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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 商店街のにぎわい

 八幡浜市の新町(しんまち)商店街は、八幡浜市と西宇和郡内で一番の繁華街である。かつて、人々が「マチに行く」と言えば、それは新町商店街かその周辺に行き、用事を済ませたり買物や娯楽を楽しんだりすることであった。商店街には様々な商店や飲食店が軒(のき)を連ね、市民や、船やバスでやってくる周辺の住民を相手に商品やサービスを提供していた。ここでは、商店街のにぎわいを中心にまとめてみた。

(1)化粧品を商う

 昭和の新町商店街のにぎわいについて、Aさん(昭和8年生まれ)から話を聞いた。
 「昭和39年(1964年)、家内が八幡浜の新町五丁目で化粧品店を始めました。当時は、店員を2、3人雇ってやっていましたが、家内が病気になり、昭和60年(1985年)にその化粧品店をやめました。
 化粧品はよく売れていました。カネボウ、コーセーの化粧品を扱っていました。おもしろいもので、お客は人のつながりで買いに来てくれました。カネボウは『ベル会』、コーセーは『カトレア会』といい、会員さんが化粧品を買ってくれました。会員は化粧品店の財産でした。
 昭和40年から60年(1965年から1985年)までの20年間が、景気のよい時期でした。一つが4万円、5万円という化粧品が売れていました。売れ行きがよかったのは春です。今はできませんが、当時は、高校でも卒業生の名簿を分けてくれましたので、名簿を使って卒業生に葉書を出すのです。そうすると買いに来てくれました。市内の高校へ店員が行って、卒業生を対象に美容講習会をしていたほどでした。
 販売促進員(化粧品メーカーから派遣された、客に化粧の仕方などを実演する人)は、毎日のように店に来ていました。化粧品のサンプルもどんどん送られてきていました。今は、かなり大きな店でも1か月に1回くらい、それも手数料が必要になりました。
 昭和30年代の終わりごろ、八幡浜の新町はにぎわっていて、借りたくても空いたお店がなかなかありませんでした。今は半分空き店舗です。時代の流れはおそろしいものです。昭和40年代から50年代には、新町の商店街は、夏は、ほとんどの店が夜9時まで開けてお客を呼び込んでいました。8時に店を閉めるのは、早いほうでした。
 毎年10月には、商工会議所の主催で、港祭りがありました。秋祭りと前後して、いろいろな祭りを1週間やっていました。仮装行列が最後の出し物で、昭和40年ごろには、かぐや姫の仮装など、新町の通りにものすごい人数が出て、にぎわっていました。商店から店員を出すか、経営者の家族か、だれかが出て行列や踊りをしていました。
 夜市(よいち)は、5月末からお盆(8月中旬)まで、ずっと毎週やっていました。七夕(たなばた)祭りにも人が出ていました。ある年、家内や店員、販売促進員の人たちが大きな花暖簾(のれん)を作って飾りつけ、それがよくできていたので表彰されたことがあります。」

(2)八日市を始める

 新町商店街連盟の理事長を、昭和46年(1971年)から8年間務めたBさん(大正14年生まれ)から話を聞いた。

 ア 新町一丁目で商う

 「私は郡中(ぐんちゅう)の灘町(なだまち)(現伊予(いよ)市)に生まれ、昭和23年(1948年)に八幡浜に来ました。昭和26年、長女が生まれた時に新町で店を構えました。元は銀行の建物だったらしいのですが、それを大改造して店舗として使い、商売を始めました。そして昭和59年(1984年)に新築し、現在に至っています。
 昭和20年代終わりには、荒物(あらもの)(家庭で使う雑貨品)や竹細工、秤(はかり)や日用雑貨などを売っていました。例えば、大阪で仕入れてきた小さいナイロンのハンドバッグを店頭に並べておきます。当時は八幡浜に酒六(さかろく)(酒六株式会社、繊維関係の企業)の工場が三つありましたから、1,000人を超える女工(女子工員)さんが商店街にやって来ましたので、よく売れました。一人買ったら、寮にいる他の人も買いに来るのです。当時は下駄(げた)をはいて歩いていましたから、下駄の鼻緒(はなお)もよく売れました。メーデーの時は、ものすごい数の女工さんが下駄をはいて商店街を行列して歩いていました。
 そのころ、積水化学(積水化学工業株式会社)がボウルやポットなどのプラスチック製品を新たに発売しました。私の店には普通の金物(かなもの)は置いていなかったので、新製品を置いて売ってみたのです。それが当たりました。時代のニーズに合っていたのだと思います。また、別府(べっぷ)(大分県)で買ってきた花器を売ったりもしました。
 商品の仕入れで大阪に行くことが多かったのですが、大体、松山まで汽車で行き、高浜(たかはま)から夜行の船に乗りました。当時は、立って寝るしかないのではと思うほど、ぎっしり乗客がいました。
 新町でも、一丁目は新開地で、二丁目から北が古くからの商店街です。町はずれだった一丁目の地は、戦後になって新しい店が並んでできた商店街なので、家や土地を借りている店主が多いのです。私が店を開いた昭和20年代後半から、新町一丁目はにぎやかになっていきました。昭和30年代、新町一丁目2組(一丁目北半分)には、下駄屋、食堂、アイスキャンディー、家具、毛糸などを売る店がありました。南の1組には切手や種物(たねもの)、化粧品、ガラス製品などの店がありました。
 新町全体では、平田呉服店、丸三百貨店、住吉呉服店が『御三家(ごさんけ)』と呼ばれていました。終戦後、この三つの店の繁盛ぶりはすごかったそうです。私より少し若い女性が丸三百貨店に勤めていたのですが、その女性が、『当時、1階と2階合わせて100人の店員がいた。笑いが止まらないほど売れていた。』と話していました。昭和30年代までは、商店街は下駄に和服姿の方が多くおられましたが、40年代には和服姿は見かけなくなりました。
 新港には繁久丸や八幡丸、伊方丸(いかたまる)が発着していました。繁久丸は別府、八幡丸は三崎、伊方丸は伊方航路です。他に、大島(おおしま)航路や川上(かわかみ)丸(川上航路)があり、真網代(まあじろ)(現八幡浜市)からも船が出ていました。港の近くにあったうどん屋がはやっていて、港から大勢の人が商店街に来ました。店に来たお客さんが品物を買って、『出しとってや。』と頼まれ、品物にエブ(荷札)を付けて港から出荷していました。私らが言う『渡海船(とうかいせん)』は、向灘へ渡る船のことで、半島や南岸の浦々と八幡浜とを結ぶ船のことではありません。
 昭和一ケタ生まれで、伊方町の町見(まちみ)からよく来られる方が、『わしらが子どものころは、新町に行くというたら、もううれしゅうて、うれしゅうてのう。行ったら、人がいっぱいでのう。』とよく話されていました。
 昭和30年代、佐田岬(さだみさき)半島の人を『灘(なだ)の人』と呼びました。灘の人は、店で商品を買っても、店の人が売り値を言うと、すぐその額を払ってくれます。灘の人は船で来ていて時間が気になりますから、パッと買ってパッと帰ります。対して、『これ、ちいと安うしなはい。』と粘る人が比較的多かった地域もあります。そういうところの人が1万円の商品を買うとなったら1日がかり、朝から晩まで粘ります。『ああ、まだ粘りよる。他のお客さんの接待ができんなあ。』と困ったこともありました。根負(こんま)けしそうになって、『根負けしなさんな。』と家内の母から指導されたこともありました。
 家内の実家は農機具屋でしたから、売り買いの金額のケタが違います。ですので、なかなか粘る人が店で腰を据(す)えると動かない(商談がなかなか終わらない)ので、お茶を何度も出さなければなりません。その点、灘の人は早いので、灘の人が来たら、お茶ではなくお酒を出していたそうです。」

 イ 四国で一番早く始めた安売り市

 新町商店街では、昭和59年(1984年)12月8日から、毎月1回、地元の商店だけでなく、県内各地の業者も参加して「八日市(ようかいち)」という安売りイベントを行っている。毎月8日の午前9時30分から午後6時まで、朝市のように、それぞれのお店が出した特価品のほか、魚やミカン、野菜なども売られている。この八日市は、Bさんらが呼びかけて始まった。
 「八日市の基本的な約束事は、『商品を少なくとも2割引で売る。利益を店がとらない。一つの店で3品はやる。』ということです。その約束事を守れる店で始めました。商店街の道に台を置いて、商品を並べて売るのです。『98円で仕入れたものを97円で売ろうや。』とも話していました。
 八日市は、福岡県直方(のおがた)市の古町(ふるまち)商店街でやっている『五日市(いつかいち)』を真似(まね)て始めました。私たち商店街連盟で、『五日市』を見学に行き、やり方を学んで帰り、新町商店街の一丁目から五丁目までの各店を回って、『月1回の安売り市をやりたい。』と説明して回ったのです。商店街全体で約110軒ありますが、初めから多くの店が参加してくれ、『にぎわいを形で作らないといけない。』ということで、『八日市』の幟(のぼり)と暖簾(のれん)を作って各店で飾りつけました。約束事を守ってもらうため、各地区、町内に価格査定委員を二人置いていました。また、他から経費の援助を受けず、出店者に3,500円の会費を出してもらって運営しました。広告も、直方と同じ形のチラシにして配りました。」
 最初のチラシには、「商店街の有志が集まり毎月8日に定期的メチャクチャ大安売り市を催すことになりました。名称を『やわたはま八日市』と称します。」と説明がある。
 「このような催しは、四国では初めてでしたから、どうなるだろうかと思っていたら、お客さんが殺到し、爆発的な売れ行きでした。うちの店の近くの食堂は、持ち帰りのちゃんぽんを売り出しました。そのアイデアが今日まで残って、ずっと売れています。本当によく売れました。それで、様子見をしていた地元店主たちや新町商店街以外の業者も参加するようになり、参加店が増えました。イリコ屋さんは、店で売れる数はしれていますが、一月(ひとつき)分が八日市の1日で売れるようです。宝石屋さん、タオル屋さんなど、さまざまな業者さんが参加してくれました。
 八日市を始めるころ、県の商工会議所が音頭をとって、県内の名産品を一堂に集めた販売会(名産品まつり)を県内各地で行っていました。他の地域では、学校の講堂などを借りて、大きな建物の中でやっていましたが、八幡浜では商店街連盟の理事長が『せっかくのことだから、新町の商店街でやろう。』と言って商店街で開催したのです。確か、八日市を始める2か月くらい前だったと思います。
 八日市を始める時も、この名産品まつりと同じように、道の真ん中に台を置いて商品を並べて売る方法をとりました。名産品まつりに来ていた蜂蜜(はちみつ)販売やアマゴ販売の人が、八日市にも参加しています。途中から、チラシに『無料駐車券』をつけるようにしました。そして駐車券利用者のデータをとって、どこにチラシを配布したらよいかをリサーチしました。女性が多いか、年齢はどれくらいかなど、買い物客の状況も調べ、ニーズにあった商品を増やそうとしました。大手スーパーの地元支店長さんから、『八日市だけはこたわん(対抗できない)。ガラガラじゃ。』と言われたこともありました。」
 新町商店街の八日市は、昭和59年(1984年)12月の第1回には63店が、翌60年1月の第2回には68店が参加した。そして、次第に増加して、平成10年(1998年)5月の第162回には103店が参加、現在では毎回140店前後が参加するまでになった。八日市を始めた当時の有志の熱意と努力は、今も受け継がれている。


<参考文献>
・愛媛県漁業協同組合連合会『愛媛の漁業と県漁連50年史』 2000
・愛媛県教育委員会『愛媛県の諸職』 1992
・窪田重治『愛媛の果樹産地の形成とその変容』青葉図書 1990