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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 商店街をたどる

(1)商店街の思い出

 ア スズラン灯

 「商店街の三叉(さ)路(図表1-3-2の㋛参照)から城辺大橋の近くまでの間には、街灯が42灯ありました。1灯に三つのランプが、スズランの花がぶら下がるように付いていたのでスズラン灯と呼ばれていました。灯(あか)りは、三つのうちの一つのランプだけが点(つ)くものでしたが、昭和27年(1952年)に設置された時は、非常に明るいと感じました。」

 イ 町のお菓子屋さん

 「ポン豆(米に圧力をかけた後で一気に開放し、ふくらませて作る駄菓子のこと)を作る店をポン豆屋と呼んでいましたが、その店の近くを歩いていて、『パーン』と音がしてびっくりしたことがありました。2軒の店は憶えていて、1軒は、自転車にポン豆を作る機械を積んでいました(図表1-3-2の㋖参照)。店から他の場所へ行ってポン豆を作っていたのではないかと思います。もう1軒の方は、老夫婦で商売をされていて、店の中庭で作業をしていたので、店頭のみだったかもしれません(図表1-3-2の㋔参照)。燃料はガスを使用していたと思います。材料となる米を持ち込んで、一升(いっしょう)(1.8ℓ)幾(いく)らの手間賃を払い、作ってもらっていました。ポン豆は、自分の家で、炒(い)ったピーナッツと霰(あられ)を混ぜ、さらに水飴(あめ)を絡(から)めて雛(ひな)霰にしていました。お雛様の時期には必ず作っていましたが、手で丸めたり平らにしたりする作業では、材料が熱いので『嫌だな。』と思いながらも、手伝いをしていました。
 昭和30年(1955年)ころはまだ、パン屋さんは珍しかったです。当時は家でパンを焼くために、パン屋さんからイースト菌(きん)を分けてもらうこともできました。あるとき、理由は忘れましたが、私(Dさん)の家でアンパンを用意することになり、小麦粉をある店に持って行き、作ってもらいました。店頭販売の商品もあったかもしれませんが、それを買うのではなくて、作ってもらったのでよく憶えています。
 和菓子のタルトが必要なときは、2軒の店で買っていました。1軒の菓子店では仏様に供えるお菓子や葬式饅頭(まんじゅう)なども作っていました(図表1-3-2の㋑参照)。もう1軒の菓子店は、本来は和菓子店でしたが、和菓子の他にショートケーキも販売していました(図表1-3-2の㋗参照)。時代とともに洋菓子の需要が増えて、ケーキも置いていたのだろうと思います。私(Eさん)のうちでは、来客があったり、慶弔用のお饅頭等が必要なときには、和菓子店で買っていました。
 昭和30年代後半には、城辺にできた喫茶店で、お茶を飲んだりしましたが、最初はとても緊張しながら店に入ったことを憶えています。」

 ウ モノづくりの店

 「商店街の中にあった家具店は、店の裏に倉庫があって、4、5人ぐらいの職人さんが住み込みで仕事をしていました。当時は、今のような既製品の家具はほとんどなく、家具店が自分の所で商品を作っていました。私(Cさん)のうちでも、台所の水屋(茶器や食器を入れておく戸棚)を、置き場所の寸法に合わせて、はめ込みのようにきちっと作ってもらいました。それから、紺屋(こんや)さんが、旗などの染め物を僧都(そうず)川で洗っていました(図表1-3-2の㋓参照)。」

 エ 旅館と飲食店

 「作家の宮本輝さん(父親の郷里が愛南町一本松で、本人も幼少期の一時期、旧城辺町で生活した。)が、南郡(なんぐん)(南宇和郡)に取材に来たときは、玉水旅館に宿泊していました(図表1-3-2の㋘参照)。旅館は、玉水の他に富屋もあり(図表1-3-2の㋜参照)、いずれの旅館にも、裏の離れに宴会場がありました。結婚の披露宴は、以前は家で行っていましたが、やがて旅館で行うようになり、私(Dさん)の妹は玉水で披露宴をしました。城辺にあった旅館は、ほとんどが宿泊と宴会の両方に対応していたと思います。以前は、仕事で城辺まで来て、そのまま宿泊する人も結構いましたが、今は、車で来て、泊まらずに帰る人が多くなり、旅館の数も減りました。
 昔は、商店街とその周辺に飲食店がたくさんあり、城辺から近い深浦(ふかうら)や中浦(なかうら)の漁師さんたちが、大勢それらの飲食店に飲みに来ていました。やがて交通の便がよくなり、車での移動が楽になると、宇和島(うわじま)の飲食店へ行くようにもなりましたが、昭和30年代ころは、南郡(南宇和郡)の人はほとんど、城辺に来ていました。城辺には今でも飲食店が多く、愛媛県内の町村の中で、飲食店の数が一番多かったときもあったそうです。その飲食店のことで思い出しましたが、旧正月のころには、商店街の者はあまり飲みに出かけませんでした。それは、地元を離れて漁に出て行った漁師さんたちが、たくさん帰ってくるからです。当時、漁師への給料は旧暦の盆と正月にまとめて払われることが多く、その時期にお金をたくさん持って城辺に飲みに来ている漁師さんの中には、飲み過ぎて気分が大きくなる人もいて、喧嘩(けんか)がよく起きていたのです。ですから、そういうことに巻き込まれたくない地元の人たちは、飲み歩くのを自粛(じしゅく)していました。」

 オ くらしの中の店

 「家の水道水は、水源池から取っていました(図表1-3-2の㋒参照)。すごくきれいな水で、しかも断水した記憶があまりないほど水量もありました。その水源池から道を挟(はさ)んだところに町営の浴場がありました。以前にも個人の方が経営していた銭湯が1軒ありましたが、段々と家に風呂ができていって銭湯には行かなくなりました。
 私(Dさん)が小学校の低学年のころには馬車屋があり、一本松(いっぽんまつ)の材木を運んでいました。馬がいて怖かったので憶えています。矢の町には、馬の蹄鉄(ていてつ)や農具を作ったり修理をしたりする鍛冶屋(かじや)さんもいました。」

 カ バス営業所

 「商店街のお客さんの多くは、バスを利用して買い物に来ていました。当時、宇和島自動車の営業所は商店街の中にあって、伊予銀行の横側、現在の家具店と履物店の辺りがバス停でした(図表1-3-2の㋕参照)。道路に面した広い場所にバスを止めて、それから営業所の裏に回って道路に出るようになっていました。当時は、大勢の利用者がいましたので、バスの営業所が移転することになったときには、商店街の端となる現在地に移るのはしょうがないと思いましたが、御荘(みしょう)へ移転する案に対しては、城辺商店街が大変なことになる、と商店街の店主たち皆で随分と反対しました。」

(2)商店街の賑わい

 ア 買い物客

 「城辺商店街は、専門店が集まっていて、いろいろな店に行けば必要なものが揃(そろ)うので、郡内一円から大勢の人たちが買い物に来ていました。
 宇和島まで出るには、宇和島自動車のバスに乗って松尾(まつお)峠(旧津島町)を越えてなくてはならないので、今のようにすぐには行けませんでした。私(Dさん)の祖母は西海(にしうみ)(旧西海町)に住んでいましたが、年に1回か2回、城辺の姪(めい)や甥(おい)の所で一泊して買い物をすることを、『城辺に行く。』と言っていました。南郡に住んでいた人は、ほとんどが城辺に買い物に来ていたと思います。
 商店街の買い物客には、城辺の人の他に、西海の船越(ふなこし)や福浦(ふくうら)、御荘(みしょう)(旧御荘町)の中浦(なかうら)から来ている女性もたくさんいました。その人たちの中には、本人自身も目刺(めざ)しなどの水産加工業の仕事で収入を得たり、遠洋漁業の仕事に出ている御主人や息子さんから、家に生活費の送金があったりすることで経済的なゆとりがあり、毎月のように買い物に来る人もいました。一方で、農家の女性は、お米が売れたときや、娘が嫁に行くときなどに高級品を買ってくれていました。商店街は、どちらかと言えば、よくお店に来られた海辺の人のおかげで栄えたと言えるかもしれません。つまり、漁業の景気がよかった時には、商店街の景気もよかったわけです。」

 イ 店の軒を切る

 歩行者の他に自転車やバイク、自家用車、バスなどの乗り物が行き交う商店街の本通りは、昭和28年(1953年)に二級国道松山高知線となり、昭和37年(1962年)には一級国道56号に昇格し、昭和40年(1965年)に一般国道56号となった。その間の昭和31年(1956年)には、城辺大橋から三叉路そして伊勢町までの通りに拡幅工事とアスファルト舗装がなされ、商店街は様変わりをした。
 「舗装により、商店街がすごくきれいになりました。それまでは、バイクや車の往来が激しいと土埃(つちぼこり)が立つので、水路の水を道路に撒(ま)いて埃が立たないようにしていました。拡幅工事では、道の両側にあった水路を埋めた上で、道路の両側に建つ店が、それぞれ軒を切って、道幅を広げました。
 その時には、軒を切っただけの店が多かったのですが、店舗の改装を同時に行った店もありました。私(Cさん)が小学生のころ、店と奥の家との間にあった中庭の一部を店舗にして店舗棟を後ろへ少し移しました。それまでは、奥の家の方が敷居が高くて、前の店の敷居の方が低かったのですが、建て替えの際に店の敷居を高くしたので、家の敷居の方が低くなりました。うちの場合は、幸いに店の後ろに中庭があったのでよかったのですが、そのような空間のない店は、店舗か家のどちらかを狭くしたのだと思います。軒を切ることは、商店にとっては大変なことでしたが、当時はまだ、商店に奥行きがあったのでそれが可能であったことと、その当時の商店街のリーダーたちの熱意や努力と、商店街の店主たちの協力と結束があったからできたのだと思います。そもそも、そういうことができるほど、景気もよかったということです。
 昔の家や商店の敷居は高かったのですが、道路の改修のたびに道が上がるので、今では、路面の高さと商店の敷居の高さとが同じぐらいになっています。」

 ウ 商店街の盛衰

 昭和40年(1965年)に、商店街の三叉路から古町を経て城辺大橋までの区間は駐車禁止となった。ただ、それでも交通の渋滞や安全面への危惧(きぐ)は解消されず、国道56号のバイパス建設が計画された。その後、昭和51年(1976年)に城辺・御荘バイパスが完成すると、商店街の本通りは国道から県道となり、それまでよりは自動車等の交通量が減り、買い物客も商店街を安全に歩けるようになった。
 「商店街の本通りは、車の往来の激しい道でした。特に、年末などは車で来るお客さんが多くて、向かいの店に行くために道を横断しようにも、なかなかできない状態でしたので、商店主たちはバイパスの建設に賛成でした。ですからバイパス建設が決定すると、『バイパスができても大丈夫。これで安心してお客さんを呼べる。』と、当時商店街にあったさまざまな組織が、全国的に有名な人などを呼んで、いろいろなイベントを行いました。
 私(Aさん)は、昭和 40 年代後半、12軒の商店と連携して『城辺専門店会』を作り、その加盟店で買い物をしたお客さんには共通のスタンプシールを配布し、一定枚数集まると、加盟店の商品券やイベントの招待券と交換しました。一番盛り上がったのは歌手の美空ひばりを呼んだときです。美空ひばりに来てもらうためにはかなりお金がかかりましたが、そのときには、今まで商店街に来たことのない人も商品を買いに来たり、中には、商品のまとめ買いをしたりするお客さんもいました。当時、私の店でも多額の負担をしましたが、各加盟店に余力とそれができる売り上げがあったということです。
 私(Bさん)の呉服店が加盟していた『ショップ』でも、かつては歌手の美川憲一を呼び、南高(なんこう)(愛媛県立南宇和高等学校)の体育館で公演を開催したことがあります。そのころはまだ興行の料金が安かったのでできたのですが、加盟していた商店が出演料を出し合ってチケットを買い、そのチケットをお客さんにサービスしたり販売したりしました。ショップガイドやチケット組合でも販売していました。
 昭和30、40年代は、商店街の経営者の中に若者が多くいました。当時は、城辺商工会でソフトボールのチームを作っていたのですが、5チームありました。また、城辺商工会の青年部(40歳までの者で構成)には40人ほどがいて、家の仕事半分、行政の手伝い半分という感じで活動していました。公民館や消防団の活動など、いろいろなことを町中(まちなか)の青年が行っていました。消防団の活動では、夜中でも、用事があれば帽子を被(かぶ)って走って出て行きました。それが今では、町中に青年がほとんどおらず、商店街の中の中町在住の消防団員は、現在一人もいません。他の地区に住んでいる役場の職員が、中町の分団員として活動してくれている状態です。
 昭和44年(1969年)に、御荘と城辺との真ん中辺りの場所に大きなショッピングセンターができました。南郡では最初の大型スーパーでしたが、その後、何年かして他の大型店に変わりました。昭和48年(1973年)のオイルショックなどの影響もあって、昭和40年代の後半ぐらいから商店街の賑(にぎ)わいが少しずつなくなっていきましたが、国道のバイパスができて、商店街を通る自動車の流れが減ったことは、あまり影響はありませんでした。むしろ、自動車の普及によって、車で買い物に出かける人が多くなり、広い駐車場を持つ大型店へ客が流れてしまったことが、城辺の商店街が様変わりした要因だったと思います。」

図表1-3-2 昭和30年ころの城辺商店街の町並み①-1

図表1-3-2 昭和30年ころの城辺商店街の町並み①-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-2 昭和30年ころの城辺商店街の町並み①-2

図表1-3-2 昭和30年ころの城辺商店街の町並み①-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-2 昭和30年ころの城辺商店街の町並み②

図表1-3-2 昭和30年ころの城辺商店街の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。