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愛媛の技と匠(平成9年度)

(4)鬼瓦に魂を

 **さん(越智郡菊間町浜 大正7年生まれ 79歳)
 大屋根から辺りを眸睨(へいげい)する鬼瓦は、昔から火難、水難をはじめあらゆる災厄(さいやく)から人や家を守るものとされてきた(写真2-2-12参照)。それはまた、同時に日本建築の風格を決めるものとして、美と品格と権威が求められるものでもあった。
 鬼瓦を製作する鬼師の家に生まれた**さんは、戦後29歳で鬼師の世界に入り、以後一貫して鬼瓦の製作に精根を傾けてきた。昭和56年(1981年)には、「現代の名工」として労働大臣表彰を受けるなど、その卓抜した技法は高く評価されている。

 ア 鬼師一代

 (ア)鬼師を継ぐ

 「わたしの家は代々鬼師ですが、兄がいたので、家を継ぐ気は毛頭ありませんでした。兄は生まれつき器用なうえ、高等小学校2年卒業後、本格的な鬼師の修業をしていますので、菊間の鬼師の中でも右に出るものがいないくらいの腕を持っていました。その兄がビルマ(現ミャンマー)で戦死したため、昭和22年(1947年)わたしが家を継ぐことになったわけです。
 わたしが子供のころには、菊間の鬼師の家には、どの家にも『小大工(こだいく)』とよばれる内弟子がおりました。小大工は、普通、小学校を終えると弟子入りし、年季の3年が終わるとお礼奉公を半年くらいして、師匠から得意先の瓦屋さんをわけてもらって独り立ちしていました。師匠としては、3年くらいで自分が教えたことは一応できるだろうということで独り立ちさせるのですが、それでも肝心な鬼(鬼瓦)の図面などは、一人前に引くのに早いものでも10年、普通は14、5年かかりますので、その後もよく師匠のところに相談に来ていました。そんな世界にわたしは29歳で入っていったわけです。当然一人前になっていないといけない年ですから、これはもう遅いを通り越していました。
 わたしも小学校高等科のころには、親父に教えてもらいながら簡単な鬼くらいなら作れるようになっていましたが、あらためて親父について修業を始めました。しかし、親父が師匠なものですから、どうしても甘えが先に立ってなかなか独り立ちするところまでいきませんでした。ところが、わたしが41歳のときに親父が急死したため、7代目を継ぎ独り立ちしたわけです。
 親父が死んでからは、とにかく人に笑われるようなものをこしらえたんではいかん、ほかの鬼師に負けないようなものをこしらえないかん、自分にしかできない独特の鬼を作らないかん、ということでたいへん苦労をしました。そういう時に一番参考になったのが古い鬼です。四国はもちろんのこと、京都へ行っても奈良へ行っても、鉛筆と帳面を持ってあちらこちらの古い鬼を写し、それに親父から習ったことを書き入れながら修業したようなことでした。鬼師に必要なのは器用さと研究熱心だと思います。」

 (イ)修業一生

 「鬼師として、やはり自分が一生懸命やって、それができあがったときには、職人独特の喜び、味わいというのがあります。人から『ようやったなあ。これだけのもの、だれまり(だれでもは)できんで。』などと言われると、それだけ評価してくれればやり甲斐があったと思います。しかし、自分の仕事というのは、へらを置いてしまうまで一生が修業だという頭があるものですから、これで満足とは一つも思わんです。
 親父が、『物をこしらえると、みんながいろいろ批評してくれるが、自分ができるだけのことをしたら、それで満足せないかん。できた時点では一生懸命やったという喜びを感じて、後悔はあとの仕事に生かしたらええのじゃけん。それが修業じゃ。鬼師いうのはそんなもんじゃ。』というようなことをよく言っておりました。
 鬼師だけでなく職人というのは何の仕事をしても、それが終わってから、あそこが悪かった、ここが悪かったと気づくもので、『ああしとったらよかった。こうしとったらよかった。しもた(しまった)、しもた。』と思いながら終わるんじゃないですかねえ。今考えてみると、菊間町民会館の龍も、構図をこうしたらよかったと思うところがあります。やっているときは一生懸命でしたが、今見ると悪いところだらけ、欠点だらけで、今だったらもっといい龍ができるのにと思います。これはうまいことできた、これで満足だというような仕事はできませんねえ。
 『鬼師は、65歳までやったらやめよ。』とよく親父が言っていました。鬼師に限りませんが、年をとると気力が衰え根気がなくなります。仕事をやっている間は熱中していますが、終わってみると気力も何もとられてしまっていて、あーしんどいということが初めてわかるんです。職人いうのはそんなものですが、そうなるともうだめですね。何とか師匠(親父)を越えようと思いながらやってきましたが、69歳のとき第一線を退きました。」

 イ 鬼のできるまで

 「鬼を作るにあたっては、まず図面を引きます。家にはそれぞれ配取(はいど)り(屋根の勾配(こうばい))というのがあります。普通の家の屋根だと5寸配くらいですが、お寺などは屋根が反(そ)っとるでしょう。だから、その配に似おせた鬼でないと屋根に合わないんです。図面は、かねざし(曲尺(かねじゃく))で引きます。かねざしで配取りをしましてね。
 鬼は顔と足がありますが、普通、鬼の寸法というのは顔の大きさです。だから、2尺、3尺の鬼というと相当太いですね。そういう鬼になると、顔だけでもいくつかに割ります。もちろん足はそれ以上に割りますわいねえ。それを中に鉄の棒を入れて、ボルトで継ぎ合わしてピシッと留めるわけなんです。今ころは配にあうようにステンレスの敷物をして、それに乗せていくというようなふき方をしています。昔はどんな大きな鬼でも、中はがらんぽ(がらんどう)でスズメが巣をしたりしていましたが、今は裏に瓦をはって(裏貼りをして)います。わかりやすく言えば、鬼瓦が箱になっているわけです。
 鬼瓦も普通の瓦も工程的にはほとんど変わりません。
 原土も同じです。昔は、島土などを3、4種類混ぜて作っていましたが、現在は讃岐土と菊間独特の五味土の2種類だけです。島土を使っていた時代には、石が多かったですから、いい鬼を作るときに特別に出したという土もありましたが、讃岐土を使う今の時代にはそんなことも必要ありません。土は組合で一括して買い、荒地を作ります。神社仏閣の鬼は普通のものよりも太いので、厚さが4cmくらいの特別な荒地をとらないといけませんが、それ以外のものは、地瓦をつくるときの荒地(厚さ2cmくらい)を継ぎ合わせて、図面を当てて鬼をこしらえていました。その他の工程も、特に変わったところはありません。ただ、土の中に石があると、細かい彫刻ができないので、石抜きは丁寧にやります。
 鬼瓦も焼くと縮みます。使う粘土によっても違いますが、親父からは『菊間の瓦の土は、1尺で1寸縮む。』とよく言われました。実際はもう少し縮みが少ないように思います。そのため荒地は少なくとも1か月くらいはナイロンで覆(おお)い、外気に触れさせないようにして放置しておきます。これを『寝かす』と言っています。そうすると鬼瓦の元になる荒地がある程度引き締まってきますので、その時点で初めて覆いをのけて仕事をするわけです。そうしないと、いくら計算していても縮みも違うし、窯に入れるまでにいがみが出るんです。そのいがみをなくすためにも、土がつつ一杯収縮した時点で仕事にかかるというのがこつですねえ。要するに、土が収縮する時間をなるべくおいてやるということです。
 細工に使うへらは、木べらから金べらまで2、30種類はあります(写真2-2-15参照)。金べらが6、7本とあとは木べらです。それぞれ形が違います。筋を引くにしても、太く引く筋と、こまに(細かく)引く筋とではみなへらが違うわけです。木べらは、ツゲの木で、自分でこしらえて、それをずっと使い続けてきたわけです。『自分の道具は自分で作れ。』と親父も言っていました。やっぱり人の道具ではいけません。自分の手くせというか握り具合、そんなものは自分でこしらえたものでないといけません。ときどき道具箱を見ると、このへらはどこやらの鬼をやるときにこしらえたものよ、というようなことがやっぱり記憶にありますね。へら1本1本に自分の思い出があります。
 標準的な鬼で、一つやるのに2か月はかかります。町民会館の龍は7、8か月かかりました。大きな鬼をやるときは、秋から冬にかけてのころの方がやりやすいですね。夏場は乾燥がひどいので、鬼師は難儀します。
 神社仏閣では鬼を屋根に上げるときに鬼立て式をします。下で棟の上で組むのと同じ組み方をして、儀式をやってから初めて屋根に上げるんです。この鬼立て式の時は鬼師も出ます。鬼立て式が終われば、一つの仕事が終わったということになります。」

 ウ 鬼をデザインする

 「鬼を作るとき一番気を遣うのは、全体的なバランス、わかりやすくいうと鬼全体の格好です。鬼には中心がありまして、右左同じ模様なんです。頭が太かったり、右左に流れている雲とか水あたりのバランスがとれてないと、鬼としては一人前とはいえません。だから、全体のバランスというものを常に頭に描いてやらないといけないのです。
 鬼にはまた勢いが大事です。水でも雲でも勢いのないのはだめです。鬼は屋根に上げるものですから、床置きみたいに細かくやっても、上に上がったときにあまりほっこりしないものではいけません。逆にずいぶん大ざっぱなと思っても、上に上げてみると勢いがあり、威厳があるというものもあります。雲や渦の太さ、鬼の角のもっていきかたや目のつけどころ、そんなところがポイントです。
 京都や奈良などの神社仏閣の仕事を見ると、ずいぶん大ざっぱですが、ああこれは参考にしなければというものがたくさんあります。昔の鬼師の仕事には、雲の高さや水の流れなど、一つ一つはわたしらが見てもどうかと思うところもありますが、全体的な構図というものに心血を注いだのでしょうか、全体の格好そのものは今の鬼師よりも勝れていると思います。結局そのあたりのことは、子達(こだち)から(小さいときから)師匠にたたきこまれた人間でないと本当に腹には入ってないのかもしれません。
 鬼の図面は原則として鬼師が引きますが、時によると設計士が引いてくることがあります。模様まで描いてくることもあり、そうすると、もうその通りやらなくてはいけません。特に昔のものを復元する場合は、現物を持ってきてこの通りやってくれということになりますが、そういうときに今の若い鬼師は頭をくくる(困り果てる)んです。かわら館に、明治16年(1883年)に皇居の造営瓦をやったときの木型がありますが、ああいうものをもってこられると鬼師は一番困るんです。
 わたしは、大きな鬼をやるときには、手元でじかに描いた図面を地面にひろげて、屋根の上などの高い所から見て修正をして、それから初めて仕事にかかるようにしていました。手元で引いた図面だけではバランスや格好もわかりませんし、どうしても一度遠く離れたところから見てみることが大切です。鬼が最終的に評価されるのは、屋根に上がってからですから。
 鬼というのは後世に残りますので、鬼師は、後世おかしな批判を受けないようにやらなくてはと、仕事をしながらいつも思います。ここは簡単にと思いながらも、いやいやこんなことをしていたら笑われると思ってやり直したりしたこともしょっちゅうありました。」

 エ 若い鬼師たちへ

 「今は家を建てるにしても、鬼を使うような屋根をあまりしなくなりました。家の中に重点を置いて、外観のいい悪いは度外視し、雨が漏(も)りさえしなければいいくらいにしか考えておりません。鬼そのものも屋根がふさげればいい、形さえあればいいというような状況で、たいへん簡略になっています。だから、図面を引いて本格的に作るような鬼ではなくて、石膏(せっこう)型に土を押し込んで作るような鬼が中心になっているというような現状で、鬼師が自分の腕を振るう場面もほとんどなくなったと思います。鬼師にとって不幸な時代と言えますね。
 鬼師と瓦屋さんの関係も変わりました。今は、瓦屋さんのところへ行って鬼を作る鬼師は一人もおりませんが、昔はみんな瓦屋さんのところで鬼を作っていました。昔の瓦屋さんは難しい注文を受けると、これはだれそれでないとだめだということで、『こういう注文があるのやが、やってくれまいか。』と言って鬼師のところにわざに来ていました。また、『こんな鬼をこしらえておいて金になるもんか。ここ、何とかせいや。』などと文句を言ったりもしていました。
 鬼師というのは、ただ教えてもらったことを守るだけではいけません。自分で研究して、自分にしかできない鬼を作ろう、そのくらいの気概がないと鬼師じゃない。人と同じような鬼を作っていたのではいけませんからね、自分の個性というものを出さないと。何の職人でも同じでしょうが、今までやってきたものを模倣しているだけでは進歩がありません。よそへ行ったら、屋根ぎり見ているくらいに熱心に研究しなければ、技術は上がりません。これからの菊間を担っていく若い人には、しっかりした目と腕を身につけて、本物の鬼師として鬼の伝統美と技法を後世に伝えていってほしいと願っています。」

写真2-2-12 大屋根でにらみをきかす鬼瓦

写真2-2-12 大屋根でにらみをきかす鬼瓦

国分寺(今治市)の本堂。**さん作。平成10年1月撮影

写真2-2-14 鬼瓦製作の実演

写真2-2-14 鬼瓦製作の実演

「’97かわらぬ愛・菊間」での鬼瓦製作の実演風景。平成9年11月撮影

写真2-2-15 鬼瓦製作用道具類

写真2-2-15 鬼瓦製作用道具類

①金べら、②たたき、③水ぼうき、④つつきべら、⑤穴つき、⑥つげべら、⑦うろこおろし(しゃちほこ用)、⑧きら。平成10年1月撮影