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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)守り続けた昔ながらの味②

 ウ 舶来菓子「唐饅(とうまん)」

 **さん(宇和島市本町追手 大正13年生まれ 73歳)
 唐饅頭、一般には唐饅の名で通っている。四国から九州にかけて唐饅頭と同じ原材料の菓子はかなりあるが、そのなかからもっとも特異的で個性のある二つの唐饅頭を選べば、香川県豊浜のと愛媛県宇和島のとである。古い歴史をもつ豊浜では、江戸時代の初期、慶長年間(1596~1615年)に長崎でオランダ人から伝授されたといわれる。同じころ長崎、佐賀地方より伝来した宇和島の唐饅頭は、愛媛県下一円に広がり和菓子(在来菓子)となり普及した。宇和島の代表的銘菓になったのは、明治初年、駄菓子の類であったものが白あん、黒砂糖、ユズ(*30)のジャムあんなどを用いて保存のきくものに改良されてからである。丸形には黒あん、小判形にはユズあんが入っている(写真1-1-23参照)。原料製法など同じとみられる菓子(一口香(いっこっこう))が長崎・佐賀地方にもある(④㉒)。
 宇和島で老舗を受け継ぎ、唐饅頭をつくり続けてきた**さんに話を聞く。

 (ア)受け継いだ唐饅づくり

 「わたしの家で唐饅をつくり始めたのは、わたしの祖父で、明治の初めころからだと言います。2代目の父は、わたしが3歳の時43歳で他界しました。当時母は32歳でしたが、7歳の兄を頭に、姉2人とわたしの4人の子供を抱えて、唐饅づくりを続けながら子供を育てたわけです。その母も84歳まで生きていましたが、働くばかりの人生でした。祖父は、わたしが15歳になった昭和17年(1942年)7月に死去しました。兄も太平洋戦争の終戦の前年に戦死しました。戦後続けてこれたのはわたしのところに律儀な一人の職人がいたのと、母も実際に工場に入って唐饅を焼いていたからです。家が戦災に遭わなかったのも幸運でした。
 祖父からは『兄は人付き合いがいいから外交を、お前は製造を専門にやって、2人で力を合わせてやれば何とか食べることくらいはできるから。』と、常々言い聞かされておりました。
 わたしは、宇和島商業学校(現県立宇和島東高等学校)を卒業したら見習いに出て、菓子職人になるつもりでおりました。復員してみると、兄は戦死しており、結局母とわたしと職人の3人と、後2、3人を雇い入れて唐饅づくりを再開したのは昭和25年(1950年)でした。
 この地方では、唐饅は昭和12年(1937年)ころが一番よく売れていたようです。わたしのうちでも、10人近くの者が1日中唐饅づくりにかかりきっていたこともあったようです。そのころ、宇和島の土産物は、かまぼこと唐饅と決まっていました。かまぼこの練りものは冬はよく売れても、夏は、日持ちのする唐饅のものでした。
 昭和12年から日中戦争が始まり、次第に物資不足になっていましたが、特別に材料をいただいて、出征(しゅっせい)兵士の慰問用に陸軍省に納入していたそうです。当時は、宇和島中のお菓子屋さんが唐饅をつくっていたので、陸軍省のお声掛かりだというので各店でつくってまとめて納人したようです。おいしくてたまらないというようなものではなかったのですが、日持ちがするお菓子でしたから、慰問用には好都合だったのでしょう。しかし、煎餅と同じ干菓子(ひがし)ですから、湿気ると味が悪くなります。味の良いのは、できてから2週間が限度だと思います。当時は無理して食べてもらっていたのでしょう。
 戦後しばらくの間、食べ物は何でも売れる時期がありましたが、生活が豊かになるに従い、洋菓子に押されて、わたしのうちも洋菓子づくりを始めました。今では、唐饅以外にも和菓子から洋菓子まで、品ぞろえのためにつくっています。今(平成9年)、宇和島市内で唐饅をつくっているのは、小売店で自家製でつくっている店がうちもいれて3軒、キヨスク(駅構内の売店)などへの卸しを専門でやっているところが2軒くらいです。」

 (イ)材料にこだわる

 「唐饅の材料は、がわ(饅頭の皮の部分)にはメリケン粉(小麦粉)と水飴を、あんには黒砂糖とユズ、砂糖を使います。
 メリケン粉は、グルテンの少ない薄力粉(はくりきこ)で、神戸から取り寄せたものを祖父の代から使っていました。わたしの子供時分はメリケン粉の袋は布製で、独特の模様が付いていました。だんだん物資が不足してきていた時代、母などは、その袋を洗濯しては、その小麦粉の溶けた汁を着物などののり付けに使用しておりました。また洗った布はカーテンや布団の敷き布に使っていました。子供心に、友達の家と比べてうちはカーテンも敷き布も同じ模様の付いたものばかりで不思議に思ったものでした。メリケン粉は、今も同じ会社のものですが1ランク上のものを使っています。
 水飴は、祖父の代からもち米でつくったものを使っていたと言っていましたが、わたしは、戦後の物不足の時代に芋飴(いもあめ)を使って試作してみたことがありました。できはしましたが、ひがしやま(蒸し切り干し芋のこと)を焼いたようなにおいがするのです。祖父の代からいる職人が『こんなものをつくったら大将(祖父)に墓場から怒られる。』と反対したものです。麦芽糖の水飴ができるようになるまで待って唐饅をつくりはじめました。
 あん用の黒砂糖は、祖父の代から沖縄から取り寄せていました。祖父は、『黒砂糖はあくを抜くのに苦労する。』とよく言っていました。あく抜きのために、倉庫に1年寝かせていました。倉庫には黒砂糖の塊の入ったたるが何十個も置いてあり、たるは荒造りだったので梅雨時が来るとあくが垂れていました。子供の時分に大人が工場で黒砂糖を割っているのを見たことがあります。『この塊は粘りがあって割るのに苦労する。』と言っていました。よくその割ったかけらをもらって食べましたが、何かえぐいような感じが舌に残りました。今の黒砂糖は精製されてあくが無く、寝かせる必要もありません。チョコレートに似た味がします。使い易くはなりましたが、唐饅の独特な味づくりには、いくらかあくがあるくらいのほうがよかったのではないかと思います。
 ユズは、祖父の代には、高知県境の山に野生の実を取りに行ったそうです。とげのある木で衣服は破れ、傷も負い大変だったと話していました。今は11月のユズの収穫期にまとめて地元の鬼北(きほく)(北宇和郡内の三間(みま)町、広見(ひろみ)町、松野(まつの)町、日吉(ひよし)村などを総称していう)農協から農家で栽培したものを購入し、店の者総出で10日間から2週間かけてユズあんづくりに取り組むのです。
 ユズあんづくりは、まず、ユズを半分に切って、汁を軽く搾り、種を取って皮と身に分け、皮は1cm幅ぐらいに刻んで2昼夜ほど水にさらします。身と皮を別々にゆでて、ゆで上がったものを一緒にミンチ状にして、その分量と同等の白ザラ(氷砂糖を細かく割ったようなもの)を合わせて、ようかん状になるまで煮詰めます。つくってすぐのものは酸味が強いので、これを四斗たる(1斗は18ℓ)に詰めて1年間倉庫に寝かしておくと、酸味や苦みが取れて、まろやかな味になるのです。それに、いった白ゴマの粉末を加えてこね、がわと同じ固さのあんに仕上げます。
 祖父は、『味は素人だから分からない、玄人だから分かるというものではない。食べたらだれにでも分かるのだから、原料は吟味して最高のものを使いなさい。』と、口癖のように言っていました。」

 (ウ)飴生地の機嫌をとる

 「唐饅製造の手順と時間は、メリケン粉に炭酸ソーダーを少量入れてふるいにかけ、水飴を溶いた水でこねて、がわをつくってあんを包み、延ばして型を整えます。成形してあまり時間をおくと、表面が割れて汚くなるので、あんを包む一方からオーブンに入れて5分ぐらい焼いて、でき上がるまでに約20分間ほどかかります。作業は包むのに2人、延ばすのに2人、そして1人が焼き、都合5人1組でやっています。
 唐饅のがわのパリッとした歯触りは、それが飴生地でできているからです。普通の饅頭の生地には砂糖を使いますが、唐饅には水飴を使うのです。生地づくりでは、特に小麦粉を溶く水飴の割合に注意します。また、一般に菓子づくりにおいて、砂糖の少ないのを『割落ち』、砂糖の割合の多いのを『割勝ち』と言いますが、割落ちの方が生地がつるつるして、見た目にきれいにできます。ただ、飴生地はどうしても口にもさもさしたものが残るので、これを少なくするには、見た目にざらっとしてきますが、割勝ちにした方がよいのです。
 ユズあんの方が水分が多いからでしょうか、黒砂糖のあんより割をきかせて、やや固めに練っておかなければいけないようです。飴生地は湿気やすく、機嫌の取りにくいものです。夏と冬では大気中の湿気が違っているので、水加減を違えなくてはいけません。ややこしい(めんどうな)ものです。」

 (エ)包むも焼くも勘の冴(さ)え

 「手のひらに、こねたがわの生地を1個分載せます。この量は手加減です。1日のうち数回は、秤(はかり)で計量して分量を確認しますが、ほとんど違いません。あんは、台の上で棒状にしたものを、あらかじめへらで等分に切っておきます。このあんを包むとき、がわの真ん中にいかに上手に包み込むかが勘所です。黒砂糖のあんは、焼くと膨脹するので、包み具合が悪いと薄い所にわいて出るのです。
 また、あんが多過ぎても、焼くと膨脹してわき出ます。かと言って、がわの分量を多くし過ぎると、今度はおいしくなくなります。微妙なバランスがあるのです。また、あんが固すぎると包んで薄く延ばしたときにあんが延びなくてがわの生地より盛り上がるので、あんとがわの固さを、耳たぶの固さと同じくらいにしておきます。
 あんを包んで、もんで丸いだんごにし、それを軽く手で押して厚目の円板状にします。木型の中に黒ゴマを5、6粒置いて、その上に円板状にしたものを入れて、さらに軽くたたいて木型一杯に成型します(口絵参照)。厚さは4mmほどになります。あんを包んだ包み目を下にして延ばすので、ゴマのついている方が唐饅の裏側です。これをオーブンに入れて裏側を先に焼き、ひっくり返して表側を焼きます。焼き上がると、さらに、ほいろ(火にかざして、茶の葉をほうじたり、物を乾かしたりするための箱)で湿気を取り出来上がりです(写真1-1-26参照)。ほいろは、炭火の上に藁灰(わらばい)をかぶせたものを入れて、火力を調節します。
 平成になってすぐ、能率が悪いのを見かねた機械屋が、機械を導入してはと勧めてくれ、いろいろと工夫した末、唐饅づくりの機械をつくって納入してくれました。それで、試作をしてみたのですが、お客さんから味が違うと言われて、結局2、3回稼働させただけで今も新品同様です。手焼きの場合は、焼き上がってみたら善し悪しがすぐ分かるので、適当な固さで焼いてみて、これは割が勝っていると思ったら粉を入れたり加減できるわけです。同じ原料を配分しても、微妙なところが手づくりと機械づくりでは違うのです。材料が簡単になればなるほど難しいのです。
 唐饅にまつわる思い出では、昭和25年(1950年)に、昭和天皇が宇和島に泊まられた時のことがあります。戦後の、まだ材料のないころでしたが、県の方から、『材料をそろえるから陛下にお出しする御茶菓子として唐饅をつくってくれないか。』と依頼を受け、母と職人とわたしの3人でつくりました。その時、周りから、『**さん光栄じゃなあ。陛下が、大形の黒あんとユズあんの唐饅を、二つもお召し上がりになられたそうだ。』と言われました。陛下は固いお菓子がお好きだったようで、昭和41年(1966年)に松山に泊まられた時も御用達(ごようたし)があり、その時も持参しました。」

 エ 「黄金千貫(こがねせんがん)」の芋(いも)菓子

 岩城(いわぎ)島(越智郡岩城村)は瀬戸内海のほぼ中央に位置する面積8.79km²の島である。この島には、全国にその名を知られた「イワギの芋菓子」がある。これについて、『岩城村誌(㉓)』には、「大正の初め、岩城村の益田谷吉(1864~1929年、写真1-1-27参照)が神戸市の青物市場で見つけた芋菓子の製法を、その製造元の岐阜市に赴き秘伝といわれて伝授を拒否されたにもかかわらず盗み見てその手法の大要を知り、以後研究を重ね試行錯誤の末、ようやく製造に成功したのが大正8年(1919年)ころであった。谷吉はこれを岩城村の者に惜しみなく伝授したので、芋どころの岩城村ではたちまち製造業者が急増、昭和10年(1935年)ころにはその数30数軒に達し、従業者も300人を越える盛況となった。間もなく業者の乱立で過当競争となり、製造業者も11軒に激減した。戦前戦後の混乱期を経て、昭和27年(1952年)に本格的に製造が再開され、昭和34、5年最盛期を迎えて、年間使用原料甘藷(芋のこと)30万貫(1貫は3.75kg)、島の花形産業としての盛況を誇ったが、ミカンブームで原料の甘藷の作付けが激減し、原料不足のため転廃業する者が多く、現在では2業者を残すのみとなっている。今も岩城の芋菓子の名は有名である。」と記されている。

 (ア)芋どころの芋菓子づくり

 **さん(越智郡岩城村岩城 大正13年生まれ 73歳)
 伝統の芋菓子の製造に取り組んできた**さんに話を聞く。
 「元祖益田谷吉翁の長男の嫁と、わたしの母が姉妹であった関係で、父は芋菓子の製法の伝授もいち早く受けました。かつて岩城の芋菓子がよかったのは、原料の芋が近在にあったことと、それを生かす製法が伝えられたことです。
 戦後は、昭和22年(1947年)ころから再開しましたが、わたしの店で本格的に製造を開始したのは昭和24、5年でした。昭和34年ころの最盛期には、わたしの店にも従業員は40人余りいました。」

   a 製造と販売などについて

 芋菓子は、生芋を洗い、それを拍子木形に切り、油で揚げ、砂糖をまぶして自然乾燥させた乾菓子である。
 「芋菓子が始められたころは、芋洗いも、大きなたるに入れてサトイモを洗う要領で手作業でやっていました。大量に芋菓子が生産されるようになると、モーターを付けた回転式の自動芋洗い機ができ、能率も上がり、労力も軽減され楽になりました。
 芋の裁断も、鮑(かんな)状の『芋つき』という道具で1個ずつつく手作業で拍子木形にするのです。昭和34年(1959年)ころ、機械業者と共に研究した結果、手でついたものをコンベヤーに乗せて、刃のついたローラーで拍子木形にする半自動の機械ができ、能率も3倍に上がりました。
 油を沸(わ)かす燃料は、石炭から重油バーナーへ、そして現在はLPガスになっています。石炭を使用していたころ、能率を上げるために朝の4時、5時起きしてから夕方の4時ころまでも働き、いったん火を入れたら、中断して油の温度を下げないように、炊く者は昼食も交代で炊いていた時期もありました。昭和34年ころ、重油バーナーが取り付けられ楽になりました。
 砂糖がけも昔は小さい鍋で一鍋ずつ砂糖を炊いて油で揚げた芋にかけまぶしていましたが、後に糖衣機ができ、大量の砂糖を一度に炊いて次々に揚がった芋に適量かけまぶして乾燥させています。
 原料や製品の運搬は、芋菓子の製造が盛んなときは、渡海船(とかいせん)(*31)が3隻、毎日交代で岩城から尾道(広島県)や今治(愛媛県)へ通っていました。渡海船は、行きは芋菓子などを積み、帰りは食油や砂糖、包装資材などを積んで帰ってくるのです。芋菓子の販売先は、元祖(益田谷吉のこと)のころから青果市場とか乾物問屋に得意先が多く、菓子であっても菓子問屋の方にはあまり出荷されていませんでした。最盛期には、わたしの店でも日産1.5t程も出荷していたので、長時間にわたる作業は多くの労力が必要で、大変な仕事でした。」

   b 原料芋について

 「原料の芋は、岩城島や近辺の島に豊富にあった芋を集めて製造していました。芋の収穫期に、生芋を大量に買い付け、倉庫や畑に俗に言う『芋つぼ』を掘って芋を入れ、その上を麦わらで覆って土をかけ、空気抜きをつけて保管していました。
 昭和44、5年(1969、70年)、ミカンの植え付けが増え、近在に原料の芋が少なくなったのですが、たまたまわたし方に小豆島(香川県)につてがあり、そこから大量に仕入れて他業者にも分けてあげていました。そのころは通気性のよい紙袋に入れて、倉庫で保管する貯蔵法に変わってきました。
 原料芋が地元にだんだん少なくなり、昭和57、8年(1982、83年)からは、九州産の『黄金千貫』という芋を一次加工(素揚げ)したのを購入して、二次加工をしております。一次加工は、生芋を油で揚げるまで高性能の機械で自動化して、人手を省いています。大きな設備が要り、後継者がおってやれることです。二次加工方式になったときには、島内の芋菓子製造業者は3軒になっていました。」

 (イ)製法を受け継いで

 続けて**さんに話を聞く。
 「元祖が、芋菓子の製造に当たって苦労された点は、油の温度調節による揚げ具合と砂糖のかけ方ではなかったかと思います。芋菓子は揚げ物ですから油の温度が肝心です。適度の温度に油を沸(わ)かしていると思っていても、芋を大量に入れるのですから温度が下がります。温度が低いと、しわしわになり、カラッと芋が揚がりません。しかし温度が高くなり過ぎると、焦げて黒くなってしまいます。この辺の油の量や温度管理がなかなか難しいのです。
 また砂糖の煮詰め具合も微妙です。煮詰め具合が不十分な場合は、なんぼやっても砂糖が乾かないのです。反対に、煮詰め過ぎると、揚げた芋にきれいに混ざらんうちに砂糖が乾いてじゃりじゃりになってしまうのです。そして、独特の歯ざわりと風味をだすのにも苦心されたのでしょう。
 わたしは、今では永年の勘でやっていますが、ここらのこつが、元祖のころから受け継がれてきているのです。むろん、長い間には、家々で使う油の性質や量、温度や砂糖がけも、微妙な点で工夫もされ、味も家々で幾らかずつは違うと思います。
 今の二次加工からの取り組みでしたら人手が少なくてできます。今は、製品の在庫は最小限にして、常に味のよい新しい製品を出荷するようにしています。手作りの注文生産ということです。
 最近は食べ物全体がソフト志向になっています。今の芋菓子もそうで、原料の芋の品種も変わり、昔のように固い芋菓子ではなくなっています。古くからの芋菓子を知っている年配の人の中には、固いものを好まれる人もいます。いまでも伝統の味が懐かしく、おいしいと言って2千円、3千円分送って欲しいという人がよくあります(千円分は約1kg)。また郷土の土産物としてもみなさんに重宝してもらっています。伝統の味を守りながら、時代の波にも乗らなければという点もあります。岩城の芋菓子が広く知られ、今もおいしいと好評なのは、元祖は言うまでもなく多くの製造業者の努力のたまものと思います。」

 (ウ)省力化で伝統の味を守る

 **さん(越智郡岩城村岩城 昭和25年生まれ 47歳)
 **さんは、2代目として積極的に工程の能率化をはかりながら、伝統の味づくりに取り組んでいる。**さんに話を聞く。
 「4年ほど島外に就職していましたが、28歳で芋菓子製造の後を継ぎ、18年になります。
 生芋からの加工は、長時間労働してもそれだけの生産量が上がらず、採算ベースに乗らないので、省力化を試みながら岩城の芋菓子の味を残そうという取り組みのなかで、元祖の苦労が本当に分かったような思いです。
 『黄金千貫』という品種の芋を原料として使っていますが、これは、宮崎県の農家と契約栽培をしています。岩城村に帰って5年ほどはこちらの芋を使っていましたが、その後一次加工した黄金千貫に切り替えました。この品種は南国産で特に宮崎、鹿児島の焼酎(しょうちゅう)の原料になる芋です。大量に生産していて原料確保ができやすいのと、繊維が少なくでんぷん質の多い芋で、芋菓子に向いているものです。大きくて形状もずんぐりしていて、加工して無駄が少なく歩留まりが良いのです。芋菓子は、原料の芋の質に大きく左右されます。品種によるだけでなく、芋は農家1軒1軒の畑によっても違います。埼玉県や高知県などで芋菓子に加工されている芋も、その多くが南九州産の原料芋を使っています。
 生芋から製品までの工程の省力化をしようと思ったら、夜も眠れなかったですよ。朝早くから原料は集めなければならず、それで実際に試してみなければいけないし、形が崩れたら製品にはならず、全部捨てなくてはいけないのです。3年くらい苦労しました。その都度、高知の方から、『うまくできないから』と言って、製品を回してもらってしのいだものです。製品を少しつくるのだったら、じっとそばに付いていたらできるのです。ある程度の量産をしながら温度管理を自動化しようとすると、とても簡単にはできなかったのです。原理は分かるのだけど、油の量から温度管理から、とにかく全体の工程をつくるのに難渋しました。子供のころから手伝っていたから、簡単にできるもんだと思っていましたが、省力化の過程で、改めて最初に始めた益田谷吉翁の苦労が分かった思いでした。
 子供のころは、火力は石炭でしたが、生芋を入れて油の温度を下げないためには、石炭をどれくらいくべて温度を一定にするか、やっぱり難しかったですね。生からだから、多量に入れると油の温度がさっと下がります。ガス釜になったらだいぶ楽になりましたが、一度温度が下がったらなかなか上がらないので、油の温度管理には苦労しました。
 従来の丸釜(まるがま)で1回揚げるのに最低7分間かかります。それを取り出して、また次のものを揚げていると、時間と労力がいるので、油を循環式にして、一定の温度に保った油槽の中に、3個の金網のかごに一次加工をした芋を入れ、油槽につけて揚がり具合を見て、順に取り上げます(写真1-1-29参照)。しかし、この方法でも、やはり揚げる芋の量によって油の温度は違ってきます。
 油は、菜種油や大豆油、米油など数種類を配合しています。温度は163℃から165℃で、夏場と冬場では違います。夏場は温度を下げます。収穫の時期による芋の実入り具合、拍子木切りの大きさなどによっても温度を調節するのです。砂糖汁の調合は企業秘密ですが、あらかじめ煮込んでおいた砂糖汁を糖衣機に入れ、芋にまぶします。この味付け時間は長年の勘です。製法の合理化に取り組んできましたが、基本的には岩城の昔からの製法を踏まえて、伝統の味づくりをしています。」


*30:ミカン科の小高木。中国原産。果実は球形で、果皮は鮮黄色、表面はごつごつしているが皮はむきやすい。果実が酸っ
  ぱいので柚酸と名付けられたという。独特の香りを日本人は好み、日本料理や、和菓子などに広く使われている。スダチ、
  カボス、ハナユも同じ仲間で料理や菓子の風味を高めるのに欠かせないものである。
*31:離島の人々にとって欠かせない生活物資や日用品を運ぶ便利屋であり、同時に旅客船であった。

写真1-1-23 ぱりっと焼けた唐饅

写真1-1-23 ぱりっと焼けた唐饅

手前のゴマが付いているのが裏側である。平成10年2月撮影

写真1-1-26 ほいろで仕上げ

写真1-1-26 ほいろで仕上げ

平成9年8月撮影

写真1-1-27 元祖益田谷吉翁之碑

写真1-1-27 元祖益田谷吉翁之碑

岩城村役場前の広場にある。平成9年8月撮影

写真1-1-29 流れ作業で揚げる

写真1-1-29 流れ作業で揚げる

平成9年8月撮影