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愛媛の景観(平成8年度)

(1)架橋の海に生きる①

 ア 親子で築く花の島

  **さん(今治市馬島 昭和2年生まれ 69歳)
  **さん(今治市馬島 昭和9年生まれ 62歳)
  **さん(今治市馬島 昭和30年生まれ 41歳)
 馬島は来島海峡の中央に位置し、周囲3.8km、面積約42haの小島である。最高地点が島の南端、中四国送電線の鉄塔がある城(しろ)の台(だい)で88mと平坦な島で、今治藩の馬の放牧場であったのが島名の由来と伝えられている(①)。
 入島のころについて**さんに聞く。
 「われわれの大先祖、塩見六右衛門がこの島へ渡って来たのが慶安3年(1650年)です。
 『愛媛県百科大事典(①)』には大島の椋名(むくな)からとなっていますが、正しくは、現吉海町の福田からです。非常に草が豊富で、草がある所は水もあれば土地もよろしいと開墾に乗り出したんじゃそうですが、青毛と赤毛のかん馬(暴れ馬)が2頭おりまして、作物を食い荒らしてしまうので困ったようです。当時は、今治藩の配下にあり、藩主に『勅許相願上候(ちよっきょあいねがいあげそうろう)』と申し出て、処分の許しを得たようです。『2頭の馬の処分で稔りが豊かであった。』と書かれた文書(もんじょ)も残っています。その後、お殿様が、『馬を放牧したら名馬が生まれるぞ。』と仰せられ、放牧場になって、馬島の名が付いたそうです。」
 さらに、藩主が釣りに出て来島海峡でしけに遭い、塩見の庄屋屋敷で介抱して差し上げたところ、命の恩人と喜ばれた藩主が、対岸の大浜から桧垣某を、住人として島へ送り込んでくれたことなどを話す。
 貞享(じょうきょう)2年(1685年)に、漁場を開発したと伝えられる(②)馬島の磯は、ワカメ、テングサ、イギス(カズノイバラ)、ヒジキなど、海藻の宝庫で、採藻が盛んであった。今も使われるというヒジキ釜がその昔を物語る(写真1-2-1参照)。
 馬島の漁業は、速い潮流と岩礁のため、網漁が発達せず、共同での漁業経営は見られない。一本釣り、採藻、採貝が主体の個人経営に支えられた漁業形態が保たれて(③)、今日に至っている。

 (ア)園芸農業への切り替え

 「おやじは昭和20年(1945年)まで漁業権を持っとりまして、農業会長をやりながら漁業組合の理事もやっておりましたが、わたしは、漁業権をさらりと放棄しました。そちらをやりよったら農業の方が成り立たん。」と**さんがいう背景には、漁業資源がだんだん枯渇(こかつ)していく中で、年間110日従事しなければ漁協の正組合員と見なされぬ条件を、到底満たすことができない農家の事情があった。**さんのところには、ムギ60俵(1俵は約60kg)、サツマイモ2千貫(7.5t)、ジャガイモ100貫(375kg)ができる畑のほかに田んぼがあった。
 「おやじは30年間タバコを作って、表彰状をもらいましたが、わたしは若いときから、タバコのニコチンが体質に合わん。もう一つは、タバコ栽培のすべてが当局の指導に従わにゃいかん。そこには自由がない。また、30年も作ると忌地(いやじ)(連作障害で収量が落ちる土地)にもなりましてね、よくなかったんです。」ということで園芸農業へ切り替えていく。昭和20年、青年期の**さんも18歳になっていた。
 「当時の園芸は、例えばキャベツでは春とれるだけで秋どりがなく、ハクサイは反対に秋結球しても春の結球がない。そうしたものの新規の開発が行われていたんです。京都のタキイ種苗会社が手掛けましてね。そこの社長さんと元国会議員の三橋八次郎先生とが参議院内の大の仲良しで、おやじが三橋先生と懇意で行き来があったものですから、『**君、国土が狭いんじゃけん米作りを捨てるわけにはいかんが、米作っとったんじゃ、やっていけん時代が来る。だから、百姓するんじゃったらタキイさんに紹介してあげるけん、君も考えを持っとろうが、1年ほど修行に行ったらどうか。』と勧めてくれたんです。行きたくてたまらざったんじゃけど、だんだんおやじが弱ってくるし、弟たちを、時代の要求で学校へやらないかん。長男というのは因果なもので、家へ残らんことには下の子の養育ができません。これが自分の宿命でもあったわけです。」
 タキイヘは行けなかったが、地元の県立農事修練場で1年間修行し、年に1回か2回、タキイを訪ねては交配や一代交配種の勉強を重ねていった。
 昭和27年(1952年)に制定された農地法が施行されると、園芸農業が今治地方一帯に普及し、その後米作りの調整で拍車がかかった野菜作りは、やがて生産過剰による暴落に見舞われる。**さんは花作りの腹を決める。

 (イ)霜の降りぬ島

 隣に座って、**さんの話に耳を傾けている長男の**さんを指差しながら、「この子らは、マーガレットで太らしたと言っても過言じゃないんです。」と語り始めた花物語は、**さんが持って生まれた粘り強さと進取の気性を証明するものであった。

   a 2℃高い冬の気温

 「15歳の時からです。朝、昼、晩と家の周りの同じ場所の温度を記録しました。20年近くやったでしょうか。朝はね、むっくり起きたら温度計を見て書くのですから、春や秋は6時ころ、夏は早くなりますよね。統計をとってみたら、昔の人が『6年周期で台風が来るぞ』、『霜が降りるのも、同じ周期でやって来るぞ』と言い伝えてきた自然現象について、記録と統計によって、ざっとした自分の気象観ができていました。波止浜(はしはま)の気象観測所は、当時まことに粗末なもので、『温度は見よるけんど、別に統計とってみたもんではない。記録はしとる。』という程度のものでしたが、それでもゴッチンゴッチン櫓(ろ)を押して見に行きました。たった年に1回とは言え、潮流の早いことで知られる来島海峡の西水道を、手押し舟で渡る姿を見て、『へにもならんのに、しんどいの。』と他人から冷やかされながらも、所長さんが亡くなるまで続けました。お蔭で、馬島は冬の平均気温が、対岸の波止浜よりも2℃高いことを確認できたんです。それ以来、2℃高い馬島の気温は、わたしの頭から離れることはありません。」
 **さんは、丹念に自然界の生きものについても記録した。「ツバメが○月○日に来た。セミが○月○日から鳴きだした。庭のボタンが○月○日から咲きだしたとね。だから、芋苗を伏せる日は○月○日と決めずに、ボタンがはころびかけたらというように決めていました。」という。自然界の虫も花も、ヘビやトカゲの出現も記録にとどめた。40歳のころまでは続けたと言う。
 農業経営記録は、この手法で記録した営農メモのまとめである。
 その第1巻を見ると、作付け面積は畑が1町1反8畝(1.18ha)、田4反5畝(0.45ha)と広く、栽培作物も穀類(イネほか6種類)、豆類(ソラマメほか6種類)、芋類(サツマイモほか2種類)、果菜(かさい)類(カボチャほか8種類)、葉茎菜(ようけいさい)類(ハクサイほか12種類)、根菜(こんさい)類(ダイコンほか5種類)など45種にのぼる。果樹もウンシュウミカン、イヨカン、カキ、ビワ、イチジクを栽培しており、規模の大きい農家であることが分かる。葉茎菜類に見られるワタやジョチュウギクは、タバコと並んで島しょ部の特徴的な作目であった。

   b マーガレットの**

 「下(した)の家」の屋号で呼ばれる**家も、大先祖の塩見六右衛門の入島以来、7代目の**さんまで約300年にわたる。拓(ひら)いた田畑も1.6haを越え、「下の家へ行けば食べられる。」と、作業員も何人かは農繁期に同居していた。「つなげば地球を1周したと思う。」という手打ちうどんが、祖母**さんの自慢のメニューで、振る舞われた人は数知れない。自給自足は**家の伝統であった。
 苦しい労働ではあったが何一つ不満のないくらしの中で、**さんは庭先や畑の隅に草花を植えていた。
 「昭和30年(1955年)ころです。忘れもしません、1月の7日です。祖父の法要で来られた坊さんが、『これは、この寒い季節にマーガレットが咲いとるが、ここでできるということは霜が薄いんじゃな。あんた、**さんやってみんか。』と言われたんです。花は好きでした。昭和33年に、今治の花屋さんがトコトコやって来て、『**さん、このキャベツ1個でなんぼになるん?花をこれだけ(キャベツ畑の広さ)やったら3倍になるぞな。』と。そして、花市場が松山にはできるらしいと知らせてくれたんです。」
 行動的な**さんが花づくりに踏み出すのに時間はかからなかった。翌34年(1959年)には、仲間の生産者3人と花屋3人とで今治生花市場を造った。価格が安定しない販売の苦労に耐えて市場を続けながら、松山市へ進出して行った。「やっぱり松山は15万石の城下でした。お茶とともにお花が盛んで、マーガレットが1本10円と決まったら、いくら沢山出荷しても最後まで10円で売れました。香川県からも花が送られてきて、どんどん売れていました。」
 「夜中の2時を過ぎて、真っ暗な山道を、家内と一緒にこもを背負うて行って、霜を防いだ寒い朝もありました。」というお花畑は、今は架橋工事の現場になっている(写真1-2-3参照)。また、台風の風雨の中で奥さんから手渡される花の束を、踊り狂う小舟の上でバランスをとりながら、舟へ取り込んだこともあった。昼間の作業ならまだしも、電気のない島での、夜間の作業は厳しいものがあり、特に収穫期に強い風雨に遭うと、花の取り入れは自然との命懸けの戦いであった。
 意欲満々でマーガレット作りに取り組んだ**さんには、出荷された市場の花を見て、「よし!これ以上の花を。」の思いがあり、マーガレットの本場である伊豆半島を現地視察した第1回全国花卉(かき)生産者大会(昭和37年、横浜)以来、神奈川、愛知、静岡、千葉、埼玉のどの大会にも参加して知識を吸収した。
 「マーガレットの**」と呼ばれるほどに、**さんのマーガレットは市場の評価が高かった。**さんは、伊豆半島の田子(たご)の浦(うら)を視察した際にもらって帰ったものを育てた。10本ほどもらったマーガレットをチリ紙に包んで(まだビニール袋はなかった。)愛媛県へ持ち帰った。「10本の芽の内で4芽だけです、無事に育ったのは。これが、**のマーガレットの起源です。」と**さんはいう。
 生花市場で問い合わせたのか、**さんを訪ねて、あちらこちらから馬島へ渡って来る人が増えた。近くは中島(温泉郡)や興居島(ごごしま)(松山市)、遠くは九州からも、「ミカン作っても食えんのじゃ。**さん、若い者に教えてやってくれ。」と農業後継者を連れてやって来るようになった。「教えたら、わが家は飯の食い上げになるんじゃけども、わたしが出荷するのが松山市場ですから。」と何でも教えた。「それも親の代からですけん。」と、秋季キャベツの作り方を大島の生産者に教えたこともあったと話す。
 **さんは、水が少ない馬島の自然条件を逆手にとって、逆にいじめることで水に強い、水もちのよいマーガレットを作り出した。しかし、昭和56年(1981年)の寒波で、作っていたマーガレットは全滅した。この年で、伊豆半島から持ち帰った系統は途切(とぎ)れたものの、**さんが花づくりを始めたころとは違って、参考書もあれば普及体制も整い、技術指導員もいたので、新しい品種を導入してマーガレット作りを続けることができた。それでも、霜害から逃れることはできないものかと、めったには来ない霜のことを悩んでいた。
 昭和51年(1976年)、**さんが名古屋の大学から馬島へ帰って来た。「あのときが我が世の春でした。」と言った**さんのことばが、8代目の**さんを待つ**家の喜びを、最も端的に表していると思われた。**さんは馬島へ嫁いで、先々代の夫婦と先代の夫婦に仕え、馬島の総代として「電気導入」のために東奔西走する夫の留守を預かって、野良仕事と家事とに追われる日々に、くつろげる場所も時間もなかった。
 今治市内に下宿して高校へ通った**さんは、歯を食いしばって頑張る母の姿を見て、「必ず島へ帰る。馬島を守る。」と心に決めていた。父親の希望どおりに、教員になるための教職単位を履修したものの、最後に1単位をあえて取らなかった時点で、口には出さないまでも、**家8代目の「島守」は誕生していたのである。
 **さんにとっては、長い辛抱のかいがあって、夫の「電気導入」が島を挙げて祝福され(昭和46年)、その電気を活用して新しい馬島を築こうとする息子の帰郷である。「百万人の味方ができた。」と思う心中は容易に察することができた。
 **さんは、「少しでも開墾しておこう。」と考えて、卒業前の正月に帰島した。小型のブルドーザーから離れぬ毎日が続き、両親が心配した卒業証書と学士号は郵送されてきた。
 成木になったばかりのミカンをブルドーザーで掘り起こす開墾作業が続けられた。**さんにとっては、「おやじがほお鉢巻き(ほおかぶり)で穴を掘ってですね、『これが大きくなったら、**の時代には安気なぞ。』と言いながら一本一本植えたんです。いくらミカンが落ち目じゃと言いましても、そりゃもう涙が出ました。」という、ミカン園(約1ha)の切り替えに3年を要した。
 いかに花卉(かき)園芸を専攻したとはいえ、花作りについては息子を初心者と思っていた**さんは、「わしでさや勉強した。せり場に流れてくる花を手に取って見い。花屋さんと連携とって、ともに勉強をせい。」と**さんを松山市場へ通わせた。この1年は、**さんにとって貴重な研修期間となり、「大学の4年間よりも、よく勉強しました。」と本人も言っている。

   c 防霜ファンの導入

 「息子には、スイートピーのことが頭にありまして、わたしも兵庫県で全国花卉生産者大会が開かれた時(昭和41年)に、淡路島の産地も見ておりましたので、花もいろいろやってきましたが、結局スイートピーに定着してしもとるんです。」
 **さんがミカン園を改造して、施設園芸に切り替え、最初に導入したのが防霜ファンであった。本土より2℃高温で、めったに霜は降りないけれど、降りると一晩でやられてしまう苦い経験をした**さんは、調べているうちに、たまたま、息子さんの大学の近くで「霜避(しもよ)けファン」を製造していることを見つけて、「お前行って来い。」ということになった。
 防霜ファンについて**さんに聞く。
 「お茶畑用に開発された防霜ファンなんです。霜が降りる条件は、一つは温度が下がること、もう一つは無風状態になることなんです。風も、肌に感じる程の風があれば、霜は降りません。ただ、完全無風状態になると、気温が4℃でも霜が降ります。そして、逆転層と呼ばれる、地表より2℃高い空気の層が地上5、6mにできるんです。だから、地上6mからファンで吹き付けてやると、温度も多少上がるし、風を通わせることによって霜が降りません(写真1-2-6参照)。」
 防霜ファンの回転で生じる風をマーガレット畑に吹きつける。こうして、本土より2℃高温の馬島は、文字通り「霜のない島」になった。

 (ウ)受け継がれる島守の伝統

   a 金づちの川流れ

 **さんの著書『島守記 埋もれ木(④)』は、出生からの父親と、嫁いでからの母親の一代記である。
 それによると、20歳で徴兵検査を受け、第5師団松山22連隊に入隊した父親は、大正5年(1916年)には上等兵、6年には伍長、7年には軍曹に昇進し、8年にシベリア出征、9年に結婚(婿不在の結婚、戦争中にはよくあった。)、11年に曹長となり、12年に現役満期で除隊となっている。
 軍隊時代の**さんは大変な読書家であったらしく、『大日本史』、『日本外史』などの歴史もののほか、偉人伝を耽読(たんどく)した。また、独学で『三体千字本』を書写して書道の腕を磨き、一粒の米にイロハ四十八文字を書く特技を持っていた。さらに、珠算、測量が正確な上に、銃剣術にも秀で、連隊長から目をかけられたようである。
 現役満期となる10年の節目に、連隊長からの呼び出しがあった。連隊長は、何とか軍隊にとどまらせようと思い、助勢のため、友人の第5師団経理局長も呼んで、**さんを説得しようとしたが、**さんの気持ちは変わらなかった。**さんは職業軍人になることを勧める連隊長、経理局長の前で、次のように言い切ったのである。
 「陸軍には、星が降るほど人材はおります。が、孤島馬島はわたしがいなければ、いつまでも金づちの川流れ、わたしの任務は郷土の開発にあります。」
 故郷の馬島とそこにくらす人々が、今のままでは川底に沈んだ金づちそのもので、時代の流れについていけず、いつまで経っても今のくらしから抜け出せない。どうか、わたしを島へ帰らせてくださいと懇願したのである。
 島の開発に取り組む父親を、**さんが「鬼の**」と表現することからも、すさまじいまでの意気込みが**さんにはあったものと思われる。法的な手続きで馬島の漁業権を設定し、所属した渦浦(うずうら)村(現吉海町)の農業会、漁業組合、村議会で活躍する姿は、家族は言うまでもなく、島民にも、対岸の漁師にまでも恐れられた。しかし、**さんの努力によって、馬島の生業が復活し、生活の場も次第に整備されていった。

   b 馬島の夜明け

 **さんは、昭和45年(1970年)、年頭の総会で馬島の総代に選出された。就任あいさつを兼ねて、各方面へ「馬島へ電気を」と陳情を始めてから、昭和46年12月26日の馬島電気点灯式までの経緯が、『郷土に光を(⑤)』の中で詳しく述べられている。**さんが、「2年間、身を捨ててやりました。」と言うとおり、時限立法の離島振興法が昭和46年で切れるまでの、きわどい事業であった。
 「離島振興法なんかも、投資効果をみるんですね。一戸当たりの対照額が100万円までなら面倒みよう。越えるものは切り捨てい。馬島は160万円、絶対にいかんと、絶対付きじゃったんです。」と、25年前のことを、昨日のことのように語った(写真1-2-7参照)。
 **さんは漢詩の「訣別(けつべつ)(*1)」を引用して、「久しぶりにわが家へもんてみると、妻は病床に伏しておることもなく、4人の子供たちも元気で、飢えに泣いてもおらん。有り難いことよと、また飛び出して行くんです。何度もそういうことがありました。」と当時を語る。奥さんから、「もうお金無いんよ。どうする?」と言われたこともあった。
 国・県・市の行政機関へ、中国電力株式会社の本社、営業所へ、地元の漁協・農協へと走り回る日が続き、島へは帰れないことが多かった。大詰めを迎えて、単身上京し、経済企画庁の総合開発局を中心に、3日間霞ヶ関(かずみがせき)で粘り抜いた時が正念場であった。島民100人の命運を背にした必死の請願で、「わたしは佐倉惣五郎(*2)の心境でした。」と**さんは言う。留守を守った**さんは、「この人は、先代の**さんと比べて体が弱かったもんですから、東京へ出張しても、『どうぞ元気でいてくれたらええが。』と思いまして、馬島神社へお宮参りに行きよったんです。」と言う。
 馬島神社は、馬島へ入島してから大山祇神社を勧請(かんじょう)したもので、**家とは縁が深いようである。「**家は代々宮総代を務めたようです。わたしは知らずにおったんですが、宮司さんから、『あんたで3代、72年やっとる。50年以上になる人を神社庁で表彰するから行ってもらわないかんのじゃ。』と言われて、4、5年前に明治神宮へ参りました。」と**さんは言う。この馬島神社は、島民の氏神であり、**家の守り神でもある(写真1-2-8参照)。
 神仏の加護によって、電気導入という世紀の大事業を成し得たと感謝する**さんは、点灯式の興奮がさめやらぬ正月の初もうでを、家族そろって馬島神社で行っている。「神様へ報告をしながら、御先祖様にも語りかけているような気分なんですね。不思議に。」と語る。
 『郷土に光を(⑤)』の中に、馬島電気点灯式での**総代の謝辞がある。それは、馬島の夜明けを心から喜ぶ島民の真情を述べている。
 「わたし共が電気にあこがれてより数十年、ランプ生活から自家発電へと進みましたが、時間点灯の不便さは言語に絶するものがありました。中高校生は消灯後ローソクをつけて勉強し、病人や乳幼児をかかえた家庭では、時には生命の危険を感じることさえありました。点灯のスイッチを押していただきましたあの瞬間から馬島の歴史は変わりました。正に世紀の夜明けであります。3本の線で本土とつながりました以上、もう馬島は離島ではありません。この線からは、単に明かりのみならず、産業も経済もすべての文化が送られてくることを期待しております。」
 そして、謝辞の終わりに、各方面へのお礼を述べる中で、込み上げる感情を抑え切れずに絶句する総代の背後で、島民たちが声を出して泣く情景が見られたという。

   c 身を捨ててこそ

 電気導入の事業には、馬島31戸、100人の島民に、当然のことながら地元負担の相当額がかかった。総代として、**さんが島民の同意を完全に取り付けるまでには、並々ならぬ苦労があった。馬島の夜明けのために、身を粉にして奮闘を続ける**さんが、進退きわまって、頭からふとんをかぶって泣いたとき、80歳になろうとする厳父は、財産の権利書と印鑑を差し出して、「これを使え。わしの方が先に逝くだろうから、御先祖様には断っておいてやる。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。元気を出せ。」と励ましてくれた。そして、点灯式の興奮で島じゅうが沸(わ)き返った夜、生まれて初めて、「よくやった。おめでとう。」と**さんは父に褒(ほ)めてもらった。
 「鬼の**」の背中を見て育った**さんは、**さんの「金づちの川流れ」を見事に引き継いだ。電気導入という事業の成功が、馬島の歴史に残る大改革であると同時に、6代目**さんにとっては、7代目の島守を、**さんへ無事引き継いだときでもあった(写真1-2-10参照)。
 恩師の世話で**さんと婚約していたころを思い出して、**さんは、「半年も経ったころでしたが、仲人さんから『馬島じゃのいうて、子供は舟で学校へ通わさないかんし、電気のないとこじゃけん、嫁入り道具を買うても使えんし、と言いよったぞ。』と言われましてね。当てがあったわけでもないのに、『うそを言うわけにはいかんのじゃが、わしゃお前の要望に応じて、電気をとっちゃらい。』と言うてしもたんです。しかし、こうなってみると、当てのない口約束が果たせました。」と言って、奥さんへの口約実現と笑う。
 控えめに座り、うつむいたままで**さんは、「義父(ちち)は賢いお人でした。主人が電気のことで走り回っている時でも、何ぞ迷うことがあれば、わたしは包み隠さず話しました。ええ判断をしてくれますから、その点は力強かったんです。わたしは、自分の力でこうしたということは何もありません。両親が賢いし、この人がいそしいので、わたしはついて行くのが……精一杯でした。」と言う。しかし、**家の男たちによってつづられた島守の歴史は、**さんや**さんに見るとおり、家庭と田畑の重労働に加え、何十人何百人もの来訪者に対して、それこそ身を捨てて尽くした女たちによって支えられたものでもある。
 来島海峡の真ん中で、青い空と海に包まれた馬島は静かで心を和ませる風景である。青い空にそびえる白い橋脚をまぶしく見上げる島の傾斜地では、8代目**さんがスイートピー作りに余念がない。「本土から舟で運んで来た下肥(しもごえ)に、海水も混入した堆肥(たいひ)で育てたムギは病気にも強かった。」と**さんがいう戦中戦後の農業に比べると、施設園芸で電気を導入した**さんの花作りは、まさに架橋で変わる馬島の景観と同様に、隔世の感がある。
 すでに8代目にバトンタッチして、第一線を退き、島の人々の結婚相談や税務相談などで忙しくなった**さんは、9代目となる孫たちに、かつては自分が聞かされて育った島守たちの歴史を、夜となく昼となく語って聞かせ、**家の行く末を楽しみに、充実した日々を送っている。


*1:「妻は病牀に臥し児は飢えて泣く」で始まる七言絶句、梅田雲浜(1815~1859年)の作。
*2:江戸前期の下総国佐倉領(千葉県)の義民。本名木内惣五郎で印旛郡公津村の名主。領主堀田正盛の課する悪税に、村民
  のために総代となって江戸に出て将軍家光に直訴、捕らえられ、その妻子とともに処刑された。歌舞伎劇などに脚色。

写真1-2-1 馬島港に面したヒジキ釜

写真1-2-1 馬島港に面したヒジキ釜

シーズン中は、この釜で潮ゆでする。平成8年8月撮影

写真1-2-3 来島第三大橋の橋脚が天を突く馬島

写真1-2-3 来島第三大橋の橋脚が天を突く馬島

橋脚の高さは地上176m、海面からは180mほどある。平成8年8月撮影

写真1-2-6 防霜ファンを設置したハウス

写真1-2-6 防霜ファンを設置したハウス

今はダクトで送られる風で結霜を防ぐ。平成8年10月撮影

写真1-2-7 馬島に電気が導入された記念碑

写真1-2-7 馬島に電気が導入された記念碑

平成8年8月撮影

写真1-2-8 渦ノ鼻に歓請された馬島神社と灯台

写真1-2-8 渦ノ鼻に歓請された馬島神社と灯台

秋祭りののぼり旗が立つ。平成8年10月撮影

写真1-2-10 馬島の中四国送電線鉄塔

写真1-2-10 馬島の中四国送電線鉄塔

**さんは今でも1日に1回必ず鉄塔をふり仰ぐ。何日に1回はこの山に登り、両の手でヒタヒタと鉄塔を叩いてみる。平成8年10月撮影