データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 名坂峠を越えて

 『保内町誌』には、「1960(昭和35)年12月に名坂トンネルが完成して、八幡浜-保内間の交通難は解消した。」とあり、そのトンネルの抜ける標高約70mの名坂峠について、「名坂越えは、佐田岬方面に行くにも、喜木(きき)村・日土(ひづち)村・宮内(みやうち)村・川之石浦へ行くにも、江戸時代からこの道しかない峠越えであった。名坂峠には、江戸時代の道・明治の道・昭和の道と、三本の道が並行して現存している。」と記されている。ただ、旧保内町川之石に住む人の中には、名坂峠を通らずに、楠(くす)町から須田(すだ)山を越える里道(りどう)(国道、県道以外の公道の旧称)を歩く「須田越え」で、八幡浜市向灘(むかいなだ)を経て市内に行く人も少なくなかったという。
 名坂峠での往来や「須田越え」について、Hさん(昭和2年生まれ)、Cさん(昭和7年生まれ)、Dさん(昭和11年生まれ)、Eさん(昭和15年生まれ)から話を聞いた。

(1)名坂峠の往来

 ア 自転車通学

 「昭和30年代初めには、名坂峠を越える方法としては、徒歩か自転車かバスぐらいしかありませんでした。たまに荷馬車も通っていて、御者(ぎょしゃ)(馬を操る人)が荷車に座り、『はぇー、はぇー』と言いながら馬を進めていました。私(Hさん)は、喜木(現八幡浜市保内町喜木)に生まれて名坂峠の麓(ふもと)に住んでいましたので、昭和15年(1940年)ころに八幡浜の学校(愛媛県立八幡浜商業学校)へ通うのに、自転車で峠を越えて行きました。日土や宮内の学生も自転車で通学していました。ただ、川之石辺りの生徒で、特に女学生は、定期船を利用する人が多かったように思います。名坂峠はそれほど標高が高くはないのですが、自転車で走るには結構急な坂道が長く続きます。ですから、鞄(かばん)を担(かる)(背負)って、(サドルから)尻を浮かせ、自転車をひねりひねりしながら立ちこぎをして、15分ぐらいかけてやっとの思いで峠まで上がっていました。峠から八幡浜の大平(おおひら)まで、自転車のブレーキを気にしながら下りると、幸町(さいわいまち)や近江屋町(おうみやまち)を経て新町(しんまち)の途中で抜け道に入って矢野町通(やのまちどお)りに出て、学校まで通っていました。ちょうどそのころ、元々レンコン畑だった場所に八幡浜駅から築港に伸びる幹線道路(昭和通り)が造られて、当時は、その道幅の広さに驚きました。
 私(Eさん)は、昭和30年から34年の春まで、峠の上から名坂トンネルの工事を眺(なが)めながら、八幡浜の高校(愛媛県立八幡浜高等学校)へ通いました。当時は、峠の頂上辺りに、うどんのような軽食を出したり菓子パンなどを置いていたりした店があって、帰宅途中の学生たちがよく立ち寄っていました。峠には、食べ物や飲み物を売る店が他にはなくて、私も、夏の暑い時に、その店でかき氷を食べたりラムネを飲んだりしたことがあります。」

 イ 名坂倶楽部

 「私(Eさん)が高校生のころ、少し上の先輩の代に、川之石、宮内、日土、喜須来(きすき)のそれぞれの地区から名坂峠を越えて八高(県立八幡浜高等学校)へ通う男子学生をメンバーとした、『名坂倶楽部(くらぶ)』というグループが作られました。私を含めて四つの地区から通う同級生たちは皆そのグループに入り、青い三角形の布地に『名坂倶楽部』と書いた旗(はた)を自転車の前に括(くく)りつけていました。3年生が仕切っていて、先輩に会えば必ず帽子を脱いで挨拶(あいさつ)をしていました。グループ内での立場や役割のようなものはなく、特別な行事もありませんでしたが、高校の運動会の時には、名坂倶楽部のメンバーで仮装行列に参加していました。今でも、グループの同窓会を行っています。
 私(Hさん)のころには、『名坂組』と呼んでいて、特別な旗のようなものはありませんでした。団体としての具体的な組織や活動があるわけではなく、『私たちは、保内郷(長浜や松山方面へ進学する者の多かった磯津(いそつ)地区を除いた四つの地区)から名坂峠を越えて八高に通っている生徒である。』という仲間意識によってできあがったグループでした。その同窓会が今でも続いているのは、高校生の時に毎日のように通った名坂峠への愛着の念があるからでしょう。」

 ウ バスが走る

 「私(Eさん)の幼いころには、木炭を燃料としたボンネット型のバスが走っていました。名坂峠を越えて八幡浜市内に入ると新町を通っていましたが、多くの客を乗せたバスが商店の軒先(のきさき)をかすめるようにして進んでいました。
 バスの運転手は、峠の細く曲がりくねった坂道を越えるのが大変だったろうと思います。私(Hさん)は、坂道の途中で止まってしまったバスの後ろを乗客が押している光景を見たことがありますが、運転手も辛かったはずです。ある時、男の客は乗せないのに女の客は乗せる運転手がいて、客のだれかがそれを非難すると、『どうして、そういうふうにとられるのですか。この夕暮れ時に女の人が歩いていると危ないでしょう。男の人には歩いてもろうても、女の人を歩かすわけにはいくまいがな。』と答えた運転手に対して、乗客から、『えらい。』という声が上がったことがありました。」

 エ 追想の名坂峠

 「私(Eさん)は、高校時代に、学校から川之石内之浦(うちのうら)にあった家に帰る途中で、峠まで来ると、後は下り坂だという気持ちもあってか、ほっとした気持ちになったことを憶えています。
 私(Hさん)の場合は、夜、峠を歩いて越えながら喜木へ帰るときに、峠の途中で、背後の八幡浜の方角から列車の汽笛の音が聞こえてきて、感傷的になったことを印象深く憶えています。そして、峠や『名坂越え』の思い出とともに、『名坂』という呼称への郷愁があります。」

(2) 須田越え

 「昭和20年代ころまでは、旧保内町と旧八幡浜市とを行き来する陸のルートとして、『名坂越え』と『須田越え』の二つがよく使われていました。私(Cさん)の住んでいた楠町から八幡浜へは、『須田越え』の方が少し早く着いて、しかも、八幡浜の向灘から出る渡し船に乗れば、対岸の市内まですぐに行くことができました。ですから楠町辺りの住民の中には、自転車やバスで八幡浜へ行くときは『名坂越え』でも、徒歩の場合は『須田越え』のルートを通る人が結構いました。私自身は、子どものころ、ほとんど『須田越え』で八幡浜に行っていました。
 私(Dさん)の場合は、ずっと川之石に住んでいて、学生のころによく、3、4人の友だちと一緒に八幡浜まで映画を見に行ったりしていましたが、そういうときはいつも、『名坂越え』を歩いて行っていました。」
 今では、名坂峠を越える旧国道197号を行き交う人や車は少なく、「須田越え」は知る人さえ少なくなったという。人々の往来の場所や手段、ようすもまた、時代とともに大きく変わった。