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愛媛の景観(平成8年度)

(2)海に映える石積み

 宇和島市域から南西方向約12kmのところで宇和海に突き出しているのが蔣淵(こもぶち)半島である。水が浦は、蔣淵半島のちょうど中ほどから北東方向に突出した小半島の南岸に立地する集落であり、旧宇和海(うわうみ)村(*15)を構成していた遊子(ゆす)地区に属する。そして水が浦には、宇和海沿岸の段畑が急速にその姿を消していく今日でも、その景観がよく残されている(口絵参照)(⑦⑧)。
 ここでは、この段畑とともに生きる水が浦の人々のくらしぶりを追ってみた。

 ア 石積みの波

 **さん(宇和島市遊子 大正10年生まれ 75歳)
 **さん(宇和島市遊子 大正13年生まれ 72歳)
 石積み作業に詳しい**さんと**さんに話をうかがった。
 「どうしてここに段畑が作られるようになったかというと、最初は、本業である漁業の合間に、家の周りの畑で自給用の野菜や麦などを作っていました。次第に人口が増えてきたわけですが、そうなればそれだけ多くの食料が必要になってきます。でも、このあたりの地形では、耕地として使える平坦な土地はごくわずかです。従って、山腹斜面を下から上へと耕していったのだという話です。岩があって耕すことができない斜面以外はすべて畑になりました。斜面に平坦部を作りだし、その面積をできるだけ広くしようと思えばギシを垂直に近づければいいわけです。そしてそうするためには、ギシを土ではなくて石を積み上げて作る方がいいんです。こうすると、耕地面積は約20%増加します。だから、水が浦で農業をする限りは、上手下手は別として、基本的には自分一人でこつこつと石積みをし、またその補修もせざるをえないのです。その作業は、朝から一日中、月夜であれば夜の10時ころまではしていました。
 石積みに使う石は、従来は『真砂石(まさごいし)』と呼ばれる角のとれた丸い石を海から担いで山へ持って上がって使っていました。昭和10年ころに黒色火薬が使われるようになってからは、山の岩を砕いてそれを運んで使いました。石積みの技術は、だれに教えてもらうわけでもありません。台風や長雨などの天災や長い年月の間の雨風で、石がとけたり(風化したり)して石積みが壊れますね。その壊れたのを自分が補修することで、石積みの技術を習得していくんです。上手に積み上げているものを見たり、自分でいろいろと積み方を研究したりするんですよ。山腹斜面の地形の特徴や土粒の構成状態に応じて、『あそこだったら、大雑把に石を積み上げたので大丈夫だろう。』とか、『ここは念入りに積み上げないといけない。』というように積み方が変わってきますからね。石積みがおもしろくてするのが大好きな人は、できそうな地形を見つけるとすぐに石を積んでいました。こういう人は、積むのが上手です。反対に下手な人がやると、『やれやれ、やっと積み終えた。さて、家に帰ろう。』と2、3歩歩き出すと、後ろで『ゴソリ』という音がする。なんだろうと思って振り返ると、一日かかって積み上げた石が見事に崩れている、というようなことが何度もありました。
 不思議なもので、この石積みのやり方にも家ごとの特徴、〝家伝〟があるんですね。とりたてて親から子に技術を伝授するわけではないのですが、子供が見よう見まねでやり方を覚えていきました。だから、親の技術が上手であればその子の技術も上手になり、その家の石積みはりっぱなままで代々受け継がれていくんです。逆に、補修をするのにあまり熱心でない家は、石積みが崩れてもそのままほったらかしにしたり、他の人に頼んで直してもらいますから、その家の技術は下手なままで代々伝わっていくことになるんです。こうした技術の伝承によって、現在まで石積みが残り、美しい景観が保たれているんです。
 石積みによる段畑が遊子地区に急速に広がっていった要因の一つに、柿之浦(かきのうら)地区の石積みの仕事をするグループの存在が挙げられます。昭和10年(1935年)ころの話ですが、1グループは10人くらいで構成され、石割(いしわり)の棟梁、つき手(石を積み上げる人)の棟梁、根ぎり(石積みの基礎となる根石を置く人)、石割、つき手、石の運搬、と役割分担がされていました。この人たちは、本業は農業なんですが、副業として石積みを請け負い、作付けや取り入れの時期を外した農閑期に水が浦に来て石積みの仕事をしていました。仕事の日当は、石割・つき手が1人前(標準)で約1円、棟梁になると3人前くらいはとっていたと思います。時期はかなりずれますが、わたしが昭和31年(1956年)に石積みを頼んだ時、約2週間の作業期間で支払った金額が10万円だったのを覚えています。」

 イ 水道がついた日

 **さん(宇和島市遊子 大正12年生まれ 73歳)
 『遊子の歴史(⑨)』によれば、元来、この水が浦集落は水に乏しく、古くから通称を「水荷原(みずがはら)」といっていた。「原」は「河原」のことで川で水が流れていない部分を示し、「荷」は遠方より水を荷(にな)って運んでいることを意味する。水が浦から他所へ嫁いだ者は、里帰りには必ず水二桶(おけ)を担ってくるのが常であったと伝えられている。
 このような水事情の悪さにかかわる話を**さんにうかがった。**さんは昭和27年(1952年)に父親を亡くしてから昭和41年(1966年)まで、網漁と段畑での農業を両立してきた方である。
 「水が浦は、人間の飲み水にさえ不自由するくらいですから、段畑の作物に水をかけたりはしません。また作物も、水が少なくても育つサツマイモと麦(*16)でした。ですから、このあたりで『灌水(かんすい)(水をそそぐこと)』という言葉が聞かれるようになったのは、ミカン栽培が広がりはじめた昭和30年代の終わりころからです。農業に水を使うとしたら、野菜の苗床に使うか、あるいは人糞尿を薄めて下肥(しもごえ)を作るために使うかくらいです。今から14、5年前までは、下肥作りで人糞尿を処理していました。
 ここは、急斜面を切り開いて畑にしていますから、雑木林がなく、従って土地に保水能力がないんです。降った雨水はすぐに地面に染み込み、途中で地表にわき水となることもなくそのまま海に流れていきます。共同井戸によって地下水をくみ上げていましたが、昭和初期に戸数約50戸、人口約400人のこの集落で、井戸はわずか10か所ほどしかありませんでした。これくらい貴重な井戸水ですから、米をといだりイモを洗ったりするのは全部海水でしていました。海水でといだ米を炊いた御飯(炊く時の水は、井戸水を使う)は、案外おいしかったですね。洗濯も、汚れを落とす時には海水を使い、すすぎだけに井戸水を使っていましたよ。その井戸水も、塩辛くてにおいが強かったです。でも、そういう水しかないんですから、飲むより仕方ありません。水質が悪いため、ふろに入って石けんで体を洗おうとしても泡がたちませんでしたね。
 このような水事情の悪さを解消するため、昭和8年(1933年)に上水道の敷設が、津(つ)の浦(うら)寄りの田(た)の浦(うら)の谷間を水源地(写真4-1-21参照)に選んで起工されました。延長約2kmのヒューム管(鉄条をしんにしたコンクリート管。写真4-1-22参照)を水源地から敷設して、薬師堂のすぐ裏側の貯水タンクにためる工事です。住民が工事費用の寄付をし労働力も提供するなかで、昭和10年10月15日に給水を開始しました。北宇和郡内で最初の上水道の完成です。その時には、集落のすべての人がちょうちん行列をしてお祝いしました。女の人たちが、『きれいな水で髪を洗うことができるようになった。』と喜んでいた姿が思い出されます。薬師堂に向かって左側、貯水タンクから南へ約20m離れたところに、『水荷浦水道記念碑』(写真4-1-23参照)があります。これに使われている石は、海岸から取ってきたものです。こう配が約45°の坂道を、標高20mほどの高さまで人力だけで引っ張り上げるわけですから、それは並大抵の作業ではありませんでした。集落の住民総掛かりでやりました。でも、こういう苦労をいとわずに記念碑を作ったくらい、上水道の完成は住民にとってうれしいことだったんです。当時の新聞に『これまで、水荷浦には嫁に来る者がいなかったが、水道ができたのでよろこんで嫁が来るだろう』という記事が載ったのを覚えています。
 確かに、上水道ができたお陰で以前に比べればきれいな水を得やすくはなりました。しかし、これで水が浦の水不足がすべて解消したわけではありません。例えば、お盆の時期に、弟や妹が墓参りに帰省したいと連絡してきても、『いかんぞ。今は水がないから、帰ってこられても困る。』と言って断ったこともありました。昭和60年(1985年)、山財ダム(北宇和郡津島町)の水を宇和海地区に送水する大事業がほぼ完成したことなどにより、今では、そういうことはありませんけどね。」

 ウ 段畑の将来

 水が浦の段畑景観は今後どうなっていくのであろうか。引き続き、**さんにうかがった。
 「わたしは今では、1反程度の畑で早掘りバレイショを作っているくらいです。もう70歳を越えた年齢ですから、金を稼ぐための畑仕事ではなくて、一種の盆栽いじりのような感覚です。農業というよりも趣味ですね。どうしたらうまく作物が実るだろうかといろいろ考えて試してみて、その結果、自分が思った通りに作物が実った時の喜びがなんともいえんのです。それと、畑に出て作業することが、年寄りには適当な運動になるんです。
 現在、わたしの年代の6、7人がこの段畑で農業を続けています。そしてわたしたちを最後として耕作者がいなくなり、水が浦の段畑も荒れて無くなってしまうなあと思っていました。しかし、最近になって、海を若い者にゆずって漁師を隠居した60歳くらいの人たちが段畑へ上がってきて作業をしている姿を見かけるようになりました。ですから、ここの段畑の風景ももう少しの間は残っていくのではないでしょうか。」


*15:昭和33年(1958)年成立。昭和49年(1974年)宇和島市に合併される。
*16:5、6月に麦を収穫するとともにサツマイモを植え付け、11月ころにサツマイモを収穫するとともに麦の種をまくとい
  う作業を繰り返す。

写真4-1-20 段畑の石積み

写真4-1-20 段畑の石積み

平成8年9月撮影

写真4-1-21 上水道水源地

写真4-1-21 上水道水源地

コンクリートの堤防の左側に水がたまっている。平成8年9月撮影

写真4-1-22 上水道に使われたヒューム管

写真4-1-22 上水道に使われたヒューム管

中央の裂け目から鉄条がのぞく。平成8年9月撮影

写真4-1-23 「水荷浦水道記念」碑

写真4-1-23 「水荷浦水道記念」碑

平成8年9月撮影