お客さんには、食事の時のお茶だけは出したが、顔を洗う水もないので、濡れたお絞りやウェットティッシュなど持ってきてもらったが、さすがにこのときは、いやになった。
 夕食は、だいたい6時ころに出すようにしている。ほかの山小屋では、カレーだけだったりするところもあるらしいが、ここでは、山菜や川魚なども出しており、いろいろな山小屋に泊まった登山者たちから、食事はいいとよくいわれる。まあ、毎日毎日、お客の多い山小屋では無理だろうが、うちは、料理には気を配っている。
 お客が多いのは、7月、8月、10月である。小屋には、2階に、25人くらい泊まれる大きな部屋が2部屋と6畳の部屋が3つ、それに4畳くらいの部屋が4つあり、下に8畳の部屋が2つある。昔は、150人くらい泊めたこともあるそうだが、今はお客さんもぜいたくになったので、100人くらいがいいところだと思う。
 山小屋を利用するときは、どこでも水が不自由だから、水に対してはデリケートになった方がいいと思う。また、泊まるときは、ちゃんと予約していった方がいいのではないかと思う。わたしのところなども、飛込みのお客さんに対しては、あまり時間が早い場合は断ることもある。いくらでも泊めていると、早くから予約してくれているお客さんに迷惑がかかってしまう。もっとも、もはや下まで下りられないような時間に来た場合は、まさか暗い中に放り出すこともできないので、仕方なく泊めているが、やはり、山では他人に迷惑をかけないよう心がけてほしいものである。」

   b きびしい自然

 「ここの生活で一番苦労するのは、きびしい自然への対応である。
 台風のときは、下では考えられないほどの風が吹く。70m(毎秒)くらいは吹くのではないだろうか。ただ、この小屋は比較的風がよく抜けるので、窓に板を打ち付けるくらいで、あまり備えはせず、台風が行き過ぎるのを待っている。
 雷も同じで、終わるまで待つ以外にどうしようもない。この辺りでは、雷は横から来るという感じで、稲光も横に走ることが多い。雷で小屋がゆれることもある。今までで一番ひどかったのは、昭和57年(1982年)の夏の雷であった。西条市が開催した石鎚標高年記念登山大会の前日のちょうど夕食時に、ものすごい雷が来た。『これは危ない。』と思いながら様子をみていたが、だんだん近づいてきて、やがてすごい雷が一つ、近くに落ちた。発電機がやられ電灯が消えたが、次の雷が落ちたときに、消えていた電灯が順々にぽっぽっと点灯した。電話線の近くに落ち、それを伝わって電流が流れてきたのだろうか、このときはほんとうにこわいと思った。その雷は1時間近く鳴り続け、翌日も来た。前線性の雷(界雷(かいらい))は1日ですむが、夏の雷(熱雷(ねつらい))は、大気が安定するまで2、3日は続けて来ることが多い。
 山頂では、9月下旬から10月上旬になると、初氷がはり、霧氷が来る。そして、10月中ばから下旬になると、初雪が降ることが多い。小屋を開ける4月下旬は、まだ雪の世界で、道をつけながら荷物を上げなくてはならないことが多い。山頂付近が新緑になるのは、6月の下旬か7月に入ってである。山頂から見ていると、下からだんだん緑が登ってくるので、よくわかる。 10月上旬には紅葉が始まり、今度は逆にだんだん下っていく。山の中では、季節といっしょに動いているようなもので、下でくらしている人からみれば、うらやましがられることが多いが、ここは、山が好きで、山を見る心がないと、長くいられるところではない。山でくらして、いろいろな人と会えたことと、自然の中に自分を置けたということにはたいへん感謝している。」


*23:石鎚山観測所は、地下に食糧倉庫と貯水槽、1階に玄関、ホール、事務室、2つの宿直室、小づかい室、湯わかし場、
  風呂場、観測室、物置、動力室、2階には、展望室(ベランダ)と機械室があった。
*24:**さんによると、小屋は正式には、昭和24年(1949年)9月に、途中の参道も含めて高松の財務局から石鎚神社に払
  下げられたとのことである。それを**さんの父**さんが借り受けたものであるが、**さんが山小屋の世話をしていた
  のは、この前後と考えられる。
*25 : 小説家、深田久弥(1903~1971)の山岳紀行集。北は北海道の利尻岳から南は九州の屋久島宮ノ浦岳にいたる百峰が
  選ばれている。単なる日本の山の総覧でもなければ案内記でもなく、「人間にも人品の高下があるように、山にもそれが
  ある」という著者独自の山岳哲学に貫かれている(⑯)。

写真1-1-9 夜明峠から見た石鎚山

写真1-1-9 夜明峠から見た石鎚山

急坂を登ると、眼前に**さんが幾度となく目にした石鎚山の雄姿が現れる。平成8年10月撮影

写真1-1-10 石鎚神社成就社

写真1-1-10 石鎚神社成就社

平成8年10月撮影

図表1-1-12 石鎚ロープウェー及びスカイラインの利用状況

図表1-1-12 石鎚ロープウェー及びスカイラインの利用状況

ロープウェーは昭和43年8月開業。スカイラインは昭和45年9月開通(12~3月は毎年閉鎖)、平成7年9月からは無料開放。石鎚登山ロープウェイ株式会社及び愛媛県久万土木事務所の資料より作成。