データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
2 菅生のくらし
昭和の菅生のくらしぶりについて、Gさん(大正11年生まれ)、Hさん(昭和8年生まれ)、Iさん(昭和12年生まれ)、Aさん(昭和13年生まれ)、Bさん(昭和14年生まれ)、Cさん(昭和26年生まれ)、Dさん(昭和34年生まれ)、Eさん(昭和34年生まれ)から話を聞いた。
(1)大宝寺の参道のようす
「下惣門(しもそうもん)(下総門)は、総門橋から中之橋までの間をいう地名です(図表1-3-3参照)。総門橋の東にはかつて菅生村役場がありました。中之橋から東へ道を上がったところを門(もん)ノ下(した)と言っています。門ノ下にはかつて菅生学校(小学校)がありました。学校のあったところは今、教員住宅になっています。地名はほかに、釜田(かまだ)や鍛冶屋(かじや)、山(やま)ノ下(した)、南森(みなみもり)、久保(くぼ)、駄場(だば)、尻高(しりだか)などもありました。長谷(ながたに)には棚田が広がっていましたが、今はスギ林になって、田は1枚もありません。また『チョゴボウ』『ナカヤボウ』『カゲジョウ』『ミナミジョウ』『ババジョウ』などの地名がありました(図表1-3-2参照)。
理覚坊(りかくぼう)には、下寺(したでら)といって、今、門のある広場(駐車場)に今村完道先生がいらっしゃるお寺がありました。今村先生は台湾から帰って来られて、上高(かみこう)(愛媛県立上浮穴(かみうけな)高等学校)初代の校長先生になりました。今村先生が大宝寺(だいほうじ)の住職を務められるようになって、お寺の庫裏(くり)(客殿(きゃくでん))を再建しました。私(Hさん)も、勤労奉仕で仁王門の再建に協力しました。大師堂や掘り出し観音堂の建立にも寄進しました。
私(Hさん)は、今村先生の子どもと同級生だったので、よく遊びに行きました。小学校の上級生のころ、大宝寺でおこもりをして、今村先生から話を聞きました。おこもりというのは、宿泊するのではなく、午前中に勅使(ちょくし)橋のところに男女が14、15人集まって、大宝寺の参道や境内(けいだい)の清掃をして、終わると客殿へ集まって輪になって、食事やお茶をごちそうになりながら、今村先生から法話をうかがうことです。色々な話をされましたが、寺の由来の話の中に掘り出し観音の話もありました。その話は、おばあさんに何かが乗り移って山を掘ったところ、観音様が出てきたというものです(⑤)。今、その観音様を大宝寺でおまつりしています。
盂蘭盆(うらぼん)の時には、本堂の近くのシダレサクラのぐるり(回り)で盆踊りをして、みんなが出て踊っていました。お寺さんと檀家(だんか)とは本当に親しみがありました。納経所の前にギンナンの木がありますが、お寺の子どもが同級生だったので、秋になるとギンナンの実をもらいました。食べるとうまかったです。
峠御堂(とうのみどう)トンネルに通じる道がある谷に、東国(とうごく)や今戸(いまど)という地名があります。今戸は今の運動公園(久万公園グラウンド)の辺(あた)りで、そこに6軒の紙漉(かみす)きの家があったと聞いています。今戸の上に千本口(せんぼんぐち)という地名があります。千本口は、千本峠(せんぼんとうげ)(昔はセンボノトーと言っていた)へ通じる道の入口という意味ではないかと思います。」
また、Gさんは、総門橋から大宝寺までの参道の様子を思い出し、参道沿いの略地図を作ってくれた。
「総門橋からお寺まで、家がずっと続いていて、店がたくさんあって、お遍路さんを相手にいろいろな商売をしていました。木賃宿とか線香屋とかがあって、縁日や春秋の遍路シーズンになるとにぎやかでした。お寺で行事があるたびに人が出ていました。昭和10年代には遍路さんを泊める宿屋が数軒ありました。今の大宝寺駐車場の西側には、『とみや』という遍路宿があって、宿屋の人が『お泊りなさい。』と声をかけていました。
戦前には、旧暦3月21日の菅生山(大宝寺)の縁日のことを『岩屋市(いわやいち)』と呼び、大勢の人がこの道を通っていましたので、お菓子などを売る出店が出ていました。毎年この日には『デコまわし』の人が来て、みんなに人形を見せてくれよりました。
私が知っているデコまわしは、小田から来ていて、『まっつぁん』と呼ばれ、家に来て、歌いながら人形をまわしていました。家々を一軒ずつ回っていましたが、縁起がよいので喜ばれていました。縁日だけでなく、ほかの日にも来ていたように思います。
4月8日には大宝寺で『甘茶(あまちゃ)まつり』(釈迦の誕生を祝う行事)がありました。今もやっていますが、お寺にお花を持って行き、甘茶をいただきます。昔は甘いものが少なかったので、ビンを持ってお寺に行き、いただいて帰りました。ほかのお寺でもやっているので『どこそこのお寺のお茶がおいしい、甘い。』と飲み比べたりもしました。『甘茶を家の周りにまいておくと蛇が入らない。』とも言われていましたから、飲んで余った甘茶は家の周りにまいたりしていました。」
(2)子どもの遊び
「プールがなかったので、夏は皆、川で泳いでいました。『あそこでは泳がれん(泳いではいけない)。』と言われていたのに、『スベリザカ』とか『エビスグチ』、『セキヤ』で泳いでいました(図表1-3-3参照)。岩の上で体を乾かしていました。青年団の人がボートを出してくれたりしたこともありました。また、笛ケ滝(ふえがたき)公園の池でも泳いでいました。
戦前、子どもは学校から帰ったら、風呂の焚(た)きつけにするために、山ヘスギ葉を取りに行っていました。トウキビを焼いたり、イモ掘りをしたり、ハチの巣を採ったりしていました。ハチの巣を採るのは、みんな得手(えて)とった(得意だった)です。ハチの子は釣りえさにいいのです。昔の子どもは、一人で遊ぶのではなくて、少なくても5、6人で遊び、お節句(せっく)になると、よくチャンバラをしていました。
戦前は、久万から三坂の旧道を下りて歩いて松山へ行っていました。椿さんのお祭り(松山市石井にある伊予豆比古命(いよずひこのみこと)神社の旧暦1月8日ころの大祭)にも、『よい、行くか。』『おう、行こや。』と誘い合って、歩いて行ったこともあります。巻ずしを巻いてもらって持ってきていた子もいましたが、私は握(にぎ)り飯(めし)を持って行きました。親から1円もらって、椿さんの参道の店で買ったこともありましたが、1円を使わないで帰って、久万の町で買い食いしたこともありました。」
(3)高野の温風穴
菅生から畑野川に向かう県道を、峠御堂トンネルの手前で北側の山中に向かう道を進むと、標高720m付近に高野(たかの)という小集落がある。ここも菅生の一部で、古い遍路道沿いにある。
「千本口から山道を上がって行くと、高野地区があります。山の上の集落ですが、ここに同級生が住んでいました。学校に行く道は、行きは下りだけ、帰りは上りだけです。その山道は今も残っています。
その道沿いには、温風が石の間から吹き出る場所が数か所あります。寒い日でないと、温風の湯気は見えません。雪が積もったら、そこだけ積もらないのでわかります。温度計をおくと10数度あるので、地中から温風が出ていることがわかります。
高野には昭和10年(1935年)ごろ、競馬場ができました。広いナル地(平地)があり、そこで競馬をしていました。競馬場といっても、競技用の馬ではなく、農耕や荷物運搬の馬が走っていました。当時は、三坂峠を越えて馬で荷物を運んでいたので、馬がたくさんいたのです。
競馬場は、峠を越えた千本(せんぼ)(下畑野川地区)や久万の笛ケ滝公園にもありました。千本の競馬場は、戦後もありました。笛ケ滝の近くには『ミサカイチフジ』という馬の厩舎(きゅうしゃ)があったように思います。戦後、子どものころに見た記憶があります。
戦争中、高野の上の菊ケ森(きくがもり)という山の上に『監視廠(しょう)』というのがありました。双眼鏡でアメリカの飛行機が飛んでこないか、じっと見ていたのです。学校の遠足で行ったように思います。」
(4)菅生の鉱山跡をたずねて
GさんとHさんは、菅生に鉱山があったことを話してくれた。
「昔、鉱山の跡がありました。『ミナミヤマ』の、昔の千本道(せんぼみち)の近くにあります。今、携帯電話の中継所であるアンテナの近くに穴があって、崩れかけています。黄銅鉱(おうどうこう)を掘って索道(さくどう)で降ろしていました。今の老人ホームのあたりに索道が下りてきていて、そこでゴンドラの底が開いて銅鉱をトラックに落としていました。昭和20年前後のことですが、第1坑は品質がよくないというので第2坑を掘りましたが、結局採掘をやめました。戦後も、『ここで遊んだ。』という話を聞いたことがあります。中に入ると危ないから、坑口をつぶしたそうです。今、その坑口を探している人がいます。」
Bさん、Jさん、Aさん、Kさん、Cさん、Dさんのほか、山歩きが趣味のLさん、土地所有者である久万造林のMさん、Nさんらとともに、平成24年8月18日と9月3日に鉱山を探索した。Jさんがまとめた調査記録を参照しながら、鉱山跡について記しておこう。
山下の坑口は、道路が湾曲した谷の底に2か所ある。谷を下る林道の下の坑口は、高さ約1m、横幅約1.5mで、正面から見て右下へ穴が続いていた。坑口付近左の壁に鑿(のみ)で削った跡があった。谷を下る林道沿いの坑口は、上からの崩壊土でほとんど埋まっていたが、開口部は高さ70cm、横幅1.3mで、下に坑道が向かっている。ここも左壁に鑿で削った跡があり、2m先までは坑内が見えた。
続いて、山上の坑口へ向かったが、たどり着くのが難しくなり、急きょ久万高原町役場のOさんにお願いして現場に案内していただいた。林内の小道からおよそ3m下にあった山上の坑口は、直径60cm程度の斜坑で、5m下で左へ曲かっている(写真1-3-3参照)。ここも、壁に鑿で削った跡がある。テグス(釣り糸)を結びつけたボールを中に投入したところ、少なくとも15、16mの深さがあることがわかった。また、坑内を蝙蝠(こうもり)が飛び交っているのが確認できた。鉱山跡調査に参加した地元の方々は、今後さらに独自に調査を進めようと意気込んでいる。
菅生にあった鉱山は、昭和33年(1958年)に作成された旧四国通商産業局の資料『鉱区一覧』によれば、「大宝鉱山」と呼ばれ、明治41年(1908年)に鉱区設定の登録がなされており、金、銀、銅、硫化鉄などを産したとされている(⑥)。また、昭和32年(1957年)に刊行された『四国鉱山誌』には、「久萬(くま)(大宝)鉱山」とあって、第1から第4まで坑口があり、選鉱場から山麓の鉱石積出場までを738mの索道で運び、そこからトラックで輸送したと記されている(⑦)。
<注及び参考引用文献>
①池内長良「落出のすがた」(愛媛県教育委員会『愛媛教育時報 第63号』 1954)
②伊予史談会編『伊予史談会双書第14集 一遍聖絵・遊行日鑑』 1986、伊予史談会編『伊予史談会双書第15集 予陽郡郷俚諺集・伊予古蹟志』 1987
③西口武志『久万山物語』久万高原町教育委員会、2011、久万高原町教育委員会所蔵「明治四年 久万山村々田畑高畝数并戸数人員取閲帳 控」
④宇都宮音吉「菅生山大宝寺について」浮穴史談会発行「浮穴史談」第5号、1962による。中之坊、西之坊、東之坊、定泉坊、十輪坊、西林坊、石垣坊、理覚坊、東角坊、新坊、釜田坊の11坊が記載されている。なお、明治5年に大宝寺住職堅洲から戸長(大区の長)に提出された願書には、中之坊、東角坊、東之坊、西林坊、西之坊、定泉坊、釜田坊、石垣坊、十輪坊、新坊の10坊(理覚坊以外)を大宝寺に合寺したいと書かれている。
⑤大西利康「観音出現霊験記」(久万郷土会発行「ふるさと久万」第1号、1969)に詳しく紹介されている。
⑥四国通商産業局鉱山部編『四国通商産業局管内 鉱区一覧(昭和33年度)』(財)四国商工協会、1958
⑦四国通商産業局編『四国鉱山誌』(財)四国商工協会、1957
<その他の参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 1984
・愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』 1986
・愛媛県生涯学習センター『県境山間部の生活文化』 1994
・久万町『久万町誌増補改訂版』 1989
・久万町『久万町合併30周年記念 写真で綴る30年誌』 1988
・柳谷村『柳谷村誌』 1984
・柳谷村『わがふるさとの半世紀 写真で綴る柳谷村史』 2004
・柳井川小学校『やまなみ 柳井川小学校閉校記念誌』 2005
写真1-3-3 大宝鉱山の山上坑口跡 久万高原町菅生。平成24年9月撮影 |