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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)砥部焼の発展

 ア 砥部焼の歩み

 砥部町の焼き物の歴史は古く、慶長年間(1596~1615年)に朝鮮から渡来した陶工によって日用の雑器(徳利、皿、鉢類)が焼かれていたといわれている。「砥部焼」という呼び名は、元文5年(1740年)に大洲藩士・人見甚左衛門栄智が著した『大洲秘録』に北川毛(きたかわげ)や大南(おおみなみ)に「茶碗(わん)鉢類を焼く、トベ焼といふ」と書かれており、それ以前にさかのぼるものと考えられる。砥部磁器としての起源は、大洲藩主第九代加藤泰候(やすとき)の時代に藩の財政を立て直そうと砥石屑(くず)を利用した磁器(*1)づくりを門田金治、杉野丈助に命じたことに始まる。丈助は五本松に登り窯(*2)(上原(かんばら)窯)を築き、釉薬(ゆうやく)(*3)による失敗を乗りこえ、安永6年(1777年)白地に藍(あい)色の絵の映える焼き物をつくることに成功した。
 文政元年(1818年)向井源治は、鉄分の多い砥石屑(外山に産出)に代わって新しい原料石である川登(かわのぼり)陶石を発見する。この陶石を使って焼いた磁器は、それまでの灰色っぽいものとは比べものにならない美しい輝きがあった。この発見は、砥部焼の原料革命ともいえる。しかし、江戸時代までの砥部は、近郊の庶民の食器を焼く窯場にすぎなかった。
 明治維新の訪れは、全国の陶工の交流を促進し、それまで門外不出だった京都や唐津、有田など、先進地の技術が砥部にも多く入り込むようになった。五松斎窯の伊藤允譲(いんじょう)は「型絵」を使った絵付けを行い大量生産の道を開いた。茶わん、丼(どんぶり)、皿などの品々は、近郊の漁村・松前(まさき)商人によって船で運ばれ、瀬戸内海沿岸の村々に広がった。ことに城戸徳蔵(城戸窯)・向井和平(愛山窯)によって中国向け、さらに東南アジア向けの輸出が盛んとなった。向井和平は、明治26年(1893年)のシカゴ世界博覧会に淡いクリーム色の「淡黄磁(たんおうじ)」を出品し、一等賞を獲得する。砥部焼は、豊富な陶石に恵まれ明治という開かれた時代の中で、市場や技術の交流を通して栄えた。
 大正時代以降は、好況・不況の大きな波に見舞われるようになる。大正3年(1914年)第一次世界大戦が始まると不況の波が押し寄せる。しかし、大正6年には東南アジア向けの「伊予ボール」(伊予の型ずり茶わんと呼ばれるブランド名)を中心に生産の80%が海外へ輸出され、空前の好況を迎えた。しかし、大戦後は一転して輸出不振となり、不況で倒産、廃業する工場が続出した。
 昭和時代に入っても好況・不況が繰り返された。昭和16年(1941年)に始まった太平洋戦争中は、企業統制のため生産も停滞するが、大戦後は生活必需品としての食器類の需要が増加した。「伊予ボール」も再び東南アジア向けに輸出されるようになった。しかし、輸出が振るわなくなったこともあり、昭和28年(1953年)ころから国内向けの花器・置物などに力を注ぎ始めた。昭和40年(1965年)ころからは、日本経済も高度成長期に入り民芸ブーム(*4)にも乗って日用食器、花器を中心とする焼き物産地としての地位を築いていった。昭和51年(1976年)、国の伝統的工芸品に指定され、昭和58年からは毎年4月下旬に「砥部焼まつり」(写真2-1-2参照)が開かれ大盛況となっている。平成元年には大南の砥部町庁舎跡地に砥部焼振興の拠点として「砥部焼伝統産業会館」(写真2-1-3参照)を建設した。現在、砥部焼における国の伝統工芸士は18名にのぼる。

 〇国の伝統工芸士とは
  伝統的工芸品は、その主要工程が手づくりであり、高度の伝統的技術によるものであるため、その習得には長い年月が必要
 であるが、近年は後継者の確保育成が難しく、業界の大きな課題となっている。
  この課題に対処するため、㈶伝統的工芸品産業振興協会では、通商産業省官報告示「伝統的工芸品等の製造に関する知識、
 技術及び技法の審査・証明事業認定規定」に基づき、通商産業大臣指定伝統的工芸品および工芸用具または工芸材料の製造に
 従事する者を対象に、「伝統工芸士認定試験」を実施し、合格した者を「伝統工芸士」として認定し、その社会的地位を高
 め、伝統的工芸品産業の振興に寄与することを目的としている。

 〇伝統工芸士になるには
  伝統的工芸品の製造に現在も直接従事し、12年以上の実務経験のある者を対象に、各認定部門(成形、加飾)において、
 実技・知識試験が行われる。
  試験内容は、以下のとおりである。
    ・実技試験…試験会場または受験者の作業場において実技の審査
          課題作品または自由作品の提出による審査       
    ・知識試験…伝統的工芸品等に関する一般知識についての統一知識試験
          当該伝統的工芸品等の技術・技法、原材料、歴史、特色などについての産地知識試験
      ※なお、認定試験は、毎年おこなわれるものではない。
       昨年(平成8年)の試験は10年ぶりに行われた。
                愛媛銀行「調査情報」97. 6より(①)

 イ 砥部の土地柄

 **さん(伊予郡砥部町川登 大正14年生まれ 72歳)
 今日の砥部焼、すなわち磁器としての砥部焼は安永6年(1777年)に始まり、昭和52年(1977年)には「砥部焼磁器創業200年祭」を砥部町あげて盛大に祝うほどの発展をみせている。しかし、その歩みは決して平坦なものではなく、常に好況と不況の波の連続であった。明治から大正時代のわずか10年間余りをみても、その様子を知ることができる。

  ○明治44年(1911年)
   陶磁器製造業者19、水車業者33、土漉(つちこし)(*5)26、窯焚(かまたき)36、ロクロエ214、焼道具師29、
   画工4、選別師12、型絵彫刻師3、型絵工91、銅版師3、荷造り26、雑役136
  ○大正2年(1913年)
   8月、70%は中国輸出。春の好況が中国内戦のため停滞。このころより台湾貿易始まる
  ○大正3年(1914年)
   第一次世界大戦始まる。5月、不況のため窯元賃下げ15%を主張、職工側5%くらいならばと対立、12日間窯元休業
  ○大正6年(1917年)
   海外輸出増加して好況。窯元工場拡張、料理屋・芸妓増加
  ○大正9年(1920年)
   株価大暴落し恐慌起きる。不況のため愛媛県の解雇職工は1万人、中でも製糸織物・窯業・鉱業は打撃大、失業者の大部
  分は帰農した。砥部焼業者組合1か月の休業を決議
  ○大正11年(1922年)
   7月1日砥部焼業者操業再開、長く休業すると販路を失う恐れあり
                           砥部焼歴史資料(第1集)より(②)

 このように砥部焼が幾多の変動の中においても、窯の火を絶やすことなく今日まで焼き続けてこられた要因について、**さん(「砥部焼伝統産業会館」の初代館長に就任、現在に至る。)に話してもらった。
 「昭和25年(1950年)までは、手作りで日用雑器を中心に登り窯(写真2-1-4参照)で焼きましたからね。燃料に費用が一番多くかかったんです。燃料費を節約するためには、どうしても小さい窯ではいかんので大きい登り窯でやって、量産しないと採算がとれなかったんです。ロクロ(*6)も蹴(け)ロクロでやっていましたからね。器用な人でも一人前になるのに3年から5年かかるんです。不器用な人にも裏方の仕事がいくらでもあったんですよ。土を練ったり、薪(まき)を運んだり、いろいろ雑用もあって、いわゆるみんなで協同しての連係作業です。今の窯屋さんは、自分でロクロをひいたものを自分で装飾して仕上げるところが多いですね。当時はロクロ師は朝から晩までロクロだけ、絵付けは絵付けだけで他のことは裏方が順々やるという流れ作業でやっていたんですよ。
 もう一つはですね。他の焼き物産地の経営の上手なところは、何代も続くような窯元があったわけです。砥部の場合は、3代続いた窯元がないほど好況・不況に左右されたんです。他の産地のように機械化して大量生産しますと売れなくなった時には困りますよね。倒産です。砥部では、働いている人間が焼き物専門ではなくて、どちらかというと半陶半農が多かったんですね。だから焼き物の受注がない時は『ちょっと休むぞ。』、『家に帰って農業しておれや。』、『仕事が増えたらみんな、集まってこい。』というようなことができたんです。そんなことも砥部焼きが長生きしたもとになるのではないですか。
 明治のころの砥部焼について書かれているものに、砥部には『地力(ちりょく)があった。』というんですよ。地力というのは、焼き物に都合のよい原石があり、松の燃料があり、そして人材がいたことです。人材というのは、今だったら若い子は『こんなところはいかん。』言うて大阪や東京へ出ていきますが、昔はそうではなかった。道後平野みたいに広いところであったら田んぼを二男、三男にも分けることができたのです。砥部は小さな谷盆地ですから大きな農家でも5反(1反は1ha)くらいしかないんです。それを半分に分けたら農業だけで生活できないところだったから、半陶半農というわけですよ。そういうことも時代が変わっても、焼き物が途絶えなかった一つの理由になりますかね。
 戦後はですね。ともかく戦争が終わって『器よりも食べることが先だ。』と器が売れなくなってしまったんです。**さんなど幾つかの窯元が残っただけで、バタバタと廃業したんです。ちょうど、砥部焼を再興しなければならない時に県の指導があって、民芸派の柳宗悦さん(民芸運動の指導者)が産業育成に手を貸してくれたんです。それに富本憲吉さん(近代陶芸の基礎を築いた人)も来て、**さんとこの職人さんや小窯の若者の指導をしてくれましてね。『磁器の産地だから食器を作れ。』、『くだらんものを作ったらいかん。』とね。若者は若者で陶和会(昭和34年〔1959年〕に窯元の後継者が集まってできた団体)という組織を作って、教えやいこ(互いに教えあうこと)をして盛りあがってきたわけです。だからみんなスタートが同じなんです。外から来た人にも教えられることが多くて、みんなで力を合わせて再興しようという意識統一ができたわけです。そのころ、燃料の松にかわる重油・電気・ガスの導入で小窯が急増しましたので、それぞれが窯を持つようになるでしょう。そうすると壁にぶち当たる時が再々あるんですよ。どうしたらよいか先輩に聞くと、手伝ってくれたりします。そういう横の連絡が自然にできてみんなが溶け合う感じになったんです。最近、ほかの産地が機械化していっています。砥部焼は、あくまで伝統を守り手作り手描きの手法をモットーに日夜努力しています。」

 ウ 砥部焼を育てた陶芸家たち

 **さん(伊予郡砥部町大南 大正10年生まれ 76歳)
 戦後、砥部焼は大きく変わったと言われている。さまざまな要因はあるが、そのきっかけとなったのは、昭和28年(1953年)5月23日、民芸運動の指導者である柳宗悦が砥部を訪れたことによる。その目的は、工業製品との競争のため荒廃しつつある日本の伝統工芸の現状を視察するためであった(③)。この時、イギリスの著名な陶芸家バーナード・リーチ(*7)も同行していた。二人が訪れた窯の中に梅野精陶所(梅山窯)があり、以来、砥部が迎えた指導者たちは、社長の**さんと大きなかかわりをもちながら、陶工たちを指導していった。
 **さんは、兄二人が戦死したため昭和21年に家業を継いだ。当時、砥部には窯元が8軒、資本力も技術力もないドン底の時代だった。柳宗悦が訪れた昭和28年には、戦争で途絶えていた貿易が再開され、梅山窯も9室の登り窯でビルマ(現ミャンマー)向けの「伊予ボール」を大量に焼いていた。このころの砥部は、食器の絵付けが型ずりで、絵筆が持てる人、図案が描ける人がほとんどいない産地であった(③)。
 柳宗悦の紹介で砥部にきた浜田庄司(昭和30年〔1955年〕、民芸陶器によって国の無形文化財技術保持者「人間国宝」となる)は、砥部焼の振興を図る上で民芸派で図案ができる鈴木繁男を推薦(すいせん)している。さらに砥部焼の発展にとって幸いしたことは、昭和31年、近代陶芸の基礎を築き色絵磁器によって国の無形文化財技術保持者「人間国宝」になった富本憲吉が砥部を訪れたことである。この縁によって澤田犉が梅山窯に入社し、昭和34年には藤本能道を県の嘱託として推薦している。藤本も後に、色絵磁器によって国の無形文化財技術保持者「人間国宝」に認定されるとともに、東京芸術大学の学長となり、文字通り日本の陶芸界の第一人者となっている。
 砥部の陶工たちにとって、この上ない幸せは技の伝統や伝承を重視する柳宗悦、浜田庄司の民芸運動の影響を受けながら、一方で富本憲吉、藤本能道の創作を重視する作家の影響を強く受けたことである(④)。砥部焼を日本の焼き物に育てあげた**さん(「砥部焼中興の祖」と愛媛県史に記述)に、陶芸家との出会いについて話してもらった。

 (ア)柳宗悦との出会い

 「わたしのところへ柳先生とリーチさんが県の公用車に乗って来られたんです。そのころ、わたしの窯場では水盤、投げ入れ花生(い)け(筒状の花器)、コンポート(*8)といった花器が主で食器といえば南方向けの『伊予ボール』だけだったんです。伊予ボールは、ポンド地域の貿易が再会されてビルマのラングーン(現在ミャンマーのヤンゴン)向けに1万個ぐらい作っていまして活気があったんです。登り窯でやっていたんです。この様子などを見て柳先生がわたしに話されたことは、『日本の焼き物は近代になって機械化され、形にしても模様にしても大変乱れていて、しっかりした良いものがない。』『砥部は磁器の産地でありながら実用食器がないのはおかしい。』ということでした。なるほどと教えられた思いでした。
 柳先生はいろいろ窯を見たり、懇談会などをして帰る日に久松定武知事さんに挨拶(あいさつ)に行ったんです。知事さんと柳先生は、学習院・東京帝国大学と同窓でしょ。そこで知事さんが愛媛の伝統工芸の話をされた中で、砥部の焼き物を発展させるために何かいい方法はなかろうかとたずねたんです。そうしたら柳先生が『それなら浜田がいいでしょう』と言われたんです。そこで県の商工課長の石川政太郎さんが鳥取で開かれていた民芸協会の大会会場に行って、浜田先生に砥部へ来て教えてもらえないかと頼んだんです。砥部が食器の産地として今こうなったのも久松知事さんが、その方向に持っていってくれたからなんです。柳先生とは、その後もずっとおつき合いいただいたんです。先生がご病気になられてお見舞に行った時も非常に喜んで、工芸のことをお話してくださったんです。」

 (イ)浜田庄司との出会い

 「浜田先生は、当時、栃木県の益子(ましこ)で伝統的な民芸の技法を使って焼き物を作っておられたんです。砥部へは一晩泊まりくらいで来られ、『こういう風にしたらええ。』といろいろアドバイスをしてくれたんです。砥部の陶土を益子で焼いてみたいと持って帰ったんですが、十分立派にできるということでした。先生は『伊万里(*9)も九谷(*10)も乱れている。これからいい仕事ができるところは、会津本郷(福島県)と四国の砥部だろう。』と話されたんです。ちょうどそのころ、先生の弟子で西条(愛媛県)に窯を開いていた阿部祐工さんという人がわたしのところの窯で焼いてもらえないかと一枚の皿を持ってきたんです。焼けるとすぐ汽車に乗って東京へ行ったんですが、それが陶芸展に入選したんです。阿部さんは浜田先生の門下生であったことや、そんないきさつもあって砥部に窯を移すことになったんです。
 浜田先生がわたしのとこの窯の話を東京でしたらしいんです。それで式場さんというお医者さんが山下清さん(ちぎり絵で有名。テレビドラマ『裸の大将』の主人公)を砥部へ連れてきたんです。山下さんが車を降りて言うたことは『お前は兵隊の位で何ぞ、中尉か大尉か。』と聞くんで『わしは大将じゃ。』と言うたんです。そんなことがあったりして、浜田先生はわたしが会社を経営していくうえでの方向づけに、大なり小なり影響があったんです。」

 (ウ)鈴木繁男との出会い

 「鈴木さんは、柳先生のところに住み込んでお手伝いしながら焼き物を始めた人なんです。静岡県の磐田(いわた)市に窯を作っておられたんです。わたしとの最初の出会いは、阿部祐工さんの絵付けの手伝いをするために砥部に来られた時です。鈴木さんからは、仏教から哲学、そして柳先生が研究されていることなど、大きな影響を受けました。特に工芸美論のお話はすばらしいもので『われわれの暮らしの中で一番欲しいのは、染付け磁器(*11)なんだ。どこを探しても手ごろなものは見つからない。特に飯茶わんは磁器が望ましい。』と言われたんです。英語もペラペラでした。」

 (エ)富本憲吉との出会い

 「富本先生が砥部へ来られたのは、砥部の白い磁土に興味を持たれたのがきっかけなんです。先生は試験場の隣りにあった組合の作業場を使って白磁の仕事をされたんです。試験場に勤めていた白石三郎さんが助手で手伝っていました。夜、話に来ないかと言われ訪ねた時、こんな道具があるんだと見せてくれたんです。最初に出されたのが『ヘラ』なんです。筆とかカンナとかも。筆も線を引く筆、墨をつけて書く筆、絵の具で書く筆と数十本もありました。形や毛の質など説明してくれて『道具がよく、それを大切に使わなかったらいい仕事はできない。』と言われたんです。
 世間の見方では、砥部は富本流だと言われています。コーヒー茶わん、湯呑(の)み、皿など富本案はあったんです。先生が『富本案のデザインで扱う商社があるから、お前のところでやってみないか。』と言われたんです。考えてみますと言ったんですが、絵が描ける者がいないんです。何とかこじつけてやればできないこともなかったんですが、先生の顔をつぶしたらいけないと思って断わったんです。先生は、しょっちゅうスケッチブックを持っていました。『デザインができなければ駄目だ。』『人間、一生で自分が納得のいく模様が三つできたらいい方で、それにとどまらないで、その上、どこまでできるかで決まってくる。』と言われたんです。
 東京へ行った帰りに先生のところに寄ったら、その時『お前の工場にものがわかって図案ができて、陶器をつくる技術のある男を一人入れたら爆発するぞ。』と言われたんです。うちの会社は、大学出など雇ったことがないしと言うと『給料のことは心配しなくてよい、普通の職人と同じでよいんだ。』と言われて澤田犉をよこしたんです。」

 (オ)藤本能道との出会い

 「藤本先生は、富本先生の推薦で砥部へ来られたんです。そのころ(昭和34年ころ)、砥部焼の新作展を東京の三越百貨店で例年やっていたんです。ところが常設展示でないため、その時だけでした。またデパートの主任が代わると砥部焼のコーナーがなくなっていたりしたんです。藤本先生の尽力で丸善(*12)のクラフトセンターの展示場に砥部焼の常設コーナーができて、常に砥部焼を全国に紹介することができるようになったんです。わたしの工場には、若い熱意のある人たちがいて、先生から多くのことを教えてもらいました。しばらくして先生は東京芸術大学の教授になられ、砥部へ来てもらうことができなくなったんです。
 会社も華道用の水盤や投げ入れが盛んな時は、食器工場は別に作らなければと思って、少しずつ食器を試作的にやっていたんです。ところが知らん間に食器工場になっていました。砥部焼がこれほどになったのは、こうした日本を代表する陶芸家の先生方との出会いのお陰だと思うんです。それに県が技術的な指導に力を入れてくれたことや、県産品運動なども大きな力となっています。」

 エ 陶和会の果たした役割

 **さん(伊予郡砥部町五本松 昭和13年生まれ 59歳)

 (ア)型物の産地から手作りの産地へ

 「陶和会」は、戦前からあった後継者団体の「陶友会」を一応解散し、新たに昭和34年(1959年)に窯元の後継者が集まってできた団体である。会則の第2条に「本会は会員の親睦をはかり陶芸の基礎を究め陶磁器産業に貢献することを目的とする。」とある。
 陶和会が最も力をいれたのは、ロクロ技術の修得である。当時、会員の中でロクロができたのは、先生役となった**さんと**さんくらいで、ほとんどが末経験者であった。若い会員たちは、仕事を終え、夜になると自発的に試験場に集まり実習が主体でわからないところをお互いが教え合うような活動であった。会員のロクロ技術は5年後の昭和39年、第1回「陶和会展」を松山三越百貨店で行うほどになった。気がつくと陶工の大半が陶和会でロクロを学び、砥部は型物の産地から手作りの産地に転換していた。
 活動の場所は県立工業試験場砥部分場から県立窯業試験場、町立砥部焼研修所と点々としたが、昭和58年(1983年)「砥部町陶芸創作館」(国土庁より伝統産業都市の指定を受けてのパイロット事業)が完成し(写真2-1-7参照)、陶和会もこの創作館で研修活動を行うことになった。
 陶和会でロクロの先生役となった**さん(平成8年、ロクロ成形工として「現代の名工」労働大臣表彰者)に、そのいきさつを尋ねた。
 「あれは長戸健一さん(陶和会初代会長)が『皆がロクロの勉強でもしてみたいと言っているのだが、手伝ってくれないか。』と話にきたことからです。そのころの砥部は、鋳込(いこ)み(石こうの原型に粘土を流し込んで形をつくる)や型でやることぎりで若い者は皆、親の手伝いをしていたんです。ロクロは、学校へ行って習うか弟子入りでもしなければできなかったのです。**さんや**さんでも、ずっと長く陶和会でやって、あれだけ作れるようになったんです。立派なことです。」
 陶和会は平成5年、陶和会展が第30回を迎えたのを記念して「陶和会のあゆみ」を発刊した。その中の**さんの手記の一部に次のようなことが書かれている。「昔の職人は小物から徐々に難しいものに挑戦していた。それも一理あるが陶和会ではその点の規制はなく、皆、見よう見まねで、自分の造りたいものに自由に挑戦していた。ある時、メンバーでは一番若かった**ちゃんが、ロクロに大きな土を載せていた。『**ちゃん、飯食うてきたか。』『うん、食べて来た。』『そうかヒダル腹ではその土は上がらんぞ。』と言って皆が冷やかした。しかし**ちゃんは『わしゃ、親父(おやじ)が描く山水の花瓶を作りたい。』とよく言っていたが、目標があり真剣だった。」
 会員の中で一番若く、最も熱心だったと言われている**さんに当時の様子を話してもらった。
 「ロクロのできる人は、**さんと**さんくらいですかな。ほかの者はほとんどロクロなんかはできんような状態で、お二人の指導を受けて皆ロクロの練習をしたんです。そのころの砥部は、鋳込(いこ)みという方法で『投げ入れ』と言って、ちょっと背の高いお花の稽古(けいこ)に使う花瓶を主に作っていたんです。今みたいに食器は作ってなかったんです。**さんところは、何人かロクロのできる方がおいでましたので、『コンポート』と言いまして鉢みたいな花器ですね、そういったものを登り窯で焼かれていたんです。今は食器がほとんどになってきたんですけども、砥部は花生(い)けの花器の生産地でしたが、この陶和会で皆ロクロを修得して、展示会に出す作品ができるようになってきたわけです。
 集まる場所は窯業試験場を夜、開放していただいたりしましてね。そこでしばらくやったり、ほうぼう宿借りをしてやりよったんです。昼間は生活するために今でいうと安物の花器を作りましてな、夜出て行ってロクロを教えていただいたということです。砥部焼研修所では、素焼積みから火入れ、釉薬かけ、本焼きの窯焚(た)きなど何もかもやったんです。陶和会が発足した年に藤本能道先生が砥部焼の指導に来られましてな。後に人間国宝になられた方で、普通やったら砥部なんかに来ていただけない人です。昔、山本旅館というのがあって、そこに泊まられておられたんです。そこへ皆で押しかけていって、絵付けなど、いろいろ教えていただきました。
 作品展も年1回開くようになりまして、資金稼ぎをしよったんですよ。夜、皆で作った作品を見てもいただくし、買ってもいただくということでして。普段よりも安い値段なのでファンの方も沢山(たくさん)できましてですね。またいろいろと変わったものを作るもんですから、売り上げもかなりあったんです。ロクロがほとんどできんような連中ばっかりだったんですが、今はロクロができん人がないくらい皆できるようになったです。**さんにしても**さんにしても、本当に親身になって教えていただいたです。
 陶和会のお陰もあって砥部は、窯元さん同士のつながりができとりましてですな。ほかの産地では、隣の同業者の所に出入りするのはなかなかしにくいところがあるんですが、砥部の場合は『オイ、コラ。』ということで自由に行き来しています。お互いに助け合ったり、切磋琢磨(せっさたくま)することができるんです。陶和会は今も続いているんですが、形態は変わってきたですな。昔はロクロがほとんどできなかったんですが、今は皆できるようになって。それぞれの窯元で自分が作りたいものを作ることができますしな。また昔は、ロクロが自分の工房にはなかったんですよ。今は自分の工房にロクロもすえているので、いつでも練習できますしね。」

 (イ)中央展への挑戦

 砥部焼は、昭和51年(1976年)に焼き物としては全国で6番目に通産省より「伝統的工芸品」として指定され、全国的に知られるようになった。しかし、砥部が手作り、手描きの磁器の産地となったのは、意外に新しい。
 昭和40年代初めまでの砥部焼は、水盤や投げ入れといった華道用の花器が中心で、まだ産地全体からみると食器や陶芸的な花瓶などの比率は、極めて低かった。昭和39年(1964年)陶和会の会員である**さんが菊絵模様の荒土の食器を発表し、第1回クラフトセンター賞(丸善)に選ばれているが、産地全体が急速に変化しはじめたのは昭和40年代の後半である(⑤)。
 そのきっかけは、昭和47年(1972年)に**さんの辰砂(しんしゃ)花瓶が「日本伝統工芸展」に入選(昭和47・48・49年と3年連続入選)したことに始まる。この受賞を境にして砥部の陶工たちが続々と中央展に挑戦していっている。昭和50年には、会員の**さんの青白磁花瓶が「第3回日本陶芸展」で優秀賞を受賞するなど、陶芸展への出品ブームの主役となったのが陶和会のメンバーの人たちである(⑥)。そこで、**さんに「日本伝統工芸展」への挑戦のいきさつを話してもらった。
 「伝統工芸展というのは、たいへん立派な方々が出されとりましてな。自分らは展示会に出すなんてことは、全然考えてもなかったんです。ちょうど砥部から九州の有田に行かれて焼き物を作られている樋渡陶六さんという方がおられましてな。樋渡さんは以前から伝統工芸展に出されとって、砥部に里帰りされた時に『ぜひ出してみい。』と言っていただいたんです。伝統工芸展の作品を送る所や時期などを書いて送ってきてくれまして、初めて出品してみたら入選しましてびっくりしたんです。それから砥部の方が次々と伝統工芸展に出されるようになったんです。この作品の難しいところと言われても、花瓶そのものはロクロで作ったもので、そう難しいところはないんですが辰砂という釉薬は窯で焼いた場合、なかなか色が出にくいんです。辰砂釉は釉薬の中に銅が入っているんです。
 窯の中で銅が還元(*13)されると赤い色が出るんです。これがまんべんに出るというのが難しいのですね。それがたまたま全体にまんべんに赤くなってくれたんですよ。青磁(鉄分を少量含んだ青味のある磁器)などだったら確実に青くなるんですけども。自分がそうしようと思ってもなかなかできるもんじゃないんです。だから昔から辰砂を焼くところは貧乏するというくらい、まともなものができにくいと言われているんです。焼き物は、焼き方によって色が違うんです。銅でも還元で焼くと赤くなり酸化(*14)で焼くと緑になるという感じで、炎の変化で全然変わったものになるということなんです。」


*1:生地(きじ)がよく焼き締まってガラス化し、吸水性のない純白透明性の焼き物。有田焼、九谷焼、砥部焼の類。
*2:傾斜になったところに築かれた熱効率のよい窯。内部は幾部屋にも分かれている。
*3:陶磁器の表面を覆うガラス質部分を釉薬、釉、うわぐすりという。釉薬は陶磁器の表面を美しく滑らかに強くし、吸水性
  を減らしている。
*4:大正末期、柳宗悦らの造語。庶民の生活の中から生まれた郷土的な工芸をいう。実用性と素朴な美が愛好される。
*5:不純物やまじり物などを除き粘土を作る仕事。
*6:最も一般的な陶磁器の成形方法。遠心力によって連続的に回転を続ける台と、それを支える軸からなる。以前は手で回転
  させる手ロクロと足で回転させる蹴ロクロの2つがあったが、今は電気で回転する電動ロクロが一般的となった。
*7:イギリスの陶芸家(1887~1977年)。柳宗悦、浜田庄司と親交をもち、イギリスに日本風の登り窯を築く。日本の民窯
  の伝統的な技法を取り入れ独自の個性的な作品を制作。東洋と西洋の異なる文化を、陶磁器を通して結びつけた。
*8:果物などを盛る足付きの皿。砥部焼のコンポートは、昭和時代の初めより華道の世界で新しいスタイル(白い器が花に合
  う)の花器として使いはじめた。ロクロでつくられていたが、次第に流し込みという型でつくるようになった。
*9:伊万里焼は有田焼の別称。佐賀県の有田を中心とする一帯から産出する磁器。慶長3年(1598年)朝鮮から渡来した李
  参平の製作に始まる。
*10:九谷焼の略。石川県の九谷から産出する磁器。江戸初期に焼いたという豪快な色絵作品と、江戸末期の精巧華麗な作な
  どの総称。陶磁史上では前者を古九谷と称する。
*11:呉須絵の磁器。呉須を用いて生地に藍色の絵模様を描き、その上に無地の釉薬をかけて焼きつけたもの。
*12:洋書を中心に輸入雑貨を扱う商社。顧客はインテリ層が多い。工芸文化振興のため財団法人クラフトセンター・ジャパ
  ン(CCJ)を昭和34年設立した。
*13:素地や釉薬に変化が現れる950℃前後まで酸化焼成する。その後、酸素の供給を制限し酸欠状態の不完全燃焼しなが
  ら、素地や釉薬に含まれている酸化金属物から酸素を奪い取っていく焼成法。磁器はほとんど還元焼成。
*14:初めから終わりまで酸素をたっぷりあたえながら、素地や釉薬の中に含まれている酸化金属物を酸素と結合させていく
  焼成法。陶器を主として焼く。

写真2-1-2 大盛況の第14回砥部焼まつり

写真2-1-2 大盛況の第14回砥部焼まつり

平成9年4月26・27日、砥部町総合公園で開催。第1回は昭和58年に始まる。平成9年4月撮影

写真2-1-3 砥部焼伝統産業会館

写真2-1-3 砥部焼伝統産業会館

砥部焼の魅力に時のたつのを忘れてしまう。平成9年12月撮影

写真2-1-4 梅山窯に残る登り窯

写真2-1-4 梅山窯に残る登り窯

松の割木を燃料として昭和34年ころまで使われた。平成10年1月撮影

写真2-1-7 砥部町陶芸創作館

写真2-1-7 砥部町陶芸創作館

粘土からの創作に挑戦できる施設。平成10年1月撮影