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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)カツオ節づくり一筋

 カツオ節(*7)は、日本料理のだしの材料として不可欠のものであり、古来から保存食としても重宝されてきた。戦国時代には、籠城(ろうじょう)用の兵糧(ひょうろう)や、「勝男武士(かつおぶし)」の縁起ものとして、また、雄節(おぶし)と雌節(めぶし)(*8)一対で亀の形になることから、長寿や婚礼の祝いごとにも珍重された。
 カツオ節は、カツオ(*9)の頭を切り、身を3枚におろし(身2枚と骨の3枚に割く)、ゆであげ、焙乾(ばいかん)し、削って成形した後カビ付けをしたものが本枯節(ほんかれぶし)といわれる。焙乾とカビ付けをした日本特有の加工品である本枯節の誕生は、江戸末期であるといわれる。
 カツオ節とは、本枯節のことを指すが、製造過程で幾つかの製品ができる。なまり節は、ゆでて一度だけいぶしたもので、生節は、ゆでた後、なまり節よりいぶし乾燥をやや強くし真空パックしたものである。新節は、1日2、3時間、2日程度焙乾したものを削って成形し、真空パックする。荒節は、焙乾を10日から20日繰り返したのち、表面を削り取ったもので、成形、天日干(てんぴぼ)し、カビ付けはせず、これは花かつおの原料となる(⑦)。
 深浦港は、宿毛湾(すくもわん)(高知県)の好漁場に近く、古くから漁業基地として栄え、県内唯一のカツオ一本釣り船の基地として有名である(写真1-1-4参照)。
 深浦では、明治のころすでにカツオ釣り漁船の船主が兼業でカツオ節の製造を行った記録がある。
 専門のカツオ節製造家が現れたのは、大正10年(1921年)で、二つの専業経営業者があった。昭和30年代には高知県からの進出もあり4社が操業していたが、現在は雑節(カツオ節以外のサバ節、イワシ節などをいう。)中心に地元の3社が製造を行っている。
 ここでのカツオ節製造は、納屋番さんと呼ばれる技術者を除いて全て女子労働によって製造加工が維持されてきたのが大きな特徴である(⑧)。

 ア カツオ節とともに生きた人生

 **さん(南宇和郡城辺町深浦 大正11年生まれ 75歳)
 **さんは、夫を助けて深浦でカツオ節の製造会社を興し、直接製造販売にも携わり、その半生をカツオ節づくりにかけてきた。カツオ節製造の苦心を聞く。
 「昭和21年(1946年)主人と結婚して、隣り町(西海町)の福浦(ふくうら)でイワシ節づくりを始めたのですが、主人が体を壊してね。イワシ節づくりは骨が折れるし、よその土地では人も雇いにくいしね。地元の深浦なら親せきも多いので、昭和25年に深浦に帰りました。深浦では納屋(なや)(カツオ節の製造所)を借りてイワシ節づくりからはじめて、少しずつカツオ節の製造も手掛け、昭和28年ころ土地も購入し、そこに自前の納屋を建てカツオ節の製造に重点を移しました。しかし、主人が病弱で何年も寝ているうえに、子供3人連れての厳しい商売でした。カツオ節製造は漁に左右されるうえ、製造の期間が短いでしょう。カツオ漁といったら4月から盆までで打ち上げる(打ち切る)でしょう。秋漁がある場合だったら、11月のお祭りまではありますが。製造に時間がかかり、出荷は秋から正月ですからできた製品も長時間寝かしておくのです。資金ぐりが大変でね。もうけんことはないけど、お金借りているので、金利も要ったですよ。全国相場にも左右されるしね。製造には広い家屋も要るし、工場も何回も建て替えました。
 そのころ原料の生カツオは、深浦に水揚げされるものを使っていました。近海が漁場で、カツオを釣る船は、夜中に出てお昼までに帰る船と、朝の10時ころに帰ってまた出港する船がありました。夜の8時ころ帰る船もありました。漁は、いうても運ものだからね。2航海する船もあれば、釣れなくて1航海の船もあり、いろいろでした。
 この地方では、カツオ節づくりの技術者で納屋の製造責任者を納屋番(なやばん)さんと呼んでいました。カツオ製造の作業は、納屋番さんを除くとほとんどが女の人でね。カツオ節の製造には、女の人の労働が重要な役割を果たしていましたよ。納屋番さんは、土佐(高知県)からカツオ製造の時期だけ来ていました。部下は、男性の人を1名と、女の人を2名ほど連れてくるのが普通でした。この人たちは住み込みですから、わたしは、その人たちの炊事もしていました。納屋番さんが連れてきた女の人と、うちで直接雇った女の人は、生切り(節として利用されない部分を取り除く作業)とばらぬき(小骨抜き)をして、その仕事がないときは節削り(いぶしたあとの節の表面を削り、形を整える)を専門に、何日もやっていました。カツオ節の製造には、明治生まれの女の人や、若いときに出稼ぎと節づくりの技術習得を兼ねて、県外に行って腕を磨いたという人たちも雇っていました。カツオ漁の水揚げの多い年は、経験のある人を捜して雇ったりしました。
 カツオ節製造の時期は、ちょうど麦刈りの時期と重なるのです。見てのとおり、山の高いところに畑があるでしょう。女の人は、昼は麦刈りをして骨折りしているのに、夜カツオ節の製造の仕事に来るのですからここの女の人は働き者ですよ。カツオの生を多く買い付けたときや、夕方買い付けたときなど、人集めに畑に行ったり、夜間に家まで呼びに行ったりしたこともありました。ぐっすり眠っとっても、目を覚まし『はあ、行こか』というてくれる人はまだいいのですが、起きていても来たくない人を、なんとか頼んで呼んでくるのは、なかなか骨折りでした。
 昭和39年(1964年)に、真空パックを始めました。簡単な機械ですが、当時50万円くらいして、高価なのに驚きました。また、4、5年して分解掃除のための費用に、もう1台買うほどの値段がしたのにも驚きました。真空パックで生節や新節を始める前は、本枯節ばっかりで、11月のお祭り時分にカツオ船が漁を終えたら、それから、翌年の5月でないと春の漁でとれたカツオが製造にはまわらんでしょう。製造の期間が短かったけど、真空パックを始めてから、生カツオも、地元以外に焼津(やいず)市(静岡県)から購入して、大型保冷車で運び冷凍庫に入れておいては製造しました。節づくりも次の年まで続き、製造の期間が長くなりました。製造家も年間仕事があり、やりやすくなりました。
 生節は炊いてからばらぬきをして、ちょっと水洗いしたのを真空パックします。新節はいぶし乾燥の火を3番火ほど入れて、少し固くなったのを真空パックするのです。真空パックの新節を始めたころは、高度経済成長に支えられた観光ブームで、土産品としての需要が増えたこともあり、これがはやりだして年中売れだしました。本枯節と比べて、カビ付けが不要で、乾燥期間も半減され、製造期間も大幅に短縮され、本枯節から新節中心になりました。そのころがカツオ節製造の全盛でした。わたしは、45歳で運転免許を取り、トラックで原料を運んだり、スクーターに乗って方々にセールスをして回ったり、城辺町に直営の販売店も出しました。
 昭和47年(1972年)ころから、カツオパックや花カツオが売り出されました。わたしたちも、これの原料になる荒節の生産が中心になり、荒節と新節の時代になりました。原料は四つ割り本節(3kg以上)になるような大形の冷凍ものを多く使っていました。荒節の製造は、かま炊きして、ばらぬきも大きい骨だけ抜き取るだけです。乾燥は10日ほどで完了し、削り包丁で形を整えたりせずに、機械の力を借り、サンドペーパー状のものでこすって、節の表面を削るのです。骨があるとサンドペーパーがすぐ傷むので、大きい骨は抜いていました。製造工程が省力化され、本枯節に比べて製造期間も5分の1に短縮されました。
 主人は病弱でしたので、浅間山荘事件(*10)で世間が大騒ぎをしているときでも、テレビも見る間がないくらい働きました。納屋番さんたちは秋には帰りますので、それからは春メジカ(ソウダガツオのこと)かカツオでもあったら、わたしが、火炊き(焙乾)をしなかったらいかないのですよ。焙乾の炉は1部屋に6か所、2部屋で12か所ありましたが、この火を炊くのですよ。炊き終わると、午前1時くらいになりよりました。自分で仕事したから分かるけど、大変な労働だったですよ。それでも、カツオ節づくりに勢いのあった時代で、わたしたちも若くて働くのが生きがいでもあったのです。
 昔から、ここのカツオは鮮魚で出ていました。土佐沖で釣れたカツオが、一番味がいいといわれていまして、5月の中ころでないと製造には回ってきませんでした。生(なま)ボート(カツオの運搬船のこと)や、トラックで運んでいたのであまり遠くへは出せなっかたのですが、冷凍車ができてからは、遠くは東北や九州地方にまで鮮魚を出すことができだしました。特に、今は生のカツオを刺身やたたき(*11)にするので高値で売れるでしょう。ここらみたいにどんどん生のカツオで出るところはないでしょう。ここ1、2年はカツオ船は深浦で2隻になりましてね。よそから5隻くらい来よります。
 今は、雑節づくり専門にやっています。わたしのところでは、1日に5千貫(1貫は3.75kg)でも1万貫でも雑節を炊けるのですよ。深浦全体では3軒の業者がかなりの量を炊きます。主人が亡くなる1か月前に、それまで商社に11年間勤めていた息子が帰ってきて、後を継いでくれました。カツオ節づくりの技術は、今は雑節づくりに生かされています。今思ったら、これだけの事業をよくやり遂げたものと思います。」

 イ 節づくりを支えた女性たち

 **さん(南宇和郡城辺町深浦 大正14年生まれ 72歳)
 **さんは、深浦で節づくり一筋に生きてきた。深浦のカツオ節づくりは、女性たちによって支えられてきたといわれるが、女性の立場から本枯節を中心とした節づくりの技について聞いてみた。

 (ア)節づくりの技を習う

 「わたしは、昭和28年(1953年)にカツオ節製造会社に勤め始めました。満70歳で退職するまで、40年間勤めました。節づくりを習い始めたときは、堅いカビ付きの本枯節の製造が中心でした。わたしも、勤め始めたころは、生切りやばらぬきを手伝ったり、納屋の雑用をしていました。節削りは2階でしていましたが、午後に節削りの練習をさせてもらったりしました。時間もかかり、失敗すると製品にならないので気を遣いました。
 明治生まれの節削りの職人さんが高齢になり、もう節削りをする人がこの地方にいなくなるのを納屋の親方さんらが心配して、節削りの職人を養成する講習を昭和32年(1957年)ころから初めました。県からの補助をうけ、納屋の親方さんも金を出し合い、焼津から先生を迎えて3年ほど講習会をしました。深浦では18人が、そのうち、わたしの納屋からは8人が講習を受けました。節づくりの講習は、納屋ごとに何日間か交代であり、受けている間は、納屋で日当の補助をしてくれました。3年目に城辺の公民館で総仕上げの講習会とコンクールがありました。このときには工場主、納屋番さんたち、それにこの講習会をお世話してくれた方たちで公民館が一杯で随分緊張しました。夏ごとに3年間くらい習ってどうにか普通の人くらい節削りができだしました。2階で節削りをするようになると、わたしも職人扱いになり、賃金は時間給から受け取り(出来高払い)になって腕次第になりました。
 技術の修得を兼ねて、県外に出稼ぎに行って、節づくりを習った人たちは、この地方では恵まれた家の者でした。この人らのお師匠さんは、何人かを引率して土佐(高知県)や薩摩(鹿児島県)などの県外の納屋に行きました。これで一人前になったと、お師匠さんが認めるまで、教えてくれるわけで、そのかわり、お師匠さんにお礼なんかもしていたそうです。それで、ええ家庭の娘さんか、養子娘かでないと行けなかったのです。ある程度上達すると腕次第ということで、出稼ぎに行った人は、県外の納屋で割りといいお金をとっていました。
 昭和32年に、全国の節づくりの品評会があったとき、うちの向かいの納屋におった人は2等賞を取りました。その人は、何年かたってうちにきたけど、そりゃもう、節をとってみても、見とれるくらい上手につくっていました。わたしは、その人に教えてもらいました。」

 (イ)生切りからモミ塗りまで

 「カツオ節製造の手順は、製品や生産地域で若干違います。真空パックなどの保存技術の発達で、カビ付き本枯節は極端に減少しました。ここでは本枯節の製造にかかわる女の人の取り組みについて話します。
 節づくりについては、納屋番さんが、カツオ節づくりの全部の責任をもっており、わたしら女はみんな、納屋番さんの指図のもとに働いていました。
 生切りをするときは、大きなまな板の両側に、腹を切って臓物を除く『腹ぼ切り』をする者と、背の方から背骨まで包丁を入れて背びれをとる『なかつき』という作業をする者、そして、3枚におろす『おろし方』が向き合ってやっていました。納屋番さんが頭を落としたのを、腹ぼ切りが処理しました。腹ぼを切るとき、上手に切る人と、人によったら、しゅうんと一直線に切る人がおるのです。そしたらそっけたように(身がそげたように)なって、丸みがなくなります。それが最後の出来上がりの節の形にまで影響します。丸みがつくように切るのが大切なんです。次に、なかつきと言って背骨と身の間を切って納屋番さんに渡し、納屋番さんがそこに出刃包丁を入れて腹側の身を切り裂いて3枚におろすのです。
 おろしたら今度は、『かまたて』と言って、切り身を蒸しかご(せいろ)に並べるのですが、単純作業のようで、経験がものをいうのです。かまたてが下手だったら身がねじれるのです。並べ方で身が反ったり牛の角みたいにねじれるのです。これも女性がするのですが、する人を一人の人に決めとるのです。かまたての人は『下手に並べとったらいかんがと思って気がもめる。』と言っていました。
 次に、かま炊きですが、かまに入れて1時間40分くらい炊きます。火がきつすぎる(強すぎる)と丸く、こっぷり(こっぽり)下駄(*12)のようになるのです。また生カツオの鮮度もよすぎると身割れがします。魚の鮮度や魚質によって、湯の温度やゆで加減を納屋番さんが調節するのです。
 ばらぬきは、かまでゆでたものを、形の崩れないうちに出して、骨を抜くのです。取っても取っても骨が残っているのです。ばらを残しておいたら、身は収縮するが、骨は縮まないから、節が曲がって身割れすることもあり、製品が駄目になるのです。残った小骨が当たらないかと手でなでてみていました。労働の疲れをまぎらわすため、世間話に興じたり歌を歌ったものです。明治の昔から古い伝統をもって受け継がれてきた『ばらぬき歌』もそのひとつでした。それは次のようなものでした。

   ・清瀬丸なら絹糸でつなぐ、よその船ならつき流せ。
   ・船がもんたに船頭がおらぬ、船頭おもての弥帆のかげ。
   ・一のばらぬき背骨からぬきゃれ、背骨ぬかねばかにゃ(金)とれぬ。
   ・カツオ釣っからはよもどらせよ、しあわせ丸よと言わせたい。
   ・カツオしゃんと釣りゃ船頭もよかろ、納屋で番するわしもよい。
   ・大漁・大漁が3年続きゃ、おかか湯巻き(腰巻き)はひじりめん(緋縮緬)。

 モミ塗りは、夜(よ)なべにばらぬきなどで傷んだ節に『モミ』を塗りよりました。モミは別名『そくい』ともいいますが、3枚におろした骨の身をすくったものや、頭についている身をとってミンチにかけたものを使っていました。昭和32年(1957年)ころまでは、穀物をつく臼で、足で踏んでついていました。モミは納屋番さんに持って行って粘り具合をみてもらってそれで修繕をしていました。」

 (ウ)節削りから日干しまで

 「いぶし乾燥をおえた節を特殊な包丁で削り、型を整える作業を『節削り』と言って、伊予では、古くから女性の職人がしていました。わたしが教えてもらった焼津の先生は、『できた節の形がよいかどうかで、節の値段が違う。(*13)』と言っとりました。食品であるだけでなく縁起物でもあるので、少しでも美しい節に仕上げようと、目の色を変えたものでした。この節削りには経験と技術がいります。
 この節の形を整える包丁を、削り包丁と言うのです(写真1-1-6参照)。腕のいい納屋番さんでないと、だれでもはこの包丁はようつくらないのです。個人個人の手の握りに合わせて、つくってくれていました。腹側を削る包丁を『腹ぐり』、背側を削る包丁を『背ひき』といいました。これらは鋼でできた真っすぐのものを、納屋番さんに曲げてもらいました。背ひきより、曲がりの多い腹側を削る腹ぐりの方を少し強く曲げるのです。腕のええ納屋番さんだったらその曲がり具合がよくて、削っても上手にいくのです。包丁の曲がりのちょっとの違いで、節がうまくできたりできなんだりしました。
 頭の方から突くと身が割れるので、しっぽの方から、『突きのみ』を当てて、中骨のあったあとを削ります。次に背ひきで背中の方を削り、腹側は、丸みがつくように腹ぐりで削ります。『突出刃(つきでば)』で仕上げの面とりをして滑らかな肌にします(写真1-1-7参照)。節の肌にあるくぼみの黒いところを残さないよう、くぼみを除けようと厚く削り過ぎると『歩留まりを考えんと、こがいに(こんなに)ぴっちゃら(ひらべった)に取って、節くずようけつくって』と言われます。身をできるだけ落とさずに、丸みをもたせて形をいかにきれいに仕上げるかが肝心です。
 1日に、多いときは8貫(1貫は3.75kg)ほど削りましたが、納屋番さんの、いぶし乾燥するための火の入れ方で、削りの量が1日で随分違うこともありました。大きい節ですと、それを抱えて終日削ると、腕がだるくなります。節削りの女の人は、職人ということで、1日に男性で土木作業をする人の日当と同じくらいになりよりました。一人身になった人でも節削りで結構食べていけました。
 削りの終わった節を、『裸節(はだかぶし)』とか『赤むき』と言いますが、四国や九州、沖縄地方では新節と言います。これにカビ付けをして本枯節ができるのです。『豆ゾックイ(つくろい)』と言うのは、カビ付けをした後の、傷んだカビの修理のことです。カツオ節づくりは夏場が中心で、ながせ(梅雨のこと)が済むと、カビを食う虫もおるしね。虫が傷めたところに、大豆を細かく砕き節削りでできた節くずを粉にして混ぜてすったものを、塗りつけて修理するわけです。何人もがぎっしり部屋に座って、節のお化粧をするのです。塗ったところはちょっと出とるから、またその上を削るのです。
 節の製品の日干しも大仕事でした。1回目は、むしろに製品を並べて、2回目は櫓(やぐら)に組み、しまいには高く積み上げ、カビ付きの固いのは立てて、工場の中にずっと広げていました。カビの取れたものは、また付け直しをするのですよ。カビ付きの節づくりは、恐ろしく手間と時間が掛るものでした。」
 本枯節は、半年以上かけて完成させる、手間の塊のようなカツオ節である。


*7:「節」は、魚肉を煮て、焙乾(加熱して乾燥させること)したものを指す。カツオ節だけでなく、マグロ節、サバ節など
  があり、日本では古来から魚肉の保存法の一つであった。
*8:体重3kg未満のカツオの左右両側の肉からつくった節を亀の甲に似ているところから亀節という。体重3kg以上の大型
  のカツオは左右両側の肉を、さらに背と腹の2部分に分け、背肉からつくる節を雄節(背節)、腹肉のほうは雌節(腹節)
  という。これらは亀節に対し、これが本当のカツオ節ということから本節ともいう。
*9:サバ科の海産魚。黒潮にのって北上し、2月下旬に九州南方海域に出現、3月下旬に四国、5、6月には伊豆や房総沖に
  達する。さらに三陸沖へ移動し10月ころ南下し始める。一本釣り漁法が主体で、生き餌を確保する必要から長年日本近海
  に限られていたが、技術の進歩により南方海域でも可能になった。最近は大型巻網漁業によっても相当量が漁獲されてい
  る(⑥)。
*10:昭和47年(1972年)2月、5名の連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の保養所「浅間山荘」に管理人夫人を人質に立て
  こもり、出動した警官隊と銃撃戦を展開、逮捕された事件。
*11:カツオの表面を火であぶり刺身にし、ニンニク、ショウガなどの薬味と二杯酢をかけたもので、高知県の名物料理であ
  る。
*12:女児用の下駄で台の底をえぐり、後側を円くし、前部を前のめりにしたもの。
*13:カツオ節は1個の芸術品のごとき感じで眺められた。鑑別法として、香味佳良なること、形状良好なること、節肌の美
  なること、乾燥適度なること、煮汁液清澄なること、繕った箇所の少なきこと、があげられている(⑪)。

写真1-1-4 カツオの水揚げでにぎわう深浦漁港

写真1-1-4 カツオの水揚げでにぎわう深浦漁港

平成9年6月撮影

写真1-1-6 削り包丁のいろいろ

写真1-1-6 削り包丁のいろいろ

左より①突きのみ、②突出刃、③腹ぐり、④背ひき、⑤腹ぐり側面、⑥背ひき側面。平成10年1月撮影

写真1-1-7 突出刃で仕上げの面とり

写真1-1-7 突出刃で仕上げの面とり

平成9年9月撮影