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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 野尻の牛市

 久万高原町上野尻(かみのじり)では、享和(きょうわ)年間(1801~03年)に高野幸治(たかのこうじ)によって牛市が始められた。そして、牛市は、時代に応じてその様相を変えながら、昭和63年(1988年)まで続いた。
 当初は馬のみの市で、開祖者の名をとって「幸治市」と呼ばれた市場は、明治時代(1968~1912年)の末期には牛が大半を占めるようになり、やがては野尻の地名が有名になって「野尻市」の名称に変わった。定期市のほかに、春の「野上(のあ)げ市(いち)」と秋の「大市(おおいち)」には多くの和牛が出頭され、ひところは関西一を誇る盛況ぶりであった。
 昭和18年(1943年)から昭和23年(1948年)までの間、戦争の影響による食糧増産政策によって閉鎖された野尻市も、昭和34年(1959年)には「大市」に約1,200頭が出頭されるまでになったが、その後、出頭数が減少し、やがて西予(せいよ)市野村(のむら)で県内統一の牛市が開催されるようになったことにともない、上野尻の牛市場は閉鎖された。
 その野尻市について、Dさん(大正11年生まれ)、Eさん(昭和8年生まれ)、Fさん(昭和28年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。

(1)牛市と市場周辺のにぎわい

 上野尻にあった牛市場の隣に住み、市場の土地の一部が自家所有でもあったというDさんは、昭和の戦前から戦後の牛市のようすについて次のように話す。

 ア 戦前の牛市

 「私はこれまで、米作りと、人を連れて植林の手入れなどを行なう山仕事をしてきましたので、牛市には直接関わっていません。ただ、市場の近くで生活し、父親が上浮穴牛馬商組合に勤めていて、牛市に関係する仕事をしていましたので、牛の売り買いや市場のようすについてはよく憶えています。
 戦前は、牛の売買をすることのできる株を持つ人たちが、市場で個人的に取引をしていました。市場には、牛の売買を世話する『博労(ばくろう)』(牛馬の仲買商人)さんもいて、そういう人たちが相対(あいたい)(当事者だけがさしむかいで事を行なうこと)で、袂(たもと)の中にそれぞれの手を入れながら牛の値を決め合う光景が、あちこちで見られました。牛を何十頭も買った人は、その牛を何頭かに分けて農家の人に預(あず)けてしばらく飼ってもらい、大きくなった牛を使ったり売ったりしていました。当時、私のうちにもその株があって、牛を自前で持っていましたが、すべての農家が牛を買えるわけではありませんでした。でも、今のように耕運機や化学肥料がない時分は、農作業の労働力や堆肥作りで、どうしても牛が必要でしたので、牛を買うことのできない農家は、田植え後や麦蒔(むぎま)きの後ごろに牛を預かって、飼(か)い賃(ちん)をもらったり田を作るのに牛を使わせてもらったりしながら牛を養い、両時期に預かった牛をそれぞれ麦蒔き前の秋口(あきぐち)や田植え前ぐらいに元の持ち主に返す、ということをしていました。
 しかし、その牛市も、戦争が始まってからは牛が少なくなって市の規模も小さくなりました。それは、牛は食べるものではないということが頭にあった上に、肉は敵の人たちが食うものだということで肉食が控(ひか)えられ、肉用の牛が減ったからです。それから、若い者が兵役(へいえき)や勤労動員に徴集(ちょうしゅう)されて、牛を飼ったり使ったりする者がいなくなったことも一因です。私が戦争に行った昭和17年(1942年)ころには、ここの市場に集まる牛も20頭とか30頭ぐらいしかいませんでした。」

 イ 「大市」を楽しみに待つ

 「牛市は、定期的な市のほかに、正月前の暮れの時期と、5月ころ、11月ころに大きな市が開かれました。中でも11月の市は『大市(おおいち)』といって、地元の農家の人たちが育てた牛をはじめとして、一番多くの牛が出され、11月の初めころから1週間ぐらい続く賑(にぎ)やかな牛市でした。
 戦前の大市には、2,500頭ぐらいの牛が市場に集まって来ていました。ですから、市場の中に牛が入りきらないので、周辺の空き地や田んぼはもちろんのこと、少し離れた所まで臨時の牛繋(つな)ぎ場になっていました。土地を貸していた家にとっては、ちょっとした小遣(こづか)い稼(かせ)ぎになっていました。私たち子どもも、自分の家の牛に食べさせる草を山に採(と)りに行ったときに青草が残っている所に目を付けておいて、大市のときなどにその草を刈(か)って来て、牛を引いている博労さんたちに、『(草を)こう(買う)てや。こうてや。』と言いながら、一把(いちわ)何銭(せん)で売っていました。そのお金で学用品などを買っていましたので、子どもにもご利益(りやく)がありました。農家にとっては牛を売買したり貸し借りしたりするのに楽でしたし、地元にとってはいろいろと収入になることもあって、市場が近くにあることは、ありがたいことでした。
 大市の時には、博労さんのほかに、里(さと)(松山平野)の方から牛買いの商人も来ますので、その人たちが泊まる宿屋が市場の近くに4、5軒ありました。そこに泊まれなかった人は久万町の宿に行って、そこでもだめだった場合は、知り合いの民家に世話になる人もいました。私の家のすぐ近くの道路(県道153号落合(おちあい)久万線)から、市場の門に通じる細い道(長さ約70mで、当時は幅約2m)に入った辺りの両側に、香具師(やし)(縁日や祭りなどの人の多い所で商売や興業などをする者)の人たちが、雨をしのぐ屋根のある部屋を借りて出店(でみせ)をしていました。その近くには、うどん屋を兼(か)ねた宿屋がありました。それから市場の門の近くにあった市場事務所の西隣りにも宿屋がありました。また、この辺りで『家庭ちょんがれ(〔ちょぼくれ〕という俗謡もしくは浪花節(なにわぶし)の異称)』とか『家庭劇場』とか呼んでいた、浪花節と小芝居(こしばい)を合わせたようなことをする一座が時々来て、市場事務所の東隣りの大きな家の広い部屋を借りて出し物をしていました。大人も子どもも、それを見るのを楽しみにしていました。昭和14、15年(1939、1940年)ころの大市のときだったと思うのですが、ある博労さんが夜、宿屋で酒を飲んでいる間に、その博労さんの牛が繋(つな)ぎ場から逃げてしまい、周りの畑のトウキビなどを食べ荒らした騒動を、印象深い出来事として憶えています。」

 ウ くらしとともに変わりゆく牛市のすがた

 「私は、中国の戦地に行き、終戦の2年後に日本に帰ってきて、久万でまた農業を始めました。牛市もそのころに再開して、昭和20年代から30年代半ばころにかけては、多くの牛が出された時期もありましたが、戦前のような賑やかさは段々となくなっていきました。それは、農家が耕運機や化学肥料を使い始めて牛を飼わなくなったことや、肉食が普及して役用牛(えきようぎゅう)よりも肉用牛が主流になり、農家で1、2頭飼うようなやり方ではなく、牛をまとめて飼う畜産農業が始まったことなどで、昔のような牛市のようすではなくなったからです。
 また、トラックが普及し始めると、牛を朝早くに市場まで運んで来て、門前の道は車1台がようやく通れるほどの幅しかなかったので広い方の道で順番待ちをして、それから市場に牛を降ろして売買を済(す)ませると、その日のうちに帰るようになりました。ですから、以前のように、市場周辺の空き地や田んぼに牛が繋(つな)がれている光景もなくなりましたし、泊まる人がいないので宿屋や出店なども徐々になくなっていきました。
 今では、周りのどの山にも杉などが植えられていますが、戦前は、植林のされていない禿山(はげやま)がたくさんありました。この辺りのほとんどの家がワラ屋根(茅葺(かやぶき)屋根)でしたので、それに使う茅が必要なために木を植えなかったのです。茅葺は家の中が暖かくていいのですが、屋根を葺(ふ)くのは相当な手間が必要でした。10数人で刈(か)り取った茅を雨の当たらないところに囲っておいて、今年刈った茅は10年後にだれだれの家に使う、その翌年に刈ったものは11年後にだれだれの家に使うというように、近隣の10数軒が協力しながら順番に屋根を葺いていました。しかし、その屋根葺きも、家族の人数が減り、しかも全員が一緒に住むということがなくなり、その上に各家の生活の仕方が違ってきて、いつの間にか消えていきました。茅自体も、杉などの木の値段がよくなって植林が増えてくると、見なくなりました。ですから、私の子どものころのように、小遣い稼ぎができるほどのたくさんの草も採れなくなって、大市のときに、『こうてや。こうてや。』という子どもの声も聞かれなくなりました(写真2-1-8参照)。」

(2) 牛を商う

 久万高原町露峰(つゆみね)に住み、元愛媛県畜産商業協同組合上浮穴支部長であったEさんは、昭和30年代の野尻の牛市のようすや家畜商の仕事について次のように話す。

 ア 昭和30年代の野尻市

 「私は、昭和32、33年(1957、1958年)ころ、24、25歳の時に、当時は博労(ばくろう)といっていた家畜商の仕事を始め、牛市場がなくなる昭和63年(1988年)まで続けました。最初のころはまだ、野尻の牛市にも活気があって、月に3回の、2日、12日、22日の『2』の付く日に牛市が開かれていました。特に、野上げ市や大市の時には、普段よりも多くの牛が出されるので市場の中に牛を繋(つな)ぐ場所がなく、市場近くの田に杭(くい)を打って竹を巻き付け、そこに牛をずらっと並べていました。野上げ市や大市も昔と違って1日で終わるようにはなりましたが、市場に詰められた牛の間を押し合って移動し、大声や牛の鳴き声で騒がしい中で売買の交渉をするのは、なかなか大変でした。
 市場にはこの辺りだけでなく松山(まつやま)や高知(こうち)など方々から家畜商や肉の卸売(おろしうり)商人たちが集まってきて、その人たちが相対で値を決めて売買をしていました。松山近辺の家畜商の中には、広島や尾道の方で牛を10頭から20頭ぐらい買って、この野尻の市場に持ってきて売っていた人もいました。たくさんの牛が集まるのでいい牛も多く、買い手も大勢来ていて、よその家畜商たちもここで牛を買って、それを農家に転売して儲(もう)けていました。本来、博労はそのような商売をするもので、私自身は、買った牛を太らせてから売っていましたので、本当の意味での博労ではありません。
 売買のときは、上着でお互いの手を隠して、指を握りながら値段の交渉をします。大体、昭和30年代の初めころであれば3,000円ぐらいずつ値を上げ下げしていたように思います。ただ、お互いに生活がかかっていますので、そうすぐには決まりません。そういう時に、何人かの伴蔵人(ばんぞうにん)(牛馬などの売買の世話をする者)が間に入ってきて、それぞれの伴蔵人が、売り手の手をにぎって『もっと負けえ。これ(この金額)になったら売ろうが(売ってもいいと思っているだろう)。』とか、買い手の方の手をにぎって『もっと買え(お金を出せ)。これ(この金額)になったら買おうが(買ってもいいと思っているだろう)。』とか言いながら仲介してくることがありました。そして、値段の折り合いがついて『パン、パン』と手打ち(商い成立の合図)をすると、売買人双方から伴蔵金を請求し、間に入った人数でお金を分け合います。このように、売買許可の鑑札(かんさつ)を持っていても自分の牛を売ったり自分の牛として買ったりはしなかった、伴蔵博労と呼ばれた人たちもいました。
 私が仕事を始めたころには、牛を追いながら目的地まで連れて行くことを職業とした、『追(お)い子(こ)』と呼ばれる人たちがいました。家畜商の中には、その追い子に、野尻の市場で買った牛2頭ぐらいを松山の立花(たちばな)にあった牛市場まで連れて行かせて、市場に繋いでおいてもらう者もいました。家畜商であれば自分の牛の見分けはつきますが、牛の頭にえぶ(目印のための荷札(にふだ))を付けていましたので分からなくなることはありません。そして、立花の市場でその牛を売って差額を儲けにするわけですが、追い子さんの賃代も含めた値で売らなくてはならないので、なかなか大変だったろうと思います。昭和30年代の終りにはトラックで牛を運ぶことが多くなって、追い子を見ることもなくなりました。」

 イ 牛を見る

 「私は、牛市で、『これはいいな。』と思う子牛を見つけたら、その値が少々高くても、自分のうちの駄屋(だや)に空(あ)きがなくても買いました。ですから、一度に牛を5、6頭買ったこともあり、多いときには、1頭が入る駄屋に2頭を入れて、全部で10数頭の牛を飼っていた時期がありました。
 牛は、大体1年半から2年くらい育てて、キンキン(牛の体が張って固くなるほど十分な肉が付いているようす)になるまで太らせてから売りに出していました。かなり肥(こ)えた牛を値が高くても買った場合は、半年余りで出荷できる場合もありました。よい牛を見抜くことができれば家畜商の仕事は引き合い(割に合い)ます。うちの駄屋まで買いに来た人から、『この牛を売ってくれ。』と言われても、牛を太らせるのが自分の商売ですから、餌(えさ)をよく食べる牛でしばらく飼えばもっとよくなると思う場合は売りませんでした。私は、自分の気に入ったよい牛を見つけてそれを飼い、十分に太らせてから売るということが好きなので、どうしても、よい牛を見たら手に入れたくなります。そう言えば、牛を飼わなくなってもう10数年になりますが、ちょうどその前ころ、妻の具合が悪くなって私も牛の世話どころではなかったときに、ある人からどうしてもと頼まれて牛を見たら、やっぱり欲しくなって2頭も買ってしまったことがありました。
 どの家畜商も、儲けようと思って売買をしますので、牛を見るときは一回一回が真剣勝負です。ただ、それでも損をすることはあります。よいと思って買っても、よい肉質に早く成長するような儲かる牛ではなかったりします。そういう経験をすると、牛を見る目が自然とできてきます。大概(たいがい)の牛は、長く飼えばさし(赤身の肉の間に白い脂肪が網の目のように入ること)が入って、大体肉質がよくなります。ただ、若いうちからさしの入る牛のほうが、それだけ早く売れるわけですから経費がかかりません。そのような牛かそうでないかが、儲かるか儲からないかの違いになります。ですから、家畜商にとっては、牛を見ることが一番大事になってきます。私の場合は、よい牛かどうかを見分けるときには体形と毛肌を見ます。体の格好から『この牛はようなる、太るぞ。』というのが分かります。そして、皮は薄いほうがよく、その上の毛は、細くてもっちりとしていて、触ると柔らかく、ぽすぽすとした感触のものがよくて、粗(あら)くてざらざらとしているのはよくありません。ただ、そういう牛はだれもが欲しがるので、安い値では売ってくれません。でも、そのような牛でないと、結果的には儲からないのです。
 市場で牛を買うと、牛は目印も付けずそのままの場所に置いておきます。そして、売買人が大体引いたころに、買った牛を集め始めます。自分の牛を見分けるのは世話のないことです。ある時、子牛を買った後にそばを食べに行って戻ってみると、他の人が、私のトラックに5頭の牛を乗せてくれていたので、『4頭しか買わなんだんやがなあ(買わなかったのだがなあ)。』というと、『いや。5頭買うとるよ。』と言われたことがありました。結局は私の勘違いでしたが、その人は、他の者が買った牛を覚えていて見分けることができたわけです。家畜商は、そうでなければ牛には触れません。」

(3)和牛農家を支える

 久万高原町上野尻に住み、久万農業協同組合(現松山市農業協同組合)で長く畜産を担当したFさんは、昭和50年代後半から昭和60年代初めころの野尻の牛市のようすや畜産指導の仕事について次のように話す。

 ア 肉用牛生産の振興

 「私は、愛媛県立農業大学校を卒業した後、昭和49年(1974年)に久万農協(久万農業協同組合)に就職しました。それ以来、平成11年(1999年)に松山市農業協同組合と合併するまで、久万農協管内(旧久万町・面河村・美川村・柳谷村)の畜産農家の経営指導を担当しました。牛についていえば、黒毛和種(くろげわしゅ)(日本在来の牛に外国種を交配・改良した黒毛の牛)の繁殖(はんしょく)牛や肥育(ひいく)牛を飼育する農家の支援や指導をしてきました。
 旧久万町内での和牛の飼育頭数は、昭和30年(1955年)ころがピークでした。田畑耕作などの役用(えきよう)や厩肥(きゅうひ)(家畜小屋の糞尿(ふんにょう)と敷藁(しきわら)とを混ぜて作った肥料)供給を目的とした役用牛が主体でしたので、耕運機や化学肥料の普及によって役用牛が不要になると、牛の数が年々減少し、肉用牛の飼育が細々と行なわれる程度になりました。
 そのような状況の中で、昭和48年(1973年)の第1次石油ショック(アラブ産油国の原油の減産や値上げにともなう急激な物価高が世界経済に大きな影響を与えた)をきっかけに肉用牛の経営や消費の安定を図る一環として国が始めた、繁殖(はんしょく)牛(繁殖用の雌(めす)牛)の導入を支援する事業に、県内で最初に久万農協管内の1町3村が取り組みました。この事業は、肉用の優良な雌牛を有名産地から購入して地域での基礎牛を作り、子牛を産ませて良質な肉用牛を増産することを目的に、国と県と市町村の利子補給による実質無利子の5年間払いを可能にして、農家が繁殖牛を購入しやすいようにするものでした。久万農協管内で早くから取り組むことのできた一因は、地域に牛を飼育する土壌があり、牛舎(ぎゅうしゃ)も残っていましたので、牛を飼うことをやめていた人たちの中に、もう一度やってみようという気運が高まったことです。また、それまでに、肉牛の国内需給緊急対策として国が始めた事業の指定を受けて、昭和41年(1966年)に直瀬(なおせ)に肉用牛繁殖育成センターが設置され、そこで飼育した繁殖牛から生まれた子牛を地域に供給できるように、委託先の旧久万町農協(後年、昭和48年に旧久万町農協、旧面河村農協、旧美川村農協、旧柳谷村農協が合併して久万農協となる。)が運営していたことも背景としてありました。
 農家で繁殖牛を飼育して子牛を産ませ、その子牛をまた別の農家で肥育(ひいく)して出荷する、という新たな取組を久万農協が中心になって始めたころに、ちょうど私も農協に入りました。すぐに畜産担当になりましたので、繁殖牛の調査を行ない、経済連(愛媛県経済農業協同組会連合会。現全国農業協同組合連合会愛媛県本部〔JA全農えひめ〕)の担当者と一緒に、広島県や鹿児島県、宮崎県の牛市場まで繁殖牛を買い付けに行きました。繁殖牛は、昭和50年ころでも1頭が45万円くらいする高価なもので、それを毎年20頭ずつぐらい買っていましたので責任は重大ですし、限られた資金の中で、優秀な牛を見分けて買うのはなかなか大変でした。繁殖牛の善し悪(あ)しは連産(れんさん)性で決まりますが、種(たね)が付きやすく(人工授精で受精卵ができやすく)、続けて出産できるほどよくて、1年1産で、全部で10産ぐらいできる牛が理想です。連産性がよいかどうかは血統(けっとう)を見て判断しますが、2代祖(祖父母の代の牛)までしか分からない場合は、系統の特徴から判断しなくてはならないこともありますので、系統などについての知識をあらかじめ頭に入れておくことが必要でした。
 久万農協が買い付けた繁殖牛は、農協管内の農家に販売しました。実質無利子の5年払いで牛を購入した繁殖農家は、その牛を飼育し、産まれた子牛を売って収入を得ます。また、その子牛を肥育して出荷したい農家には、元手のかかる子牛を手に入れやすいように、久万農協が買った子牛を、農家が肉用に育てて得た収入から子牛代金等を後で支払う、預託(よたく)牛として渡すこともしていました。私自身がその担当でしたので、繁殖牛を買って地元の繁殖農家に売り、その繁殖牛の種付けや出産を手伝い、生まれた子牛を肥育農家に渡す、ということを繰り返しました。やがて、久万農協が主体となって上野尻の市場で牛市を行なうようになりましたので、子牛の売買にもかかわりました。」

 イ 新たな牛市

 「私が小学生の低学年のころには、まだ、野尻の牛市には賑やかさが少し残っていました。大人たちから、『危ないので子どもは市場に近寄るな。』と言われていましたので、市場のようすは記憶にありませんが、秋の大市(おおいち)には、芝居を観(み)たり、香具師(やし)の人が屋台で焼いているトウキビを買って食べたりして、楽しかったことを憶えています。牛市は、牛を売買する人たちにとっては真剣勝負の場でしょうが、子どもにとってはお祭りみたいなものでした。ある時、牛市のあった日に家に帰ると、それまで飼っていた牛がいなくなって、新しい牛に替わっていたことがありました。
 ただ、その牛市も、役用牛の必要性がなくなってだんだんと規模が縮小し、駆(か)け引き的要素の強い売買形態に参加しない和牛農家が増えたこともあって、家畜商の数も減っていきました。そういう中で、結果的には、久万農協が、繁殖牛を導入して肥育牛を売るということを通して、家畜商の人たちの代わりを行なうようになり、昭和57年(1982年)から昭和63年(1988年)まで、農協が黒毛和種の子牛市(第1回〔昭和57年10月16日実施〕から第20回〔昭和63年6月29日実施〕)を運営しました。ただ、牛市開催の広報や出頭される牛の情報の取りまとめなど、牛市の実施にともなう業務は農協が行ないましたが、市場自体は、経済連が所有し管理運営も行なっていましたので、売買の競(せ)りの仕切りは経済連の職員にしてもらいました。
 牛市は、2か月に1回程の頻度(ひんど)で開催されました。8時半ころから始めていましたが、毎回、地元の繁殖農家から、生後8ヶ月から12ヶ月ぐらいの250kg前後の子牛が、朝早くから運ばれてきていました。買い手は、地元をはじめ、松山や大洲、野村などの家畜商で、農協も預託牛とする牛をまとめて買っていました。全部で20頭ほど出頭された牛の半分近くを農協が、残りの分をそれぞれの家畜商が購入していたように思います。
 牛市の流れは、まず、子牛を係留舎(けいりゅうしゃ)から広場に引き出して品評会が行なわれます。経済連の職員が審査をして、この牛は今回の市の何番目だ、というように優劣がつけられます。1等や2等になった牛は高く売れていました。その品評会が大体2、3時間かかり、それから1頭ずつ牛が競り場まで連れて行かれます。競りは『読み上げ競り』でしたので、買い手の手が上がっている間は、値段が上がっていきます。買い手からすれば、欲しい牛を30万円までなら買うと決めれば、30万円になるまでは手を上げておけばよいわけです。繁殖農家のためには牛が1円でも高く売れればよいので、知り合いの家畜商に、『手を上げて、なんとか買ってくれ。』と交渉することもありましたが、相手も商売ですからそう簡単にはいきませんでした。また、預託牛とする牛を取るために農協ばかりが落札していては、家畜商の人たちが売買から遠ざかってしまうので、そのあたりをわきまえることが大切でした。競り自体は、出頭数も少ないので、早ければ30分ぐらいで終了します。ですから、牛市も午前中くらいには終わっていました。野尻で最後の開催となった昭和63年(1988年)の第20回牛市では、1頭が40万円から45万円くらいの値段で取り引きされていました。
 農協主体の新しい牛市は、2か月に1回程度の開催で、大々的に実施することもありませんでしたが、ある年の秋の牛市で、『これが大市の代わりじゃのう。』と話していた家畜商の人がいたことを憶えています。しかし、その牛市も昭和63年に終わり、その後、市場の建物なども撤去されて、今では、市場開祖者である高野幸治の頌徳碑(しょうとくひ)(写真2-1-12参照)だけが残っています。」

 ウ 和牛農家に寄り添う

 「私は、畜産指導員として、牛や豚、ニワトリなどの飼育や繁殖の指導をはじめ、畜産に関するいろいろな業務を担当してきました。ただ、私の後に久万農協に入ってきた指導担当者で、米や野菜、畜産などを全般的に担当する指導員はいますが、畜産専門の指導員はいませんでした。ですから、畜産分野については、久万農協のそれぞれの支所に配属されている指導員と役割分担を決めて、時には相談に乗ったり応援をしたりしながら仕事をしてきました。
 牛の飼育や繁殖の指導の中で一番重要な業務は、繁殖牛が1年1産となるように種を付ける(人工授精を施して受胎させる)ことです。繁殖牛は、大体21日周期で発情しますが、出産後は、40、50日後に最初の発情が起きます。その時に種が付けば1年1産となって最も効率がよく、逆に遅くなればなるほど子牛ができる時期も先に延びてしまいます。そうなると繁殖農家に収入がなくなりますから、私たちの仕事に農家の生活がかかっているともいえるわけです。牛によって発情期の周期に微妙な違いがありますので、種付けの時期を誤りなく判断しなくてはなりません。何産もしている牛であれば、餌(えさ)を食べずに鳴き通しになるとか陰部(いんぶ)が腫(は)れてくるとかの発情の兆候(ちょうこう)から何時間後に種付けをした、といった記録がありますので種を付けるタイミングが分かりますが、初産の牛の場合はその見極めが難しいのです。大体は、発情の兆候が表われてから約10時間後に種付けをすると成功率が高かったように思います。ですから、その時間差を考慮しながら、昼夜の別なく農家のところに出向きました。
 また、種付けと並んで重要な仕事は、牛が安全に出産できるように手助けをすることです。牛が難産で、『なかなか(子牛が)出てこんのじゃ。ちょっと見てや。』と、農家から連絡が入ると、土、日曜日であろうが夜中であろうが駆(か)けつけました。私の手に負(お)えない場合は獣医さんを呼ぶこともありましたが、それほどでもない状態であれば、農家の人と一緒にようすを見たりしました。獣医を呼ぶかどうかの判断に迷っているところに、経験のある私たち指導員が行って手助けをすれば農家の人も安心するわけですから、そういうことをするのは当たり前のことです。難産の連絡の場合は、電話で話を聞くよりも直接見たほうがわかりやすいので、大体駆けつけていました。平成の初めころに、そういうことが比較的多くありました。そのころ、繁殖農家が久万農協管内に40、50軒あり、繁殖牛も250頭程いましたので、生まれる子牛の数も多かったということがあります。それぞれの支所の指導員からの要請や、農家からの直接の連絡があれば、すぐに対応できるようにしていました。もし宴会などで酒を飲んでいても、迎えに来てもらえれば行っていました。牛は1年1産なので、無事に出産できなければ次の出産まで1年以上も待たなくてはならず、その間の農家の収入がなくなるわけですから、何か何でも助けないといけません。
 繁殖農家を手助けする仕事は、周りからすれば大変なことのように見えたかもしれません。しかし、私としては、仕事として当たり前のことをしていると思っていましたし、農家の生活を支える大切な手助けをしているという気持ちもあって、あまり苦労とは感じませんでした。和牛農家には、1頭の牛に、種が付くかどうか、無事に子牛が生まれるかどうか、牛が育つかどうか、といった一発勝負としての厳しさが常にあります。ですから自然と、和牛農家を助けたいという気持ちが強くなったのだと思います。」
 現在、久万高原町では、直瀬にあった肉用牛繁殖育成センターが全国農業協同組合連合会愛媛県本部の経営による肉用牛センターに移行されて、そこで常時約1,100頭の乳用種の牛が飼育され、その内800頭の肥育牛が肉用に出荷されている。ただ、Fさんによれば、町内で飼われている黒毛和種の牛の数は、旧柳谷村を中心に、旧美川村、旧面河村を合わせて70、80頭程にまで減り、旧久万町内には1頭もいなくなったという。かつて関西一といわれた野尻牛市の面影は、時代とともに失われ、その賑わいを知る人も少なくなりつつある。

写真2-1-8 上野尻の牛市場跡

写真2-1-8 上野尻の牛市場跡

上浮穴郡久万町(現久万高原町)。平成24年11月撮影

写真2-1-12 高野幸治の頌徳碑

写真2-1-12 高野幸治の頌徳碑

久万高原町上野尻。平成24年11月撮影