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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 東洋紡績

 明治以後、産業の近代化が進むと、機械の導入により紡績業は急速に発展し、日本経済を支える産業としてその一翼を担った。八幡浜市川之石(かわのいし)地区と紡績業との関わりは、明治20年(1887年)に四国最初の紡績会社である宇和紡績会社が設立されたことに始まり、その後、白石紡績所、大阪紡績株式会社川之石工場と経営者を変えながら受け継がれてきた。そして、大正3年(1914年)、大阪紡績株式会社と三重紡績株式会社が合併して、日本最大の紡績会社「東洋紡績株式会社」が誕生すると、東洋紡績株式会社川之石工場となった。
 地元では通称「東洋紡」と呼ばれた川之石工場の全盛期は昭和3年(1928年)ころで、従業員は2,380名(男性622名、女性1,758名)、製品は綿糸13,330梱(こおり)、綿布287,500反を生産していた。当時の川之石町民の3人に1人は同工場の従業員であり、川之石は八幡浜市以上の活気があったといわれる。
 戦時中は軍需工場に転用された時期もあったが、昭和23年(1948年)に工場の設備を買い戻して再び操業を始めると、戦災で都会の工場が焼失していたこともあり、川之石工場は、一時隆盛をきわめた。昭和27年には、精紡機28,000錘、撚糸機400錘、織機626台、従業員数は744人(男性192人、女性552人)の規模で、従業員のうち女性は7割を超えており、紡績業は女性の労働力によって支えられていたことがうかがえる。
 昭和30年代に入ると、紡績業界の再編成や輸出の長引く低迷などから、紡績業界自体が不振にあえぐようになった。川之石工場は、輸送費のかかる立地条件や設備の老朽化、電気料金の割高などもあり、昭和35年(1960年)9月に本社の経営合理化方針によって閉鎖された。現在残っている建物は、原綿倉庫と仕上げ室及び講堂の3棟のみとなっている(写真3-1-16参照)。「旧東洋紡績赤レンガ倉庫」は、平成19年、経済産業省により、近代化産業遺産群の一つとして四国から唯一選ばれた。
 東洋紡績株式会社川之石工場で働いたJさん(昭和9年生まれ)、Kさん(昭和10年生まれ)、Lさん(昭和12年生まれ)、Mさん(昭和13年生まれ)から当時の仕事や職場の様子について話を聞いた。

(1)人気の就職先だった東洋紡績

 ア 難関の就職先

 「私(Kさん)とJさんは西宇和郡日土(ひづち)村(現八幡浜市)の出身で、中学校を卒業する時に先生の紹介で試験を受け、昭和25年(1950年)に一緒に入社しました。当時は高等学校へ行く人はあまりおらず、食べていくためにもまず就職という感じでした。東洋紡といえば全国規模の会社でしたから、入るのは難しかったようです。その年に入社した人が何人くらいいたのかは正確には分かりません。同じ年の入社でも1期生、2期生と分かれていて、私は2期生で6月ころの入社でしたが、同期は30人ほどいたのではないかと思います。
 私(Lさん)は昭和31年(1956年)に入社しました。川高(愛媛県立川之石高等学校)でバレーボールをしていて、バレー部を強化するということでしたので、何人も東洋紡を受けていましたが、私ともう一人の二人が一緒に入りました。私は地元川之石の出身で、通勤ができるのに寮に入らなくてはならなかったので、入社することが決まった時、私の両親は、昔の女工哀史(じょこうあいし)のイメージが強くて、『かわいそうな。行かれん。』と就職を反対しました。私はバレーがしたかったので入社しましたが、入社してまもなく操短(操業時間の短縮)も始まり、出張(他の工場で仕事をすること)も行われるようになりました。2年も働かないうちに工場の閉鎖の話が出ていました。
 私(Mさん)は北宇和郡津島(つしま)町(現宇和島市)の出身で、津島高校(愛媛県立津島高等学校)で募集があって、5人が受験して二人が入社しました。昭和32年(1957年)、私たちが川之石工場の最後の新人社員でした。しかし、川之石工場には1年もおらず、ほとんど他所(よそ)の工場に行っていました。東洋紡では3年ほど働きましたが、入ってすぐに、『出張に行きませんか。』と言われ、お友達と『出張へ行こう。』と誘い合って、小豆島(しょうどしま)(香川県)へ1年、三重県の富田(とみた)(現四日市市)というところへ1年行きました。出張は、若い人ばかりを行かせていました。出張の期間は6か月が区切りで、『また行きますか。』と聞かれて『行きます。』というと、6か月延長されて1年になりました。三重県の富田は川之石より何倍も大きい工場でした。出張になると1か月の給料とは別に2,000円の出張旅費が出るので、それを元手にしてあちこち遊びに出かけることができました。」

 イ 紡績工場の仕事

 「工場の仕事は、1部から4部、そして織布(しょくふ)に分かれています。1部から3部を『B』、4部と織布を『S』と呼んでいました。私(Kさん)は1部に配属されました。ダンベ船(荷物を運ぶ平底の船)で運ばれてきた原綿を調合して機械にかけ、シート状になった綿の反物(たんもの)のようなものができるまでの作業で、梳棉(りゅうめん)と呼んでいました。シートの幅はどのくらいだったか覚えていませんが、腕を広げて持つことができるほどだったように思います。シートの中に心棒が通っていて、ある程度巻き取るとパチンと心棒の留め具が上がるので、私は心棒ごとはずして新たな心棒に巻きかえる作業をしていました。私は体格がよいからこの部署になったのだと思いますが、できあがったロールを持ち上げて運ぶのには力がいるので、そのせいか手が節(ふし)だらけになりました。私の仕事は早めに終わることが多く、2部や3部を覗(のぞ)いて、興味半分に手伝ってみたりもしました。勤務は2交代制で、早番は5時から13時45分、遅番は13時45分から22時まででした。途中に休憩が45分あったので8時間労働です。早番と遅番は、1週間で交代していました。
 私(Jさん)のように小柄な人は、3部に多く配属されていました。3部は、2部の練紡機(れんぼうき)と粗紡機(そぼうき)でできた、うどんくらいの太さの綿を、精紡機(せいぼうき)で紡(つむ)いでいく作業をします。3部で綿から糸になるのです。1年の中でも湿気の多い梅雨の時期は、綿が切れて繋(つな)いで回るのが大変でした。朝必ず係の人が部屋の湿度をチェックして回っていました。あまり乾燥していてもよくないので、いつも湿度調整をしていて、乾燥しているときは上から水を噴霧することもありました。湿度の調整がうまくいかないと仕事に響きます。綿が切れても機械は止まってくれないので、どんどん綿が舞ってしまって泣かされていましたが、しばらくすると新しい機械が入ってきて、切れた綿を吸い込む機能がついて楽になりました。
 古い機械は1人でせいぜい2台しか担当できませんでしたが、新しい機械になったころには、私もベテランになっていましたので、8台の機械を1人で担当していました。8台になると糸が切れていないかを見て回るだけでも大変でした。糸が切れたところを探して1日中機械の周りを走り回っていましたから、お腹もすきました。糸がどこもここも切れて繋いで回るのは大変でしたが、今思えば、職場が辛(つら)かったということはそんなにありませんでした。3部でできた糸は4部で撚りをかけたり、糊(のり)をつけたりします。その後、織布へいきます。そこには織機がいっぱいあり、一番たくさん人がいて、綿布を作っていました。
 私(Lさん)は調査室(ちょうさしつ)の配属だったので、昼専(ひるせん)と呼ばれる昼間だけの勤務でした。調査室の仕事をするのには、糸のできる工程を知っておかないといけないということで、見習いで3部の仕事をしたことがあります。とても長く感じましたが1か月もやっていませんでした。私は検査の助手で、いろんな部署からサンプルをとってきて、例えば3部でできた糸の重量や長さを検査して、今日は湿度が多いからもうちょっと締めてくださいというような仕事をしていました。私のいた調査室は、『B』の検査をするのでB調(ちょう)と呼ばれていました。『S』の調査室はS調と呼んでいました。」

(3)楽しかった寄宿舎生活

 ア 寄宿舎での生活

 寄宿舎での生活について、Kさん、Jさん、Lさんは次のように話す。
 「工場で働く人はみんな寮に入らないといけません。舎監(しゃかん)は男の人1人と女の人が3人いたと思います。女の人には奈良女子大学を出た人がいて、都会の話や文化に関することなども話してくれて先生のような感じでした。門限は22時で、寄宿舎の事務所に外出届や外泊届を提出していました。
 寮は、新星寮、若草寮、すみれ寮というように名前がついていて五つありました。寮は2階建ての建物で1フロアに6部屋あったので、一つの寮に12部屋ありました。1部屋に大体4人くらいが入り、部屋割りは、新人さんが3人にベテランさんが1人つき、そのベテランさんが部屋長さんをしていました。また、寮ごとに寮長さんがいて、自治会もあり、自治委員長は選挙で決めていました。
 早番勤務の時は、4時20分のサイレンで起床し、顔を洗って支度をして、5時から仕事を始めます。8時に朝の休憩(朝食)が45分ありました。13時45分に仕事を終えると、仕事の帰りに食堂で昼食をとり、夜間は実務高等学校(寮の中にある定時制高等学校のような学校)に行きます。遅番勤務になると、13時45分からの仕事になるので、午前中に学校へ行き、昼食をとってから職場に行きます。 19時ころに休憩(夕食)があり、終了は22時でしたので、仕事帰りにそのままお風呂に入っていましたから、部屋に戻ると後はもう寝るだけでした。
 仕事が入れ替わりの時間には、工場を出ると道路を挟(はさ)んで寄宿舎やお風呂、売店がありましたから、道路は人であふれていました。売店は、ツケで買い物をすることができ、周辺ではまだ入っていない商品も並ぶほど何でも揃(そろ)っていました。外部の人から、あれを買ってきてと頼まれたりもしました。
 浴場は男湯と女湯があり、とても広かったです。仕事でたくさんのほこりが付くので、浴場の手前には洗髪室があり、ずらっと蛇口(じゃぐち)が並んでいました。
 洗濯室には蛇口の並んだ洗濯槽(そう)があり、もちろん洗濯機はないので各自が手で洗っていました。アイロン室もあり、自分の服は自分でアイロンをかけるのですが、みなさん白い帽子やエプロンに糊をつけてピシッとアイロンをかけて綺麗(きれい)にしておられて、びっくりしました。やはり女の人だなと思いました。
 食堂には、ずらっと机が並んでいて、早番と遅番、そして昼専の人がいるので食事の時間はずれていました。食堂に勤める人も10人くらいいました。食事の内容は、実家の食事と比べるとバラエティに富んでいて結構よかったです。食堂の前には1週間分の献立(こんだて)が貼ってありました。私(Lさん)は寮の食堂で初めてシチューを食べました。カレーは家でも食べていましたが、白いシチューを初めて食べました。私(Jさん)は、ケチャップの入ったハヤシライスも初めての味でした。『なにこれ、ちょっと酸(す)っぱいな。』と思いながら食べました。」

 イ 働きながら学ぶ

 「寮の中の実務高等学校では、高校卒業程度の卒業証書を貰(もら)うことができました。私(Jさん)は、学校で洋裁も習っていましたが、それでは物足りず工場の近くにあったドレメ(ドレスメーカー女学院)にも通いました。私は手先を使うことが好きだったので、和裁も習いました。東洋紡は何もかも習えて、人に羨(うらや)まれる職場でした。当時の私は、本当は高等学校へ行きたかったのですが、先生の勧めもあって東洋紡に入りました。後になってみると、無理をしてでも学校に行けばよかった、という思いはなく、東洋紡に行って習い事もできて満足しています。お嫁入り支度も出来るくらい蓄えることができました。
 高校を卒業してから入った人は、専攻科というのがあって、料理、洋裁、和裁、お花、お茶などを習うことができました。嫁入り修業を会社がしてくれるのです。習おうと思ったらなんでも習うことができました。
 私(Kさん)は、モダンダンスを習いました。日本のモダンダンスの第一人者江口高哉(えぐちたかや)・乙矢(おとや)先生の門下生を本社が雇い、月に1回、各工場を指導に回って来られていました。前回習ったダンスを練習して、先生に会うのが楽しみの一つになっていました。スポーツも柔道や弓道、空手などもあり、女性でも習いたければ習うことができました。部活動も盛んで、バレー部のほかにもテニス部もありましたし、演劇部や楽団もありました。
 バレー部は、工場内にあったグラウンドで練習していました。毎年、四国にある工場対抗のバレー大会があり、会場は各工場が順番でやっていました。川之石工場は弱くて、渕崎(ふちざき)工場(香川県)や小松島(こまつしま)工場(徳島県)が強かったです。」

 ウ 寮や休日の楽しみ

 「1年を通じて、毎月何かしら行事がありました。七夕(たなばた)祭りや盆踊りなどもありました。運動会は社宅の横の大きなグラウンドでやっていました。職場対抗で仮装行列や踊りなどもあり、従業員の家族も一緒なのでとても盛大でした。演芸会や慰安旅行、ハイキングなどシーズンごとに自治会でいろいろな行事を行い、それはもう楽しかったです。
 敷地内の講堂では月に1回、本社が各工場へ順番に映画を回してくれていて洋画が上映されていました。日本映画は近くの大黒座という映画館でやっていたのですが、洋画はなかったので町の人たちも洋画を見たくてこっそり入れて欲しいと頼まれたりしました。
 喫茶店もあり、『喫茶のおばちゃん』と呼ばれていた有名なおばちゃんがいて、コーヒーの他にうどんやきつね寿司など軽食も出ました。
 お休みの日に八幡浜へ行くのも一つの楽しみでした。『あなたも行くの、じゃあ私も行こう。』というように、よそいきの洋服を着て4、5人で連れ立って出かけました。バスに乗れない時は、名坂越(なざかご)しで歩いてでも出かけていました。当時、八幡浜の新町の辺りは人でいっぱいでした。
 川之石の港では、ボートの貸し出しをしていました。夏の夜には、涼(すず)みがてら、彼氏がいる人は彼氏と、また女同士でもボートに乗っていました。宮内(みやうち)川のダンベ船が入ってくるあたりに、ボートがたくさん出ていました。みんな上手(じょうず)に乗っていました。寮では、厳しい部分もありましたが、ボートに乗ることは許されていました。
 早番から遅番へ交代になることを長交代(ながこうたい)と呼んでいて、私(Jさん)はその時に実家に帰っていました。そうすると二晩泊まることができます。学校も行かないといけないので、朝には寮へ帰らないといけませんでしたが、それが楽しみで、行事がないときはよく実家に帰っていました。
 私(Lさん)はお休みの日はお友達と遊んでばかりで、実家に帰っていませんでした。1か月の給料は6,000円ほどあったのではないかと思いますが、寮にいると食事も出るし、売店で日用品を買うくらいで、お金を使うようなことはあまりなかったような気がします。周りの人たちは、お仕立ての洋服を着ておしゃれでした。だから、川之石の仕立屋さんは、寮にいる人が買ってくれる分だけでもその売上げはすごかったでしょう。だから工場が閉鎖した途端に、川之石は火が消えたみたいになりました。」

写真3-1-16 旧東洋紡績赤レンガ倉庫

写真3-1-16 旧東洋紡績赤レンガ倉庫

八幡浜市保内町。平成24年10月撮影