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愛媛の景観(平成8年度)

(2)バベの茂る海辺

 ア 炭の道

 **さん(南宇和郡内海村柏 大正13年生まれ 72歳)

 (ア)炭を焼いて

 ウバメガシ(*7)は、暖かい海岸や山地の乾燥したやせ地に生えるクスノキ科の木である。本県では南予のリアス式海岸に沿った傾斜の急な斜面に広く分布しており、材質が大変固いので備長炭(びんちょうたん)(白灰、火力の強い硬い炭)の材料としてよく使われている。ウバメガシの生える南予の沿岸やそこから少し入った山間(写真2-1-22参照)の生活について、長らく木の伐採や炭焼きに従事してきた**さんに話を聞いた。

   a 焼子(やきこ)のくらし

 「ここら(内海村(うちうみむら)周辺)の炭焼きは、ほとんど土佐から入った。わたしもここの生まれではないのよ。父が土佐の中村の奥から炭焼くのに、あっち行ったりこっち行ったりしていてね。昔は、家督(かとく)のないものは、村では働き口もないし仕事もないしで、炭を焼きよったもんよ。炭焼くのに、ここで焼いたら次はあっち、というふうに転々と焼いて回ったもんよ。わたしは、小学校の1年生までは高知県の下川口(しもかわぐち)(土佐清水市)というところで、2年生になったら御荘(みしょう)町(南宇和郡)の平城(ひらじょう)というところで、3年生になってここ(柏(かしわ))にきて、落ち着いた。昔の炭焼きは、炭焼き小屋の近くにわらやなんかでふいた掘建小屋(ほったてごや)の仮住まいをこさえて、家財道具一切持って、子供も何もかも連れて移動するわけよ。学校変わるごとに習うことが違うので困った。いじめられたりすることもあって、学校に行きたくなかったこともあったが、『学校には、行かにゃいけんもんじゃ。』と思うとったから、行きよった。学校に行けん奥に入ることもあった。柏地区にも、100とはいわんぐらい(以上の)窯があったわ。ここらも、大正ころは、炭はあんまり焼いてなかった。昭和の始めにわたしらが来て、やり始めたぐらいじゃね。だけど、昭和36年(1961年)ぐらいには、ほとんどやめていた。炭焼きは、一家総出でやっていた。男が木を切るときには女や子供が炭を作りよった。」
 昭和28年ころのわが国の総消費エネルギーのうち約37%を家庭用燃料が占めており、その内の約80%が木質系燃料で石炭系は約20%であった。木質系燃料の大半は薪・木炭であり、木炭製造も盛んであった。ところが、昭和30年代に入り家庭用エネルギーが石油系に移行する大きな変化を見た(⑭)。その結果、それまで炭を焼いていた人たちの生活も大きく変化することとなった。

   b 山の子

 「子供の時分には、『たたきごま』いうて、竹の先にきれをつけてね、こまをたたいて回してよく遊んでいた。6歳ころに、大きな柄鎌(えがま)を使うて、ぬた(*8)の縁でこまを作るので木を削っていたら、間違って木にあてごうとった(添えていた)人さし指の先が切れてしまったので、火を焚いた後の灰や赤土をけがのところに付けて済ましたことがあるがね、その後、赤土なんかを除けた記憶がないが、けがは治っとったね。また、大きな炭をうずんで(抱えて)運んでいたら、木馬(きんま)の盤木(ばんき)の出とるところに足のつめを思いきりもっていってね、足の先がうんだんで、うみを針でつやして(つぶして)いたら、つめがめりこんでしまった。山では、けがが多いわね。」

 (イ)バベを切る

 ウバメガシの伐採の思い出を**さんに聞いた。
 「伐採は、柄鎌やよき(オノ)とのこを使っていたが、のこで切ると木口(こぐち)の目がつぶれ良い炭ができないので、ほとんど柄鎌やよきで木口をつぶさんように切っていた。よっぽど、大きな木のときだけのこを使ったぐらいじゃね。刃物は、土佐の刃物を使っていた。たまには、足や手を切ったりした。木は、ひと山いくらで買っていた。山の値段は、ここは炭が何俵とれて、1俵いくらだからというふうに、決めていた。
 ここ14、5年はシイタケをやるようになり、山を買いに行くのに、山に入って木の石数(こくすう)(材積)がなんぼあると思ったら、実際とあんまり変わらんわね。昔の山勘は、やはり今も健在やね。このあたりは、クヌギとバベが混ざっているが、黒潮のあたる海岸ぶちのほうがバベは多いわね。だいたい平均したら3割くらいがバベという山が多いが、なかには7割ぐらいバベというのもあるわね。切り出すのは、ほとんど一年中やっていたが、炭の固まり具合のええのは、秋から春にかけてまでがいいけどね。炭は、生木を焼くのがよくて、枯らすと炭が固ならん。
 炭に焼きよるところは、2、30年おいたらまた炭を焼くという風だった。バベは、切った後も勢いよく芽がでて伸びるので、植林は特にしなかった。枝打ちなんかもせずにそのままじゃった。炭焼きが盛んじゃったころには、ここらで、山を持っとる人は、炭山としてなんぼかの山を売って、それが済んで別の山を炭山として売って、その間に前の山の木が太るという具合に、何十町と持っとったら安気な生活ができよったんよ。
 バベをそろばん玉にも使いよったね。ここいらでも、削る道具を構えてやっていたが、あまり売れなんだんでやめてしまった。原木を大阪に送ったりもしよったけど、あんまり採算があわなかったみたいじゃね。バベは固いけど、ねじれがあるから、船の櫓(ろ)なんかにも使えなんだね。櫓にはカシを使いよったね。」

 (ウ)バベを焼く

   a 窯作り

 「窯こしらえるのに、うちのおやじで35人役(にんやく)(*9)ぐらいでできていたが、今だったら、200万から300万円ぐらいかかるね。」と窯作りについて語る**さんの話を、次にまとめてみた。
 窯は、木の伐採のできるその場その場で作っていた。まず、長径1丈2尺(1丈は10尺、1尺は約0.3m)短径1丈の横長の楕円形に土を掘って、周囲を小石で積んでいき、5尺の高さにする。入り口は1尺5寸ぐらい(1寸は約3cm)あけておき、その両脇に石を積んで焚(た)き口(ぐち)の部分を作っておく。掘った土は窯の周りにかぶせていく。奥の煙突の部分は、直径20cmぐらいの木を突っ込んでその周りを小石で積んでおく。次に、練った赤土を石が見えなくなるまでぶっつけて塗っていき、赤土が乾いて固まったら煙突の所の木は回して抜いてしまう。煙突の下の部分は、大きなうとろ(空洞)にしておかないと煙をひかない。その後、火を焚いて赤土を固める。
 どい(窯の壁)の内側一杯に長さ5尺に切った木を立ててびっしり並べる。次に、その上に透き間をふさぐように小さいものをどんどん上に並べていき丸くなるように型を作る。その型の上から練っていない赤土を盛って、4日間くらい上からたたいて固める。練っていない赤土でないと締まらないので、練った赤土は使わない。ある程度固まったところで、火をつけて中の木を燃やして、固めるのと同時に中の木を焼却し、窯が出来上がる。

   b 初窯

 初窯はあまりいい炭ができないので、悪い木を使ってやる。まず、3日間くらい火を焚いて中をよく乾燥させてから、火をつけていた。煙突から出て来る煙の温度が66℃くらいになったら窯の中に火がついており、70℃くらいになると火が強すぎる。火の温度は、慣れている人は煙突からでる煙をかいで判断していたが、慣れない人は、温度計を使っていた。火の加減は、入り口の所に小さい風穴があり、これをつぶしたり広げたりして調整していた。

   c 備長炭

 炭には焼いた後ゆっくりと冷却して作る黒炭(くろずみ)と、窯から出して急速に冷却させ硬く仕上げる白炭(しろずみ)(備長炭)とがある。ウバメガシを使った備長炭の窯出しの様子を聞いた。
 「備長炭は、まだ真っ赤になったやつを火掻(ひか)き棒(ぼう)で掻きだして、素灰(すばい)をかけて冷やしていた。昔は、木を全部焼いていたので、バベが多いときは、いい炭ができていたが、雑木が多いときは、炭がよくなかった。一窯で、30俵から50俵くらい焼いていたが、備長炭は5俵から10俵とれるくらいであった。窯の前のところは灰になる率が高いから、悪い木を置いて、バベは一番奥において焼いていた。火掻き棒は、スギの長い木の先に板をつけて使った。使っていると先が燃えてくるので、ぬたに漬けて、火を消しては使っていた。鉄製の火掻き棒(スタンキ)になってからは、持つ所を割ったタケで巻いて使うようになった。白炭は、窯を冷ましたら炭のできが悪いので、窯から炭を出したらまだ赤いうちに次の木をくべていた。窯に火を入れている間に、できた炭の出荷をし、次のくべる木を用意して、窯を開けて出したら、次の木をくべるという風に、えらい人(熟練した人)で、1月に3回炭を焼いていた。
 備長炭は、だす(カヤを編んで作った俵(たわら))に5貫(かん)(約19kg)入れてきれいに包装して、だすの外側のひもの3か所に当て木いうて丸い小木を2本と大きな生木を割って1本入れて、そこに『バベの上』というふうに書いていた。品質の検査は、戦前は県の検査員が、一俵一俵開けて、かぎを突っ込んで炭をたたいてみて、品を定めてはんこを押していた。戦後は、当てて硬さの度数を計るもので調べていた。大きい炭は、割れが入ってよくないので、割ってから入れていた。できた炭は、炭問屋がここらにも2、3軒あって、宇和海、瀬戸内海を回って、全部海路で大阪まで運ばれていた。宇和島の近くでも炭は焼かれていたので、ここらの炭は、大阪の方に持っていかないと売れなかった。大阪で『小丸(こまる)』(直径3、4 cm)といったら大きさが決まっていたので、品質的には大きな差はなかったんだが、たちの悪いのがいて、炭になっていない木を黒くして炭の中に混ぜて売っていた者もいた。」
 現在は、本物指向の時代を反映して備長炭の需要が伸びており、内海村の隣の城辺町僧都(そうず)には5年前から白炭を焼く窯ができている(⑯)。

   d 窯のお祭り

 「火を入れた初窯の時は、お祝いで一杯やったりしたもんよ。山の神様のお祝い言うて、正月、5月、9月の20日は、お祭りをしていた。柏(内海村)の奥に、山の神様(女神)が祭られているが、今でも山はやっていないけど、お祝いしよる。今(平成8年)、『柏を育てる会』(農山漁村地域生活改善対策事業により昭和60年より発足)が、山の神様のお祭りでは、夏休みに子供のためにそうめん流しをしています。山の神様は、昔はいろんなところにあり、大きな山を買って何人かの焼子を雇って一窯いくらで焼かしていた炭焼きの親方いうのが、山の神様のお祭りの時には、ぐっすり(たくさん)ごちそうをこさえて、焼子をもてなしていたもんよ。」

 (エ)木を運んで

   a 木馬の神様

 炭の需要が少なくなってきた昭和30年代以降の炭を焼いてきた人たちの生活の変化を聞いた。
 「柏での炭焼きが終わったんで、他の焼子は別の所に出ていったが、うちのおやじは、ついとった親方が、炭焼きやめて木材の方をやるようになったんで、ここ柏にとどまったんよ。というのが、うちのおやじは、土佐の人間でつるととびという道具を使って木を出す技術があったんで、マツやスギを出すのに残ったんよ。
 大きな本の運搬いうたら、1尋(ひろ)(約1.8m)くらいの柄をつけてつるというのをかけて、こねくって(転がして)出して、道のないところでは300mも400mも上から地をずらすんよね。ずらすいうのは、下に止めをおいて両側を高くするようにして木を100尺(約30m)でも並べて、その上を走らせるんよ、これを修羅(しゅら)出しと言って、雨の日は、何にもせいでも走るが、日よりの時は、木と木がすれて煙がでるぐらい焼けて、向こうに行かんのよ。そんなときは、水を汲んできて、水をぱっぱっとかけて滑らせて林道までは出しよった。林道からは、木馬(きんま)に乗せて運んでいた。ここいらで、炭焼きの神様いうたらうちのおやじやったが、木馬引きの神様いうたらわしじゃった。
 木馬は、道をこしらえるのに技術がいるんよ。木馬は、固いカシの木を使って1尺2寸くらいの幅で厚みが15cmくらいで長さが8尺から10尺の2つの板の間を『抜き』という木でつないでその上に、『枕』という板を2枚乗せてその上に木材を乗せて運んだ。道には、盤木というまっすぐな木を並べて油をしませて、その上を木馬を滑らせた。木馬の前には、てこいうのを使って、滑らせたり止めたりしていた。
 ええ道やったら、6石(こく)(1石は直径30cm、長さ3mほどの木の大きさ)くらいは積みよった。平坦な所は、ろくろ(海で地引き網を引く道具)を据えといて木馬の鼻にロープをかけて、引っ張った。舵(かじ)取るのは、盤木の端に当て木いう木を置いて、それに沿わせて滑らしていた。
 わしが23、4歳の時に土佐の宿毛(すくも)(高知県)の奥に入ったときには、1,400mくらい木馬道の部分があった。400mは地を削って道を造ったが、残りは岩場で、そこに、4人でずっと『かけ』(下から支える突っかえ棒)をかけたんよ。高いところは、20尺の『かけ』をずっと並べたが、下は何十mとあるがけよ。そして、かけの上に『重下駄』(盤木をのせるための横木)をのせて完成したときには、『京法(きょうほう)や楠山(くすやま)(宿毛市)』から見学に来た。ここ柏でも木馬引きで生活していたのがたくさんおった。高知に行きよった最初のころは、人夫を雇って親方やりよった。契約の時は、何千石ある山を1石なんぼで(300円くらい)、どこまで出しましょういうて決めて、一日何円で人夫を入れてやりよったから、儲けは最後じゃないと分からなんだね。城辺町僧都で人夫を木の下敷きにして殺しそうになってからは、親方をやめて請負金を頭割りするようにした。昭和60年(1985年)まではクヌギを出すのに、木馬を引いていたよ。」

   b 中川式ケーブル

 「体が弱ってから、木馬の道がかからん所は、3分線(ぶせん)(6mm)のワイヤーを2本張って木を飛ばしよった。家内の兄きと2人でやりよったころには、下に飛んでいったものを下ろさしよったが、一人でやるようになってからは、向こうに着いたらひとりでに落ちる道具を考案した。その装置を、昭和60年ころやったが、日本農業新聞やNHKから取材に来て、宣伝してもろうたら、全国から問い合わせがきた。東京の出版会社からも本にしたいのじゃがいうて、山の機械のこといっさい書いた本に載った。今でも、中川式ケーブルいうて使いよる所があるね。長野県の駒ヶ根(こまがね)の奥や志賀高原の岩菅(いわすげ)山(標高2,200m)にも、10人くらいの組で4、5年、木を運びに行ってたことがあるがね。そのときは、ワイヤーを使っていたね。20年前には、ロープ1本あれば100mの崖でも行きよったね。乗り物で一番気持ちいいのは、1,000mぐらい上を張っとるワイヤーの上を滑車で滑ることよ。」

 イ ラグーン物語

 **さん(南宇和郡内海村須ノ川 大正13年生まれ 72歳)

 (ア)ラグーンの昔

 須ノ川海岸には、1kmも続く砂嘴(さし)があり、さらにそれらに囲まれた潟湖(せきこ)(ラグーン)(*10)が見られる。砂嘴には、うっそうとしたウバメガシ群落が見られ、まるで海に浮かぶ森の回廊(かいろう)のようである。現在は、南予レクリエーション都市の公園地区として整備されているが、そうなる以前の様子を須ノ川地区に子供の時から住んでいる**さんに聞いた。

   a えんこの池

 「上の小さい池は上(かみ)の池と言って淡水で、下の大きい池は下(しも)の池と言って海水が入っていました。上の池のいわれには、北宇和郡津島町の御槇(みまき)という所でしゃもじを流したら、ここに流れ着いたというのがありますが、津島の奥からの伏流水があるのか、池がかれたことはありません。下の池は、昔はもっと深くて、わたしもおぼれかけたことがありましたが、昔からえんこ(かっぱ)に命を取られたといわれて、人が何人も泳ぎよって死んだようです。台風がくると大水が出て、池の周りの田んぼがよく冠水(かんすい)していました。昭和10年代の台風で、大水が出たので、池の堰(せき)を切って水が流れたことがありました。今は、コンクリートで海岸の侵食を防いでいますが、昔は、石ころがもっと高く積んでいて、満潮になっても、ウバメの生えているところまでは波が打ち寄せることはなかったんです。池の周りの田んぼでは子供たちが、ねんがりという釘(くぎ)立てや、チョウチョウを糸で結んで飛ばしてトンボ釣りをよくやっていました。
 また以前は、水利権の関係で田植えの前には、水利当番というてかわるがわる水門の所に堰をして塩水が入らないように管理していたし、水路造りもしていました。須ノ川地区と柏地区だけが、内海村のなかで純農村だったんです。下の池は、共有池だったのでボラやウナギの漁業権を業者に売って地区の収入にしていました。また、分水線沿いに須ノ川地区所有(須ノ川生産森林組合〔組合員60戸〕)の共有林が20町(約20ha)ほどあるんですが、昭和20年代の後半に、その一部で木を切れる山を売ったんです。その金をみんなに分配したんですが、それでテレビを買う家が多くて、テレビ普及率日本一になったことがあります。」

   b 須ノ川の生き物たち

 「下の池には、周りの石積みのところにウナギがたくさんおり、竹筒で仕掛けをして船でとりに行っていました。津島や宇和島などからもウナギ釣りによく来ていたが、最近は公園になったこともあって来ないですね。また、藻がたくさん生えていてその中にエビがたくさんおり、それでタイを釣ったりしていました。アナゴも、外の水門の所にたくさんおりました。波の勢いで水門に入って来るタカウオという、黒魚もよく釣れました。ハゼもよく釣れたので、焼いてすってメジロの餌(えさ)にしていました。タコやゴチョウやギザミやハリメが水門の周りにおりました。コノシロという魚が、冬場になると岸によってきて網でひらう(すくう)こともありました。上の池にはフナ・コイがたくさんおりました。池の端のウバメの森には、春になるとシラサギがよく飛んできていました。また、この浜にはアワビやナガレコがようおったし、砂地にはハシリンドという長い殼の貝や、シリダカというニナがたくさんおりました。ニシ、クロニナ、ヨナキガイ、バラガイなどかおりましたが、最近は、観光客が潜ったりしてとるんで、おらんようになってしまったですね。夏には、昼間タコをヤスで突きに岩場にいっていました。」

   c 須ノ川美人にぼっかけ汁

 「海とウバメの林の間に弁天(べんてん)様がお祭りしてありまして、ようお参りに行っていました。弁天様は女の神様で美人やったですが、そのせいか、わたしが小さいころは南郡(なんぐん)(南宇和郡)で、『須ノ川美人に僧都若いし』といわれて、ここ須ノ川には、美人が多いといわれていました。わたしが小さいころには、明治生まれの女の人で須ノ川美人といわれる人を知っとりましたよ。またここらの食べ物では、ぼっかけ汁いうのがありました。魚の擦り身やキジの煮込みを擦って団子(だんご)にしたのを、ゴボウと一緒にしょう油で味付けをして汁にして、ごはんにかけて食べるものです。あるいは、お茶漬けいうて、イトヨリやコズナなどの刺身か、ちょっと火であぶって、それを生卵に溶かしこんであつあつの御飯にかけ、その上からくらくらと沸いたお茶をかけて食べるのが昔からありました。わたしは、今でもよく食べますが、おいしいですよ。」

   d 闘牛

 「わたしが小さいころには、旧の3月3日の節句(せっく)には、弁当を持って海岸に行っていました。また、4日には、柏から畑地(はたじ)(北宇和郡津島町)に抜ける遍路道の途中の焼(や)け野(の)というカヤの生える所に登って、お遍路さんの接待をしていました。まあ、自分らの接待も兼ねていたのでしょう。旧の1月18日の海栄寺(かいえいじ)の観音様の縁日には、漁師さんらがたくさんお参りに来ていました。この観音様は、須ノ川の海岸の海の中で光っている石を見つけて祭ったといわれており、漁の神様です。ここは、お寺ですが、手をたたいて拝んでもいいんです。この縁日には、十数軒の出店がでたり、映画をやらしたり、毎年ではありませんが、闘牛場を作って闘牛をさしたりしていました。
 闘牛がある時には、南予一帯から闘牛が来ていました。ここらでも、農耕用に牛をよく飼っていまして、なかには闘牛用の牛を飼っていた家もありまして、昭和20年代には横綱牛が出たこともありますが、今は、牛を飼っている家は1軒もありません。この近所にも馬喰(ばくろう)さんがおって、九州の日向(ひゅうが)(宮崎県)から子牛を買ってきて、各農家に1頭2、3万円で売っていまして、その中で闘牛用の牛に育てていくんです。うちの父も闘牛用の牛を飼っていて、よくその世話を父と一緒にしました。牛を飼うのに、父と一緒にさす(両端を細くし、荷物を突き刺す棒)を持って、山に短いカヤを刈りに行きました。カヤは、牛の寝間に敷いたりして、たまったら厩肥(きゅうひ)として出して、また敷きかえるというふうにようやりました。
 闘牛には、南予のいろんなところに連れていっていました。餌は、大豆玉いうて大豆かすを大きな固まりにしたのを鎌で削って、小さい桶(おけ)にお湯か水でほとばし、柔らかくして、それにサツマイモのつるやクスバカズラや青ガヤを切ったものを上にかけてやりました。または、サツマイモを切って煮て食べさしたり、ダイコンを湯がいて食べさしたりもしました。突き合いの日(闘牛の試合の日)やその前日には、うちのおやじは竹筒に卵を割って入れて飲まして、牛を元気づけて闘牛に連れていっていました。夏には、牛の日というのがあって、農耕牛も闘牛用の牛も一緒に須ノ川の浜に連れていって潮水で体を洗ってやっていました。」

 (イ)ラグーンの今

 須ノ川海岸は、昭和47年(1972年)に足摺宇和海国立公園に指定された。また、その年に、県は国民の健全なレクリエーションの場として、さらに、計画的総合的な地域開発を目的としたレクリエーション都市計画の指定をうけ、この地域に南予レクリエーション都市の建設を進めることとなった。須ノ川地区は南予レクリエーション都市の須ノ川集団施設地区として県と管理契約を結び、昭和48年からキャンプ地等の施設整備工事が始まっている(写真2-1-28参照)。昭和63年(1988年)には、池の山手側に広がる水田に内海中学校が統合移転され、景観も変わってきた。須ノ川公園の管理について**さんに聞いた。
 「土地売買の時点に県との約定のもと、施設から上がるお金は地区に入るようになっているんですよ。例えば、キャンプをするときには、清掃協力費をもらうし、自動販売機や売店からの収益、テント、シャワー、ござの貸し代などです。その収入の中から、キャンプ場の管理人の手当てを出しているんですが、管理にはこの地域から観光委員というのを10人ほど選び、観光委員長などを決めてやっています。観光委員になれば、それに付きっきりになります。地区が総力をあげるのは、7月20日から8月末までの40日間で、後は自動販売機の管理くらいのものです。」
 地域の活性化のために、平成元年から若宮神社のお伊勢踊りが復活した。
 「若宮神社でのお伊勢踊りは、わたしが子供のころは、やったもんですが、一時やっていませんでした。平成元年にわたしがここの区長をしたときに復活させたんですが、毎年旧の9月28日に行っています。7歳の男の子7人が、竹ひごに色紙を張って花のようにしたかぶりものを作ってかぶり、御幣(ごへい)(細長い本に細長い白紙を切ってはさんだもの)や扇子(せんす)を持って7回踊るんです。11月3日には秋祭りもありますが、昔から酒を飲むだけの飲み祭りです。」


*7:ウバメガシは、バベとかウバメなどと呼ばれており、以後聞き取った人の呼び方に準ずることとする。
*8:炭焼き窯の近くに赤土で作った水を溜めている所で、窯出しの時などに利用する。
*9:1人役は、大人が1日働いてできる仕事の量のことを言う。窯つくりには、1人で作ると約35日かかったことになる。
*10:沿岸流によって運ばれた砂礫が湾口の一方の端から細長く堆積し堤状になったものを砂嘴といい、さらに入り江の対岸
  にまで達したものを砂州という。砂嘴や砂州によって塞がれた入り江を潟湖(ラグーン)という。

写真2-1-22 内海村柏地区

写真2-1-22 内海村柏地区

柏崎漁港より。平成8年10月撮影

写真2-1-28 須ノ川集団施設地区案内図

写真2-1-28 須ノ川集団施設地区案内図

平成8年10月撮影