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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 沿岸航路の発着港

(1)八幡浜港のにぎわい

 八幡浜港には、旧港(きゅうみなと)(明治7年〔1874年〕完成)、新港(しんみなと)(明治28年〔1895年〕完成)と呼ばれた内港(ないこう)(港湾の内側にあって、船が碇泊(ていはく)し、船客の乗降や荷役をするのに適当な区域のことで、八幡浜港の内港地区は、昭和56年〔1981年〕に埋め立てられた。)があって、新港では、沿岸航路の貨客船が頻繁(ひんぱん)に発着していた(図表3-2-5参照)。
 新港のようすについて、明治41年(1908年)から続く食堂を、新港のあった場所近くで経営しているAさん(昭和19年生まれ)、Bさん(昭和22年生まれ)夫妻から話を聞いた。

 ア 新港の老舗食堂

 「私(Aさん)は、この食堂の4代目で、昭和41年(1966年)に店に入り、昭和45年(1970年)に結婚してからは、家内も一緒に店を手伝っています。明治のころに親戚が旧港で打瀬船(うたせぶね)(打瀬網漁業に使用する漁船)の造船所を経営していて、その打瀬船を造るときに使う船釘(ふなくぎ)を、曾祖父がこの場所で作っていたそうです。そして、その仕事場の一角で、生活の足しにするために曾祖母がうどん店を開いたのが始まりだと聞いています。その当時から、港の近くには何軒かの食堂があったそうですから、それだけ利用者も多く、港がにぎわっていたのだと思います。
 今年で96歳になる母親も、5、6年くらい前までは店の調理場に立っていました。母親が若かった戦前には、食堂の2階に人を泊めたりもしていました。昭和の初めころ、新港には、春と秋に九州の国東(くにさき)半島の方から、『春蚕(はるご)』、『秋蚕(あきご)』(それぞれ5月初句ころ飼育する蚕(かいこ)と7月下旬から晩秋にかけて飼育する蚕)と呼んでいた蚕の繭(まゆ)を乗せた船が毎日のように来ていて、宿に困った売買人たちから、『雑魚寝(ざこね)で構わないので泊めてくれ。』と言われたのがきっかけで、朝昼晩の食事をうちでしてもらうことにして宿泊代は取らなかったといいます。両親の代になると、そのような泊まりを兼ねたお客としては、三瓶(みかめ)の卸売商の人が多かったそうです。貨物船の多かった旧港に比べて、新港は貨客船や漁船が頻繁に出入りしていましたので、周辺には、船から下りてくる人や船を待つ人がいて、どのお店にも、お客さんがよく入っていました。別府(べっぷ)温泉に行く人が利用することの多かった『ゆうなぎ丸』や『あかつき丸』(いずれも宇和島-別府航路)が、新港の北側の旧港近くにあった大桟橋(おおさんばし)から、夜の11時ころに出航していましたので、近所の食堂の中には、夜遅くまで開けていた店もあり、夜も人が行き交っていました。」

 イ 定期船と漁船の溜まり場

 「店には定休日がなく、今でも年末年始を除けば、ほぼ毎日営業しています。新港を利用する人の多かった昭和30年代から40年代ころは、朝6時半に店を開けていましたので、3時半ころには母親が仕込みをしていました。市場に魚を出し終えた漁師や、いろいろな航路の定期船で八幡浜へ来た人が、朝早くからお店に寄ってくれました。ただ、定期船ごとに発着時間が違うのでお客さんが集中することはあまりなく、朝から夕方まで、どの時間帯もほどほどに忙しいという状況でした。
 うちの店の前には大きな桟橋があって、私(Bさん)が嫁ぐ前には『繁久丸(しげひさまる)』(八幡浜-別府航路)が着いていたそうです。その後は、そこに『大郵(たいゆう)丸』(大島(おおしま)-八幡浜航路)や同じく大島の『島栄(とうえい)丸』(魚介類や重油〔漁船の燃料〕等を運搬する八幡浜市漁業協同組合大島支所所有の船)が着いていた時期もありました。それから、その桟橋の南側の岸壁には『三島(みしま)丸』(三瓶(みかめ)-八幡浜航路)が横付けしていたそうですが、私自身は、三瓶からの船としては貨物が中心の『共栄(きょうえい)丸』しか知りません。また、桟橋の北側には小さな桟橋がもう一つあって、『伊方(いかた)丸』(伊方-八幡浜航路)や『千鳥(ちどり)丸』(川之石・伊方-八幡浜航路)が着いていました。この新港は、定期船や漁船の溜(た)まり場でした。
 新港と店との間の道路は、愛宕(あたご)トンネル(昭和51年〔1976年〕に国道197号の愛宕山バイパスが完成)ができるまでは、川之石や佐田岬半島の集落に向かう主な道でしたので、自動車の少ない時分から人や荷車の往来が結構多くて、私(Aさん)の幼いころには馬車も通っていました。昭和30年代の初めころまでは、『サイクル屋さん』と呼ばれていた人たちが、幌(ほろ)をつけた客席を自転車に取り付けた輪(りん)タクで、船から下りた急ぎの用事のある客を町中まで運んでいました。
 『ゆうなぎ丸』や『あかつき丸』の発着していた大桟橋には、『八幡(やわた)丸』(八幡浜-三崎航路)も着いていました。午後の1時と4時ころに三崎に向かう船便があり、佐田岬半島の道路事情がよくなかったころは、三崎到着までにかかる時間がバスよりも短かったそうです。うちの店のお客としては、『三島丸』をはじめとして新港を発着する船の乗客が多かったのですが、旧港近くの桟橋に着く『八幡丸』を利用される方の中にも、昔からの馴染(なじ)みでよく寄ってくれるお客さんがいました。」

 ウ 人とのつながり

 「自動車が普及するまでは、佐田岬半島や周辺の沿岸地域の人たちが八幡浜に来る主な交通手段は船でした。ですから、それらの地域と港界隈(かいわい)との繋がりは深いものがありました。しかも、経営者自身がそれらの地域の出身である店も多くて、八幡浜に出てきて港の近くで働いていた方が、そのまま自分でもお店を出されたのです。私(Aさん)の家内(Bさん)は大島の出身で、『島栄丸』の船長だった義父がお店によく来てくれていたのが縁で知り合いました。
 昔は、八幡浜でも雪がよく積もり、そういう日は、大時化(おおしけ)で佐田岬半島行きや大島行きの定期船が欠航になることが多く、港は人であふれていました。昭和38年(1963年)の大晦日(おおみそか)から正月にかけての大雪の時には、大勢の里帰り客が船では帰れず、近くの店で長靴を買って歩いて帰った人もいたそうです。帰れない人の中には、『おらしてや(いさせてください)。』と、うちの店に来る人もいて、その時は、商売が終わった後も、一晩中、店を待合室のようにして使ってもらいました。
 うちのお客さんには、トロール船の乗組員や漁師の人も大勢いました。トロール船は、水揚げが終われば、すぐにまた漁に出るので、自宅へ帰ろうにも、1、2時間では戻って来られない大島の乗組員の人たちが、水揚げのたびに、休憩を兼ねてご飯を食べに来てくれていました。それから、昭和40年代には、ハゲ(カワハギ)を獲る大敷網(おおしきあみ)(古い漁法による定置網漁)をしていた加周(かしゅう)(伊方町二見(ふたみ)加周)の漁師さんたちも、ハゲを八幡浜の市場に水揚げした後、うちに寄ってくれていました。特に、大漁のときは、運搬船に載りきらない分を網船に積み分けて運ぶので、20人くらいで店に来て、午前10時か11時ころには貸し切りの宴会状態でした。時には、早めに店を出て、昼にもう一回漁をしてから、午後3時ころにまた店に来て、晩方まで酒盛りになったこともありました。昭和40年代から50年代の前半ころは、魚もよく獲れて、港全体に活気がありました。
 その後、だんだんと定期航路が消えて、港も埋め立てられてしまい、かつての面影(おもかげ)はまったくなくなりました。しかも、昔みたいには魚が獲れないので漁師になる人も少ないらしく、『跡継(あとつ)ぎもおらん(いない)し、年もとったので(漁師を)やめるんよ。』と、お客さんから言われたことがありました。昭和40年代に、この辺りに6軒あった食堂で、今も続けているのはうちだけになりました。昭和30、40年代に就職や結婚で市外へ出て、久しぶりに帰省し、ついでに寄ってくれたお客さんから、『八幡丸に乗って来て、ここ(清家食堂)でうどんといなりずしを食うがが(食べるのが)楽しみやった。』とか、『八幡浜までもんたら(帰ってきたら)、ここに寄ってちゃんぽんを食べん(食べない)と、もんた気がせん(帰ってきた気がしない)。』とか言われると、うれしくなります。」

(2)川之石港のにぎわい

 海上交通が主体であったころの川之石港は、人の往来や物流の拠点であり、佐田岬半島沿岸航路の重要な寄港地であった。また、東洋紡績(とうようぼうせき)株式会社川之石工場(通称「東洋紡」、昭和35年〔1960年〕閉鎖)の原料や製品は、川之石港で積み降ろしされた。
 川之石港のようすについて、Cさん(昭和7年生まれ)、Dさん(昭和11年生まれ)、Eさん(昭和15年生まれ)から話を聞いた。

 ア 千鳥丸と八幡丸

 「昭和30年(1955年)ころ、川之石港の桟橋には、『繁久丸』、『八幡丸』、『伊方丸』、『千鳥丸』がそれぞれ着いていました。中でもよく利用されていたのは、渡辺回漕(かいそう)店が経営していた千鳥丸で、八幡浜から楠浜(くすはま)、川之石、雨井に寄る船便と、八幡浜から川之石に寄って、伊方の大浜(おおはま)、仁田之浜(にたのはま)、川永田(かわながた)、湊浦(みなとうら)に行く船便とがありました。川之石から八幡浜までは20分ぐらいで行けたと思います。千鳥丸は、定員40、50人程の貨客船でしたが、運賃が安くて、しかも朝から晩まで一日に5便の便数があったので、川之石周辺に住む者にとっては身近で便利な船でした。昭和42、43年(1967、1968年)ころ、私(Cさん)の子どもは、川之石港の桟橋近くにあった保育園へ楠浜から通っていたのですが、幼い子どもが歩くのには遠かったので、5円くらいの船賃を持って楠浜の港から千鳥丸に乗り、川之石港まで行っていました。
 私(Dさん)は、昭和30年ころに共盛社(きょうせいしゃ)(八幡浜に本社のある回漕(かいそう)店)の川之石支店に就職しました。主な業務は、乗船券の販売や荷物の取り扱いなどでした。当時、共盛社で扱っていた船便としては、客船は八幡浜運輸の八幡丸だけで、貨物船は夏柑(なつかん)を出荷する機帆船(きはんせん)(発動機と帆を備えた小形船)や大阪からの一般の船などもありましたが、ほとんどは東洋紡関連の船でした。
 昭和30年代には、第6、第10、第11八幡丸が就航していました。共盛社の事務所のあった、八幡浜の旧港近くの桟橋から、朝、昼、晩の1日3便が出航していて、川之石、九町(くちょう)、加周、塩成(しおなし)、川之浜(かわのはま)、大久(おおく)、名取(なとり)、井野浦(いのうら)、三崎の順に寄港しました。青木運輸の経営していた繁久丸は、1日1便で、八幡丸とほぼ同じ航路でしたが、加周と川之浜には寄らずに、三崎の次に串(くし)に寄って、大分県の佐賀関(さがのせき)、別府に行っていました。ただ、川之石港を発着する船便の中では、便数の関係もあって、近場であれば千鳥丸を、佐田岬半島との行き来であれば八幡丸をそれぞれ利用する人が多かったように思います。八幡丸の乗客が多かった時期は昭和30年代から40年代の初めくらいで、当時は、よほどの大時化でない限りは出航していました。経営上の理由もあったのでしょうが、定期船が、佐田岬半島の各集落と川之石、八幡浜との行き来の主要な足でしたので、欠航の影響が大きかったからだと思います。しかし、その定期船も、昭和40年代になって、バス便が増え、自動車が普及し始めると、だんだんと利用者が減っていきました。
 桟橋や岸壁に船を着けることのできない港では、本船と陸との間を人や貨物を乗せて運ぶ艀船(はしけぶね)が使われていましたが、時化の時には、定期船は出られても艀船が出られないことがありました。昔、私(Cさん)の家内が、川之浜に住んでいた妹から、『バナナを食べてみたい。』と頼まれたので、船便で送ったところ、しばらくしてから妹に、『黒いバナナはいらん(いらない)。』と言われたことがあったそうです。どうやら、時化が続いて艀船がしばらく出られなかったので荷物が遅れて届いたようでした。笑い話のようですが辛い話です。当時の船便には、そのような不便さがありました。」

 イ 川を上り下りするダンベ船

 「川之石港へ流れる宮内(みやうち)川は、引き潮になると河口が干上がり、岸の方にだけ細く残る川も、今は歩いて渡れるほど幅が狭くなりますが、昭和20年代から30年代ころは、岸側に残る川の幅は今よりも広くて水量もありました。当時は、その細い川を、平べったくて大きな二丁櫓(ろ)のダンベ船(せん)(団平船(だんべいぶね)〔幅広で底が平たく頑丈に造られた重量物の近距離輸送の船〕)が、川之石港から美名瀬(みなせ)橋の少し川上にあった東洋紡の工場まで、紡績糸を作る原料の原綿(げんめん)を運んでいました。
 ダンベ船も共盛社が扱っていました。当時は、長距離輸送には大型貨物船が使われることが多くて、川之石港の沖に碇泊した大型貨物船から小形の貨物船に原綿が積み替えられ、さらに、それがダンベ船に積み替えられて工場に運ばれていました。原綿が降ろされたダンベ船には、今度は、工場で出来た綿糸や綿布などの製品が積み込まれ、貨物船まで運ばれていました。それを、2隻のダンベ船が繰り返していました。
 ダンベ船は底の浅い船ですが、それでも満ち潮で河口付近の水量が増えた時でないと川を上がれませんでした。ですから、船頭は、潮の干満をみて船を操(あやつ)らなくてはならず、しかも、川に架(か)かる美名瀬橋の下を船が通るので、橋桁(はしげた)に積み荷が当たらないように、水面の高さを考えながら荷物を積んだり運んだりしなくてはならないので、結構大変だったろうと思います。
 ダンベ船は、毎日出ていたわけではなく、原綿の入荷と綿糸や綿布の出荷があった時だけでした。私(Dさん)は、子どものころによく、『ダンベ船に飛び乗りたい。』と思いながら、橋桁に頭が当たらないように身を屈(かが)める船頭のようすを、橋の上から眺(なが)めていました。」

 ウ 港を通じて開かれた町

 「昭和30年代ぐらいまでは、川之石に住む人が八幡浜などに行く場合や、川之石近辺から貨物を輸送する場合は、名坂峠を越える陸路ではなく、港からの海路を利用することが多かったのですが、逆に、他所(よそ)から川之石に来る人や運ばれてくる貨物も、港から入ってくることが多かったように思います。私(Eさん)の家内の母親は大久の出身で、戦時中に日土(ひづち)(八幡浜市日土)のオイズシ(金山出石寺(きんざんしゅっせきじ))へ行くのに、船で大久から川之石まで来て、港から歩いて登ったそうです。同じように、九州からも定期船に乗ってお参りに来る人がいたそうです。
 川之石では、他所との行き来やモノのやりとりの場合は船が第一で、港が中心でした。私(Cさん)は詩吟(しぎん)をしていて、話すときのアクセントや抑揚(よくよう)(声の上がり下がり)を気にするのですが、雨井や楠浜を含めた川之石港周辺の人の言葉は標準語に近いように感じます。昔から、雨井を中心として機帆船による人やモノの流れが関西から九州に至るまで広がっていたり、地元の人が多く勤めていた東洋紡の工場には常に外部の人が大勢出入りしていたりしたことなどもあって、自然と言葉が混ざり合ってそういうことになったのではないかと思っています。川之石は、港を通じて、人の出入りの多い開かれた町でした。」