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愛媛の景観(平成8年度)

(2)野間馬と歩んだ道

 野間馬は、わたしたちの先祖が長い歴史の過程の中で、今治市や越智郡の自然と風土の中で育て上げてきた馬である。アジア大陸から日本列島に馬が伝播(ぱ)されてから約2,000年の歳月が流れたが、日本在来種のルーツについては今のところ解明されていない部分が多い。
 動物のことについて、幅広く、深い学識を持たれている県立とべ動物園長の**さんに話を聞いた。

 ア 野間馬の起源など

 **さん(松山市岩崎町 昭和13年生まれ 58歳)
 「野間馬の起源は、寛永12年(1635年)、松山藩主となった松平定行が弟の今治藩主、定房に勧めて来島海峡の馬島に藩の軍馬の放牧場を作らせたことから始まります。この放牧は、牧草の不足と疾病の発生のために失敗しました。そこで藩は、当時松山藩領であった野間郷一帯の農家に委託飼育させて、小型で有能な馬を作り出したのが野間馬です。
 その野間馬は、昔、農家において農耕のために使うとか、荷物を運ぶ能力に優れているとかで大変重宝がられた時代がありました。
 野間馬のルーツについては、『なぞが多い。日本原産の馬か外国からの移入馬か、純粋の日本馬にすればどうした系統か。(⑦)』と馬の研究家宇佐見恒雄さんが専門誌『優駿(ゆうしゅん)』の中で書いているように、現在も判然としません。
 野間馬は戦いのために使う馬としては小型すぎるということから、種牡馬(しゅぼば)検査法の制定(*3)で繁殖は禁止されました。
 そういう中でも一般の農家では農耕馬として使っていましたので、ひそかに継承されてきたのが現在の野間馬の先祖です。それが越智郡の島しょ部で残っていたということです。今治の野間地方にもかなりいましたが、平野部であったために早く明るみにでていなくなってしまったと思われます。絶滅を防ぐために島しょ部に残っていたものを県立道後動物園(昭和62年〔1987年〕とべ動物園の開園にともない閉鎖)で保存するようになったわけです。
 わたしは昭和38年(1963年)道後動物園に就職しましたが、その時すでに野間馬はいました。昭和29年(1954年)3月生まれの雄『クロ』が昭和33年2月から、昭和33年4月生まれの雌『アカ』が昭和36年9月から保護されていました。血統的なものは記録が残っているのではっきりしていますが、途中で対州(たいしゅう)馬(日本在来種の1種)の系統が入ったり、いろいろな交配をしているのが現状です。それは野間馬を絶えさせてはいけないということから当時としては仕方のなかったことです。
 野間馬の絶対数が少なかったため、兄妹(姉弟)で子供を作ったりしたことからだんだん近交劣化(きんこうれっか)(近親交配による劣悪化)になってきていました。それではいけないから、系統だてて繁殖保存しないといけないということで、動物園は2頭でしたが、今治市で保存会をつくり野間馬を保護することになりました。
 鹿児島大学の先生に来てもらって、すべての馬の血液を採取し検査してもらいました。その結果、動物園に残っていた『クロ』と『アカ』の子『チビ』という雄が血液学的に野間馬として結構良いことがわかりました。
 そこで野間馬放牧場にいる馬に雄の系統のよいものを種付けし、その後きちんと血統分離しながら繁殖させて保存していけば良いということで、動物園の雄『チビ』を期限を限らないで貸し出したわけです。その後、系統的に一番遠い血液のものを雌雄1頭ずつ寄付してもらったのが、現在とべ動物園にいる野間馬の、『春風』(雄)と『三日月』(雌)です。
 種の保存というのは親子兄妹(姉弟)が結婚しても、子供ができたからよかったではいけないのであって、血統的になるべく近交劣化にならないようにしなければなりません。これが単に動物を飼うことと違うところです。頭数がたくさんいればいるほどよいわけで、少なくなってくるとどうしても駄目になりがちです。だから今は、頭数がかなりたくさんできましたから、系統分離しながら上手に管理していく必要があります。血縁関係が濃くなっても、新たに注入する血統がないからです。」

 イ 野間馬と農作業

 **さん(越智郡吉海町平草 大正12年生まれ 73歳)
 **さん(越智郡吉海町平草 昭和2年生まれ 69歳)
 種牡馬検査法により、繁殖が禁止された野間馬であったが、そのすぐれた農耕や運搬能力のため、特に越智郡の島しょ部では、かなりたくさんの野間馬か飼育されていた。その実態を大島(越智郡吉海町)に住む、**さん、**さん夫婦に聞いた。
 「大島(今治市の沖合いに浮かぶ島。吉海町と宮窪町の2町からなる。)では、泊(とまり)の集落には昭和3年(1928年)ころに野間馬が1頭いて、それが珍しいのでみんなが見に行っておったという古老の話を聞いています。それがぽっつり、ぽっつりと増えだして、昭和18年(1943年)ころには、泊だけでも50頭くらいはいたのではなかろうかと言うとりました。この島の野間馬の最盛期は昭和15、6年ころです。
 我が家で野間馬を飼っていたのは父の代からで、期間はあまり長くはなかったが、わたしで2代目になります。父が野間馬を飼うようになったのは、昭和20年(1945年)ころからです。日照りが続いて畑の草もなにもできないことがありました。それまでは牛を飼っていましたが、牛の飼料も不足して困っていたら、隣家の人が吉海町の泊の集落から馬を買うてきて飼い始めました。野間馬は食べ物も少なくてよいし、牛より足が速いので楽だということで、その次に我が家の上隣の人が飼いはじめました。この2頭が平草(ひらくさ)では最初の野間馬で、昭和18年(1943年)ころのことです。
 平草で牛を飼っていた農家が、次々と野間馬に替えていって、昭和20年すぎには全部で7戸に7頭いました。飼料は牛と大体同じようなものでわらと草が主で、畑に草のある期間は草だけで、草を刈ってきて丸めて固めて、ぽんと馬小屋へ放り込んでおいたらそれで良かったです。冬になったらわらを短く切って、米ぬかなどをふってやりよりました。牛にくらべて食べる量も半分くらいでした。そして足が丈夫でした。畑の際でもひょいひょいと人間が上っていく場所だったら上ってきよりました。牛はそれができにくかったが、野間馬はできました。牛にくらべて足は速いし、仕事の能率は非常に良かったです。牛はとろくさくて、狭い道だったら下の田や畑へ転落したりしていましたが、野間馬は器用でした。野間馬にさせていた仕事は、田をすくのと、ここらでは道が狭くて、自動車がいかんかった(通らない)から、米・麦を背中に乗せて精米に行くことでした。運ぶ力は強く6、70kgは平気で運んでいました。
 利口な動物で、この辺の田は小さかったが、すきを使っていても田の角へ行くとくるりと回って、人間の方がすきを持ってまわるのが間に合わないくらいでした。ひづめが強くててい鉄は打たなかったです。ひづめは各々の飼い主が刃物を使ってけずっていました。
 当時(昭和の前半)は田もあって、我が家も2反5畝(約25a)くらい米・麦を作っていました。牛を飼っていたころは、わらを購入しないといかなかったが、野間馬は1年に1反分くらいのわらで十分でした。一般的には病気にも強かったと言よったが、腹痛はよくおこしていました。腹痛を起こした時は、貝がらに入った置薬を水に溶かして、竹の筒をそいだ容器に入れて口の中へ流し込んでいました。頭も大きく、足の関節も太く、強健そのもののように思えて便利だったが、腹痛だけは弱点でした。耕うん機やテーラーが出だして、馬を飼うことをやめていきました。昭和30年代の終わりころだったと思います。
 道後動物園にいた『アカ』は、我が家で飼っていた野間馬の子ですが、きれいな可愛い馬だったので、我が家へ子供を残しておいて親の方を売ろうかと思ったくらいでした。しかし、馬喰(ばくろう)さんにぜひわけてくれといわれて売ることになりました。昭和34年(1959年)ころでした。子馬は名前を付けて呼ばれていましたが、名前は馬喰さんが付けていたように思います。馬の経歴というのでしょうか、生年月日と持ち主の名を小さな紙片に書いて売る相手に渡しよりました。年齢がわからんのでは商売にならないからです。
 平草では、福田(吉海町)から船に積んで運んで今治の馬市へつれていきよりましたが、昭和34年ころには馬の値段がだいぶ下がって、5、6万円くらいにしか売れないのが普通でした。しかし、我が家のは8万円に売れて、みんなが「ワァー!」と歓声を上げたのを覚えています。それを昭和36年(1961年)に馬喰さんが道後動物園に寄付したんです。
 後に息子を連れて動物園へ見に行ったことがありました。そうしたらほろ馬車を引きよりました。飼育係が、動物園の中で自分の餌代をもうけてくれるのは馬だけじゃいうて笑っていました。
 馬と機械を比べると、機械の方が便利なんだろうけれども、機械はふんをしませんから、たい肥が無くなってしまいました。昔は道が狭くて荷物を運ぶのに馬はとても便利でした。テーラーになってからは山道がせまくて越せなくなったので、精米には船を使って友浦(ともうら)(宮窪町)の方へ行くようになりました。生活圏が違ってきました。
 野間馬は大島(吉海町・宮窪町)全域で飼っていましたが、不思議なことに友浦にはいなかったです。理由は分かりません。」

 ウ 野間馬と子供たち

 **さん(今治市河南町 昭和12年生まれ 59歳)
 野間馬は、種族の維持と保護のための努力がよく行われていることと、近隣の今治市立乃万(のま)小学校の児童との触れ合いが活発で、児童たちの情操教育に大きく貢献していることが高く評価されている。乃万小学校へ赴任し、郷土クラブの指導担当となって、児童たちと野間馬との触れ合いのきっかけを作ったり、交流活動を軌道に乗せるとともに、情操教育に尽力をした**さんに、そのいきさつや活動の歴史を聞いた。

 (ア)野間馬との出会い

 「野間馬については、今治市立乃万小学校へ赴任するまで、わたしは全然知りませんでした。放牧場の近くにある乃万小学校の児童でさえも、野間馬のことは何も知りませんでした。ですから、赴任した最初の年の郷土クラブの活動は、地元にある石像ばかりを見に連れて行っていました。児童たちは、『また石像を見に行くん。』というし、興味をつなぐのに苦労をしていたわけです。そうした中で、学校の近くの谷間に小さな馬がぽつんと飼われているのを知りました。それが野間馬との出会いでした。
 それから野間馬についての研究を始め、資料の収集や、児童の情操教育に野間馬との触れ合いを取り入れていく方策はないものかなどを懸命に模索しました。
 野間馬は、江戸時代、体高4尺(約121cm)を定尺(じょうしゃく)といい、この定尺より大きい馬は増産を進める一方、定尺より小さい馬は農家に無償で払い下げられていました。現在の野間馬はこの定尺以下同士の交配からできあがったもので、日本在来種の中では一番小型の馬です。農家にとっては小型馬が便利であったことから、盛んに増殖を進め江戸時代には300頭ほどいて、馬産地として大変栄えたといわれています。
 しかし、明治政府の、外国の馬を導入しての大型化政策や、戦後の輸送手段の発達などにより、ついに野間馬は激減しました。
 昭和30年代後半には今治市や越智郡島しょ部には1頭もいなくなり、県下でも県立道後動物園に2頭と松山市の愛馬家のところに4頭が飼われているのみとなりました。」

 (イ)野間馬の復活への道

 「この貴重な野間馬を、かつての産地であった今治市はなんとしても保護し、増殖・保存していきたいと考えました。
 幸いなことに、昭和53年(1978年)6月30日に、野間馬を飼育していた松山市の愛馬家から、今治市へ4頭の野間馬が寄贈されました。
 市は同年6月16日に野間馬保存会を発足させ、関係機関、団体および有志が集い、地域ぐるみで生きた文化遺産である野間馬を〝ふるさとの宝〟として大切に保護増殖に取り組むことになりました。そして野間馬放牧場の近くにある乃万小学校の児童たちは、子馬が生まれるたびに名前をつけて来ました。しかし、ただ名前をつけるだけで、それ以上のかかわりはありませんでした。
 **さん夫妻が飼育を行い、婦人会、老人会、公民館などは年に数回草刈りをしたり、さくの修理をするに過ぎず、野間馬と人々との触れ合いはほとんどありませんでした。それで野間馬は人に慣れることもなく、**さん以外の人が近づくと警戒して逃げ回りました。馬は昔から家畜として家族同様に人とともに生きて来た大変利口な動物で、言葉は通じなくてもある程度心は通じ合うことができる動物です。野間馬と**さんの間ではその信頼関係ができていました。
 わたしは日本各地の在来馬の見学にも行きました。当時は日本在来馬は7種だったわけですが、見学に行ってみると、いずれの場合も保存のための保存で、各地とも馬の好きな老人が1、2頭飼っていて、全体として何頭かいるといった具合でした。
 日本在来馬はそれぞれの地域で人々とかかわりながら、様々の地域文化を生み、伝承してきた貴重な存在だったはずですが、社会情勢の変化で衰退の一途をたどってきました。野間馬もまさにその典型的な例ですが、地元に残っているこの貴重な馬と、郷土クラブの児童たちとの触れ合いを深めていくことによって、命の大切さや優しさが身につき、児童たちが自分なりに保存の方法を考え出していくのではないかと、わたしは考えました。
 **さん夫妻の努力で、昭和54年(1979年)以降順調な出産が続き、昭和58年には待望の雄の子馬が2頭生まれました。これは**さんの老練でしかも丹精込めた飼育と管理のたまものでした。
 **さんの指導を受けながら、郷土クラブの児童たちが野間馬と触れ合うことができるよう、野間馬保存会の放牧場の中に入る許可を得たのは、昭和59年2月のことでした。」

 (ウ)児童たちの活動

 「昭和59年(1984年)度の活動は、郷土にこんなにすばらしい動物がいることを教え、自分たちの手でできることにどんなものがあるかを考えさせ、実践していく過程で、自主的・社会的態度を身につけさせる目的で、野間馬との触れ合いが始まりました。石像ばかりを見につれて行ったころと違って、児童たちの態度も変わり積極的になってきました。馬は人が手間をかければかけるほど懐いてきます。
 野間馬のブラッシングや、野間馬の表情、動作の観察記録をとって、野間馬との触れ合いを深めていくことにしました。
 乗れる馬は1頭しかいませんでしたので、**さんの指導で児童たちが調教をはじめました。児童たちの自主性に火がついて来たような感じで、石像見学のときには熱心でなかった児童たちが、『先生、牧場へ行こう。』という態度に変わってきました。
 昭和60年度には、『郷土クラブ』の名称を『野間馬クラブ』に変更し、土・日曜日の活動を重視し、清掃をしたり、花壇を作ったりして、環境美化にも努力しました。このことはボランティア活動実践記録で県の最優秀賞を受け、県教育委員会が発行した『愛媛の理科ものがたり』にも採用されました。児童たちに自主的、自発的な行動がみられるようになり、『野間馬新聞』を作成して全家庭に配布するようになりました。地域の人々の関心も高まり、物質的な援助が送られるようになってきました。
 昭和61年度は野間馬に関する資料を作成して、社会教育の学習でも活用することにしました。アサヒグラフの表紙にも取り上げられました。地域ぐるみで保存に取り組み、児童たちがその中心になっていると、日本馬事協会が評価し発表したので、マスコミが大きく取り上げるようになってきました。
 昭和62年度は、各種の行事には牧場に行き、野間馬と触れ合う活動を実施しました。野間馬があらゆる分野で活用されるようになり、今治市は野間馬放牧場を拡張して「野間馬ハイランド(*4)」の建設を計画しました。
 昭和63年度は、野間馬保存会、公民館、自然科学教室、今治ライオンズクラブとの連携を強化しながら活動を活性化しました。また、ドサンコの活用方法の参考にしたいと北海道新聞の記者がやってきたり、『地域生活文化研究発表大会』において、最優秀賞を受賞したりもしました。
 平成元年度は、野間馬の活用を図るため、動物との触れ合い広場として「野間馬ハイランド」が4月1日に開園しました。児童たちも招待され、東京から来た子供たちとの交流を深めることができました。植樹や環境整備などに協力し、今治ライオンズクラブが環境整備と物質援助をしてくれました。児童たちと野間馬のふれあいを、午(うま)年にちなんでマスコミが一斉に取り上げてくれました(⑨)。
 わたしはこの年度末で転勤しましたが、野間馬クラブの活動はますますその後も活発になって継続されています。」

 エ 牛の飼育とともに

 **さん(今治市野間  昭和4年生まれ 67歳)
 **さん(今治市桜井  昭和46年生まれ 25歳)
 **さん(今治市唐子台 昭和43年生まれ 28歳)
 野間馬が今治市に里帰りして以来、飼育と繁殖を一手に引き受けて、大きな成果を上げてきた**さんに話をしてもらった。

 (ア)野間馬のあれこれ

 「松山市在住の愛馬家が、飼育している野間馬が病気になったので診察してもらいたいと、今治の家畜保健所の獣医さんに頼んできました。そこで獣医さんが診療に行って話がはずみ、『わたしの生まれ育った野間郷には、この野間馬が昔はいっぱいおったんですよ。』という話をされました。そして、『いっそ野間馬を今治市へ寄贈したらどうですか。』ともちかけましたら、『いいですよ。』ということになり、話はとんとん拍子に進んでいき、いよいよ野間馬が帰って来ることになりました。
 わたしは当時乃万農協の理事をしていましたが、市から野間(乃万)在住の人でだれか飼うてくれる人はいないかという話がやってきました。その当時わたしは周辺の方々への配慮から、牛をこの場所(現在の野間馬ハイランド)で飼っていました。乃万農協の理事会で、わたしに飼育してほしいということになり引き受けました。1、2頭だと思っていたら、4頭もおりました。わたしの家からここまで400mくらいありますが、道が狭かったり、急な坂があって、自動車には乗れず、牛を追うて来よったので、馬に乗ってきてやろうと思いました。わたしは馬については素人ですが、飼い方は牛と余り変わるまいし、要するに繁殖させていけばよいだろうと単純に考えて引き受けました。
 4頭のうち、マヤ(雌)は太刀(雄)との相性が悪く子供できませんでしたが、菊(雌)と太刀(雄)の間には年々子供が生まれました。3年間くらいは生まれる子供が雌ばかりでした。雌なら雌、雄なら雄と片寄って生まれる傾向があるらしいです。雄の太刀は年もとってきたし、後継ぎがいないことが、テレビやラジオ、新聞で報道されたりしたので、わたしは知りませんでしたが、当時地域ぐるみで心配していたらしいです。
 近親交配を避けるために、道後動物園のチビ(雄)を昭和60、61年(1985、6年)の2年間貸してもらいました。このチビが大活躍してくれて、待望の雄が生まれました。その後チビは動物園へ返しました。
 野間馬は、昭和59年(1984年)8月に日本馬事協会の学術調査を受け、末改良の日本古来の馬であることが分かり、関係者の尽力により、昭和60年(1985年)10月に8番目の日本在来馬として認定されました。
 飼料は牛も馬も変わりません。ただ、馬の場合は飼料を短く切ってやる必要がありました。牛と馬の胃の構造の違いだと思います。
 交尾は4月から8月中旬までで、盆を過ぎると交尾はしません。習性として、春、草の葉が繁っている間に子を生んで育てる本能かもしれません。1度に生まれる子供は必ず1頭で、妊娠期間は330日です。わたしの場合、飼育や出産は経験による知識が中心です。4頭から51頭までに増え、今年の春からは後継者もできてとても喜んでいます。現在、野間馬ハイランドを拡張しているのは、野間馬が短期間に順調に頭数も増えてきて、今までの施設が手狭になってきましたし、瀬戸内しまなみ海道全通後の今治の観光の目玉の一つとして、日本在来種の保存と馬に触れ合うことのできる場所とする構想からです。昔から、人と馬とは一体のものとして付き合ってきましたから、観光とはいえ、人馬一体を体感できる場を提供し、人の心と馬の気持ちを強く結びつける手助けをして、子供たちの情操教育に役立つものにしたいと強く思っています。
 昭和59年(1984年)に乃万小学校の児童が馬との触れ合いを始めましたが、クラブ活動の時間の制約もあるためか、最近は少し形態が違ってきました。ブラシかけとか、飼料やりとか、馬と接して世話をしてやることがなくなって、乗ることが中心になってきました。馬はかしこい動物で人をみてかかるので、児童の姿勢や気持ちを読み取っています。乃万小学校の野間馬クラブの児童が、このハイランドに来始めたころのように、乗馬することよりも馬を世話して、馬を知ることの原点にかえることが大切です。本当に馬の好きな子供もいます。それは態度で分かります。」

 (イ)良き後継者に

 今治市出身で、動物関係の専門学校を卒業後、大分県のサファリに勤務していたが、自ら希望して野間馬ハイランドに帰ってきた**さんに話を聞いた。
 「わたしは、馬が大好きです。大分のアフリカン・サファリに勤務していたときも、馬の飼育をしてきたので馬の良さはよく知っているつもりです。郷里で野間馬ハイランドの拡張計画があり、種の保存だけでなく、子供たちとの触れ合いを通じて情操教育に力を注ぐ計画があることを知って応募し、帰郷しました。
 動物の世界はハーレムのような傾向があって、馬も例外ではありません。もともと野生では1頭の雄に数頭の雌がついています。そこでここでもそのようにしています。敷地とか、仕切りとか、環境のからみで4グループにしています。雄1頭に雌10頭を1集団として3グループ作っています。残りの1グループは、雄だけです。その中から、将来、種馬になるものが出てくるかもしれません。
 グループ分けはすべて血液型、遺伝子型を調べてやっています。今後も毎年調べていく予定です。野間馬としての血統については、外国馬は混ざっていません。外国馬の血が混ざっていれば、鼻の上に白い星が入ったり、白い線や模様がでたりするものです。日本の8種類の在来種のうち、他の7種類の在来種とも明らかに異なります(*5)。
 馬の寿命は平均で20年から25年で、野間馬は18年くらいです。人の年齢1年に対し、馬は4倍くらいです。**さんに教わって、立派な後継者になりたいと思っています。」

 (ウ)野間馬クラブの現状

 野間馬クラブの顧問の**さんは、今年度のクラブの状況について、児童たちの活動を指導しながら、話してくれた。
 「平成8年はクラブ員が16名で、男子3名、他は女子です。希望者ばかりです。男子が少ないのは、他のスポーツクラブに属する者が多いからです。
 クラブ活動の時間が短いため乗ることが中心の活動になっていますので、活動内容は今後工夫していきたいと思います。馬に触れ合う人間の態度によって、馬はずいぶん変わります。児童たちが本当に野間馬が好きになり、郷土の誇りであることをしっかり身につけさせたいと思います。」


*3:明治18年(1885年)と30年の2度にわたり、小型の馬の繁殖が禁止された。
*4:日本在来馬の野間馬を活用し、児童の健全育成と情操教育、体験学習の場を提供するファミリーパーク。
*5:野間馬は日本古来の未改良馬で、日本で一番小型の馬である。