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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 住まいと生産

(1)萱葺き屋根と木ぐろ

 ア 萱葺き屋根の家屋

 上直瀬地域の住宅は、現在は殆(ほとん)どが瓦やトタン葺(ぶ)きの日本家屋だが、写真に残る家々は茅葺(かやぶ)き屋根が多い。現在のような屋根の仕様に変化したのは、昭和40年代から50年代にかけてのことであった。Bさんによると、「このような住宅形態の変化には、単にライフスタイルの変化ではなく産業形態の変化があった。」という。
 葺屋根の葺(ふ)き替え(「屋根替え」)は、地域住民が総出で奉仕する大変な作業で知られる(「結(ゆ)い」、小さな集落における共同作業の制度)。50年から60年の耐久性がある萱草を用い、約40年周期に屋根替えは行われる。作業は、まず萱草を育てるところから始まる。萱草は各組にある萱場(村有林借地)のものを利用した。毎年、春の彼岸前後の風が少なく、多くの人が参加できる日に古い萱を焼く「萱場焼」が行われた。
 Bさんの住む上直瀬下組(かみなおせしもぐみ)では、萱が育つと組内の約50名が2日がかりで萱を刈る。刈った萱は背負って運び、横に積んで真直ぐに延ばして乾かす。
 屋根替えの作業は、屋根職人の指示で毎年12月ころから翌年3月ころに行われる。職人は目見当で萱の量を決めるが、そこに職人としての力量が問われたという。また、葺き替えるのは、家族が居住する本家と牛馬を飼育する駄屋(だや)であり、良質な萱は本家に、土地が悪いところで作られた萱は駄屋に使われた。
 屋根替えの作業は組内の人々の奉仕で行われ、それを「屋根コウロク」と言った。手伝いに行く人は自分の昼食代として米一升(しょう)を、また作業用に縄一把(わ)(50尋(ひろ)、約90m)を持参した。手作りの縄には出来不出来があり、上手な人の縄は要所に使われた。逆に、縄を結(な)う作業が適当で、さぼりがちな人の家の屋根替えは手伝う人々もあまり熱心ではなく、出来上がりには差があったそうだ。
 Dさんの暮らす房代野(ぼうたいの)では、萱場が山の上にあった。10人程度で2、3日かけて刈った萱草を乾燥させた後、馬を5、6頭借りて萱場から降ろしたそうである。
 Bさんは言う。「萱付き合いは、徹底した結いでした。住宅の変化があるからやむを得ないとはいえ、これがなくなったことは村の組織を崩す一因にもなったと思います。」

 イ 「木ぐろ」と「いもねや」

 玄関の左右に積んである薪(たきぎ)を「木ぐろ」という。「わらぐろ」と同じように、薪を乾燥させて積み重ねたものである。久万地域では、「木飯米(きはんまい)」とも呼ばれる。積雪の厳しい冬の時期に暖房や食べ物の調理用に薪を用いるため、寒さが厳しくなる前に冬ごもりの作業として木ぐろが作られた。
 また、画面左端、倒木の右側は「いもねや」と言い、冬季にサトイモやサツマイモを腐らないように保存する場所である。

(2)稲作とトウモロコシ

 ア 稲作

 直瀬は、稲作が盛んな地域である。元禄から安永期ころの資料『久万山手鑑』によると、直瀬村田畑67町8畝のうち田41町9反6畝、水田が63%を占めている。また、『山村農業の実態』(愛媛県農務課、1951年)によれば、当時の川瀬村では総耕地の61%が水田であり、「この村では山村農業は畑作が中心であるという常識を裏切っている」と記されている。
 昭和30年代くらいまでは、牛馬を使って田すきが行われていた。写真には犂(すき)を牽引(けんいん)する牛と、牛を先導する人と犂を持つ人が写されている。Dさんによると、これはあまり調教されていない牛とのことである。よく躾(しつ)けられた牛は、先導なしに犂を持つ人が操作出来た。左に向かせる時は「はせ」、右は「ひよせ」と声をかけ、おしりをポンポンと叩(たた)いて操作した。
 なお、Dさんの話しでは、春の田植え時期に働いた牛は11月の秋祭りのころに久万の野尻(のじり)で開かれた牛市で売られた。野尻市は、一時は関西一を誇る程の牛の売買が行われた市場であった。市の1週間前からとうもろこしや麦、米を食べさせて太らせてから売り、代わりに子牛を買って翌年に備えて育てたそうである。
 10月の初めころに稲刈りが始まる。稲刈りでは、腰には「ネソ」と呼ばれる刈った稲をしばる植物の皮をさげ作業をする。稲を刈る鎌は、昔は草刈りと同じ鎌が使われていたが、昭和の初期からは刃がのこぎり状になった鋸鎌(のこぎりがま)が使われるようになった。
 刈り取った稲は、乾燥のために木や竹で組まれた稲木(稲架)に掛けられた。上直瀬地区では、栗の木で柱を作り、そこにつっぱりと呼ばれる二股に分かれた補助材を斜めに立てる。そうして出来た木組みに竹竿を6本(サオ)、縄で結わえる。
 Bさんによると、竿と柱に結わえるための素材は上直瀬と下直瀬で違っている。上直瀬では竹と縄が使われ、一年ごとに付け替えられた。一方、下直瀬では3年から5年程度はもつカズラが用いられた。この素材の違いは、稲木の設置場所と関係しているとBさんは考えている。上直瀬では田んぼの内に稲木を作ったが、下直瀬では「大寄駄馬(おおよせだば)」と呼ばれる場所に稲木場を設けた。居住地と稲木場が離れていたことから、耐久性のよい材を使うことで、設置のための運搬の回数を減らしていたと考えられる。
 戦時中には、稲木場(いなきば)を潰(つぶ)してサツマイモやトウモロコシが作られたが、太平洋戦争後、村が率先して水田整備を始めた。Bさんによると、整備される以前は、「自分は12枚の田んぼを持っているのに、何度数えても1枚足りないと思って蓑笠(みのかさ)を見たら、その下に1枚の田があった。」という笑い話があるほど、水田のサイズが小さかった。
 直瀬では、昭和45年から昭和50年(1970~1975年)にかけて、農業基本法による農業構造改善事業指定を受け、水田改良(土地基盤整備事業)が行われ、水田のサイズが効率よく整えられた。またライスセンターなどの施設の設置、大型農業機械の導入(農業近代化施設整備事業)などが行われた。
 このころの整備事業は、現在も「直瀬稲作生産組合」が引き継いでいる。Bさんによれば、整備事業終了後も、機械や施設を利用する作業の受委託を仲介する「農業機械銀行」的な役割を果たす組織を目指したが、農業の組織的経営は、個々人の事情もあり難しく、現在は主として農機具をオペレーター付きで貸し出すなどの業務が行われている。

(3)とうきび稲木

 大正時代から昭和30年代まで、トウモロコシ(とうきび)が多く作られた。トウモロコシは、主食として、また牛馬の飼料としても欠かせなかった。毎年5月下旬から6月上旬に種を蒔き、9月下旬から10月上旬ころに収穫する。苞葉(ほうは)をはぐ作業を行った後、それらを乾燥させ、長期保存するためにとうきび稲木が用いられた。収穫作業や苞葉をはぐ作業は農家の共同作業であった。
 とうきび稲木の設置場所は日当たりのよい屋根の軒先や蔵の横で、縦の支柱に5から7段(サオ)、大きな農家では、8、9段(サオ)の横木が組まれた。トウモロコシは六つを藁(わら)で束ねたものを1単位とし、それを「スボ」という。そのスボを稲木に掛けるのだが、Bさんによると、より立派に見えるよう表面には大きなトウモロコシを、小さなものは裏に回るよう結わえたそうである。とうきび稲木は昭和30年代までは普通に見られた景色であったが、現在はごく少数に限られている。
 寛一郎の家は、木地師といって、山中にあって轆轤(ろくろ)を使用して椀や盆などの木地を作る職人の家系だったが、寛一郎の時代には家業としてそれを行うことはなかったようである。

(4)木炭と炭俵

 「昔は、木炭で腰伸ばしとったんじゃからな。」とAさんは言う。「腰を伸ばす」とは成長の意で、一家の生計を支える程、木炭が経済価値を持っていたことを端的に伝える。家庭燃料として石油やガスが普及するまでは、木炭が用いられた。山林に囲まれた直瀬では盛んに木炭が作られ、松山(まつやま)や新居浜(にいはま)、今治(いまばり)などにも出荷されていた。
 しかし、『山村農業の実態』によると、「製炭労働者の1日当りの収入は大体150から180円程度にして、木材関係の労務者に比較して非常に少ない」とされており、Aさんの話とは矛盾があるように思われる。
 Aさんによると、戦前に石墨山(いしずみさん)から井内峠(いうちとうげ)まで国有林の払い下げがあった時、伊予鉄道が直瀬永子(えいし)の奥の山を買い取った。現在もある150haの山を地元民は「伊予鉄の山」と呼んでいる。『伊予鉄道100年史』によれば、戦時下の燃料不足により、伊予鉄道のバスが燃料をガソリンから木炭に切り替えた際、直瀬の山がその供給地となった。
 そのような状況からか、「伊予鉄の山」の炭焼きでは、原木料がかからなかったため、炭焼従事者は多くの利益を得ることが出来たようだ。
 「伊予鉄の山」は特例として、炭焼の権利は一般的に入札で決められる。Aさんは、「1号山、2号山と分けて、入札しよったんよ。家に手間のある家(元気な人がいる家)は、集落から遠いところにある代わりに入札価格の安い山を入札したり、よう話し合いをして決められとった。1回の入札で2町歩(約2ha)から3町歩(約3ha)の山を担当するから、炭焼作業は1年から3年くらいかかった。」と言う。
 落札者は、原木の運搬の手間を省くため山に窯を作る。窯の設置場所は山の谷間で、これは伐採した原木を山の左右から順に下に落とす形で搬出するのに効率的だからである。原木は枝葉を打ち払い1mくらいの長さにし、切った枝葉は焼畑する際にまいて利用した。窯は多くが谷間にあるため、今でも狩猟をする際の目印になっているそうである。
 炭焼きは専業とする者もいたが、大半は農家の副業として行われた。また、炭焼きに従事していない農家でも、冬の副業として炭俵つくりが行われた。炭俵は、横辺を梱包する「ダス」と縦辺を覆う「サン俵」からなる。Bさんの家には、今もダスを作るための器具が残る。
 「こませ」という木の又で作った2本の足に、俵の寸法を刻んだ板が渡してある器具に、編み用の縄(ダス縄)を巻く器具「つちの子」を用い萱を編む(写真4-1-10参照)。サン俵は、炭俵の底と蓋に当たる部分で、幅2cm程、直径40cm程度の輪にした竹に藁を折り曲げて作る。平岡家に残る「こませ」は、ダス縄が当たる部分が深く削れている。「親から譲り受けて、代々使ってきたからこそ、これだけちびるんやけえ。」と、Bさんはかつての生活を振り返る。奥さんのEさんもまた、「私らが子どものころも、一つ作るのに1円くらいもらいよったやろうか。よう縄ないよったわい(よく縄を編んでいた)。」と当時を懐かしむ。
 木炭が利用されなくなって久しいが、近年、Bさんらを中心に、地元の方々で炭の脱臭効果を活用した飾り用の小さな炭俵を作って販売している。

写真4-1-10 俵作りの道具(こませ・つちの子)とダス、サン俵

写真4-1-10 俵作りの道具(こませ・つちの子)とダス、サン俵

久万高原町直瀬。平成25年1月撮影