データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並み

(1) 日常の生活

 ア 生活必需品

 昭和30年(1955年)ころの柏には、食品や衣料品、日用品などをそろえた雑貨店とともに、くずし屋(蒲鉾(かまぼこ)店)や豆腐(とうふ)店をはじめ、自転車、文房具、酒類、鮮魚を扱う店もあったため、買い物は地区の中で済ませることが多かったという。また、米や野菜などの主要な食料は、自家用に栽培して自給していた。
 「買い物で柏の外に行ったという思い出はあまりありません。食べるものも、店屋で野菜などを買って作るというのではなく、自分らで必要なものを栽培してそれを食べていました。味噌(みそ)なども家で作っていたのを憶(おぼ)えています。魚は他(ほか)の家からもらうことが多かったように思いますが、たまに町内の店へ買いに行っていました。また、『籠(かご)屋』とよばれた人たちが3人ほど、柏崎(かしわざき)から魚の入った籠を担いで魚を売りに来ていました。食品関係はすべて柏の中でまかなうことができ、ここには、理容店や美容院があり、衣料品店も何軒かあった上に、雑貨店もあったので、くらしはこの地区の中でほぼ完結していたように思います。」
 昭和30年代、地元の人の中には、食料品を中心とした必要品を調達するために、柏で手に入りやすい海産物を持って、山間部の他の地区に売りに出ていた人もいたという。
 「イリコなど、生ものではない魚をかるうて(背負って)柏坂を越え、さらに上槇(かんまき)(現宇和島市津島町)まで越えて、それらを売りに行き、お米を買って帰る人もいました。いっぱいかるうて持って行って、いっぱいかるうて戻って来ていました。」

 イ 人々の楽しみ

 「映画館は2軒ありました。1軒は露天での営業をしていましたので、雨が降ったら上映できず、晴れた日に筵(むしろ)を敷いて見ていました。もう1軒は2階席のある建物で、『内海劇場』という名称だったと思います。映画のジャンルも様々で、タイトルまでは覚えていませんが、洋画から時代劇まで幅広く上映されていたと思います。映画の看板は地元の人が描いていました。とてもきれいな看板で、看板屋をしても食える(生活できる)くらいの見事なものでした。
 パチンコ店も短い間でしたが1軒ありました。地元の人が開いたものではありませんでしたが、空いていた倉庫を改造して営業していました。私(Aさん)がパチンコに行ったという話をすると、『パチンコをやったらいけん。』と母に怒られたことがありました。
 また、昭和41年(1966年)に内海村野球協会が発足し、村内の各地区や職場ごとにチームをいくつも結成して、野球大会をしていました。南高(なんこう)(愛媛県立南宇和高等学校)在学中にキャッチャーで有望視されていた人も、チームを編成して参加してくれました。当時は揃(そろ)いのユニフォームもなく、どの人も思い思いの運動着で試合に臨んでいました。半島(由良半島)の漁師たちは長靴を履(は)いて試合に参加していたのを憶えています。村内の各地区のいろいろな職場の人たちと一緒に野球ができたのは、よい思い出です。」

 ウ テレビと電話

 「私(Dさん)が小学生のころ、柏崎にテレビを持っている家があって、そこでプロレス中継を見ていました。本当にものすごい人だかりでした。当時は裕福な家にしかテレビはなかったように思います。」
 柏では地形の影響で、場所によってテレビの電波の受信状態に違いがあった。そこでアンテナ組合を設立し、各家庭と有線で結ぶ共同アンテナを高目木(たかめぎ)に立てた。アンテナ組合では、各家庭のテレビ保有台数を調査し、視聴料を徴収していた。
 また、昭和40年(1965年)前後、Dさんが高校生のころは、柏では各家庭への電話の普及率は低く、商店に設置されていたくらいであった。
 「電話はあまり普及していませんでした。20軒か30軒に1軒の割合ぐらいで電話を持っている家があり、その家が近所の家への連絡をまとめて取り次いでくれていました。当時は、設置した順番に電話番号が割り振られていて、役場が1番、Bさんが経営していたくずし屋が2番でした。私(Dさん)のうちでは、50mほど離れたそのくずし屋に呼び出してもらっていました(図表1-1-3の㋑参照)。その後、もう少し近くにあった雑貨店に赤電話(公衆電話)が置かれたので、その店に呼んでもらっていました。」
 Aさんが勤務していた柏郵便局で、電話交換業務を行っていたころの思い出について話を聞いた。
 「郵便局が電話交換業務を取り扱っていたころには、柏崎でイリコ製造を行っていた人たちが、電話でイリコの相場を聞くために、窓口で1時間も2時間も待っていました。通話方法には、普通と急報の2種類があり、急報の方が早くつながりますが、お金を節約するために普通でかける人が多くいました。どの人もつながるまで辛抱強く待たれていたことが思い出されます。」

 エ お遍路さん

 「お遍路さんは柏にもよく来ていました。私(Cさん)の家は遍路宿をしていましたので、お遍路さんが大勢泊まっていました。中には偉いお坊さんもいて、各家を回りながら玄関でお経を上げて、この家はあれがいけん、直しなはい、とか言う人もいました。お遍路さんが玄関でお経を上げ始めると、玄関まで出て対応しますが、施(ほどこ)しとして何もあげるものがない場合は、『おとおんなせ』と言っていました。おとおんなせという言葉は、お通りくださいということで、向こうに行ってくださいという意味があります。」

(2)交通事情

 ア 網船での思い出

 「南郡(なんぐん)(南宇和郡)の小学生が年に1回集まる陸上競技大会には、発動機付きの網船を借りて、柏の埋立浜から長崎(ながさき)(旧御荘町)まで大勢の子どもを運んでいました。長崎の港からは歩いて平城(ひらじょう)小学校まで行っていました。ほとんどの陸上競技大会は平城小学校で行われていました。直線で100mをとることのできる運動場が平城小学校しかなかったからです。城辺小学校も運動場は広かったのですが、100mの競走路をとることができませんでした。
 網船には大きなスピーカーが取り付けられていて、漁があった(魚が多くとれた)ときは、柏崎の鼻(海に突き出た陸地の尖端(せんたん))を回るころに、軍艦マーチの音量を上げて港へ入って来ていました。あの音楽がかかっていると、今日は漁がよかったのだな、ということが分かりました。」

 イ 荷馬車

 「柏には材木や炭を運ぶ荷馬車がありましたが、人を乗せて走るというものではありませんでした。道路を修繕するときやお祭りの前には、道路に土が撒(ま)かれるのですが、その土を荷馬車に積んで運ぶときには、荷台に専用の枠が取り付けられていました。道路の修繕用には、因幡(いなば)や高目木(たかめぎ)の土が利用されていました。柏の中心部近くの土は、粒が大きくてザラザラしていますが、修繕用の土は、肌理(きめ)の細かい赤土で、とてもよい土でした。
 人を運ぶ客馬車は、平城の桜屋旅館が持っていました。客馬車と荷馬車では車輪が違います。客馬車にはタイヤがつけられていましたが、荷馬車は金輪(かなわ)でした。荷馬車の御者(ぎょしゃ)から、『ちょっと乗れや。』と言われて乗ったことがありますが、まだ道路が舗装されていなくて、しかも金輪の車輪でしたので、乗り心地が悪かったのを憶えています。」

図表1-1-3 昭和30年ころの柏の町並み1

図表1-1-3 昭和30年ころの柏の町並み1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-1-3 昭和30年ころの柏の町並み2

図表1-1-3 昭和30年ころの柏の町並み2

調査協力者からの聞き取りにより作成。