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愛媛の景観(平成8年度)

(3)ふるさと再発見

 ア 惣川(そうがわ)のくらし

 (ア)惣川は今

 **さん(東宇和郡野村町惣川 昭和18年生まれ 53歳)
 東宇和郡野村町惣川は町の東北部に位置し、北の稜(りょう)線を境に河辺村と、南の山並みを境に城川町と接し、東は大野ヶ原に続く山間地である。惣川の中心は三島という集落である。この集落から西方に少し登ると台地が広がっていて、天神、寺下などの集落が点在している。この地域は、「標高500m内外であるが、比較的平坦な台地をなして、視界も開け、東に大野ヶ原、南に雨包山(あまつつみやま)(1,111.4m)と展望もよく(⑧)」、田畑も広がる言わば山奥の田園地帯といったところである。その風景は山の中を縫うようにして惣川にやって来た人々を驚かす。惣川の庄屋であった土居家の広大な屋敷もこの一角(天神)にある。惣川に生まれ、地元の公民館長として惣川の発展に努力している**さんに話をうかがった。
 「惣川は、昭和30年(1955年)2月に野村町と合併したときには、人口が3,664名でしたが、現在では1,000名を割るようになってしまい、野村町の中でも人口の減少の激しい(図表3-2-5参照)過疎化、高齢化の進んでいる地域です。よそ(特に松山方面)へ出て行く人が多いのです。松山で『惣川会』というのがありますが、会員数約800人と聞いています。そんなわけで空き家が多くなりました。時々墓参などで帰省したときに使える家もありますが、廃屋になってしまった家も目立ちます。崩れた家を見るのは寂しいものです。昔はこの付近にはかやぶきの家もたくさんありました。かや場(屋根をふくカヤを刈る所)もあったのですが、それもなくなり、かやぶきの家は減ってしまいました。旧庄屋の土居家の建物を含め、昔の面影をとどめているかやぶきの家はごくわずかです。
 惣川の人々の生業の主体は農業でしたが、最近では建設関係の仕事に従事するなど勤め人が多くなり、兼業農家が増えました。林業も景気のよい時期があったのですが、現在は木材価格の低迷で不振です。養蚕も盛んで、一時は70戸ほどの養蚕農家がありましたが、今では小規模経営の養蚕農家1戸だけとなりました。三椏(みつまた)(和紙の原料)もたくさんつくっていたのですが、最近では全くつくっていません。そのような中で最近一つの試みが始まりました。花卉(かき)栽培です。花はトルコキキョウ、公民館の職員が1年間長野県に研修に行き、公民館がハウスを構えて試験栽培を始めました。言わば公民館主導です。まだうまくいくかどうか分からないのですが、現在2戸の農家がトルコキキョウの栽培に取り組み、すでに松山の市場にも出荷しており、成功するのではないかと期待しているところです。この花の栽培をわれわれが思いついたのは、惣川の気候が栽培条件に合っているように思えたからです。何かこの土地の気候に合った作物を特産品にしたいという思いからつくり始めました。トルコキキョウは高冷地に適した花で、夏から秋にかけて栽培します。苗は長野県から取り寄せているのですが、今年(平成8年)公民館の試験栽培では種子から育てています。3月に種子をまきました。9月ごろ咲く予定です。
 新しい試みと言えば、近ごろキュウリ、ピーマンなどの野菜づくりも始まり、農協を通して神戸の市場へ出荷しています。また、今年、標高700mくらいの高地でトマトの試験栽培を始めた農家があります。久万町(上浮穴郡)でトマトの栽培が盛んに行われているから、惣川でもできるのではないかと思っています。
 地域の活性化のために何かできないか。できることはやってみよう。それが惣川に残って頑張っている人々の共通の思いではないでしょうか。」

 (イ)山林とかかわって

 **さん(東宇和郡野村町舟戸 昭和17年生まれ 54歳)
 惣川には山林が多く、「地籍簿による地目別土地区分によると、惣川の総面積5,634haのうち4,734haが山林であり(⑨)」、惣川の人々にとっては昔から植林やその後の山林の管理は大事な仕事であった。しかし、木材価格の低迷、後継者不足などによってそれもままならないのが現状らしい。
 「わたしは木材業者ですが、確かに木材の値はよくありません。わたしがこの仕事を始めてから最もよかった時は、日当が今の3分の1だったのに対して、木材の価格は現在の5倍くらいしていました。ですから山を持っている人が大変潤った時期がありました。木材の景気が下り坂になり始めたのは、昭和50年代前半だったように思います。主な理由は外材の大量輸入です。それに住宅工法、新建材の使用も影響していると思います。
 そのような状況の中で、わたしのところでは、いち早く機械化に踏み切りました。プロセッサー(造材用の機械)、グラップル(車に木材を積み込む機械)を導入したのは県下で一番早かったと思います。機械を導入して作業に必要な人手を減らすことで、山林の所有者の収入を少しでも多くしてあげることもできます。もちろん労働力不足(特に若い人の労働力が不足している。)なので機械に頼らざるを得なくなったのも事実です。
 機械化によって以前の半分以下の人手で仕事ができます。伐採した木を土場(どば)(木材の集積場)に集め、プロセッサーで枝を落とし、一定の長さに切りそろえて、グラップルで車に積み込みます。以前はチェンソー(動力鋸(のこぎり))で枝打ちや造材を行っていたのですが、現在チェンソーを使うのは伐採のときだけです。ハーベスターという伐採用の機械もありますが、この辺りの山は斜面が急なので使えません。伐採現場の土場まではトラックが通れる作業道をつけ、機械を持ち込み、木材を搬出しています。人の手を使うのが一番費用がかかるので、道をつける方がかえって安くつくのです。わたしたちの仕事は伐採から市場への出荷までと思われがちですが、伐採後の植林とその後の手入れもやるので、道をつけておくと後々まで役にたつのです。そして目的が済めば、その道は自然に戻ります。20年くらい利用できればそれでよい道であり、擁壁(ようへき)も石やセメントを使わず、木材を使用してつくります。木組みの壁(へき)ですからやがて自然に帰っていきます。
 この辺りの山はほとんどスギの木です。今伐採できるのは40年ほど前に植林したスギです。ヒノキの方が値が高いのですが、育ちが遅いので自分が植えたとしても自分の代で売ることはなかなかできません。そんなこともあってみなさんスギを植えたのでしょうか。
 山林の管理は大変です。しかも人手が不足し、後継者も少なくなり、山を売る場合、立ち木だけでなく、山(土地)ごと売る人が多くなりました。以前、木材の景気がよかったころには、惣川に同業者がいましたが、今ではわたしだけになりました。しかし、山林の持ち主の利益のためにもわたしのような業者が惣川に一人ぐらいいてもよいでしょう。」
 **さんは、惣川を愛し、林業の振興を願いながら、今日も山奥で汗を流している。

 (ウ)惣川に移り住むことになって

 **さん(東宇和郡野村町小松 昭和24年生まれ 47歳)
 惣川の中心三島から大野ヶ原へ向かってさらに奥に入ると小松というところがあり、そこに五本松と呼ばれる地域がある。現在五本松には3軒の家があるが、その1軒に住んでいるのが**さんである。**さんは岡山県笠岡(かさおか)市の出身で、大学卒業後、長い間東京に住んでいたが、都会生活に見切りをつけ、山形県在住1年を経て、ここ野村町に移り住み、米や野菜を栽培しながらくらしている。
 「わたしはここに移り住んで4年目になります。この辺りは標高700m、見晴らしのよいところです。夕日が目の高さよりもはるか下に沈み、家の中は夕日の光が充満し、明るいなと思っているうちにパタッと暗くなります。夜は周囲が真っ暗ですから実に美しい星空を仰ぐことができます。
 見渡す限り山また山の景色もすばらしいのですが、どうもこの地方の山には四季の変化が感じられません。杉林などの人工林が多く、雑木林のような自然林が少ないからでしょう。自然林が少なく、木の実など動物のえさが乏しいからイノシシなどが人里によく出てきます。竹の子の不作の年などはなおさらです。今年(平成8年)、ジャガイモ、サトイモ、ナス、キュウリ、スイカ、カボチャ、トウモロコシなどの夏野菜を植えたのですが、カボチャ以外はすべてイノシシにやられました。この辺りでは下の方からイノシシが登ってきても山から出てくると言います。今は上の山からも下の山からも出てきます。イノシシに包囲されている状況です。だからといってイノシシ除けの柵(さく)をつくることもしたくありません。わたしは動物と人間とが共生できるそういう自然の中で農業がやりたいのです。そのためには動物たちも生きていける豊かな森づくりも必要です。柵をめぐらすような寂しい農業はしたくないのです。」
 自然と共に生きる道を求めて農業に従事している**さんは言うまでもなく有機農法で作物を育てている。
 「わたしは農業に関しては素人でした。東京を離れようと決心したときも、最初は農業をやろうとは思っていませんでした。そのころたまたま巡り合った本が福岡正信さんの『自然農法 わら一本の革命』でした。読んでみて目からうろこが落ちる思いがしました。農業、特に有機農法に関心を持ったのはそれからです。たまたま縁があって愛媛に住むことになったのですが、たしか福岡さんも愛媛の方ですね。
 肥料として堆肥(たいひ)とボカシ(EM〔有用微生物群〕菌を加えた発酵堆肥)を使っていますが、わたしは腐葉土の中から見つけた白い菌も利用しています。無農薬の米や野菜をできれば皆さんに分けてあげたいと思っています。わたしの生産した玄米を現在6人の方が食べておられます。野菜については、定期的に出荷することができないので、友人などに宅配便で送る程度です。定期的に出荷し、販路を広げるためには、一人では無理です。最低でも数戸の農家が共同でつくる必要があります。今のところ同志がいないのですが、EM研究会(ボカシ堆肥を使った農業の研究会)のメンバーの中から無農薬農業をやる人がでてくることを期待しています。
 稲の栽培では不耕起直播(じかま)き(耕さずに籾(もみ)を播き、発芽してから水を張る)を試みています。この方法を提唱したのも福岡さんだったと思います。不耕起の田植えもやってみましたが、要するに不耕起で栽培すると、根の張りや分(ぶん)けつがよく、粘りのあるしっかりとした風に強い稲に育つことが分かりました。味もいいようです。さらに研究を積み重ねていきたいと思っています。」
 **さんは独りぐらしである。「仕事によっては不便なこともありますが、普段困ることはありません。郵便配達の人が来なければ4日も5日も人に会わないこともあります。山奥で新聞も配達してもらえず、情報源はテレビだけです。この辺りには下(しも)の色納(いろの)という集落と併せて20軒足らずの家があります。わたしの来たころには、そのうち5軒が稲作をやっていたが、今年はとうとうわたしの家だけになってしまいました。」
 住まいはトタンで覆ったかやぶきの古い民家。土間には三椏を蒸す設備がそのまま残されていて昔のくらしの一端がしのばれた。

 イ 惣川の地域おこし

 (ア)土居家のくらし

 **さん(東宇和郡野村町惣川 昭和6年生まれ 65歳)
 惣川の土居家は、「寛文8年(1668年)に前の庄屋の後任として、白髭(しらひげ)村(野村町白髭)庄屋より転勤を命ぜられた土居通政以来、10代にわたって、明治維新で庄屋が廃止になるまでの200余年間惣川の庄屋を勤めた(⑧)」家である。
 土居家の屋敷は、惣川の天神という集落の北の山を背にした最も高い位置にある。母屋はかやぶき入母屋(*5)造りの堂々とした建物で、向かって左側に庭園を配した離れ座敷、右側から奥にかけて土蔵が並んでいる(写真3-2-13参照)。
 「土居家の屋敷は、記録によると文政10年(1827年)火災で焼失しています。ところが、いつ現在のこの建物ができたかについての記述がありません。しかし、火災直後に建てられたと考えられており、したがってこの建物は170年近く経(た)っていることになります。
 母屋の屋根の表側をふきかえてから30年くらいになります。ふきかえたのは、ちょうどカヤが手に入りにくくなり、かやぶきの民家も少なくなってきたころです。コヤサゲ(かやぶきをやめて瓦(かわら)ぶきなどにすること。)をした家の古いカヤを集めたり、近くの寺(興禅寺)のコヤサゲのときも全部譲ってもらったりしてふきかえました。最近少し雨漏りがしますが、原因は棟のところにあります。棟には杉皮を置き、それを竹で押さえているのですが、その杉皮が傷んでいるのです。とにかく大きなかやぶきの屋根の管理はたいへんです。離れは昔3階建てだったということです(現在2階建て)。この辺りの昔のお年寄りはこの離れのことを『3階』と呼んでいました。建っていた場所も現在の庭の南側であったといいます。子供のころには、わたしの家のすぐ近く(土居家の屋敷に向かって左側)に役場(*6)があり、その横に校舎が残っていました。当時、小学校(現在の野村少年自然の家のところにあった。)の教室が不足していたのか、わたしたちは2年生か3年生のころ、その役場横の校舎で学んでいました。そんなこともあって、母屋の前の広場や離れの庭などは子供たちの格好の遊び場でした。戦前のことですから、よく戦争ごっこなどをして遊んだものです。離れの庭で遊び、よくしかられもしました。
 わたしの家は古くから酒造業を営み昭和40年代の半ばころまで続けていました。酒の銘柄は『旭鶴(あさひづる)』、杜氏(とうじ)(酒造り職人)は西宇和郡伊方町から来ていました(*7)。わたしも大学で発酵工学を学び、酒造りを継ぎました。酒米が統制され、生産量が決められていた戦後の一時期まではよかったのですが、その後いくらでも生産することができるようになり、大手の酒造会社が大量生産を始めるようになってきて、それに対抗できずやめざるを得なくなりました。父には申し訳ないことをしたと思っています。」
 長い歴史を刻み続けてきたこの土居家の屋敷を末長く保存するため、**さんは、この度屋敷全部を野村町へ譲り渡す決心をした。
 「昨年(平成7年)譲渡契約をしました。寂しい気持ちはありますが、個人では十分な管理もできず、やむを得ないことだと思っています。これも時代なのですね。多少ほっとしています。本当ならば寄付したいのですが、そうもいかないのが現実です。目下近くに新居を建築中ですが、これからも屋敷を見守っていくことにしています。屋敷は近く改修されることになっていますが、改修後の活用がうまくいくよう願っています。土居家の資料や品物などで歴史的に貴重なものがあればお見せしたいと考えています。
 この屋敷が今までこのように残ってきたのは地域の方々のおかげです。地元の人々には長い間お世話になっているのだから、屋敷を町に譲ったからといってよそへ移ろうとは思っていません。これからもこの地域の方々と共に惣川を守っていきたいと思っています。」
 屋敷を手放しても**さんのわが家を愛し、惣川を愛する心は少しも変わらない。

 (イ)惣川のシンボル

 藩政時代の惣川の庄屋宅であった土居家の屋敷(町の有形文化財)を購入した野村町では、平成9年度から修復工事に着工する予定である。それに呼応して住民の間で協力する動きが起こった。屋根のふき替え用のカヤを集める「一人一束運動」である。
 **さんに話をうかがった。
 「土居家の屋敷を町が購入するという話は平成6年の末ごろから起こり、翌年正式に契約が成立したのですが、そのころからカヤを集める一束運動が始まりました。惣川自治振興会が中心になって大勢の方の協力を得ています。地元の中学生も協力してくれます(遠足を兼ねたカヤ集め)。刈る場所は主に大野ヶ原の方です。現在1万2千束ほど集まっています。当初はそのくらいあれば十分だと考えていましたが、専門家に聞くと1万5千から2万束ぐらい必要だろうということです。しかし、修復工事までには十分集まるだろうと思っています。修復のための総事業費は約4億円。町単独事業としてはむずかしいので、国の事業の中に組み入れてもらって行うことになっています。
 修復後の活用については、離れをよそから来られた方の宿泊施設にしてはどうかとか、土蔵に地域の特産品コーナーを設けてみてはとかいろいろ意見があります。目下小委員会で検討してもらっていますが、いずれにしても交流、研修、体験学習の場として活用したいと思っています。わたしたちは、惣川のシンボルである土居家の屋敷を拠点にして地域の活性化を図りたいと考えています。」
 地域おこしに取り組むには、まず地域を見直してみなければならない。野村町では本年(平成8年)「惣川の宝物捜し」という調査を企画して住民に協力を求めた。この結果が惣川の地域おこしにどう生かされるのか楽しみである。
 **さんは惣川自治振興会の会長として、地域振興のためには、地元の盛り上がる力が欠かせないと考えている。
 「行政や自治振興会主導で物事を進めようとすると、町がやってくれるのだから地元はあまり力を入れなくてもよいと考えたり、自治振興会に任しておけばよいと思ったり、すべて人任せになってしまいます。それでは何をやっても多分成功しないのではなかろうかと思っています。地域の発展については、まず地元の人々に一番燃えてもらわなくてはならない。土居家の活用について地元に小委員会を設置して意見を聞こうとしたのもそのためです。もちろん最終的責任は自治振興会が負うのですが、今、自治振興会は待ちの姿勢をとっています。地元の人々からは『もっと積極的にやれ。』としかられますが、『済まんのう、済まんのう。』と言いながら地域の盛り上がりを待っています。少なくとも地元の6割くらいの人にどうしてもこうやってほしいという気持ちが生まれたとき、はじめて自治振興会が惣川全体をまとめ上げていこうと思っています。しかし、しかられるということはそれだけ地元の熱意が盛り上がってきた証拠でしょう。
 惣川活性化の青写真『惣川総合10か年計画』についても、その原案を若い人たち(45歳くらいまでの人)に作成してもらっています。若い人が住んでみたいなあと思う惣川にするためにはどうしたらよいか考えてもらっています。今年中に案を提出してもらい、自治振興会で検討し決定しようと思っています。若者の夢は必ず実現できる。だからその夢を描いてみろと言っています。わたしたちが想像できないようなことを提案してくれるだろうと楽しみに待っています。」

 (ウ)国際交流

 **さん(東宇和郡野村町舟戸 昭和21年生まれ 50歳)
 惣川の山里にはるばるドイツの人々が訪れたのは今年(平成8年)で2回目になる。きっかけをつくったのは土居家の屋敷の保存に尽力している松山工業高等学校教諭犬伏武彦さんであったという。前回は平成3年、ドイツのキール市から30名が訪れた。その折の地域の人々の温かいもてなしと、美しい惣川の自然に感激した一行の話がドイツ北部の農村ボックホルンにも伝わり、今回ボックホルンの村から11人が来訪し、なごやかな国際交流が行われた。
 「ドイツから来られたとき、わたしの家もホームステイを引き受けました。平成3年のときは1泊、今年は6泊(うち惣川3泊)の日程でした。最初のとき、ちょうど地域の婦人会の世話をしていて受け入れ準備の会合にも出席しましたが、皆さんすごく緊張し、不安がられ、しりごみをされる方もありました。しかし1泊だけだし、言葉が通じなくても、寝るしぐさをすれば、さあ寝ましょうという意味くらいは伝えられるはずだから泊めてあげましょうということになりました。来訪が早くから決まっていたので、英語の先生に翻訳を頼み事前に手紙で情報交換も行いました。
 今年はもう当然のこととしてお引き受けしました。しかし、おいでになるまでに気疲れします。何か落ち着きません。特に主婦の立場としては食事のことが心配です。田舎の人は来客に対してごちそうをしてあげなければという思いが強いので、よけい心配するのでしょう。今回、わたしの家に泊まられたのは惣川の自然に浸ることを楽しみにして来られた御夫婦でした。好奇心旺(おう)盛な方でしたので、和食を食べていただきました。中には「ライス、ノー」と言われる方もあったようです。「よもぎうどん」「よもぎのてんぶら」も喜ばれました。昼間は自分たちで散策、大野ヶ原の方へも行かれました。また土居家を訪ねたり、公民館でうどん打ちに挑戦したり、なごやかな交流ができました。言葉は通じなくても、手振り、身振りで意志の疎通は可能なのですね。」


*5:屋根の形式。上部が二方に傾斜し、下部が四方へ傾斜している屋根。
*6:惣川村役場は、はじめ旧庄屋土居家の邸内にあったというが、明治26年(1893年)近くに新築移転(**さんの話に
  出てくる役場)、昭和23年(1948年)三島に移り、そのころから村の中心が天神から三島に移行していった。また、土居
  家は一時惣川の郵便局であったこともあり(**さんの祖父が初代局長)、母屋の格子にその当時の窓口の跡が残ってい
  る。
*7:伊方町の杜氏については、平成4年度地域文化調査報告書『宇和海と生活文化』(愛媛県)(第4章第2節3) に詳し
  く記されている。

図表3-2-5 野村町地域別人口の推移

図表3-2-5 野村町地域別人口の推移

( )は昭和30年を100とした指数『野村町勢要覧(⑨)』P43を基に作成。

写真3-2-13① 土居家の屋敷(母屋)

写真3-2-13① 土居家の屋敷(母屋)

平成8年7月撮影

写真3-2-13② 土居家の屋敷(土蔵)

写真3-2-13② 土居家の屋敷(土蔵)

平成8年7月撮影

写真3-2-13③ 土居家の屋敷(離れ)

写真3-2-13③ 土居家の屋敷(離れ)

平成8年7月撮影