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愛媛の景観(平成8年度)

(1)海は恋人

 **さん(西宇和郡三崎町正野 昭和21年生まれ 50歳)
 **さん(西宇和郡三崎町正野 昭和41年生まれ 30歳)
 **さん(西宇和郡三崎町串  昭和43年生まれ 28歳)
 **さん(西宇和郡三崎町正野 昭和43年生まれ 28歳)
 **さん(西宇和郡三崎町正野 昭和16年生まれ 55歳)
 三崎漁業協同組合青年漁業者連絡協議会が結成されたのは昭和49年(1974年)である。三崎漁協には海の資源に恵まれた漁場があった。
 三崎漁協の歩みの中で、昭和49年は一つの節目を迎えた年であった。本県の水産業界で知名度の高かった、アイデアと実行力の人、加藤益太郎専務が、58歳の若さで逝去した年である。敏腕を振るった加藤専務は、フグ延(はえ)縄漁船の建造、キンメダイの伊豆沖出漁、漁協に鉄工部設置、蓄養場建設などを手がけた後、この年に漁協事務所を現在地に建築して、付属施設の水産加工場や水産倉庫を建設するなど、生産流通面での近代化を軌道に乗せた年である。
 「仕事をふやし、人をふやす。」と口ぐせのように言っていた加藤専務の営漁精神が受け継がれて、時代の流れとともに三崎漁協は発展してきた。
 特に近年は、「三崎漁師物語り」や「浜のかあちゃん」など、三崎漁協ならではの潮の香りと新鮮さをイメージさせるキャッチフレーズがヒットして、鮮度と高級ブランド化によって、着実に業績を伸ばしてきた。
 参事の**さんを中心にして、21世紀へ海人の夢をつなぐ「海は恋人」運動が、若者たちによって展開された平成7年は、昭和49年連絡協議会結成以来の一つの転機となった。資源管理型漁業を推進する中で、若者たちによる新しい活動が生まれたのである。
 「海は恋人」と名付けられたごみ箱を、漁船へ設置した動機を**前会長さんに聞く。
 「後継者で何かやろう。今できることで何か一つ残そうじゃないかと話し合ったんです。婦人部も以前から海の清掃を続けとるし、僕らも何かせにゃいかんと。」
 昔に比べて海が汚れたかを尋ねると、「そうやなぁ。見た目にも、港内に空き缶が落ちとったり、ナイロンがぷかぷか浮いとったり、やっぱり目につきます。」と言う。

 ア 自らの姿勢を正す

 三崎町は、きれいな海と新鮮な海の幸が自慢の、豊かな漁場に恵まれてきた。「しかし、家庭と同じで、掃除をする人もおれば汚す人もおる」状態であったという**さんは次のように語る。
 「婦人部の清掃が出ましたけれど、資源管理型漁業では、『海を汚さないようにしましょう。』というのは花形ことばです。しかし、海の恩恵を一番受けておるのは自分たちじゃないか。海岸掃除したり、港内清掃したりと、長い間婦人部活動が継続されてきた中でね。後継者たちに、『果たして自分らはどうやろか、もう一回原点に帰ってみようじゃないか。自分たちが海を一番よく使うじゃないか。自分らがきちっとしていたら、第三者の人らも協力してくれるがやなかろうか。』と問いかけたんです。人様に言う前に、自分たちの姿勢を正していこうとね。外部の方々には、自然発生的に心が通じればよい。ですから、ごみ箱を配布したのは、一番ようけ海を使う正組合員(299人)なんです。もちろん、このことで波及効果があればと、期待はしとるんです。」

 イ 女房と同じ感覚で

 **さんは続ける。「わたしらは、先輩がずーっと守ってきた漁場を使わしてもろて生活ができとる。そしたら、わたしらの子孫でだれかが『この海に残りたい。』と言うた時に、『いや、ここは魚がおらん。漁場はつぶれた。』と言わなければならないわたしらがつらいはず。自分らは生活できたが、自分らの責任で、子供たちの時代に漁場がないでは責任が果たせない。だから、つぶれんようにするには、自分の女房と同じ感覚で、海をずーっと大事にしていかんかったら、自分たちの立場がない。」
 こうして、ごみ箱は「海は恋人」(写真1-2-32参照)と命名された。会長、副会長を中心に、30人の後継者たちは漁船にごみ箱を設置した。
 この運動を松山の大会で発表した後、推薦されて第1回全国青年女性漁業者交流大会に出ることになった。30歳になって今年(平成8年)退会した**さんが会長として発表を、副会長だった**さんがスライド係であった。出場を控えて、彼らは地元の串中学校(生徒数25人、3学級、平成7年度)でのリハーサルを計画した。中学校の先生方に頼み込んでやらせてもらった。練習を重ねて、少し手を加えた原稿を暗記し、2人は張り切って発表した。13~15歳の未来の後継者たちから質問も出た。

 ウ 海人(うみびと)の夢21

 「放流したアワビの子供は、何年くらいで一人前になるんですか。」と尋ねる中学生に**さんは答えた。「去年(平成7年)の冬から飼っているアワビの稚貝を、今年海へ放流すると、5年くらいで一人前になるんです。ちょうど、君らが高校を出て、三崎の漁業後継者になるころには、立派なアワビに成長しとるわけよね。だから、海がきれいなままでおれるように、『海は恋人』を漁船へ積んでごみを持って帰り、ごみのない海にしとかないかんわけ。5年たったら、もう21世紀になっとるね。君らが三崎漁協の後継者になって、21世紀も豊かなくらしができるように、お兄ちゃんらが頑張っとくけんね。」
 **さんは言う。「僕は、そのことで十分だと思った。彼らは練習のつもりだったかもしれんけど、地域の子供たちへの波及効果が大きいんですよ。発表は別に、松山でも東京でも、どうということはない。」と。しかし、中学生たちに21世紀のきれいな海を約束した「海は恋人運動」が、第1回全国大会で全漁連会長賞に輝き、平成8年度の愛媛農林水産賞でも新人賞受賞の栄に浴して、若者たちの活動に弾みがついた。
 三崎漁業協同組合種苗センター(写真1-2-33参照)では、水槽の中を海水が勢いよく流れ、ぎっしり組み込まれた金属プレートに付着したアワビの稚貝が、元気よく動いていた。
 平成7年にオープンした種苗センターは、秋には県の水産試験場からアワビの稚貝を取り寄せて飼育を始め、2年後の平成9年1月、記念すべき第1回の放流を行った。
 **さんは、この稚貝を「アワビの長男」と呼ぶ。わが子同様に育てた稚貝約11万個はたくましく成長し、三崎の人々の夢を乗せて、ふるさとの海へ帰って行った。
 資源管理型の三崎漁業には、一本釣りと海士(あまし)に伝統の技が生きており、ほかにフグ延縄漁と刺(さし)網がある。青年漁業者たちは、休業日(第2土曜日)の設定や、月1回の地域ぐるみの海岸清掃に加えて、今、漁船へのごみ箱設置を契機として、「海は恋人運動」の新たな道を切り開き、21世紀へ向けて力強く歩み始めている。

写真1-2-32 若者たちが漁船に配ったごみ箱「海は恋人」

写真1-2-32 若者たちが漁船に配ったごみ箱「海は恋人」

全国漁業協同組合連合会長賞の受賞は「海は恋人運動」に弾みをつけた。平成8年9月撮影

写真1-2-33 三崎漁協種苗センター

写真1-2-33 三崎漁協種苗センター

21世紀の三崎の海に、海人の夢を託して、平成7年種苗センターが動き始めた。平成8年9月撮影