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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)追究する楽しみ

 **さん(川之江市川之江町 昭和15年生まれ 57歳)
 自動車整備技術の移り変わりと、そこに残る職人かたぎについて、整備工場の2代目経営者である**さんに話をうかがった。

 ア 寡黙さと頑固さと

 「わたしの父は、家業として自動車整備をしておりました。どうして父が自動車整備業を始めたかといいますと、昭和2年(1927年)ころ、父の兄が自動車を購入して運送業を始め、父にその手伝いを頼んだのです。この手伝いというのが、自動車の整備でした。まだ自動車そのものが珍しいころですから、当然、『自動車整備業者』などというものもありません。自動車を所有している者が、自分で整備も修理もする時代でした。
 わたしは、昭和36年(1961年)高等学校を卒業したのですが、その時、父から、整備の技術を身につけるために修業に出るように言われました。そのころ、川之江市内には整備工場が4軒ほどあったのですが、父は、八幡浜市のある工場を修業場所に選び、わたしはそこへ行くことになりました。わたしはもともとが短気でして、すぐにそこの従業員とけんかをし、結局ここへ戻って父の手伝いをするという形で整備の仕事を覚えました。そのころは、この辺りで自動車を持っている者は本当に限られていて、運送業者が中心でした。今では考えられませんが、このすぐ前を通っている国道11号の路上を自動車の洗車場所として利用できるほどの少ない交通量でした。
 わたしが見習いとして仕事を手伝っていた時、父は職人を二人雇っていました。彼らは、戦前に軍隊で機械整備の技術を身につけ、終戦後は、進駐軍で整備の仕事をしていたということでした。彼らは、仕事中はほとんどしゃべりません。修理車を持って来たお客が、『車のこことここが調子が悪いので見てほしいのだが。』と言っても、返事はありませんでした。また、見習いのわたしに対しても、『次にこうしろ。』と作業の手順を指図することもありません。とにかく無口で、黙々とまじめに仕事をしていた姿を覚えています。
 見習い期間が5、6年程度では、仕事らしい仕事は与えられませんでした。分解した機械の部品や工作具を洗うなどの手伝いばかりで、まして、分解したものをもう一度組み立てることは、絶対にさせてもらえませんでした。どうしてかというと、この作業には、案外勇気がいるんです。なぜなら、もし下手な組み立て方をして、それが原因で何かの事故が起こったら、組み立てた職人の責任になるからです。ですから、昔の職人は、自分の経験やそれに裏打ちされた勘以外には、あまり信頼を置きませんでした。例えば、ねじの締め具合についてですと、自動車製造会社が作成した仕様書に、何kgの力で締めればいいのかきちんと書かれています。しかし、書かれてあるとおりにするのでは、職人は納得しません。自分の手加減で締まり具合を確認しなければ、気が済まないんです。それくらい、職人は頑固というか、責任感が強かったんです。と同時に、自分の腕に自信があったのでしょうね。」

 イ 「修理」から「交換」へ

 「自動車の製造技術の進歩とともに、昭和50年代ころから、修理方法も変わってきました。かつての自動車整備の仕方は、エンジンなどの部品も含めて、自動車全体の9割方をばらばらに分解していました。ですから、例えば車検(自動車検査)には、約2週間かかっていました。なぜ、ばらばらに分解していたのかと言いますと、そのようにして、部品を一つ一つ点検してみなければ、一体どこが故障しているのか分からなかったからです。それくらい、自動車のどの部分でも故障する可能性があったんです。今と比べると、部品の材質やエンジンオイル、さらには路面の状態など何もかも悪いのですから、そうなるのも仕方ありません。車体全体を解体して検査・手入れをするオーバーホールを、2年に1回程度はしなければいけませんでした。現在では、例えばエンジンを分解することは、まずありません。それは、エンジンの製造技術が進歩し、故障がほとんど考えられなくなったからです。
 また、このころから、自動車に電気部品が多く使われるようになってきたのですが、そのような部品が故障しますと、複雑すぎて様子が全く分かりません。ですから、その場合には、以前のように部品を全部分解して、故障している部分だけを『修理』したりすることはしません。するのは、部品全部の『交換』です。交換の作業には、熟練の技術などは不必要ですし、何の創意工夫もありません。仕様書に書かれてあるとおりに作業をすればいいのですからね。
 自動車の中心が、バスや運送会社のトラックだったころは、修理をせずに部品全部を交換したりしていたら、『なぜ、悪い部分だけを修理しないのか。』と、こちらが怒られました。それは、運転手が、整備業者に負けないくらい、機械の仕組みなどについての知識を持っていたからです。なぜかというと、そのころは、運転免許証を持っているだけでは、運転手に採用されなかったんです。運転手の助手や車掌として何年間か働き、その過程で、バスやトラックの整備・修理の技術を習得し、その後、運転免許証を取って運転手に昇格していたのです。だから、自動車に使われている機械のことは、当然よく知っているんです。
 振り返ってみると、故障の原因を追究していく過程は、面白かったです。特に、難しい修理がきた時には、『技術の勉強をさせてもらえる。自分の得になる。』と有り難く思ったものです。なかなか故障の原因が分からず苦労するのですが、こちらも職人としてのプライドがありますから、口が裂けても『分からない。修理できない。』とは言いたくありませんし、同業者にも相談したくはありません。『なんとしてでも直してやろう。』という気持ちと、『間違った修理をしてはいけない。』という使命感とを支えにして、何日かかろうが必死で原因を捜しましたね。そして、配線図もなにもなくて、自分の力だけで原因を突き詰めることができたときには、本当にうれしかったですよ。『とうとう分かった。』という思いで一杯でした。また、お客さんの、直った車を見て喜ぶ顔で、それまでの苦労も報われました。
 生計を立てていくだけのためならば、簡単で早く仕上がり、なおかつもうかる仕事だけを選べばいいのです。しかし、そのような仕事ばかりでは、気持ちの高まりがありません。そして最近では、そうした思いを味わえる機会が少なくなってきていることも、また事実です。でも、たまにそういう機会に巡り合えると、この歳になってもファイトがわいてきますよ。」
 最後に、自動車整備業での職人の生き残りについて**さんに語ってもらい、この項を閉じることにしたい。
 「仕事の主流が、修理から定期点検や車検へと変わってきた現在の自動車整備業界では、もう職人と言われる人は、生きていけないのではないですか。なぜなら、自動車製造会社が出している仕様書に書かれてあるとおりに、しかも能率よく、修理ではなく部品の交換をしさえすれば、食べていけるのです。熟練の技と磨かれた勘を頼りに、納得のいくまで一つの修理にかかるという職人的な業者では、経営が成り立ちません。また、自動車が故障した人は困っているのですから、その人の修理費用ができるだけ少なくなるように考えて、故障している部分だけを修理するのが、整備業者の役目じゃないかと考えます。どの業種でもそうでしょうが、職人には案外頑固なところがありまして、自分の今までのやり方をなかなか曲げようとはしません。しかし、このようなかたくなな姿勢は、だんだん受け入れられなくなってきているように思います。」

写真4-2-4 整備工場内風景

写真4-2-4 整備工場内風景

**さん経営。平成9年10月撮影