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愛媛の景観(平成8年度)

(1)伏流水のめぐみ①

 一級河川の重信川は、温泉・越智・周桑3郡の境の東三方ヶ森(ひがしさんぽうがもり)(1,233m)を源流として、重信町見奈良(みなら)付近で表(おもて)川と合流し、肥沃(ひよく)な水田地帯を形成しながら、松山平野を西流して伊予灘に注いでいる。
 その流域は、扇状地性の氾濫(はんらん)原(*11)が発達しており、特に重信川扇状地の扇央部は乏水(ぼうすい)性(地下浸透性)の地形で、雑木林や桑園に利用されたが、戦中戦後にかけて国立療養所や中学校・高等学校・大学医学部などが設立されてから宅地化が進んだ(⑭)。

 ア 扇状地を行く

 (ア)扇頂の「そだ堰」-菖蒲堰の水-

 **さん(温泉郡重信町樋口 昭和8年生まれ 63歳)
 山間の峡谷を曲流してきた、重信川は平地に達すると急に眺望が開け、そこに重信町大畑(おおはた)を扇の要(かなめ)とする重信川扇状地が形成される。山間を流下してきた表流水は、扇状地頂部(扇頂)で伏流水(地下水)となって一帯を広く潜流している。そのため平時は表流水が少なく、かんがい用水としての需要を賄(まかな)いきれないため、流域の耕地は、伏流水が湧(ゆう)出する泉や揚水井泉の水に依存している。重信町においては生活、工業用水のほとんどを伏流水に頼っている。しかし、現在はその絶対量が不足するため、面河川から導水する道前道後水利開発事業用水によって補っている(①)。重信川扇状地の扇頂の井堰(せき)の水とくらしとのかかわりを、**さんは次のように話している。
 「伊予川(重信川の旧呼称)は昔は北側の山麓に沿って流れていたが、次第に南に移動して、今の流路になったということです。重信町の地域は扇状地の上にあります。そのため、この地域の土質は厚い砂れき層からなり、地下の水位も深く、水田の水もぼって(地下に浸透)してしまい、古くから水不足に苦しめられてきました。しかし、水不足に苦しみながらも、農業用水は、そのほとんどを重信川に頼ってきたのです。そのため各地域のかんがい用水は、受益共同体の貴重な財産と言われるほど価値の高いもので、ことに水については、強い独自性と排他性を持っています。
 貴重な水の、各地域への分・配水については、複雑な規定と慣行によって制約を受け、今も基本的には、その慣行が守られています。重信川の上流、山之内(やまのうち)と大畑は扇状地の扇頂部に当たり、ここまでは表流水があります。ここに、中世以来、『菖蒲堰(しょうぶせき)』と呼ばれる上(かみ)と下(しも)の取水堰があったのです。
 重信町の樋口(ひのくち)・志津川(しつかわ)・西岡(にしおか)の3地域(古くは牛渕(うしぶち)、田窪(たのくぼ)を含めた5ヶ村)は、『月夜に渇く』といわれる扇状地特有の乏水性の地域で、古くから干ばつに悩まされ続けてきたが、地形上どうしても、菖蒲堰(下堰)からの取水に頼らざるを得なかったのです。
 昭和38年(1963年)、干ばつ時に対岸同士で相争ってきた左岸の、川内町北方(きたかた)側と右岸の重信町側(上記3地区)の合同による『菖蒲堰土地改良区連合』が結成され、近代的合同用水施設が完成しました(写真1-3-17参照)。それまでは、上堰と下堰に分かれて、堰の成立(中世)以来の水利慣行を守りながら取水し、その用益権と管理は、上堰が川内町北方地区、下堰が3地区合同の管理下におかれていたのです。
 堰のつくりは、横一文字堰(直線式)の『ソダ堰』で、牛枠(うしわく)とか三股(みつまた)と呼ぶ支柱を数か所におき、長い横木を渡して、堰切りにはソダ(切り取った木の枝)やシダを使ったのです。つまり『こうげ小土』といって、土の着いた草や土砂での堰切りはしてはならないという慣行に従ったのです。ソダやシダで堰切ったのは、下手の井堰にも水を流すためです。上、下堰とも同じつくり方で、洪水の度に流失し、また新調するという不経済なものでした。」

 (イ)刻割りの配水

 両堰の分水率は「貞享5年(1688年)の協定」によると、上堰4分、下堰6分で5か村(当時は田窪村・牛渕村を含めたが、両村は、後に独自の水源を開拓し分水権を放棄した。)が有利なようにみえるが、しかし取水は一般に上流側が有利で下流側は不利になる傾向がある。渇水期になるとこの傾向が特に強くなり、水争いの原因ともなった。旧菖蒲堰はその典型的な所で、渇水のたびに水争いが発生した。長年にわたる水争いを憂慮した温泉郡役所は、3年間の実状調査を行い、大正2年(1913年)にそれまでの分水率を、上堰6分2厘、下堰3分8厘と変更して裁定し、取水期間は6月1日から10月1日とされた。
 菖蒲上堰と下堰の取水について**さんは話を続ける。
 重信川の地表水は、川床上昇によって次第に減少する一方、新田開発による水の需要が増加していったのです。しかし、4分と6分の分水率は、藩制の時代も続いていたのです。天保5~7年(1834~1836年)、下堰が5か村から3か村の共同管理になると、上堰から取水する川内町北方分の水田の広さの割合が増加したのです。その上、上流堰の省利性、優先的に取水できる殿様の水田の存在などによって、平時はともかく、渇水時には、この分水率を守ることは困難だったのです。しかし、郡役所の裁定による分水率(6.2分と3.8分)の規定は、上堰、下堰が統合された現在も受け継がれています。
 6月1日より下堰から取水された水は、菖蒲堰井手(水路)を流れて『段(だん)の下(した)』の分水堰に達し、この堰で3地区に配水されます。ここまでは3地区の共同管理、堰より下流は各地区ごとの管理になります。配水割りは、樋口2.25分、志津川5分、西岡2.75分という鉄則があるのです。
 大干ばつで田んぼの養(やしな)い水(用水)がひっ迫してきたときには、3地区の協議による『寄せ水』という刻(こく)割りの配水になります。3日2夜志津川、1日2夜西岡、1日1夜樋口といった日割りの時刻配水です。この日割になると盗水を防ぐため水番を配したりしていました。しかしながら、人々は毎年水不足に苦しめられ、田植え時には夜間の水番も含めて、夜も昼もない終日作業の連続でした。さらに干ばつの被害が予測される年は、水のある地区を共同で田植えをして食い米を作ったと言います。
 重信川の地表水は、川床の上昇によって年ごとに減少していき、その一方では新田の開発によって、用水の必要量は次第に増加していきます。そのため昭和9年(1934年)の大干ばつには、この地域は大きな被害を受ける結果になったのです。そこで、昭和33年(1958年)に至って、上・下堰の両土地改良区が合同して、菖蒲堰の統合が計画されたのです。」

 (ウ)水争いの禍根を断った新菖蒲堰

 昭和36年(1961年)、愛媛県は両堰の統合工事に着手し、同38年に完成した(写真1-3-17参照)。工事は上堰上流の岩盤上にコンクリートの堰を築き、伏流水をも湧(わ)きださせるとともに、全流水を貯め、これを取水口に引き入れる合同用水堰を築造して、分水量の増加を図るものであった。この堰の左岸の水門から取水された水は、川内町側の北方(きたかた)井手(水路)を流れ、途中、規定により6分2厘(川内町側)対3分8厘(重信町側)に分水され、重信町側の水は堰の下流数百mの所に設けられた埋樋(うめひ)(川底に埋設された集中暗渠(あんきょ))によって、左岸から右岸に導かれて菖蒲井手の水となっている。
 新菖蒲堰からの水について**さんの話は続く。
 「菖蒲堰から潜流(伏流)した水は、さらに下流の二本松泉の集水暗渠で取水され、横河原(よこがわら)の町中の水路(泉川ともいう)を流れて、志津川地区へ行きますが、その途中で見奈良地区へ分水できるように整備されています。悪水(あくすい)(余り水)は大川(重信川)へはねる(排水する)ように、専用の井手(水路)が設けられているが、それが機能するほどの水もありません。
 現在では、十数年に一度は訪れるという渇水に対処するため、道前道後平野農業水利事業の用水を補給できるようにするなど、先を見越した渇水対策がとられています。このような用水対策によって、古くから渇水時に両井堰の対岸同士で、相反するかんがい用水のため争った紛争の歴史も、その根を絶つことになりました。
 昭和38年(1963年)完成した菖蒲堰も、かなり老朽化が進んできています。堰より上流の山間地域の総合開発によって、森林の水を養う機能も低下してきています。その結果、谷間を流れ下って来る水の量が減ってきているようです。その上、農業事情の変化は、農業用水の必要量をも低下させていますが、一般の生活用水、産業用水の需要は、だんだんと増えています。菖蒲堰の農業にかかわる負担はやや軽くなったと言えますが、これからのくらしにかかわる水の大切さと菖蒲堰の役割は、ますます重くなるものと思われます。菖蒲堰の改修、若返りの実現に向かって、かかわりのある土地改良区はもちろん、地域の人々が歩調を合わせて、関係当局に働きかけているところです。」

 イ 扇央のまち横河原

 **さん(温泉郡重信町横河原 大正10年生まれ 75歳)
 **さん(温泉郡重信町横河原 大正15年生まれ 70歳)
 重信川扇状地の扇央に位置する横河原は、金毘羅街道筋の交通上の要地にあたり、古くは渡津(としん)(渡し場)集落として、また、近くは伊予鉄道横河原線(明治32年〔1899年〕開通)の終着駅として発達した町である。
 横河原地区の歴史を調査している**さんと**さんは次のように話す。
 「重信川の扇状地の上に開かれた横河原地区は、一見水に恵まれているように見えます。しかし、大雨の時以外は、全くの水無(みずなし)川(口絵参照)で、一望の川原です。このような川は、水の脅威を受けますが、恵みは施してくれません。扇央にあると言うことは、大水の都度被害を被り、また平時には地下水位が深く飲み水に苦労してきたことを意味しているのです。川のほとりにありながら、飲み水に対して困窮したくらしが、かえって町の人々に水を中心とした団結を促し、美しい共同の精神を養ってきたとも言えるのです。」

 (ア)辻(つじ)井戸が語る町の歴史

 重信川の流域には、井水にちなんだ地名(南・北吉井(よしい)・平井(ひらい)・高井(たかい)・石井(いしい)・井門(いど)など)が多い。これは、一説に「井戸がくらしに欠かせないものであり、水が豊富で、清らかであることを願ったもの」とも言われる(⑭)。水に乏しい横河原においても水を求めて人々が掘り続けた井戸の歴史が、この町の発達史でもあった。井戸を中心にした横河原の歴史について**さん、**さんの口述を要約してみた。
 「明治12年(1879年)ころの横河原は、横川(よこがわ)または二本松ともいい、金毘羅街道沿いの十数戸の集落で、樋口・志津川の両村に属していた。しかし、鉄道の開通による横河原駅の完成とともに、交通の要地、商業の中心地として、駅の周辺地域が急速に発展した。村づくり町づくりの基本は、まず飲み水を確保することにある。道筋に次第に家が建ち並ぶとともに、くらしに必要な辻(共同)井戸の数も増えていった。この町中や道端に掘られたつるべ式の辻井戸の歴史が、人々のくらしの歴史であり、共同互助の精神の表れであり、現在の『潤いと活力のある町』を掲げた町づくりにもつなかっていると思う。
 明治10年代、最も開けた讃岐(さぬき)街道筋(旧国道)に、山内愛次郎さんが最初の井戸を掘った。これが、名前の『愛』の字をとって『愛さん井戸』と呼ばれた上(かみ)井戸である。その当時井戸を掘ることは、大きい投資であり大工事であった。深さ7間から9間(1間は約1.8m)まで掘り下げなければ水が出ない井戸を掘ることは、当時の農家や個人にとって、経済上不可能に近く、付近の8戸の家は、すべて『愛さん井戸』からもらい水をしていた。
 その後、この8戸の家の共同による中(なか)井戸が掘られ、次いで下(しも)井戸が掘られて、ほとんど旧街道筋での水の不便は解消できた。しかし、かなり遠方から、雨の日も風の日も、木桶(きおけ)やバケツを釣り下げ担い棒を肩に、水くみに通うのは大変な苦労があった(⑯)。
 明治32年(1899年)、横河原線が開通したが、この鉄道の開通は、松林やクヌギ林(写真1-3-19参照)の開拓につながり、畑や人家が増えていった。それとともに、明治40年(1907年)に駅前井戸が掘られた後、大正6年(1917年)には二本松、本町、水天宮(すいてんぐう)と相ついで7か所に辻井戸が完成した。大正13年(1924年)新国道(旧国道11号、現県道松山・川内線)の開通をきっかけに、新道と旧道を結ぶ沿道に町が広がっていった。個人の井戸(写真1-3-20参照)も道路沿いに設けられて、次第にその間隔が狭められていった。」

 (イ)路傍の辻井戸

 「新しく辻井戸を掘るとなると、町内近隣から寄付金を募り、その付近の人のみでなく、区域外の人々も進んでこれを手伝って掘り進められていった。水に乏しいこの付近一帯が、常に枯渇を心配し、渇水のときには共同で利用しようという隣保互助の心を育てることになり、みんなの井戸という思いが強くなっていったのである。当時、手掘りでの井戸掘りは、湧出すると思われる地点を広くV字型に掘り進め、木枠を組み、崩壊を防ぎながらさらに掘り下げていく工法であった。途中、大きい岩石に出会うと、破砕と搬出に苦心した。湧水してくると、石積みをし、土砂でその周囲を埋めていった。中井戸を掘るときには井戸の中で掘削に当たる人は、お米の飯を食べながら、外で作業する人はおかゆを食べて完成させたと言う話は、井戸掘りの苦労と長期を要することを物語るものである。みんなの手になった井戸も、扇央に立地するため季節的な水位の変化が大きい。梅雨には濁った水を柄杓(ひしゃく)でくめるような井戸、渇水期に全く干上がってしまう井戸もあった。大干ばつ時には全ての辻井戸がかれ、町役場の井戸や泉の水に頼ったこともあり、その都度住民は飲み水に苦労を強いられてきた。
 水源井戸で特色のあるものは、昭和13年(1924年)に完成した傷病軍人愛媛療養所の水源井戸と、堤防の中央にある建設省の水源井戸である。そのうち療養所の井戸は昭和14年、深さ6間(約10.8m)まで掘ったが湧き水が少ないため、翌年は海女(あま)(海に潜って貝などをとることを職にしている女性)を雇ってきて水に潜って掘り下げ、深さ10間まで掘ってようやく予定の水量を得ることができた。建設省の井戸は昭和23年に、深さ6.5間掘ったが、毎年7月から9月の間と12月には全く水がかれたという。
 横河原の町の道端には、9か所の辻井戸があった。その井戸はいつでものどを潤すことのできる、便利な位置である路傍に設けられていた。次第に進む宅地化と道路の拡張によって、中には完全に道路上に位置するようになってしまったものもあったが、牛馬の通行から大型車両へと交通機関が移り変わるとともに、人々の共有財産である辻井戸の中には土砂崩れを起こし埋まってしまうものも出てきた。木枠を入れたり、石やコンクリートで固めたり、車両の侵入防止のため防石を置いたりしているものもあった(⑯⑰)。
 しかし、経済生活の向上とともに、井戸の掘削の技術も進歩し、個人の専用井戸に変わり、さらに渇水期の用水不足と保健衛生上から、昭和4年(1929年)先人の努力によって、重信町初の上水道が設置されるに至った。この上水道の発足は松山市に先だつこと23年という。横河原の町とともに歩んできた辻井戸は、今は全く放置されるかコンクリートのふたがされ、昔の面影をわずかにとどめているにすぎない(写真1-3-20参照)。」


*11:川が谷あいから平地にでると、その地点(扇頂)を要にして押送してきた砂れきを扇状にたい積する。砂れき層のた
  め、雨水も川水もすぐに地下水となり伏流する。

写真1-3-17 昭和38年完成の菖蒲堰

写真1-3-17 昭和38年完成の菖蒲堰

上流には、釣人が見られる。平成8年6月撮影

写真1-3-19 街道の面影を残すクヌギ林

写真1-3-19 街道の面影を残すクヌギ林

平成8年9月撮影

写真1-3-20 横河原の路地裏に唯一残る辻井戸

写真1-3-20 横河原の路地裏に唯一残る辻井戸

四本柱の四阿(あずま)屋があり「つるべ」が下がっていた。今も水神様が祭られている。平成9年2月撮影