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愛媛の景観(平成8年度)

(2)池が支えたくらし

 **さん(温泉郡重信町上村 大正11年生まれ 74歳)

 ア ふるさとの溜(ため)池

 瀬戸内の平野には、まんまんと水をたたえて、静かにたたずむ多くの溜池がある。溜池の最も多い上位3県は、兵庫県の53,761を筆頭に広島県、香川県の順で、いずれも瀬戸内海に面した県である。しかし、必ずしも少雨の地方に溜池が多いというわけではなく、水田に安定的に水を供給する必要から全国至るところに見られる。愛媛県内には3,200余りの溜池があり、全国でも上位の溜池依存県となっている。特に高縄半島周辺や南予の山間盆地に多く見られる。
 溜池の発生は、河川の井堰より歴史が古い。溜池とダムは同じ意味合いのものであるが、溜池は山沿いの浅い谷を土堰堤(どえんてい)でしめ切ったかんがい用の池であり、ダムはそれによってつくられた貯水池である。ただ両者とも大小があり、溜池には二つの類型がある。平地の皿池と山沿いの土堰堤である。
 中国では古くから「塘」(皿池)と「披」(小さいダム貯水池)としてこれを区別している。溜池の構造は「堤塘」、「かけそ」、「樋」、「除」などよりなり、堤塘は池の土手で、砂、れき、土を人口的に盛り上げ固定したものが多い。貯水するので、その形、長さ、高さによって池の形態、広狭、貯水量が決定される。かけそは、小さい谷、湧泉などの水源から水を引く水路、樋は堤塘あるいは岩盤に設け、貯水した水の吐き出し口のことで、池には吐人、吐出があり、「除」は余り水の吐け口をいう。
 藩制時代には藩米を出して造営されたものが多く、補修に要する費用も井川費として藩から支出され、米作りのための用水源として重要な位置を占めていた。
 県内の溜池の築造年代については、1,600年前と大まかに記されているものもあるが、詳しいことはわからない。しかし、県内各地に見られるふるさとの溜池は、大小を問わず歴史的、文化的遺産であり、それぞれに築造に伴う苦労の話、人柱などの伝説がある。だが、その一方で市街化による農地の減少などにより、溜池の姿も大きく様変わりしようとしている(⑤⑲)。ここでは、そうした溜池が支えてきたくらしに焦点を当ててみた。

 イ 上村(うえむら)の溜池群

 重信町上村の溜池群については、**さんの研究調査と考察の成果が、『重信史談』の第7・8号(⑳㉑)に掲載されている。その資料を参考に**さんの話を要約した。
 「この松山平野を縁取る緑の山々の谷間には、数多くの溜池が築造され、遠い昔より、米作りに貢献してきているのです。この物言わぬ巨大な遺産の背景は、古老の話、言い伝え、名称、わずかに遺された古文書などによって、その歴史をたどることはできても、時の流れとともに遠い昔のものとなって、多くの先人の苦心や功績は、次第に人々の脳裏から消え去っていきつつあるのが現状です。しかし、郷土に米作りが定着し、次第に新田が開かれだしてから現在に至るまで、この集落共有の遺産の演じた役割は、測りしれないものがあるのです。
 ここ上村は上(うえ)の段、下(した)の段の二つに分かれています。上の段は重信川の浸食によって残された洪積層の土地で一段と高くなっています。人家は明治の初期まで上の段にあって下の段にはほとんどなかったのです。現在水田は主に下の段にありますが、昔から開かれていたわけではありません。
 この地域には大小合わせて11個の池があります。わずかな谷水を集めたものから、本谷を堰止めて貯水する大がかりなものまであります。また、造られた年代がはっきりしないものも多く、名前も源平谷(げんぺいだに)池のように、歴史に縁のあるようなもの、大(おお)池、お皿(さら)池、山の神池というように、様子や場所にちなんだようなものもあります。その中でただ一つ個人の名前で呼ばれている池があり、それが彦八池(写真1-3-28参照)で、別名を新池とも言います。これは築造に深くかかわった人の名と、新しい年代にこの池が造成されたことを示しています。この池については築造功労者自身が、『彦八池由来附(記)』を残しており、これと上村四番組の『お日待ち帳』、言い伝えなどによって考察を加えることができます。」
 重信川の左岸の拝志(はいし)地域の水田は、南の山麓より次第に重信川の堤防の近くへと開けていった。松山藩の伊予川(現重信川)の改修工事(慶長2、3年〔1597、8年〕)により、流れがほぼ定まり、堅固な堤防が施工されてくるようになると、大水による田畑の被害の心配がなくなり、河原の荒れ地が水田に姿を変え、特に、八代将軍徳川吉宗(1684~1751年)ころの奨励策によって新田の開拓は急速に進行した。
 上村の新田と呼ばれる広い水田もこのころ開かれたのです。しかしそれにともなって水不足も生じたのです。水田が広くなれば従来の水源では不足するのは当然で、ことに新田はもと河原であったところで、客土(土を入れること)も十分でなく、砂質土壌のため水はけがよく、いきおい水は地下に逃げてしまい一層の水不足を招いたと考えられます。」

 ウ 溜池にかかわる水利慣行

 上村地域は、概して溜池の水利に依存しているのが特徴である。重信川の豊富な地下水が流れているといいながら、いかに水不足に苦しめられたか、大干ばつのとき、どのようにして配水の合理化を図ったかを、現在も生きている水利慣行や規約が示している。その水利慣行、いわゆる配水管理方法と水のかけ方の概略を次に示す。

 ① うて(雨手)
   雨が降り多量の水ができたときを「うてがあった。」といい、このときは水引き勝手次第(いくら水を引いてもよい)で
  ある。
 ② つくろい
   池がかりで「手をつく」という。池に手をつくという意味、池水を引くこと、これには「つくろい」と「へん」(かけ止
  め)の2方法がある。
   ・つくろい
     最初の「つくろい」は池の水量が普通状態のとき用いる。
   ・へん(かけ止め)
     次に池水が減ったときは「へん」にする。これは一度水をかけて田にある程度水がまわると、水口を閉じる方法であ
    る。
 ③ きりおとし
   上流の田から順に田の表面をしめらす程度に配水していく方法で、干ばつで水不足のときの非常手段である。

 要するに、雨後は「うて」であり、普通は「つくろい」、ちょっとした干ばつには「へん」である。現在ではこの慣行は必要でなくなった。「きりおとし」を行うことは全くなくなっている。上村の水利慣行も干ばつ時には各地と同じように「きりおとし」によっているが、特異なのは「七条田の分水慣行」である。畑地を水田にしたときやあるいは開田したときなど、この新田への分水はかんがい用水が豊富な場合は、水路も一本化しているため、普通田と同じ分水で問題はない。一旦干ばつの非常事態になると、七条田への配水が止まるのである。これは上村水利条例によって、漏水の甚だしい新田を七条田とし、干ばつ時のかんがいを制限したものである。これも干害の及ぶ水田を最小限度に食い止める、農民の生活自衛上から取り決めた制度であるが、近年になって水利条件の改善によって、廃止されるに至っている(⑭)。
 **さんの話を続ける。
 「寛永年間(1624~1644年)の末には、彦八池を除く主な池はおそらく完成していたと思われます。上村の人口増による日常用水の不足を補い、あるいは、火災から家や家具などの財産を守るため、市衛門谷(いちえもんだに)(現彦八池のある谷)に大きな池をつくるか、現在の古泉のある下林(しもばやし)の梅鞘(ばいしょう)に泉を掘って、新田方面へ2百間(約360m)の水路で水を送るか、意見は大きく二つにわかれていたが、大評定の末、こう配のある小さい水路では、火事のときどうにもならないという意見が大勢を占め、結局池造りに決定したのです。けれどもこの最良の池造りの案にも思わぬ障害が待っていたのです。」
 当時の上村の諸情勢や、彦八の身命を賭しての仕事が認められ、池築造の大事業が完成するに至る経過について、重信町史談会『重信史談』第7号(⑳)より以下に要約してみた。
 「上村は、古来より地勢上水利に乏しく、新田が開発された藩政中期以後その被害はますます大きくなった。村人の評定のすえ、市衛門谷に池を築く計画をすすめたが、この谷には人家3戸、地蔵1体のほか塚や墓地が多くあった。なかでも墓地移転が障害となって、最適地であるこの谷に池を造る計画は頓挫(とんざ)した。信仰心の厚い当時のことであるから、その崇(たた)りを恐れて一人としてこれを進めるものはいなかったのである。このとき、組頭であった彦八は53歳であったが、『近年の旱害(かんがい)見るにしのびず。われ墓を岡野山に移転する故、お上へ進達せられたい』と庄屋相原文衛門に申し出た。そして自分一人の責任において墓も骨も、残すことなく運んだ。かくして文化4年(1807年)池の築造が始められた。彦八の義挙を認めた時の代官は、1,700人の人夫を郡から加勢させ、さらに1,000人を追加して竣工をみた。村人はこの池を彦八池と名付け、今に彦八の遺業に感謝して供養が続けられている。」

 エ 230余年前の総合プロジェクト

 彦八が子孫に残した『池由来附』を閲覧した**さんは次のように語っている。
 「池がどれほどの歳月をかけて造られたものか定かではないが、おそらく2、3年は要したものと思われます。文面は、そのときの彦八の心境をよく表していて、水不足に苦しむ村人の犠牲になって、池造りのために貢献しようとする崇高な気持ちを伝えています。最後の添え書きに『只あらまし口すさみを掲げ侍り記するもの也』の文面からは、身命をかけてやり遂げた大事業に自分の名のついた由来記を子孫に残す強い心情がこめられているように感じられます。今、池のほとりに、地元の人が岡地蔵と呼ぶささやかな一体の石像が、笑みを浮かべ池の面を見つめて立っています(写真1-3-29参照)。春秋の彼岸明けの日には、ねんごろな地蔵供養が営まれています。
 上村の地図を見ると古代人の首飾りのように、五つの池が幹線水路でつながっています。彦八池以外の四つの池は本谷池の余水を導いて貯水しているのです。これは標高差からもよくわかり、これらの池は深いつながりがある総合プロジェクトなのです。
 人々は上の段に住みつき、本谷の水をそこに引き、最後は平尾(ひらお)の谷を通って下の水田に導いていたのです。源平谷に池を造っても、流入する水量が少ないため、本谷から水を導くしかないのです。平尾に池をつくって水位をあげなくては、送水することはできません。このことから平尾と源平谷の両池は同時に築造されたと断定できるのです。次いで斜面を利用して水を上流に導いていることです。平尾池を築造しても池が小さく、当然水不足が考えられ、水の多い源平谷池の活用を計画したのです。この二つの池の間には低いお伊勢山があり、平野に突き出ていますが、この山の斜面に導水路、道路、『掛(か)け井手』と呼んでいる登りの水路を造り、樋口(取水口)を池の東端の中樋の水面下3.5mの所に設けているのです。『掛(か)け井手』によって広大な水田を潤すことができるようになり、今も立派にその役目を果たしているのです。五つの池を掛け井手や、長い主水路など幹線水路で結ぶということは、実に卓抜した土木工法であり、総合的プロジェクトの一環ともいうことができます。」

 オ 樋蓋(ひぶた)の刻文は語る

 築造年代の古い溜池は、土堤の上に立てば重厚で安定感はあるが、目に見えない所で老朽化が進行してきている。上村の溜池群についても同じである。昭和56年(1981年)に提出された源平谷池の改修願(老朽溜池整備事業計画書)の概要を掲げてみる。
 「本溜池は今から約120年前に築造されたと伝えられている均一式土堤で、農業専用池である。大正初期より老朽化が始まり堅樋の改設内側堤の補修等を随時施行し、維持管理をしてきた。しかるに近年に至り老朽殊の外激しく、取水底樋の貫孔作用による陥没をおこし、堤体決潰のおそれがあり、これが改修は防災上必須の急務となっている。(中略)取水底樋は松材径65cmの木樋であるが、腐蝕により空洞化し(以下略)。(㉑)」
 昭和58年末に開始された改修工事に当たって、埋樋の蓋材に記された門樋改修の刻文が発見された。樋蓋の刻文は38文字からなり、そこには、「文政10年(1827年)」と記されていた。**さんは次のように述べている。
 「この源平谷池は120年前の万延年間の築造と伝えられてきたのです。ところが樋替が今から約160年前の文政10年に行われたことが分かり、松材を使った埋樋の寿命は約150年から200年と考えられるので、総樋替までの経過年数からみて築造年代は約300年前の徳川前期のころと考えられます。当時の人は、地中における生の松材の耐朽性がいかに優れているかを知っていて、その特性を大いに利用しているのです。」
 ふるさとの文化遺産である溜池は、今大きな転機に直面している。それは経済的合理性をめざすか、あるいは新しい理念から現代の溜池ともいえるダムの造りを見直すか、ということであり、その意義は大きいものがある。その中で溜池(ダム)を活用して農村景観の整備を図ろうとする計画は、思い切って発想の転換を図るものということができる。まだ始まったばかりの新しい事業であるが、今、全国的に展開されようとしている。溜池(ダム)と人々の間に、新しい時代が始まろうとしているのかもしれない。

写真1-3-28 築造功労者の名が付けられた彦八池と「除」(余り水の排水門)

写真1-3-28 築造功労者の名が付けられた彦八池と「除」(余り水の排水門)

重信町上村にて。平成8年9月撮影

写真1-3-29 彦八池の記念碑と岡地蔵

写真1-3-29 彦八池の記念碑と岡地蔵

平成8年9月撮影