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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 一本松の景観

(1)一本松の町かど

 ア 新しい町場

 「一本松にはお寺がありません。それから、タリヤ(樽(たる)屋)はありましたが紺(こん)屋(染め物屋)はありませんでした。江戸時代の村々には、当時の生活に深く関わるお寺や紺屋が必ずと言っていいほどあったと聞きますが、一本松は明治時代以降にできた町なので、それらがなかったのです。ですから、広見と増田と中川との境で、現在の町の中心地である四つ角辺りは、江戸時代には松並木の続くほとんど人家のない寂しい所だったそうです(図表1-4-1の㋕参照)。明治6年(1873年)の地租(ちそ)改正で一本松の土地の所有者を決める時に、地租の金納(きんのう)を嫌がってだれも欲しがらず、結局は広見、増田、中川の分を、それぞれの地区の豪農や旧庄屋が引き受けました。そして、明治維新ころに中川の旧庄屋株(権利)などを買い取っていた旧津島(つしま)町(現宇和島(うわじま)市)近家(ちかいえ)出身の兵頭羽門が、現在の農協(えひめ南農業協同組合一本松支所)の場所で酒造業を営み、その後、人家が集まり始めて町ができました。ずっと後の時代の話になりますが、私(Bさん)が昭和 34年(1959年)に一本松小学校に赴任して昭和36年(1961年)に村営住宅に入居したころ、一本松の広見分の各商店の土地は、その豪農からの借地だったのをそれぞれが買い取ったという話を聞きました。
 四つ角から東南東へ250mほど離れた高台にある大社(たいしゃ)(出雲(いずも)大社一本松教会)は、明治11年(1878年)に、当時の有力者たちによって造られたものです(図表1-4-1の㋝参照)。その大社の鳥居の右手側にある池は、昭和30年(1955年)ころはまだ、商店の立ち並ぶ道路の片側に設けられていた防火用水路の水源として使われていました(図表1-4-1の㋜参照)。水路の途中には1m四方くらいの貯水槽(そう)が何か所かあって、消火用ポンプで使うための水を溜(た)めていました(図表1-4-1の㋛参照)。そして、役場の前には火の見やぐらがあって、一番上に半鐘(はんしょう)(火事などの警報として鳴らす小形の釣鐘(つりがね))が取り付けられた梯子(はしご)式の高いやぐらは、町の中心部に立っていたので目印になっていました(図表1-4-1の㋗参照)。」

 イ くらしを支えた店や仕事場

 「私(Aさん)の家が、四つ角の辺りで自転車店を開いたのは昭和 20年代です(図表1-4-1の㋖参照)。もとは大盛屋の近くで始めましたが(図表1-4-1の㋘参照)、昭和30年にはゑ(え)びすや旅館の隣に店を構えて、自転車の販売や修理をしていました。お客さんの中には深浦(ふかうら)や垣内(かきうち)、岩水(いわみず)(いずれも旧城辺(じょうへん)町)の人もいて、店まで来られることもあれば、電話で注文を受けることもありました。電話注文の場合は、だれが自転車を使うのかを教えてもらえば、どの大きさの自転車がよいかは大体分かりましたので、自転車の片手運転をしながら、もう一方の手で商品の自転車を握って運んでいました。もちろん、修理の依頼があれば、道具を持ってどこへでも行きました。一本松の人をはじめ、方々(ほうぼう)の人によく買ってもらいましたので、昭和30年代の最も売れた時には、販売台数が愛媛県内の自転車販売店の中で上位10傑に入ったこともありました。
 昭和30年代はまだ、移動したりモノを運んだりするためには自転車が必需品でしたので、よく売れたのだと思います。私(Cさん)は、自転車で学校に通っていた時に、親から、自転車の荷台に、あれを積んで行け、これを積んで行け、とよく言われました。それから、どの農家も自転車を作業車として使っていて、荷台に米を積んで精米所へ行ったり、大きな籠(かご)を括(くく)り付けて野菜を店に運んだりしていました。荷物によっては運転が大変なときもあって、精米の場合、今と違って太い鉄でできた重たい自転車の荷台に4斗(と)(1俵で約60kg〔斗は容積の単位で、1斗は約18ℓであり、米1斗の重さは約15kg〕)の米を載せていましたので、自転車の後ろ側が不安定になり、ちょっとした運転技術が必要でした。
 旧一本松町の鍛冶(かじ)屋は、明治時代の初めころに現在の中村(なかむら)市(高知県)の辺りからやって来た人が札掛(ふだかけ)で始めたのが最初で、その弟子のうち三人が、一本松、増田の中串(なかぐし)、広見でそれぞれ鍛冶屋をやり始めました。一本松で鍛冶屋をしていた家の奥さんから聞いたのですが(図表1-4-1の㋚参照)、昭和30年(1955年)ころはまだ、作ったゴンジロ(三本鍬(くわ))や平鍬などを担(かつ)いで深浦まで歩き、深浦港から内航船(巡航船〔深浦と西海地域を回る船〕)で福浦(ふくうら)(旧西海(にしうみ)町)へ渡り、そこから麦ヶ浦(むぎがうら)まで再び担いで行って販売をしていたそうです。どの製品も鉄でできた重い物なので、その行商がとても辛(つら)かったと話していました。
 旧一本松町では、昭和30年前後に温州(うんしゅう)ミカンや紅茶の栽培が奨励されました。特に、紅茶を特産品にしようとして、昭和35年(1960年)に、現在の農協のある場所の裏手辺りに、結構大きな木造の紅茶(精製)工場が建てられました(図表1-4-1の㋙参照)。おいしい味の紅茶の葉(品種「べにほまれ」)が作られていると聞いていましたし、工場の方も軌道に乗りかけているように見えましたが、ある時、工場の近くで起きた火事に巻き込まれ、残念ながらそのまま閉鎖されてしまいました。
 紅茶は、旧一本松町全域で栽培されていましたが、特に、小山地区で盛んに作られていました。私(Bさん)は、紅茶工場の主任と、紅茶についてよく話をしていたのですが、その中で、製品を売るための販路の確保や拡大が難しいと聞いたことがあります。工場の経営がそれほどうまくいかなかった一因には、それもあったのかもしれません。
 一本松には、いろいろな店や事業所があって、大体のことは町の中で済ますことができました。ただ、本屋や写真店などはなくて、本は、城辺(商店街)の『ほりや書店』まで買いに行っていましたし、写真を撮るときには、城辺の『アサヒ写真館』や平城(ひらじょう)(旧御荘町)の『中尾写真館』などへ行っていました。」

 ウ 楽しみの場

 「一本松の娯楽の場としては、尾崎劇場や竹川映画館、それから闘牛場などがありました(図表1-4-1の㋔、㋐、㋑参照)。
 尾崎劇場は、板の間の観客席に300人くらいが入ることのできる常設の芝居小屋で、立派な舞台もあり、他所(よそ)の芝居一座を呼んできて興行をしていました。私(Cさん)が小学校1年生の時なので昭和20年代の後半ころですが、同じ学級に芝居一座の子どもが転校してきて、しばらく一緒に勉強していましたので、芝居の興行期間も結構長かったのだと思います。私(Bさん)が一本松小学校に勤めていた昭和30年代半ばころも、担任をしていた学級に芝居一座の子どもが転入してきたことがあります。ただし、大体が2、3日で転出していましたので、興行期間も昭和20年代に比べると短くなっていたのだと思います。
 竹川映画館も観客席は板張りでした。昭和29年(1954年)に、上映中にフィルムが燃え出し、運悪く、その火が映画館の外にあった自動車やガソリンの入ったポリ容器に移って、辺り一帯が焼けてしまいました。再建の際には、映画館が建て直されたのをはじめ、新しい店もできて、映画館の横のパチンコ店は、台が数列並ぶほどの小さな店で、地元の人たちが行っていました。
 闘牛のことを、郡内では『ツキアイ(突き合い)』といいますが、かなり人気がありましたので、いろいろな地域に闘牛場があって盛んに行われていました。一本松にも、現在の西部住宅の裏側辺りに、一つの谷を利用した広い闘牛場がありました。私(Bさん)が一本松小学校でPTAの担当をしていた時分に、当時のPTA会長さんの力添えがあって、PTAの活動資金をツキアイで作ろうということになり、PTAが興行主となったツキアイを年に何回か行ったことがあります。その時は、郡内から10数頭の牛が集まって来て、私も木戸銭(きどせん)(入場料)取りの手伝いをしましたが、見物人も多くて結構賑(にぎ)わいました。その闘牛場も、平成の初めころに住宅の建設とともになくなりましたが、それ以前からツキアイそのものは行われなくなって、ツキアイの練習場として時々使われるくらいでした。
 ツキアイでは、一頭の牛に何人もの勢子(せこ)(牛の使い手)が付き、さらに幟(のぼり)を持った贔屓(ひいき)の人たちも付いていたので総勢20、30人くらいの集団になります。そして、取組が終われば、それらの人を含めた大勢のお客(宴会)が行われます。ですから、ツキアイ牛の飼い主は、いろいろとお金がかかって大変だったろうと思います。ただ、それでも続けていたのは、勝てば牛の売値が上がるということもあったでしょうが、ツキアイ自体が好きで、その牛を育てることを誇らしく感じていたからだと思います。」

(2)人々の集まり

 ア 学校井戸の井戸替え

 「一本松は、意外と標高の高い(中心地で約97m)地域なので、夏の渇水期には水に困りました。昔は、町のあちこちに井戸があって、共用井戸の場合は、一つの井戸を10軒くらいが使っていました。中でも、町内で一番大きい共用井戸を『学校井戸』と呼んでいました(図表1-4-1の㋒参照)。昭和30年(1955年)に駐在所のあった辺りの高田呉服店から山口酒店までの場所に、元は小学校(明治33年〔1900年〕に中川、小山、広見、増田の各小学校を統合して設立された一本松小学校)がありました。そして、明治38年(1905年)に校門の近くに井戸が作られたことから、それを学校井戸と言うようになったのです(同年に日露戦争〔明治37年から明治38年〕で旅順要塞(りょじゅんようさい)の攻略がなされたことから『旅順陥落(かんらく)井戸』とも言われた)。駐在所の前庭にあったその井戸は、かなり深くて、周囲の洗い場を含めれば2間(けん)(約3.6m)四方くらいはあった大きなものでした。ですから、近所の人たちがよく来ていて、水を汲(く)くんだり、野菜を洗ったり、洗濯をしたりしていました。
 それだけ深くて大きな井戸でしたので、年に1回、旧暦の七夕(たなばた)様(新暦の8月上旬ころ)の時に近所の住民が参加して行っていた井戸替(が)え(水替え)は、他の時期に比べれば水位が下がって作業がしやすいとはいえ、大変な重労働でした。まず、井戸替えに使えるような長くて太い綱は高くて買えなかったので、皆で大社に集まり、藁(わら)で三つ縄を編んで長い綱を作ります。次に、その綱に2斗(約36ℓ)の水が入るほどの大きな樽を結び付けて、井戸の中に入った人が、その樽で水を汲み、映画館の近くまで伸ばされた綱を20人くらいで引っ張って、樽の水を引き上げます。そして、古い水を抜いた後、井戸の底に溜(たま)っている土砂やごみを取り除きました。ただ、その学校井戸も、昭和30年代の後半に簡易水道が整備されてからは使われなくなりました。」

 イ 町の年中行事

 「四つ角を少し広見側に入った所に『まんのや様』と呼ばれている供養碑があります(図表1-4-1の㋓、写真1-4-5参照)。これは、江戸時代の文化年間(1804~1818年)に四国遍路の旅に出て一本松で亡くなった、『備中戸川(びっちゅうとがわ)領なつ川』の『まんのやお長(ちょう)』(位牌に記され、『備中戸川領なつ川』は現在の岡山(おかやま)市北区の庭瀬(にわせ)・撫川(なつかわ)地区で、『まんのや』は屋号と推定されている。)という女性を慰霊するために建てられたものです。毎年8月16日には、夕方になると供養碑の前で地元の小・中学校の女子生徒たちが供養踊りを舞い、その後、病院(国保一本松病院)裏の駐車場で『まんのや様』の盆踊りが行われます。通常、盆踊りは、その地域のお寺の新仏(しんぼとけ)を供養するためにされますが、一本松では、大正時代の初めころから、お寺や新仏とは関係のない独自の盆踊りが続いています。
 大社で行う『わぬけ』(輪ぬけ祭り)も、一本松の大切な年中行事の一つです。祭りの日は、神殿の入口に茅(ちがや)の束(たば)で作った大きな輪が置かれ、それをくぐってお祓(はら)いをします。元々は旧暦の6月30日にしていましたが、いろいろな事情で日が変わり、現在は、子どもたちの夏休みの初日に合わせています。今でも、割と参拝者が多く、浴衣を着た子どもや若い人たちの姿を結構見かけることもあって、村の夏祭りらしい雰囲気が残っています。繁華であった昭和30年代ころは、夜になると、大社の石段から商店の並ぶ通りまで提灯(ちょうちん)が並び、商店街にも、映画館のある辺りまで店先に提灯が吊(つ)り下げられ、祭りの雰囲気を盛り上げていました。夜店も、大社近くに出された露店が繁盛していただけでなく、商店街の店も参拝に来た人たちを相手に盛んに商売をしていました。
 私(Cさん)の住んでいる増田の『はなとりおどり』(旧暦7月11日に、増田の高山尊神(こうやまそんしん)の祭礼に安養(あんよう)寺の境内で行われる芸能。国選択及び県指定無形民俗文化財)のときは、一本松に住む親戚がうちに寄って(集まって)来て、逆に、一本松の『わぬけ』のときには私たちが寄せてもらって、お互いにそれぞれの地区のお祭りを楽しみました。どこの家でも、そのように行き来し合っていたと思います。
 一本松の人たちは、自分たちの住んでいるこの辺りを在郷(ざいごう)と言い、深浦や垣内、岩水などの、海岸端の地域を浦方(うらかた)と呼びます。『わぬけ』には、その浦方の人たちがよくお参りに来ていました。浦方の人たちは、漁に出られるかどうか、魚がとれるかどうかなど、自然条件や運に左右されるためか、信心深い人が多いように思います。ですから、見物のためだけではなく、験担(げんかつ)ぎ(縁起の良し悪しを気にする)ということもあって大勢来ていたのかもしれません。」

図表1-4-1 昭和30年ころの一本松の町並み1

図表1-4-1 昭和30年ころの一本松の町並み1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-4-1 昭和30年ころの一本松の町並み2

図表1-4-1 昭和30年ころの一本松の町並み2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

写真1-4-5 「まんのや様」供養碑

写真1-4-5 「まんのや様」供養碑

愛南町一本松。平成25年10月撮影