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愛媛の技と匠(平成9年度)

(3)愛媛のまじめな味づくり

 **さん(松山市松ノ木 昭和14年生まれ 58歳)
 **さん(松山市山越  昭和27年生まれ 45歳)
 果実飲料は、果実から搾った果汁を原料として製品化した単純な商品のようであるが、実は、デリケ一卜な商品である。搾ったままの果汁は、短い期間のうちに腐敗、変質してしまう。従って、果実飲料を商品化するためにはこうした問題を解決し、いかに、果実特有の風味・香り、いわゆる「おいしさ」を保つか。そして、いかに需要に応じた生産をすることができるかが課題であった。これらの技術的な諸問題について、1800年代から現在にいたるまで、欧米各国を中心にしてたゆまぬ研究、開発の努力が重ねられ、その成果が今日の果実飲料なのである。
 日本の果実飲料産業の成立は、太平洋戦争(1941~45年)の終結により、日本に進駐したアメリカ軍が、アメリカ産の果実飲料をもたらしたことと、新しい食品衛生法の制定(昭和22年〔1947年〕)によるといわれる(⑫)。
 愛媛県青果農業協同組合連合会(*14)(愛媛県青果連)は、戦後いち早くミカンジュースの製造に取り組み、果樹王国愛媛を代表する温州(うんしゅう)ミカン(*15)の天然の風味とおいしさを伝える『ポン(POM)』ブランドを確立した。ポンジュースのポン(POM)は、「ニッポンのポン」から取り、日本一になれという願いを託して名前を付けたといわれる。その取り組みについて研究開発に携わってきた**さんと**さんに話を聞いてまとめた。

 ア ポンジュース誕生

 「愛媛県青果連の第2代会長・桐野忠兵衛氏(1900~77年、写真1-1-8参照)は、新しい果樹産業の進路開拓を求めて、果樹先進国であるアメリカ、カナダの状況を調査するために、昭和26年(1951年)に視察に出発しました。桐野会長は、各地の果樹産地や果実の加工場を精力的に視察して回るなかで、ジュースなどの普及率の高さに感嘆しました。さらに、アメリカのフロリダ州では、世界屈指のジュース工場を見学し、その規模の大きさに驚くとともにミカンの消費の方法にも、工夫をすれば大きな可能性があることに着眼し、帰国後、愛媛県青果連の役員会に諮(はか)り、果実加工事業を進めることになりました。
 愛媛県青果連では、特にジュース事業の重要性を認識して、果汁を製造するための工場建設や、事業促進のための諸調査が進められました。そのころ日本では、ミカンの生産量もまだ少なく、生食が中心で、予測の難しい状況下でジュース事業を始めるには、大変な勇気がいったと思われます。
 昭和27年、全国に先駆けて、愛媛県青果連のジュース工場として、三津工場(松山市)が完成し、愛媛の特産である温州ミカンを使ったポンジュース第1号の製造が開始されました。加工は、最初はリーマーヘッドと呼ばれる、握りこぶしのような形をして自動的に回転する機械に、半分に切ったミカンを手で押しつけて果汁をとり、凍結室でストレート貯蔵(非濃縮のままでの貯蔵)し、需要に応じて殺菌して瓶詰めにする方法でした。現在の設備からみれば、規模も小さく半自動で、人海戦術で製造していました。それでも農協直営の工場としては革新的なものでした。そして、その工程や原理は、今も変わったところがないのです。その後、工程の近代化、効率化が特に進められたのは、搾汁(さくじゅう)方法と濃縮機の設置でした。
 昭和27年当時、日本で販売されていたのは、進駐軍によって持ちこまれたバヤリースオレンジジュースの発展に刺激されてつくられた、果汁を用いずに着色料や甘味料などを使用したものでした。販売したポンジュース第1号は、果汁20%程度のものでしたが、それでも当時は珍しいものでした。
 あまり知名度のない、搾り始めたばかりのジュースの販売には、いろんな苦労があったと思います。会長自から率先して、松山市内はもとより東京都内などの旅館や料理屋に、1軒1軒声を掛けて回ったり、自分が昼食をしたところでもポンジュースを注文したようです。だが、旅館も料理屋も、飲み物はすべて、酒屋から仕入れていました。今度は、足を棒のようにして、酒屋を歩き回ったそうです。販路を伸ばした大阪では、古びた自動車に、ポンジュースの看板をかかげ、喧騒(けんそう)の街中を走らせたりもしたようです。販売にはこのように苦労をしながらも、国産のこのポンジュースに、かなり大多数の耳目を向けさせることに成功したようです。
 ポンジュースのポンブランドが誕生したのは昭和27年(1952年)でした。当時の宣伝ポスターに『ニッポンで生まれて世界に輝くポンジュース』とあるように、その意気込みは相当なものがあったと思われます。
 ポンジュース第1号の発売以降、昭和31年(1956年)には、ポン濃厚ジュースを発売しました。夏の全国高等学校野球大会で、愛媛県立西条高等学校が優勝した昭和34年には、ポリエチレン製のボール型容器(容量は200mℓ)に詰めたポンボールジュースを開発して、甲子園球場などの野球場を中心に販売しました。昭和35年には、果汁入り発酵乳飲料ポンラックとか、昭和37年には、果汁乾燥機を設置し、水で薄めて飲む果汁入り粉末ジュースを発売しました。
 一方ミカンの生産は、昭和30年代の国の果樹振興奨励策の結果、生産量も増大しました。昭和40年代に入って生産量が急激に伸びてきて、昭和35年(1960年)には89万tであったものが昭和50年には、367万tにも達しました。その過程でむしろ生産過剰になり、豊作貧乏というか価格の大暴落がおきました。これをきっかけにして、増大した生産に対して用途拡大をはかる国の政策(*16)もあり、愛媛県にも大型の搾汁工場ができました。ミカンの生産の増大を背景に、そのことによって十分な果汁が得られ、日本の果汁産業の地位が築かれていった時代が、昭和40年代前半から昭和50年代にかけてでした。
 今も工場の入り口には、『農協人の精神、青果連の役割は農家、農民のためにある。』と書かれていますが、このことを桐野会長以下、常々徹底して言っていました。そのことが青果連の事業の中でも、きちっと位置付けられていました。従って、農協の加工事業は、生産過剰のミカンの用途拡大と需給調整により、生食用のミカンの市場の価格を安定させるためと、生産すればどうしてもでてくる裾物(すそもの)(規格外品)を加工して付加価値を高めて売り、その利益をいかに農家に還元するかという立場に立ったものでした。普通の企業と違って、そういう点をきちっと認識して、生産過剰の時代に対応していったのだと思います。」

 イ 天然果汁100%誕生

 「このような時代背景のなかで、昭和42年(1967年)には、7月中旬から10月中旬までも続いた大干ばつに西日本一帯が見舞われ、本県の果樹の被害は200億円を突破しました。水不足で発育が止まり、小玉で外観がでこぼこしているので『菊ミカン』と言われたものが、大量にできました。しかし、発育不全の菊ミカンは、腐敗しやすいが糖分は多かったのです。そこで被害地から大急ぎで菊ミカンを工場に集めて搾り、これを1升瓶(1升は1.8ℓ)に入れて天然果汁100%として大量に売り出し、とにかく全数量を売り尽くすことができました。菊ミカンから搾りとった果汁を、殺菌して、そのまま瓶に詰めて製品としたもので、水も添加物も加えていない、ストレート果汁でした。糖度の高い甘いジュースを売ることで、ミカン山の被害を最小限度に食い止めたということです。
 ただ、1升瓶という容器は、ジュースという果汁にはなじみにくいものでした。消費者は、いかに優れたものが中に詰めてあっても、外の形が相応(ふさわ)しくなければ、食指(しょくし)を動かしません。結局、この1升瓶は、農家へ配ったり、また販売を依頼した市場の卸し会社によって売り尽くされたようでした。この時、外見に気を遣う消費者のために、容器とデザイン、それにキャッチフレーズの必要性を学びました。
 菊ミカンに取り組んだのをきっかけに、天然果汁100%の一大キャンペーンを実施しました。消費者の反応は、『酸っぱい』から『いままでのものは気が抜けたように思える。』までさまざまでしたが、天然果汁100%に対する関心の高さを知ることができました。
 この結果を踏まえて、昭和44年(1969年)、現在の天然果汁100%の原型である『ポン純正オレンジジュース』を1ℓ瓶で発売し、市場において大好評を得ました。その宣伝ポスターには『人工甘味料、防腐剤、色素などの添加物はもちろん、1滴の水も、1粒の砂糖も入っていません。』と書かれていました。また、だいだい色と濃い緑色に統一された1ℓ瓶と缶詰のデザインは、いかにも鮮やかでした。缶詰と並んで、5個のミカンが積み上げられたそのポスターには、『200gのカンのために、私たちは、500gのミカンをしぼります。』という気の利いたキャッチフレーズがありました。これらは、干害のためできそこねた菊ミカンを、100%果汁として初めて大量に売ったことが、大きかったのでした。
 戦後、みんなが一生懸命に生産に励み、日本の経済もとにかく先進国に追いついてきましたが、経済成長のなかで公害問題などのひずみが生じ、食品関係としては、甘味剤のチクロ問題(*17)などが出てきました。そこで、何が大事かと問い返されるなかで、消費者に自然健康食品が見直され、何も入れていない無添加の天然果汁100%のジュースが一番体に良いのだと、注目されてきたのでした。この時代的背景に着目して天然果汁100%のジュースをつくり、消費者の期待にこたえたのでした。
 消費者の果実飲料に対する認識が一層高まってきたのに伴い、果実飲料の表示も、ジュースの呼称が問題となり、JAS(日本農林規格)では、天然果汁100%のもののみを『ジュース』と呼び、果汁含量に応じた呼称を細かく規定(*18)しました。
 おいしい果汁づくりへの本格的な研究とか新技術の開発は、この昭和44年(1969年)に天然果汁100%のジュースをつくりはじめたころからだと思います。天然果汁100%ジュースとは、特に品質向上のための製造技術の開発が要求される性質の商品でした。」

 ウ 2杯飲めるジュースづくり-新技術で品質改善-

 (ア)減酸システムの開発

 「天然果汁100%のジュースができた時には、生で食べるのに比べ果汁は酸っぱい、という指摘が消費者からありました。そこで酸味を減らし、まろやかな味にすれば飲みやすくなるということで、減酸システムの開発が進められ、『ソフトタイプ天然果汁100%のジュース』が発売されたのは、昭和57年(1982年)2月でした。当時は、加工用のミカンの量が100万t近くもあり、いかに消費を拡大していくかが一つの至上命題でした。そのためには、体にも良く、使う果汁の量も多い、天然果汁100%に力を入れて取り組みました。そして量的にもたくさん飲みやすくするために、酸味だけを取り除くという点で、いろいろ苦労はありました。『ビタミンCとか体に必要な他の栄養成分が、減酸と同時に取られては面白くない。酸味の成分であるクエン酸(ミカン類の実に含まれる酸の一種で、味は酸っぱい)だけをいかに取り除くことができるか。』という研究が進められ、イオン交換樹脂(*19)という方法で実用可能にしました。
 『天然果汁というからには、酸味を減らすとそれは天然果汁と言えないのではないか。』という意見もありました。それに対しては、『クエン酸だけしか取り除いていないのです。ミカンも熟れれば、糖分は増えてくるが酸味は減ってきます。』と言って、役所などの関係機関にデータも出し、理解をいただきました。そんな苦労の末、JASマークをつけたソフトタイプ100%のジュースが発売されました。酸味だけを減らすことに成功して、量的にもどんどん飲めるようになり、需要も増えてきました。」

 (イ)ミカンの風味を保つ技術開発

 「過剰の酸味を減らすことに成功すると、さらに、ミカンのもつ独特の風味を保つことが求められました。ミカンは、確かにすばらしい風味をもっていますが、濃縮したり瓶に詰める際、殺菌や酵素の活動を抑えるために熱をかけると、クッキングフレーバー(調理臭・加工臭)という蒸したイモのにおいが出ます。このにおいがない、生と同じような新鮮な香りとおいしさを保つにはどうしたらよいか、研究室の全知を集めた実験が繰り返されました。試行錯誤の末に、開発に成功したのは昭和58年(1983年)11月でした。
 従来は、果汁を加熱した後に真空内で水分を蒸発させる濃縮法でしたが、この方法では、水分とともに香り成分も飛散するなどのために、風味が落ちるのです。凍結濃縮法(*20)と呼ばれる新技術は、簡単にいえば、水分を氷にして取り除く無加熱の濃縮のやりかたでした(写真1-1-10参照)。風味を保つ上で、画期的な方法で、ソフトタイプに続く研究スタッフの大ヒットでした。」

 (ウ)搾汁の工夫

 「果汁の搾り方で、ミカンの果汁の色や苦味・渋味などの味全体も違ってきます。搾るとき、果皮油(かひゆ)の一部が、ジュースに入ってきます。これが過度に入っても、また好ましくない雑味が混じってもいけないのです。機械で搾るとき、部品をいかに調整するかで、違った味にもなってきます。
 また搾汁方式によっても違ってきます。チョッパーパルパー方式(はく皮搾汁方式ともいう)は、90℃の湯に約3分間つけて皮だけを熱くして、むきやすくなって出てきたミカンの皮をはいで、すりつぶして汁だけを取るというやり方でした。これはかなり最近まで残っていました。昭和44年(1969年)に導入した大型のインライン搾汁機(密閉式全自動搾汁機)は、ミカンを生のまま個々にカップ内に入れ、外気を遮断した状態で搾汁する方式です。今ではこれがすでに主流になっています。チョッパーパルパー方式と並行して用途に応じて使われていました。皮の香りがちょっと入った方が良い場合は、インライン搾汁機の方が良いし、皮の味とかにおいが入らない方がいい場合は、皮をはぐチョッパーパルパー方式が良いわけです。
 凍結濃縮法と膜濃縮法は、できるかぎりミカンの持ってる品質を損なわないようにする濃縮の仕方です。だから、搾る原料の味がそのまま残り、苦味・渋味などの搾ったときの良くないものもそのまま残ってしまうので、できるかぎりいい原料を使って、いい搾り方をする必要があるのです。このように無加熱濃縮の場合は、使う原料を限定するとか、あるいは搾る機械を選択しながら搾るとか、濃縮機に合った対応が必要です。ストレート(非濃縮)果汁のジュース製品の場合も同じです。」

 エ 国際化の波のなかで

 「一生懸命にやってきて、また消費者の自然・健康食品志向の高まりとともに、やっと果汁100%飲料市場も理解され、年々消費量も伸びていました。しかし平成4年のオレンジ果汁の輸入自由化により、安価で酸度も低いものが海外から容易に手に入ってくる競争の激しい時代となり、今、一つの転機を迎えています。わたしたちはそういった情勢のなかで、どういう新たな展開があるかということを、模索し続けているところです。
 今後、海外産の果汁を使った製品との違いを明確にし、いかに国産のもつ『健康・安全・新鮮・おいしさ』を訴えていくかが大事になっています。また飲料も多様化しているので、消費者のニーズをとらえた新しい商品開発を進めていくことが重要です。
 その方法の一つが、採れたものをそのままの味で、いかに早く新鮮に消費者に届けるかということです。旬の一番おいしいミカンがとれる冬場の時期に限定した、旬の搾りたての『ポン愛媛みかん旬ストレート100%』を平成7年から販売しています。また凍結濃縮が持つ冷たいという夏向きイメージを生かした、凍結濃縮法による果汁を使用した『ポン氷結みかん100%』を、夏場を中心に平成8年から販売しています(写真1-1-11参照)。両方とも実際にミカンそのままの香りを持った品質的にもよいジュースですから、ミカンの良さをもう一度再認識してもらえると思います。
 ミカンやミカン果汁には、ビタミン類やミネラル・食物繊維など体の活性化に役立つ成分も多く含まれていることが分かっています。さらに、がんに効く成分とか、アレルギーや高血圧にも効く成分が見いだされ、研究が進んでいます。まさに『おいしさと健康』が同居している、こうしたミカンの良さを加工製品に生かしていくことも、これから大切であろうと考えています。」


*14:愛媛県下の8つの農業協同組合が組織している連合会である。ポンジュースを中心とした各種飲料の製造販売は、その
  中心的な事業となっている。
*15:ミカンの1品種。日本原産。一般にミカンとして親しまれているもので、日本で偶然実生としてできたものといわれ
  る。果実は扁円形で大型、果皮は薄く離れやすい。通常種子がなく多液で美味である。
*16:ミカン加工需要拡大緊急対策事業のこと。昭和45年(1970年)から49年に実施された。これは、ミカン産地の農協が
  果汁工場を建設する場合に補助金(建設資金の3分の1)を交付するというもので、この指定により松山ジュース工場が建
  設された。
*17:人工甘味料の一種。砂糖の50倍くらい甘いが、体に有害なので日本では昭和44年(1969年)に使用が禁止された。
*18:昭和45年(1970年)に果実飲料のJAS規格が改正され、天然果汁(ストレート果汁、果汁含有率100%)、天然果汁
  (濃縮果汁還元、果汁含有率100%)、果汁飲料(果汁含有率50%以上)、果汁入り清涼飲料(果汁含有率10~40%)、
  果汁入り炭酸飲料(二酸化炭素を圧入したもの)に区分され、一定の表示が義務付けられた。その結果100%果汁のものだ
  けがジュースと呼称されることになり、品質が明確化された。濃縮果汁還元とは、搾ったままのストレート果汁に対して、
  いったん濃縮し、後でこれに水を加えて元の状態に戻したものである(⑤)。
*19:水溶液中のイオンと交換できる酸性または塩基性の交換基をもつ有機高分子化合物。膜状にしたイオン交換膜もある。
  製塩、海水の淡水化、物質の精製、水酸化ナトリウムの製造など多方面に利用される。
*20:濃縮果汁の製造方法の一つ。搾汁直後の果汁は約90%の水分を含むが、濃縮すると貯蔵、輸送に有利で経済的で品質成
  分の保存性も高めることになる。この方法は、冷凍して氷にして水分を分離する方法で、このほか、加熱で水分を蒸発させ
  る真空濃縮法や、半透膜で浸透圧を応用して水のまま分離する膜濃縮法などがある(⑮)。

写真1-1-8 ポンジュース生みの親 桐野忠兵衛翁の銅像

写真1-1-8 ポンジュース生みの親 桐野忠兵衛翁の銅像

松山工場内にある。平成9年12月撮影

写真1-1-10 凍結濃縮装置

写真1-1-10 凍結濃縮装置

平成9年12月撮影

写真1-1-11 息の長いポンブランド

写真1-1-11 息の長いポンブランド

平成9年12月撮影