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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 磯崎の町並みをたどる

(1)磯崎の概観

 江戸時代には、伊予灘側にある三つの集落は、磯崎浦、喜木津浦、広早浦と呼ばれ、それぞれ、磯崎浦が宇和島(うわじま)藩領、喜木津浦と広早浦が吉田(よしだ)藩領であった。このように分かれていたのは、当地が藩領の北端にあって東に大洲(おおず)藩領が広がり、参勤交代や上方(かみがた)(京都や大坂)への海上交通の拠点として、宇和島・吉田両藩から「境目」の役割を求められたからであろう。入り江の浅い磯浜のためか、漁業は盛んではなく、漁村的性格は薄かった。磯崎は、シーボルトに師事し高野長英(たかのちょうえい)や村田蔵六(むらたぞうろく)と親交のあった幕末の医師二宮敬作(にのみやけいさく)の出身地でもある。
 明治22年(1889年)、この三つの浦を合わせて磯津(いそつ)村ができた。磯崎は、三つの浦のうち最も大きかったので、村役場や郵便局が置かれた。磯崎の東は出海(いずみ)(大洲市長浜(ながはま)町)で、天(てん)が森(もり)(393m)の山が立ちはだかっている。南は日土(八幡浜市)で、銅(どう)が鳴(なる)(767m)など佐田岬半島を貫く分水嶺の山塊がそびえている。このため、宇和海側や東の喜多(きた)郡山間部との間は尾根を通る山道で結ばれ、交易や交流が行われていた。昭和15年(1940年)、南の川之石(八幡浜市保内(ほない)町)から東の長浜(大洲市)までを結ぶ県道が開通した。一方、海上交通では、昭和の中ごろまで伊予灘沿岸を結ぶ航路があって、磯崎にも寄港した。大正から昭和時代にかけて、伊予灘沿岸には三津浜(みつはま)(松山市)と三机(みつくえ)(伊方町)を結ぶ石崎汽船の航路があり、宝安丸(ほうあんまる)と阪予丸(はんよまる)が運航していた。宝安丸は、朝6時に三津浜を出て7時前に郡中(ぐんちゅう)(伊予市)へ寄港し、上灘(かみなだ)・豊田(とよた)(下灘(しもなだ)、以上伊予市)・長浜・櫛生(くしゅう)・出海(以上大洲市)・磯崎・喜木津(以上八幡浜市)・伊方越(いかたごし)・大成(おおなる)(以上伊方町)を経て三机に着いた(図表1-1-1参照)。直ちに引き返し、夕方5時に郡中港に寄って三津浜に帰る。阪予丸は、朝、三机を出港し各港に寄って三津浜に着き、正午に三津浜を出て、各港を経て三机に帰る。このように、伊予灘沿岸を毎日午前と午後、上り下りとも2回の定期便(片道6時間弱)が航行していた(①)。後に県立図書館長を務めた菅菊太郎は、昭和3年(1928年)、この航路を利用して郡中から三机や長浜へ講演旅行に行き、「三机紀行」を著して、伊予灘沿岸の景観を絶賛している。
 昭和30年(1955年)、磯津村は合併して保内町の一部になった。このころまでに南予地域の旅客交通の中心は次第に鉄道に移り、海上航路の利用が減少し、昭和30年代には佐田岬半島と長浜を結ぶ航路も廃止された。定期船が寄港しなくなった磯崎は過疎化が進み、狭く曲がりくねった山道が多く、自動車での交通が不便で隔絶した地域のイメージが強くなった。
 しかし、伊予灘沿岸の道路整備が進められ、平成11年(1999年)に佐田岬半島の分水嶺を貫く瞽女(ごぜ)トンネル(2,156m)が開通すると、2車線の国道378号が松山と佐田岬半島を海岸沿いに結ぶ幹線の役割を果たすようになり、磯崎はそれまでと打って変わって表通りの沿線になった。
 このように、磯崎は、地理的条件から長浜など喜多郡や伊予灘沿岸地域との、いわば東西軸での交流が深かったが、行政上は保内町(現八幡浜市)という南北軸で結びつけられ、交通網の変化とともに生活が変化してきた地域であるといえよう。


(2)磯崎の町並み

 磯崎の町並みについて、Aさん(大正15年生まれ)、Bさん(昭和12年生まれ)、Cさん(昭和15年生まれ)、Dさん(昭和18年生まれ)から話を聞き、昭和30年ごろの町並みを地図にした(図表1-1-3参照)。
 
 ア 磯崎の集落と港

 「昭和30年(1955年)には、海岸沿いに現在のような大きな堤防はなく、埋め立てもありませんでした。港に波止(はと)と堤防があった程度です。海岸沿いの道路はなく浜になっていて、みんな浜を歩いていました。堤防がないので、台風が来ると、海岸沿いの家は波が打ち上がっていたのを憶えています。波止は、参勤交代のときに宇和島藩の船を泊めていたところで、古い石積みが今も残っていて市の指定文化財になっています。以前は、『くずれ波止』という波止があったのですが使えなくなったので、台風のときは、港に船を入れてもらっていました。普段は、浜に船を揚げていたりもしていました。磯崎を流れる川は、亥(い)の子(こ)川、中(なか)の川、河原(かわら)川の三つがあります。県の河川名としては、中の川は磯崎里川(いさきさとかわ)、亥の子川は中之谷(なかのたに)川になっています。
 昔は、お店も多いし、わら縄を作る工場などもありましたし、海運業をしている人もいたので、港では、船にあゆみ(岸壁と船に掛けた平たく長い板)を渡して荷物を積み込む人夫さんもいて賑(にぎ)やかでした。山からニブキ(クヌギなどの薪材)を切って浜へ持って来たり、炭を出してきて大阪へ船で送ったりしていました。運送業をする人も多くいたので、長浜へ通う渡海船(とかいせん)がほとんど毎日走っていました。お店の商品はほとんど長浜から仕入れていたので、お店屋さんから品物を頼まれると、渡海船が長浜へ行って運んで来ていました。荷物は、冬の間は波が高いので渡海船ではなく、陸を三輪トラックで運んでいました。
 長浜へ行くときは、いろは丸に乗って行きました。波止へは直接接岸しないので、波止で伝馬船(てんません)(小船)に乗って沖合いまで行き、いろは丸に乗っていました。いろは丸は午後、下り便(西へ進む)が磯崎に立ち寄っていました。夏の午後に泳いでいると船が来たのを憶えています。私(Dさん)が小学生の時の修学旅行では、磯崎から長浜までいろは丸に乗って行きました。」
 『保内町誌』(平成11年発行)には、「戦後から1959年(昭和34年)ころまで『いろは丸』が長浜-二名津(ふたなづ)間を就航し、磯崎・喜木津港にも寄港していた」と記している。
 「夏前に、沖に向かって吹く南風のことをマジと呼んでいました。手漕ぎの場合、一人では沖から港へ入ることができないくらいの強い風でした。急に吹くので海難事故が多く、小さい船が流されて人が亡くなったり、夢永(むえ)崎(岬)のところでひっくり返ったりしました。大きい船も流されて山口県で救助されたことがありました。そのため、マジで流された船を助けに行く八丁櫓(はっちょうろ)(八人漕(こ)ぎ)の大きな伝馬船が港にありました。」

 イ 港に集う

 「磯崎の港では、毎年夏、櫛生(くしゅう)(大洲市長浜町)、出海、磯津三地区対抗の小中学生水泳大会が開かれていました。港の波止と波止の間にロープを張って、コースを六つ作り、低学年は片道、高学年は往復など、種目や年齢によって泳ぐ距離は違いました。沖側は水深2mくらいありましたが、陸(おか)側は少し浅かったです。今は、港内の海底が見えることはありませんが、その当時、陸側は砂浜が見えていました。大勢の観客が出て、非常に賑やかでした。」
 保内町立磯崎小学校の『開校百周年記念 いさき』(昭和54年刊行)で、Eさん(昭和27年卒業)は「私も4年生の頃には男の子にも負けぬくらいに泳げるようになり、(中略)6年生の頃は、中学生であった姉達をライバルとして練習に励みました。喜木津・出海・櫛生・磯崎4校の水泳大会が益々盛んになり始めたのも、そのころでした。夏休み終わりのこの大会は、応援の人でお祭りのように沸(わ)いたものです。」と記している。また、同書の年表には、「三地区対抗水上競技大会」が昭和29年(1954年)に初めて記録され、昭和39年(1964年)に「三地区水泳大会を磯崎特設プールで実施(本年が最後)」と記されている。
 「櫛生や出海は喜多郡ですが、近接していて行き来が多く、なじみがありました。宇和海側の宮内や川之石は、峠を越えていかなければならないので、交流が難しかったのです。磯崎の子どもは、海で遊ぶことが多く、泳ぐのは上手でした。
 昭和30年(1955年)の町村合併でも、磯津村の西にある喜木津や広早では、宮内や川之石と合併したい人が多く、また、ミカンを作っている人は、西宇和共選に入る方が有利だと考えていました。一方、村の東にある磯崎では、長浜との結びつきが強く、櫛生や出海に親近感があったので、喜多郡の櫛生や出海と合併したい人が多かったのです。」

図表1-1-1 大正から昭和時代にかけての伊予灘沿岸航路

図表1-1-1 大正から昭和時代にかけての伊予灘沿岸航路

昭和3年7月12日付け海南新聞、『愛媛県史地誌Ⅱ(中予)』により作成。

図表1-1-3 昭和30年ころの磯崎の町並み1

図表1-1-3 昭和30年ころの磯崎の町並み1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-1-3 昭和30年頃の磯崎の町並み2

図表1-1-3 昭和30年頃の磯崎の町並み2

調査協力者からの聞き取りにより作成。