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愛媛の技と匠(平成9年度)

(3)狩江の里に絣と歩む

 東宇和郡明浜(あけはま)町は、宇和海に面した半農半漁の町である。このうちの旧狩江(かりえ)村では、明治10年(1877年)ころから農家の副業として「賃機(ちんばた)」が盛んになり、「狩浜縞(⑰)」の名で知られた(写真2-3-30参照)。また、ここは同じ明浜町の俵津(たわらづ)や八幡浜(やわたはま)市の合田(ごうだ)・舌間(したま)などと並んで、反物の行商の中心の一つでもあった。この狩江地区に、戦後、数少ないながら機の伝統が息づいていた。

 ア 狩浜絣を生み出す

 **さん(東宇和郡明浜町狩浜 大正14年生まれ 72歳)
 **さんは、狩浜に生まれ、戦時中に、挺身(ていしん)隊で北条(現北条市)の紡績工場に行ったほかは、ずっと狩浜に住んでいる。昭和26年(1951年)に結婚、昭和28年から、義母の助力を得て機織りを始め、平成元年まで織り続けた。伝統的な縞模様のほかに、絣模様を工夫し取り入れた。**さんに、機織りを始めた動機や模様入れの工夫について語ってもらう。

 (ア)機織りを決意する

 「**家では、機織りは代々続いておりました。**の祖母は明治中期に始めております。なかなかお金もうけが上手な人で、5、6人雇うて、整経を自分がして、賃織りに出してたそうです。わたしが嫁入りした時には、祖母は亡くなって、義母が織りよりました。義母は明治35年(1902年)生まれですが、当時、両足で4か所を踏む機で織りよったんです。戦後で衣料がないころでしたから、反物生産は間に合わんのです。
 わたしが嫁入りするときには、『あんたが行くとこは機織りしよるから、寝巻きからなんやから(寝巻きを初めとして着物のいろいろを)もらっては恥ずかしいから』と言うんで、ちょうど隣のおばあちゃんが賃織りしよりましたので、もんぺに作るものなどそこで買って持ってきたんですよ。そしたら、義母が、『うちにもらう嫁にそなわん(そのようなこと)してもらうに及ばんのに』と言うてくれたんですが、持ってきました。わたしたちの年代のものは、自分の家に機があれば別ですけれど、機織りはやらなんだんですよ。
 結婚したのは昭和26年で、その年に、義父が土木で失敗して倒産したんです。**の家は古いんです。それを一片(いっぺん)の土地も売らずにいかにして負債を払うか、義母が貯めといたお金から払っていくのはかわいそうでしょう。それでなんとかせないけんということになって考えたんです。義母と相談して、『お母さんが教えてくれるんやったら、わたし今から機やるから。1台手織りにして1反・2反では採算が合わんから、動力(織機)やったらせめてなんでもできるけん』と。
 昭和28年(1953年)、動力を入れるに当たって、八幡浜市にある織布会社から高橋式織機を購入する際、条件をつけた。『わたしは機織りは初めてじゃから教えてもらいたい、そして機械の調子も見てもらいたいから、だれか専属の人を構えてもらいたい』と。それは必死に習いました。織り物を始めるに当たって、その会社からは、絣糸は駄目だが色糸とか白糸・黒糸を取り寄せてもらうことになった。」

 (イ)狩浜絣を始める

 「このあたりの木綿織りは、ずっと縞でありました。絣は、わたしが機織りを始めた時に入れたんです。縞だと、おばあちゃんや若いお嫁さんがもんぺにしてはいているが、色を変えてもなかなかカラフルにならない。そこで、絣を経(たて)に入れることにしたんです。
 わたしの妹が、北条の紡績工場に就職して検査部門にいた。そこに大学卒の社員が実習に来ていて、『実家が広島県府中市で絣を扱いよるけん、お姉さんが絣を研究しよんなはるなら、勉強になるから1回来てみんかい』と紹介された。それで行ってみると、絣糸がなんぼでも手に入るし、染めもしよんなはった。それから、よしこれじゃと思った。府中市には、初め義母と一緒に研究に回って、次は妹夫婦と一緒に買い込みに行きました。また、三津浜(松山市)へ行って、手織りとか工場を見せてもらったりしました。喜んで見せてくれました。それは昭和27年(1952年)ごろです。
 わたしが動力を始めてから、義母は自分の機織りを止めて、わたしの手伝いになったんですけんど、病気になるまで。義母が機織りを続けると、義母も仕事にならんし、わたしも仕事になりませんからねえ。病気3年して、平成元年に93歳で亡くなりました。時間は、朝8時半から11時半、午後は1時から4時半まで。3台使って、1台で2反から2反半織りよりました。それでも注文に間に合わなかったんです。義母は動力はやらず、整経してくれました。3台で織りよりましょう、整経が間に合わない。しまいには主人かて手伝うてくれました。なぜかというと、「ちきり」(千切り、経糸を巻いたもの)という16反巻いたやつを運んで、機に取り付けるのはものすごく重いんです。織機を見てくれていた方からは、『これは重いから腰を取られるけん、運ぶのはご主人にしてもらいなはいや』と言われましたんで、協力してもらいました。
 一ロに織るといっても、整経までに時間がかかります。娘が言うには、『お母さんは、人のお尻を見よる。あれが悪いんで、視線を変えなさい』と。もんぺの柄を見てるんです。次はどういう整経しようかと頭にあるんでしょう。もう3台ごと変えよりましたら柄に行き詰まるときがあります。500本の糸をどう使うか、織りながら考えよります。糸の調子がいい間には、しょっちゅう次の柄、何にしょうかと考えよります。織機の横にメモ帳を置いとくんです。思いついたことをちょっとメモするんです。織りよりましょう、そしたらここの間隔を、この赤を今はこう使うとるが、中へ入れたらどうじゃろか、そして青と白とにしたらどうじゃろか、と考えるでしょう。この絣糸使った場合はどれにしてもいけないから、無地にしてと考える。機に整経して巻いて、もう機械経てる時分と、それと出来上がったものとはぜんぜん感覚違うんです。やっぱり緯糸の関係で。
 昔は緑の色は使っていなかった。織機を買うた会社から緑の糸を取り寄せたが、洗うと色が落ちるんです。これはいけん、タオルならなんぼ洗ろても色は落ちんからと思って、今度は今治のタオル工場へ行って色糸を取り寄せました。緑の絣はないでしょう。絣は藍と決まっていましたが、藍は色が落ちますな。そして色が付くんです。タオルの色糸は色が出ないんです。今から考えてみたら、若いけんやれたんですな。」

 (ウ)機を止める

 「機械そのものは、最初に入れたものをそのまま使ってきた。主人が亡くなって2台を壊したとき、補助がありました。3台でやっとったが最後は昭和63年(1988年)ごろ、緯巻きも一人が見んといけないし、1台にしたんです。でも、結構織れましたけんなあ。
 平成元年、義母の看病疲れもあって、機をやめたんです。昭和28年(1953年)から休みなしでした。ただ祭と正月だけは休めても。40年弱やった機をやめるのは本当につらかったんですが。娘にはこれを頼むわけには絶対いけん、なんぼ言ったて甘えられんということで。
 やめたときはつらかったです。本当に言うに言われない。ミカンを一所懸命摘果して帰ってみたら、『反(反物のこと)を送ってくださいな、なして(どうして)やめたですか』と言ってくると、また始めてみよかと、崩れとったものを見直したりしましたけど、結局、長男と相談しましてやめました。長男は、『あんたは織りだしたら、注文の人らに迷惑かけられないから、一人になってるから、夜も寝ずにするだろう。おもしろうて。それが怖いけん、やめてくれ。続けてくれとは言わない。今までは、ばあちゃんあり、父ちゃんありで協力したが、今からは3人分を1人がするいうたら、3人分とあんたが考えるけんど、5人分の負担になる』と言ったんです。」

 イ 新狩浜絣を求める

 **さん(東宇和郡明浜町狩浜 昭和34年生まれ 38歳)
 **さんは、父親の実家は福岡市博多であるが、父親の転勤のために千葉県内や東京都内で生活した。高校を卒業するころに絵を勉強し、デザイン学校に行き、また機織り教室に入った。いつしか、田舎に住んで、畑を耕し機を織る生活を求めるようになった。平成元年、明浜町に来たときに、狩浜絣の織り手を紹介され、絣織りが絶えていたことや道具、材料など条件がそろっていたので、住むことを考え、当地に転住した。現在、自宅で染め、機織りによる製作活動の傍ら、明浜町にある「ふるさと創生館」において織物教室を開催し、指導に当たっている。
 地元では、狩浜絣の後継者として期待されているが、狩浜絣にこだわらず、その柄を受け継いで生活に密着したもの、洋服地やインテリア関係などを製作している。染めは、当地にあるビワ・クズなどの草木を利用している。織りでは、木綿糸のほか、麻糸、柞蚕糸(さくさんし)(*32)、裂き布など工夫をしている。
 **さんに、狩浜絣とのかかわりや染め織りにかける熱い思いを語ってもらう。

 (ア)狩浜絣にかかわる

 「わたしがこっちに移ってから子供が生まれるまで、狩浜での織りを何か月か習いに行ったんです。ただ、わたしが通った当時、習っていた方はお年がお年だったし、8年前くらいにすっかりやめてらしたので、役場の方にお願いして無理にやらせてもらったんです。だから、技術的なことよりも、道具の使い方というんですか、織り機自体も古いものだし、整経とか工程も道具がまったく古いもので、博物館にあるような見たこともない道具を使っていたので、それを一通り使ってみるということでした。
 それまでは東京でも、ずうっと機を使っておりました。原理は同じですけれども、道具は今とだいぶ違いますね。今はもっとコンパクトで、使いやすくなっています。現在自宅には、一番調節しやすいものをおいています。織り機は調節が難しいんですよ。前はわたしも古い道具が好きで、なるべくここにあるもの、機織り機も古い織り機を使っていたんですけれども、能率というものを考えだしたときに道具は新しい道具が良いということになりました。『ふるさと創生館』にあるものも、コンパクトで値段も安いし、操作しやすいもので、初心者用です。もともとはウール用の機織り機なんですけれど、卓上にもなるし、足も付けられるというものなんです。」

 (イ)「ふるさと創生館」織物教室

 「『ふるさと創生館』の織物教室には、最近、来られる方が少なくなって、しかもほとんど町外の方ばかりです。町内の方がもうちょっと興味を持ってくれたら、『村おこし』の感じになると思うんですけど。今年の夏、子供を対象にして体験学習をやってみたいと思っています。若い方で興味を持っている人はないですね。わたしが織りやっていることは知ってるけど、見に来る人もない。教室自体は、もうほとんど年配の、子供が大きくなって、ある程度時間とお金の余裕が出てきた50代、60代の方がほとんどですよねえ。今は実質2人です。ほとんどは、ある程度やって、自分で機織り機を買って、一人で織れるようになって、やめられるということにしてるんですけど。で、時々その家に見に行ったりしてますけど。基本的なことができたら、後は数をこなしていくしかないと思いますけど。卒業生のうち、実際に織っているのは、10人のうち3人ぐらいかな。前の個展のとき募集したら、3人が作品を出されたんですけど。勤めている人が多いので、なかなか時間がないみたいで。
 わたしは、創生館で仕事していたころ、一人では限界があるんで、だれか一緒に創作活動、絣織りをやっていく人ができたらと思ってたんですけど、それがなかなか難しいんですね。」

 (ウ)織りを志す人に

 「若い方で織りやっている方から、時折電話が掛かって来るんですよ。行き詰まっているんですけど、どうしたらいいかというんで。わたしの方で、『やりたいならいらっしゃい』と言えたら一番良いんですけど、自分の生活もままならないんで、そこまで言えない。どっちかですね。弟子入りするか、自分で作家というか、自分の織りをしていくか。わたしも前に勧められたことがあったんですよ。やっていきたいんだったら、作家の人を紹介するから何年か弟子入りしないかみたいな感じで。久留米絣とか、弓浜(ゆみはま)絣(*33)とか、その偉い先生の名前で十分売れると言われたんですよ。
 とくに最近では、東南アジアとかアフリカとか、同じ手織りでほんとに安いものが入ってますよね。日本は人件費が一番高いから、デザインから何から全部決めて、向こうに頼んで思い通りの物ができるような時代になってるから、織りやってる人にとっては厳しいですね。よそにないものを作らなけりゃいけないということになるんだけど。それがなかなか。
 平成9年、宇和島市で個展『裂き織りと春の布』を開きました。今度、大洲市で『春の布とガラス展』をやります。松山でしたいんだけど、ちょっと遠いんで。平成6年に1回やったことがあるんですけど『染め・絣展-新狩浜絣-』を。愛媛県内では、布が好きな人が少ないですね。織りやってる人も少ないということは、布に興味がある人が少ないということだと思うんですよ。だから、わたしが教室やってるのは、教室で話のできる人を増やしたい。一番楽しいですから、出来上がったものを見せ合いお互いの刺激になるように。ここにいると刺激がないんですよ。相談相手もいないし、出来上がって見てもらう人もいない。個展とか、教室は、わたしにとってそういう意味で楽しいものなんです。だから、創作としては田舎にこもってやるんがいいんだろうけど、刺激がないとやっぱり自己満足だけになっちゃうんで。松山で個展をしたときに思ったんです。井の中の蛙(かわず)になってたなという気がして、もうちょっと外に出ないといけないと。別に織りに限らないんですけど、物を作ってる人たちと出会うというんですか。最近、いろいろ陶芸の方やガラス工芸をやってらっしゃる人たちと友達になって、また違う刺激になってます。」


*32:柞蚕(ヤママユガ科の大型の蛾(が))の繭から取った淡褐色の糸、中国原産。光沢があって絹糸に似る。
*33:鳥取県米子市で織られている木綿藍染めの絣。

写真2-3-30 明浜町狩浜地区の全景

写真2-3-30 明浜町狩浜地区の全景

平成9年7月撮影