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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 森林鉄道とともに

(1)森林鉄道

 ア 山間に延びる線路

 久万高原町の面河(おもご)地区(面積約157km²)は、石鎚山(いしづちさん)の南西麓(ろく)に広がっている。平成24年の面河地区の人口は約650人で、久万高原町全体(約9,900人)の1割に満たない。面河地区の河(こう)の子(こ)(かつては「川(かわ)の子(こ)」)では、現住者は3人である。この河の子や、西の坂瀬(さかせ)では、昭和前半の時期、林業がさかんで、木材の運搬に森林鉄道が利用されていた。
 森林鉄道は、まず、昭和7年(1932年)ごろから坂瀬川沿いの約12kmに敷設された。鉄道は、渋草(しぶくさ)から坂瀬川の南岸沿いに東へ進み、大成(おおなる)の北で川を渡り、迂回(うかい)しながら川上へ向かい、地形図の「面河村」の「村」の字あたりで再び川を渡っている。坂瀬川と割石(わりいし)川の合流地点には、製材工場があり、その南(坂瀬川南岸)は「土場(どば)」と呼ばれ、坂瀬事業所の事務所や貯木場、宿舎などがあった。
 昭和16年(1941年)ごろ、坂瀬の線路は河の子に運ばれ、木材運搬用の森林鉄道として活用されたが、昭和23年(1948年)に廃止された。河の子にあった森林鉄道で働いていたAさん(昭和3年生まれ)から話を聞いた。
 「河の子の森林鉄道のことを知っている地元住民は、私が最後の一人になりました。私が最初に住んでいた坂瀬では、昭和8年ごろに森林鉄道が開通しました。私が子どものころ、父が坂瀬の鉄道で働いていたのです。坂瀬から河の子に移ってからは、住宅もよくなりました。
 河の子の森林鉄道の起点は、三崎(みつざき)にあった営林署の貯木場のところ、『土場(どば)』と呼ばれる場所です。今、砂利(じゃり)や石を積んである平坦地で、積み出した材木の集積場所でした。その側の石垣を積んだ一段高いところに線路が通っていて、そこに木材を満載したトロッコをつけ、一段下に集積しトラックに積み替えていました。また、ウインチを据(す)えて、木材を引き揚げて材質ごとに分けて山積みしていました。その先には機関車の車庫もありました。今、田んぼになっている場所(現在の組合倉庫の上、南西側)には、河の子事業所の事務所がありました。今は廃屋(はいおく)になっていますが、近くに配給所(食糧や日用品などを職員に配布する建物)や機関車組(機関車に乗る人たち)の社宅もありました。製材はしていませんでした。
 鉄道の本線は『長者屋敷』までの約6kmで、集材のため、本線の終点や途中から分岐して山手に入る分線がありました。分線は『差込(さしこみ)』と呼ばれ、おもな分線は3線ありました。本線終点の長者屋敷から山手に入る線は『山内線(さんないせん)』と呼ばれ、北から東の山や谷をめぐっていました。本線の跡は、現在は道路になっています。鉄道の跡を拡張して道路にしたのです。長者屋敷では、線路が複線になっていました。トンネルはなく、鉄道橋は木橋(もっきょう)で、枕木も木製でした。」

 イ トロッコの運転

 「私は保線夫をしていたので下(三崎)に住んでいました。河の子には昭和25年(1950年)に移り住みました。私が、戦争が終わって昭和20年(1945年)8月末に尼崎(あまがさき)(兵庫県)からここへ帰ってきたら、召集で宿毛(すくも)(高知県)に行っていた父も帰ってきました。父が保線夫でしたので、とりあえず父とともに仕事をしていました。保線の仕事が多かったですが、木材運搬のトロッコの制動係として乗車することもよくありました。
 森林鉄道では、国有林の木材を積み出していました。1回の運転で、機関車の後ろには、木材をいっぱい積んだ6、7台のトロッコを引っ張っていましました。トロッコは長さ1.5m、幅は1mもないくらいの大きさでした。機関車もそんなに大きなものではなく、ディーゼルエンジン(軽油などを燃料とするエンジン)でしたが、昭和20年ごろは木炭ガスで走っていました。ちょっと湿った木炭のほうが、ガスがバッと出るのでよかったようです。エンジンもなかなかかかりにくく、冬は大変で、火をおこして動かすのに難儀(なんぎ)しました。1回の運転には機関士のほか、制動係3名が乗っていました。一人がトロッコ2台を受け持ちました。車輪の前に穴があって、そこに車輪を止めるカシの木の棒がありました。棒の先に金具があり、滑車(かっしゃ)にかかったロープを引っ張ると梃子(てこ)のようになってブレーキがかかります。線路をすらす(線路を擦(す)る)のと車輪を押えるのと両方でブレーキをかけました。下りはブレーキをかけるだけです。
 1日一往復の運転が普通で、朝出る時間は一定ではありませんでした。機関車は、歩くよりは少し早いぐらいのスピードです。上りは空(から)のトロッコですが、奥の集積の場所には、前の日に運んでいったトロッコに木材が積まれていて、それを連れて(牽引(けんいん)して)帰るのです。順調に積めたら昼過ぎに帰っていました。何かあれば、帰るのが遅れました。雪が降れば、保線夫が雪かきをしていたので、仕事がない日はほとんどありませんでした。
 上り(山奥へ行く)と下りで機関車の向きを変えることはなく、前進で上がってバックで下りていました。分線にはスイッチバックが1か所ありました。トロッコは、下りは自重(じじゅう)で下りていくのですが、途中の二号橋から土場までは勾配(こうばい)がないので、トロッコを押さなくてはなりませんでした。河の子の橋は、下流から数えて一号橋、二号橋と名が付いていて、七号橋までありました。
 機関車が線路から転落したことがありました。山中の険しい崖のところでは、桟道(さんどう)といって、ツガの木を根太(ねだ)にして、横木に組んで作っていました。その桟道の線路が曲がり込んだ場所を機関車が走っていて転落したのです。その機関車は今でも谷の下にあるはずですが、埋もれてしまってはっきりわかりません。
 機関車が落ちたのは、桟道の丸太が中腐りしていたためです。側(がわ)(丸太の表面)はきれいでしたが、断面を見てみると、側がわずかしか残っていませんでした。機関車の重量でもたなくなったのです。線路は宙ぶらりんになっていました。かろうじて、運転手は無事でした。」

 ウ 保線夫として働く

 「保線夫の仕事では、手押し車を使いました。線路のゆるんだところや傷(いた)んでいるところにツルハシをいれ、トロッコに板張りして枠を拵(こしら)えて運んだ土をスコップで入れていました。『ちょっと直してもらえんか。』『手直しがいるけん、行ってくれ。』と言われて直しに走っていました。
 保線夫はほとんどが女性でした。坂瀬の鉄道には、女性の保線夫はほとんどいませんでしたが、河の子の鉄道は戦時中に敷(し)かれたためか、女性を入れて保線をやっていました。女性の保線夫も、土を入れたりして線路を整備していました。本線では、保線の仕事をする男は父と私だけで、他は女性でした。女性の保線夫は、河合(かわい)と河(こう)の子(こ)に住んでいました。
 本線管理は父が責任者でしたが、山内線(さんないせん)は別の人が責任者でした。忙しいときには、奥(山内線での保線の仕事)に手伝いに行ったり、奥から来てもらったりしました。」

 エ 鉄道の撤去

 営林署に勤め、昭和23年(1948年)に廃止された河の子の森林鉄道の撤去作業にかかわったBさん(昭和3年生まれ)から話を聞いた。
 「私は、昭和17年(1942年)から広島で徴用工(太平洋戦争中、国民徴用令により、国の指定する軍需工場等の業務に従事した工員)として働いていましたが、戦後、郷里の笠方(かさがた)(久万高原町)に帰りました。父(Cさん)が河の子事業所の配給所の所長をしていたこともあって、昭和20年に営林署の河の子事業所に事務職員として入りました。昭和23年に事業所が廃止され、7、8人いた職員がいなくなりましたが、地元出身者の私が残務整理のため残りました。
 残務整理として、河の子の森林鉄道のレールの撤去や宿舎の整理などをしました。鉄道のレールの一部は、小田深山(おだみやま)(現内子町)の森林鉄道の支線などに使われました。そのほか、四国管内の営林署で、新しく事業所を開設して鉄道を敷いたり、山で線路を延長したりする年次計画がありましたので、それに基づいて、何mのレールを何本、どこへ送るという送り状をつけて、四国各所へ配って片付けました。若かったので、何かと苦労がありました。
 同年11月に小田深山に転勤し、その後、川瀬(かわせ)村(現久万高原町)の遅越(おそごえ)事業所での勤務を経て、昭和26年に高知営林局野根(のね)営林署(現高知県安芸郡東洋町)に移りました。
 道路が通っていない山奥では、索道(さくどう)(運搬するため空中に引いたワイヤー線)や鉄道を整備して木材を運んでいたのです。当時の索道は、手回しで起動する発動機で動かしていましたので、動力が小さく、長い線が張れませんでした。それで鉄道が使われていたのです。
 河の子の長者屋敷から奥に入っていた山内線(さんないせん)で、私が持っていたカメラを木材に載せて、自動シャッターで撮影した写真があります。場所は、大松のあったところ(平家(へいけ)谷、地獄谷)だったと思いますが、そこにあったインクラインの上部だと思います。インクラインは、傾斜地にレールを敷き、トロッコを動かして木材を運ぶ装置のことで、両端は単線、中央部が複線になっていて、複線部分をワイヤーで繋(つな)いだ上りと下りのトロッコが入れ替わります。インクラインでは機関車は使われず、トロッコだけで木材を運んでいました。山内線の上部なので平たいですが、少し進むと傾斜しています。
 写真左側に集材機があります。左端は発動機で、左から3人目の右にワイヤーを巻取るドラムがあります。写真の左か奥側に架線(ワイヤー)があって、山の上で集材した木材を、インクラインの線路の近くまで索道で下ろしていました。そして人力だけでトロッコに積み込んで下まで運んでいました。
 運搬するとき、トビとツルという道具を使いました。写真の中央の人が持っているのがツルです。トビは木材に打ち込む道具です。ツルは、大きな天然木を下から梃子(てこ)にして上げたり、打ち込んで引っ張ったりするのに使いました。」

(2)山の仕事とくらし

 ア 林業にたずさわる

 Aさんは、山の仕事やくらしについて話してくれた。
 「このあたりは国有林の自然林が多く、人工林はほとんどありませんでした。本線の終点の長者屋敷に、山で作業する人が住んでいました(図表2-2-3参照)。木を伐採(ばっさい)する人、集材する人、炭を焼く人たちが住んでいました。広場近くに家族持ち、東の奥に独身の住み家があり、その前が炊事(すいじ)場と風呂場であったように記憶しています。配給所や営林署の事務所もありました。周(まわ)りは、個人の畑もわずかながらありましたが、ほとんどが国有林でした。木炭は、『入り作』と言って、他人の土地の木を伐(き)って、歩合(ぶあい)制(土地所有者と生産者が利益を分ける)で炭を焼いていました。
 木材は、『杣(そま)』と『ひよさん』が準備していました。杣はノコ引きさんで、山で木を伐る人、ひよさん(日傭(ひよう)、日雇いの人)はトビとツルを使って木材を下へ降ろす人です。1日に一人で500才(さい)(2立米(りゅうべい)〔2m³〕)くらいの材は降ろすことができました。トロッコ1台で3、4立米くらいは積めました。昔は、木材を石(こく)で表していました。1石が72才、250才が1立米(1m³)です。トロッコで降ろしたら、5tトラック2、3台分の木材がありました。トラックで運び出した木材は、ほとんどが三津(みつ)(松山市三津浜)に運ばれました。」

 イ 山村のくらし

 「家族連れで来ていた人は、河の子からさらに2km奥の長者屋敷に住んでいました。そこに住んでいる子どもは、渋草にある小学校まで、2里(約8km)の道のりを毎日歩いていました。歩くのにかなり時間がかかったと思います。雪の日も登校していましたが、本当に大変でした。
 山で作業をする人は、家族連れと独身が半々だったように思います。土佐の池川(いけがわ)町の奥の方など、土佐から大勢来ていました。方々を転々としながら炭焼きをしている人も、土佐から来た人が多かったです。昭和23年(1948年)に河の子事業所が小田に移転してなくなると、ほとんどの人は引っ越していなくなりました。
 河の子から南に山を越えると、桧谷(ひのきだに)といって、仕七川(しながわ)(現久万高原町)から東へ抜ける街道沿いの集落に出ます。また河の子から東へは、高台越(こうだいごえ)といって、土佐に向かう峠道がありました。昭和20年代、高知県の椿山(つばやま)(現高知県吾川郡仁淀川町)の娘や若衆(わかいし)らは、岩屋(いわや)さん(札所の岩屋寺)の縁日(3月21日)に行くのに、高台越を通って歩いて行っていました。
 河の子から高知県側へ行くことも度々(たびたび)あり、下刈りなどの山仕事に行ったり、池川のイノ谷(現高知県仁淀川町)でノコなどの刃物を買ったり、鍛冶屋(かじや)に行ったりしました。若い者は、父の言いつけで、芋焼酎(いもじょうちゅう)を買いに池川の大野(おおの)(現高知県仁淀川町)まで、1日がかりで行かされたりしました。
 楽しみは少なかったですが、芝居が渋草(しぶくさ)(久万高原町面河)の常小屋(じょうごや)に来たときには見に行きました。常小屋のあったのは、今、面河郵便局の上にある集会所のところです。
 自分たちで演芸をしたこともあります。戦後、営林署の慰安で、営林署の人に『やれ、やれ。』と言われて、父が演芸会をやりました。鉄道で働いているのは女性がほとんどでしたから、父の命令で女性たちも私も踊りをやらされました。演芸のため、直瀬(なおせ)(久万高原町直瀬、川瀬歌舞伎の舞台衣装がある)まで、かつらを借りに自転車に乗って行ったこともありました。父は演芸が好きで、見よう見まねでやりました。
 演芸会のとき、観客は、河の子だけでなく、河合や中組の人々も見に来てくれました。その後、祭りの時には、よその集落に住む人から『来て、やってくれ。』と言われて、演芸をしに行ったりしたこともあります。
 河の子の天神さんのお祭りは旧暦8月25日ですが、けっこう人が集まっていました。神輿(みこし)はありませんでしたが、素人相撲(しろうとずもう)が行われていました。
 また、祠(ほこら)があり、山の神さんを祀(まつ)っていました(図表2-2-3参照)。山の神さんの祭りの日は、仕事をしたらいけない日で、この日に山仕事をしていて怪我(けが)でもしたら、『山の神さんの日に仕事するけんじゃが(するからだ)。』と周(まわ)りの人から言われました。
 戦前、河の子の事業所では、お産は、住み家の敷地内ではできないしきたりがありました。近くに小屋掛(こやが)けして(仮小屋を建てて)出産のための建物(図表2-2-3の「産室」)を別に造りました。妊婦が自分で行って、一人で出産していました。それが嫌なら実家に帰って出産していました。
 昭和27年(1952年)、河の子在住の21戸で開拓組合を作りました。昭和34年には、小・中学生が39名もいました。しかし生活が変わり始め、昭和35年に6家族がパラグアイへ移住し、42年に開拓組合が解散し、離村者が出ました。昭和42年に養蚕を、62年にピーマン栽培を始めるなどしましたが、今は4戸6人、そのうち3人が今もこの地で生活しています。」
 訪れた河の子の山中は静かで、長者屋敷の地には、森林鉄道の線路跡や建物跡の石垣などが、あちこちに残っていた。その場を指差しながら、Aさんは森林鉄道のことを生き生きと話してくれた。

図表2-2-3 長者屋敷一帯の略図

図表2-2-3 長者屋敷一帯の略図

長者屋敷で生まれ育ったDさん(昭和11年生まれ)からの聞き取りにより作成。