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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 落出のくらし

 落出の町並み図を見ながら、Aさん、Bさん、Cさん、Eさんは、町並みでのくらしや生業について話してくれた。

(1)落出のくらし

 ア 川とともに暮らす

 「面河川での漁は、6月になったらナゲソ(つけ針)やウナギカゴ(どちらもウナギを獲る漁法のこと)、9月に入ったらカニカゴ(カゴを川に仕掛けてモクズガニを獲る漁法のこと)をしました。カニカゴは面白かったです。大人はセバリ(瀬張り)を作ったりしてアユを獲っていました。イダビン(ビンを川に仕掛けて魚獲る漁法のこと)というのもありました。イダは魚の名前で、ウグイのことです。
 アユは春に川を上って、10月になると、産卵のために川を下ります。それが、川を下るのは1匹や2匹ではなく、群れになって下って来ます。そのアユを狙(ねら)って、ヤナ場やセバリを作って漁をしていました。秋がくると、シュロの葉に通したアユを家の軒下にずらっと干していました。
 ヤナ場とは、アユを獲る漁場です。昔からヤナを作る場所は決まっていました。川に堰(せき)を作り、中央に竹や木で棚をつくります。堰の高さは場所によって違うけれど、大体1mから2mくらい、棚の大きさは10mくらいでした。秋口に上流から魚が下ってくると、堰があると川を下れないので、全部、棚のところヘウナギもアユも入ってきて、捕まえることができます。
 セバリは、川を横断するように竹を立てていって、竹の頭にしめ縄を渡していました。しめ縄にするのは、『アユはお大師さんの応報を貰(もら)わんとよう下がらん』と言われていたからです。セバリの頭にしめ縄をつけると、藁(わら)が垂れているので川面に藁が当たって水しぶきがあがります。アユは臆病な魚なので、しぶきがあがるとたまげて(驚いて)上流へ逃げていくので、そこへ投げ網を打ってアユを獲ります。セバリでの漁は美川や久万、面河にはなくて、柳谷だけでしたが、昭和42、43年(1967、1968年)ごろにセバリが廃止になりました。
 川にも呼び名がついているところがあります(図表1-2-3参照)。上の方から、『ヤナ場』、『丸淵』、『夫婦(めおと)岩』、尖っている岩を男、真っ白な岩を女に見立てて、女岩に男岩が重なっているので夫婦岩と言っています。鶴亀とも言ったりします。また、『長淵』は長いのでその名がついたようで、セバリ場がありました。『タル』、『犬帰る』、犬が渡れなかったからじゃないかと言われています。『犬帰る』は、危ないところだから、泳ぎ場ではありませんし、この辺りには大きな石がゴロゴロしていました。『ヨシノ瀬』にもヤナ場がありました。この辺りは石灰岩の赤い石があって、通称赤石といわれていました。
 柳谷養鱒(ようそん)所は、柳谷の最初の一大事業でした(図表1-2-3の㋐参照)。そもそもは、地元の人が始めた事業で、七つの池がありました。初めは、マスを育てるために県から指導員が来ていました。柳谷にマスが入ったのはこの養鱒所ができてからです。元々川にアマゴはいましたが、マスはいませんでした。
 事業をしている人が『(池を)掃除をするぞ。』というと、子どもたちみんなが池で泳いで、まるでプールみたいな感じでした。掃除を手伝うと、帰りに2、3匹貰って帰っていました。後に面河川漁業協同組合養鱒所になって、稚魚池を含めたら池が10個くらいありました。いたずら好きの子どもがよく池のダボ(栓)を抜いたりしていました。すると、マスが全部川へ逃げてしまいます。それをみんなで釣っていました。養鱒所からマスが川に逃げて住み着き、淵のあたりは入れ食い状態でマスがよく釣れました。」

 イ 水道

 「昭和51年(1976年)に簡易水道ができるまでは、それぞれ自家水道で、谷から水を引っ張ってきていました。山際にある細い道は、水路の泥上げのためにあった道です。谷から引いてきた水がこの水路を流れ、途中からそれぞれの家に水を引きます。この水路は飲み水のための水路でした。年に一度、みんなが出て泥上げをしていました。水路にはウナギや魚が入ることもありました。『水が出ないなあ。』と思ったら、取水口にウナギが詰まっているのです。現在はもう水は流れていません。落出は、水の心配はなく、農地もほとんどないので水争いもありませんでした。」

 ウ 電化製品

 「落出は水力発電所があったので、電気は早かったけれど、電波が入らないのが不便でした。ラジオを聴くにも対岸まで線を引っ張っていました。テレビは単独では電波が入らなかったから、共聴システムで谷の上の方にアンテナを立てて、そこから下ろしてくる線を引いて、テレビを見ることができるようになりました。私(Cさん)が中学生のころの昭和34、35年(1959、1960年)ころ、散髪屋ヘテレビを見に行っていたので、共聴が入ったのはそのころではないかと思います。昭和37、38年(1962、1963年)くらいに電器屋さんが2軒競って始めると、各家にテレビがどんどん入ってきて、私の家には、昭和39年(1964年)の東京オリンピックのころにテレビが入りました。電波のことがなかったら、テレビももっと早く入ったのではないかと思います。落出は、林業や商売で潤(うるお)っていたので、冷蔵庫や洗濯機はテレビより先に入ってきていました。」

 エ 子どもの仕事と遊び

 「私たちが子どものころは、親から『学校から帰ったら、湯を沸(わ)かして、汁を炊いておけ。それからヤギの草、ウサギの草、牛の草を刈っておけ。』と言われ、それが子どもの仕事でした。小学校6年生くらいになると、帰って最初にするのは草刈り、それが終わったら、藁草履(わらぞうり)を作らないといけませんでした。学校に行くのに草履を履いて行くので、翌日履く分と1足余分に持っていく分を合わせて2足くらい、弟や妹の分がいればその分も作ってやらないといけません。それが子どもの日課でした。
 草履で歩くと、背中にまでピッピッと泥がはねあがります。そのことを『じるちがあがっとるぞ。』といいます。『しるち』とか『じるち』、場所によっては『しるうち』『じるうち』とも言います。落出では『しるち』と言っていました。草履の後ろの方はワサワサになっているところがあるので、余計散るのでしょう。雨の日に草履を履いたら大事(おおごと)で、走ったりすれば尚更(なおさら)です。
 夏が来たら、川は子どもの天国でした。6月くらいになると、子どもたちは川の近くをうろうろしはじめますが、学校から許可がないと川で泳いではいけませんでした。梅雨が明けないとだめで、校長先生から朝礼で『明日から泳いでいいぞ。』と言ってもらうのが待ち遠しかったものです。場所によっては、ネムの花が咲いたら泳いでもよいというところもありました。夏の遊びといったら川が一番でした。
 落出の人は川を泳いでいるので、泳ぎが上手です。『大河流れ渡り』といって、流れに逆らわず流れに乗ればいいのです。流れに乗ってツーッと下の浅いところへ泳ぎます。だから川を渡る時は、目的地の上手(かみて)の方から川の流れを利用して渡ります。河童(かっぱ)の川流れというのもここからきているのかもしれません。
 冬の子どもの遊びに、スボとコブテ(クブテともいう)がありました。スボとは、スズメを捕まえる罠(わな)のことで、麦わらや稲わらを束(たば)にしてコメの穂(稲穂)を差し、そのコメの穂の周囲に馬の尻尾の毛で作ったわさ(輪)を垂(た)らしたものです。大きさは、直径7、8cm、長さは30cmほどです。私は小さいころ、蹄鉄(ていてつ)を作っているところへ馬の尻尾(しっぽ)を貰いに行って、スボをよく作っていました。作ったスボは、木などにつるしておきます。冬場、スズメは餌(えさ)がないので、スズメが稲穂を取りに来るのです。すると馬の尻尾のわさ(輪)に首が引っかかり捕まえることができます。見ている間にスズメがおもしろいようにかかりました。特に雪が降った時によくとれました。捕れたスズメは、持って帰って七輪で焼いて食べていました。
 コブテも鳥をとる罠で、ヒヨやモズなどを捕まえます。山に木の実などの食べ物がなくなる秋の終わりから冬にかけての遊びです。スボの方がすぐに鳥がとれるので、よくやりました。コブテの方は細工がいるし、とる量も少なかったのであまりやりませんでした。」

(2)牛市

 「牛市場は昭和27、28年(1952、1953年)ころまでありました。公会堂や精米所の下の広場あたりです(図表1-2-3の㋒参照)。森岡雑貨店の裏に5尺(約1.51m)ほどの幅の道があり、牛を連れて歩いていました。牛の進入路です。牛市は、川上(久万町あたり)では野尻が大きかったけれど、川下(柳谷村あたり)では落出が一番大きかったのです。松山の人も牛を買いに来ていました。牛は近郷近往から来ていました。土佐(高知県)からは来ていませんが、美川村や旧中津村からも来ていました。この辺りでは各家で牛を飼っていましたから、牛市に成牛を特ってきて売って、子牛を買って帰っていました。昔は、牛を飼うのが好きな年寄りがいました。牛を川へ連れて行って洗ってやったりもしていました。落出には獣医さんもいました。
 牛市が立つと、いわゆる香具師(やし)(縁日や祭りなどの人手の多い所で見世物などを興行や商売をする者)が来るのです。香具師が来てサイコロを使った博打(ばくち)をやっていました。最初、おじさんは小銭をかけて儲(もう)けるのですが、小銭に飽きてくると、大きくはって(たくさんお金を賭けて)、結局全部取られてしまうのです。おじさんは、せっかく牛を売って手にした銭を全部香具師に取られて家に帰らないといけなくなってしまうのです。牛を一年間飼っただけということです。」

(3) 人々の楽しみ

 ア 公会堂が娯楽の殿堂

 「戦後すぐにできた公会堂が娯楽の殿堂でした(図表1-2-3の㋑参照)。月に1回の映画上映はあるし、芝居も回って来ていました。旧中津村や黒藤川(くろふじがわ)(旧美川村)、弘形(ひろかた)(旧美川村)の一部、仕七川(しながわ)(旧美川村)からも見に来ていました。公会堂のあった場所は、今の健康保健センターのところです。建物は、昭和47年(1972年)に火事で焼けてしまって今はもうありません。
 芝居は、赤月陽子一座がよく来ていたのを覚えています。赤月陽子は全国を巡回していた一座の座長で、落出をやったら、西谷へ行き、そして中津へ行くとかして、一度来ると村内をぐるぐる回って、また次のところへ行くというように移動していました。子役は、昼まで、学校へ来ていましたが、夜遅くまで芝居をしているので、学校に来ても寝るばっかりでした。
 祭りで芝居の興行をするときは、地域の顔役がお金を出し合って、みんなに娯楽を提供するといったこともありました。私(Cさん)の伯父も祭りで興行主になっていたことがありました。『ただいまくだしおかれます、花(はな)の御礼、右は金一封、だれだれ様よりくだしおかれました。』と花の御礼(祝儀)の口上を覚えています。終戦後は、青年団が芝居をしたりもしていました。
 映画は戦前からありました。戦後、美空ひばりの主演した映画や、洋画では『ターザン』をよく覚えています。私たちが小学生のころは、学校から引率されていろいろな映画を見にいくことがありました。『ターザン』を見ていた時は、キスシーンのところは先生がレンズの前に手を出してパッと隠していました。娯楽映画は必ず学校の先生が引率していて、キスシーンがあると教育上よくないということで隠していたのでしょう。映写機の光源にはアーク灯(アーク放電を利用した強い光源の電灯)を使っていましたから、よく火事になっていました。今まで画面に映っていたものが、バッと画面が白くなってカラカラとフィルムが切れ、フィルムを繋いでまた映していました。子どもたちは、焼けて切れたフィルムを貰って、平たいフィルムを折りたたんで、笛(草笛のようなもの)にしていました。
 私(Cさん)が覚えている公会堂で見た最大の興行映画は、昭和31、32年(1956、1957年)ころの『明治天皇と日露戦争』です。映画は、昭和30年代まではテレビが隆盛ではなかったので、流行(はや)っていたと思います。東京オリンピックのころからテレビが各家に入りはじめたので、みんなが見に来なくなりました。」

 イ 秋祭り

 「11月初旬の秋祭りは賑(にぎ)やかでした。昭和27、28年(1952、1953年)ころは、それぞれの組に分かれて、組ごとに仮装行列をしました。広瀬はあまり人がいなかったので、上組、中組、本町、柳井町、立町の5つの組が仮装行列をしていました。昭和30年前後までは、牛鬼も出ていました。牛鬼の頭(かしら)は、昭和47年(1972年)の公会堂の火事で焼けてしまいました。今は牛鬼を担ぐ人がいないので、牛鬼は出ません。仮装行列で私が記憶にあるのは、狐(きつね)の嫁入りです。鬘(かつら)をかぶったりとかはしませんでしたが、化粧したり、狐の嫁入りなので駕籠(かご)も作ってやっていました。仮装行列はそれぞれの組が考えて、盛大にやっていました。
 秋祭りには、女の子はきれいな着物を着ていました。男の子は、幟(のぼり)や子ども用の神輿(みこし)を担いでいました。祭りの10日くらい前から公会堂に神輿が置かれ、それを見上げながら子どもたちが集まっていました。今みたいに大人が仕切るのではなく、中学3年生、小学6年生が仕切っていました。早虎(はやとら)神社で幟を持って幟担ぎをして家々を回ってお金を貰っていました。私たちが小さいころは、子どもが多かったので、幟担ぎもだれでもはできず、順番でした。小学校の3年生くらいまでは幟に触らせてももらえず、『うらやましいのお。』と見ていたものです。私(Cさん)が小学生の時に幟担ぎをしたのは、たった3回ほどです。
 昔は、中学生の担ぐ神輿はけんか神輿で、子ども神輿で鉢合(はちあ)わせをしていました。前方はご神体を出さないといけないので、神輿の後方部分の周りに半分に割った竹で囲って、他の神輿に当たっても傷まないようにします。そして、神輿の後ろ同士で突き合いをやります。このけんか神輿は祭りの花形です。もちろん、神輿の突き合いの前にいる人は危ないです。子どものけんか神輿は、落出、川前(こうまい)、峰三組(みねさんくみ)、永野(ながの)の四つがありました。落出と川前はいつも組んでいました。落出がメインで、峰三組と永野が組んで遣(や)り合いをするのです。神輿の鉢合わせはお宮(早虎神社)の境内でやります。中学生のけんかだから、それはもう、おさまるものではありません。秋祭りは、子どもの文化の最初の集まりというか、最初の共同作業をするという感じでした。
 明日、お神輿が出るという日には、私(Eさん)ら神主は松田旅館に泊まっていました。そうすると、旅館の前で朝までタンカタンカと落出の子どもたちが太鼓を叩(たた)くのです。その晩は寝られたものじゃありませんでした。」

 ウ 大相撲の巡業

 「昭和25年(1950年)12月には大相撲の地方巡業が来て、柳井川小学校の校庭に土俵を作って巡業が行われました。横綱の照國(てるくに)、羽黒山(はぐろやま)、千代の山、吉葉山(よしばやま)、鏡里(かがみさと)といったその当時の錚々(そうそう)たるメンバーが揃(そろ)ってやって来ました。私(Cさん)の家には、照國が泊まりました。羽黒山は松田旅館の別館、千代の山は松田旅館の本館、吉葉山が岩市旅館に泊まったと思います。私の家には照國と一緒に写真を撮ろうと近所のみんながやって来ました。今から思えば、よく我が家の階段を照國が登ったものだと思います。風呂は昔の五右衛門(ごえもん)風呂だったから、腰くらいまでしか入ることができませんでした。横綱には、ふんどし担ぎ(付き人)が3人くらい付いていました。」

 エ 東京オリンピックの聖火リレー

 昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催にあたって行われた聖火リレーは、9月12日に愛媛県入りした。県内を巡り、14日午前8時50分に愛媛県庁を出発した聖火は、三坂峠(みさかとうげ)を越えて落出を駆け抜け、34区間、60.6kmのコースを走って、県境で高知県へ聖火の引渡しが行われた。聖火ランナーの伴走を務めたEさんが話す。
 「私は洞門(どうもん)あたり(旧面河第三発電所の堰堤横)から折戸(おりと)の登り口のところまでを走りました。伴走者の出で立ちは、靴は白いズックで、胸に五輪と東京の文字が入ったランニングでした。中学校の先生から『おまえたちは品行方正、学力優秀で選ばれたのだから、がんばれよ。』と言われました。練習では、何分何十何秒で何百メートルかを走らないといけないとか、今日は何秒遅いとか言われながら、毎日毎日練習しました。聖火リレー当日は、高校生一人がトーチを持ち、続いてもう一人が予備のトーチを持ちます。その後ろに高校生の伴走者が何人かいて、その後ろを私たち中学生何人かが旗を持って走りました。
 東京オリンピックの開会式当日は、昼までで学校が休みになって、みんな家に帰ってテレビを見ました。」